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Channel: 英国に関する特集記事 『サバイバー』 - Onlineジャーニー
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6000の命を救った外交官 杉原千畝の選んだ道 -後編-

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2014年05月07日 No.880

●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部

 

6000の命を救った外交官

杉原千畝の選んだ道 -後編-

 







初心者でも コワくない! 本場・英国で 乗馬デビュー!!

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2015年06月04日 No.884

●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部

 

初心者でもコワくない!

 本場・英国で乗馬デビュー!!

 




これだけは知っておきたい ハーグ条約 基本のキホン

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2015年07月02日 No.888

●サバイバー●取材・執筆・写真/ネイサン弘子・本誌編集部

 

これだけは知っておきたい

 ハーグ条約 基本のキホン

 




ふたりの偉大なる女王に敬礼! エリザベス2世とヴィクトリア女王

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2015年09月03日 No.897

●サバイバー●取材・執筆/ 本誌編集部

 

ふたりの偉大なる女王に敬礼!

 エリザベス2世とヴィクトリア女王

 





350年の眠りから覚めた リチャード3世

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2015年10月01日 No.901

●サバイバー●取材・執筆・写真/ 本誌編集部

 

 350年の眠りから覚めた 

 リチャード3世

 





無言の証人  アウシュヴィッツを征く《前編》

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2015年10月29日 No.905

●サバイバー●取材・執筆・写真/ 本誌編集部

 

 無言の証人 

  アウシュヴィッツを征く《前編》

 





無言の証人  アウシュヴィッツを征く《後編》

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2015年11月5日 No.906

●サバイバー●取材・執筆・写真/ 本誌編集部

 

 無言の証人 

  アウシュヴィッツを征く《後編》

 





贈り物、あるいは自分用に選びたい 魅惑に満ちた香水たち

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2015年12月3日 No.910

●サバイバー●取材・執筆/ 橋本美弥子、本誌編集部

 

 贈り物、あるいは自分用に選びたい 

魅惑に満ちた香水たち

 






英国人に愛される 【タイプ別】ロンドンの本屋<おすすめ16>

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2016年1月7日 No.914

●サバイバー●取材・写真・執筆/ 佐々木 敦子・本誌編集部

 

 英国人に愛される 

【タイプ別】ロンドンの本屋<おすすめ16>

 
街の中に思ったほど本屋がないうえ、ぶらりと入ったところで「どうせ英語だし…」と、本が好きだったのに、英国に来て以来、書店から足が遠のいている人も案外多いのでは? 今回は、ロンドンに点在する大小の様々なジャンルの本屋をご紹介。気ままに手に取り、好きなページをめくってみるという、オンラインでは味わえない実店舗ならではの楽しさを再発見できるはず。さらに本だけではなく、カフェやギフト・ショップを併設するところも少なくないので、気軽に利用しやすい。そうしたことをきっかけに、年始早々から自分の世界観が変わるような『運命の1冊』に巡り合えるかも?
 





いざというときに役に立つ【ファーストエイド】基本の「キ」

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2016年2月4日 No.918

●サバイバー●取材・執筆/名越美千代、本誌編集部

 

いざというときに役に立つ 

【ファーストエイド】基本の「キ」

 
負傷や急病が出たときに行う応急救護手当て、ファーストエイド(First Aid)。
日常の小さなケガの手当てもあれば、命にかかわる状況で、救急のプロの到着を待つ間に患者の状態の悪化を食い止めることもある。
何の知識も持たない人にとっては、難しいように感じられるかもしれないが、実際に必要な知識と技術は、一般人にも無理なく習得できるレベル。 そこで、いざというときに知っていると役立つ、ファーストエイドの基本をご紹介する。
 




【世界初のプログラマー】バイロンの娘 エイダ・ラヴレス

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2016年3月3日 No.922

●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部

 

 世界初のプログラマー 

バイロンの娘 エイダ・ラヴレス

 
米国防総省が使用するコンピューターのプログラミング言語「エイダ」にその名を残すエイダ・ラヴレス(Augusta Ada King, Countess of Lovelace)は、19世紀に活躍したロマン派の詩人バイロンの娘だ。
科学が著しい発展を遂げた時代に、愛情を満足に受けることが叶わず、父親ゆずりの芸術性と母親ゆずりの数学の才能に引き裂かれたエイダ。
今号では、「世界初のプログラマー」と呼ばれるようになったエイダの苦悶の生涯をたどる。
 




近代国家への一太刀 【実録】生麦事件{前編}

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2016年3月31日 No.926

●サバイバー●取材・執筆/黒澤 里吏・本誌編集部

 

- アンコール特集 - 近代国家への一太刀 

【実録】生麦事件{前編}

幕末に薩摩藩士が英国民間人を殺傷したという「生麦事件」―。
当時の日本で立て続けに起きていた外国人殺傷事件の中でも、この事件が歴史の教科書で扱われるほど重要なのはなぜか? 薩英戦争を引き起こし、倒幕、明治維新へと日本が近代国家への道を歩むに至るきっかけとなった「生麦事件」を今号と来週号の2回にわたって検証する。
 




近代国家への一太刀 【実録】生麦事件{後編}

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2016年4月7日 No.927

●サバイバー●取材・執筆/黒澤 里吏・本誌編集部

 

- アンコール特集 - 近代国家への一太刀

【実録】生麦事件{後編}

幕末に薩摩藩士が英国民間人を殺傷したという「生麦事件」―。
近代日本史を学ぶ際、必ずといっていいほど取り上げられる出来事のひとつだが、 なぜそこまで重要であると位置づけられているのか。
薩英戦争、さらには倒幕、明治維新へと日本が近代国家への道を歩むに至るきっかけとなった「生麦事件」を先週号に引き続き検証する。
 




40年を振り返る ロンドン・パンク再考

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2016年5月5日 No.931

●サバイバー●取材・執筆/名取 由恵、本誌編集部

 

40年を振り返る

ロンドン・パンク再考

英国の音楽シーンに嵐を呼び起こしたロンドン・パンクの誕生から、今年で40年を迎えた。今号では、1970年代の英国社会と密接なかかわりのなかで台頭した「ロンドン・パンク」の世界を覗いてみたい。
 





英国民の誇り{祝90歳}女王陛下に乾杯

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2016年6月2日 No.935

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英国民の誇り{祝90歳}女王陛下に乾杯

英国民の誇り

祝90歳 女王陛下に乾杯

今年90歳を迎えたエリザベス女王。昔と変わらず日々の公務をこなし、時間が許せば今でも乗馬を楽しむというスーパー・ウーマンぶりを発揮するが、夫のエディンバラ公(94)と仲睦まじく、ジョージ王子やシャーロット王女などひ孫たちにも恵まれる家庭人でもある。今回は、6月11日の公式誕生日を前に、王室関係者が語ったエリザベス女王に関するエピソードの数々をお伝えしよう。女王の思わぬ素顔が見えてきそうだ。

●サバイバー●取材・執筆/佐々木 敦子、本誌編集部

お札や切手に印刷され、「英国のピンナップ・ガール」として長きに渡り英国と連邦国の首長として君臨するエリザベス女王は、1926年4月21日、ヨーク公アルバート王子とエリザベス妃の長女として、メイフェアにある母方の祖父宅で誕生。父親のアルバート王子は、コリン・ファース主演の映画 『英国王のスピーチ』のモデルともなった、シャイで吃音に悩む王様(当時は公爵)といえばわかりやすいだろうか。兄のエドワード8世が結婚歴のある米国人女性、シンプソン夫人と結婚。英国国教会の長でもある国王にとって、離婚歴のある女性との結婚は許されない。それでもエドワード8世は、愛を選び国王の座を捨てたため、1936年に王位は弟であるこのアルバート王子(後のジョージ6世)に突然もたらされた。エリザベスは当時10歳。父親が国王になることは、男の兄弟を持たないエリザベスが将来王位を継承することを意味した。家族からは「リリベット」という愛称で呼ばれ、幼少時から馬や犬など動物好きな未来の女王は、生真面目な面もありながら、野外で奔放に遊ぶ少女だった。

25歳で女王となった1952年当時の英国は、第二次世界大戦が終わっていたとはいえ、配給制度は続いており、多くの国民が耐久生活を余儀なくされていた時期。「私は皆さまの前で宣言します。私の命のすべてを、長かろうと短かろうと、皆さまと帝国の家族への奉仕に捧げます」と、即位に先駆け既に声明を出していた、若くて美しい女王が誕生したことで、新しい時代の到来を実感した人々も多かったのではないだろうか。それから65年。チャールズ皇太子をはじめとした子供達の離婚、ウィンザー城の火災、ダイアナ妃の事故死など、さまざまな出来事を乗り越えながら、今も英国君主として活動しているのは驚くべき、そして喜ばしいこと。たとえアンチ王室派であろうとも、心身ともに元気な90歳・現役の女王には拍手を贈らずにはいられないだろう。高齢化社会の星としても、エディンバラ公と共にこれからもますますお元気で過ごされることを祈りたい。

素顔に迫る 15のストーリー

エリザベス女王とはどんな人物なのだろう。
王室関係者が語ったエピソードから、女王像が浮かび上がる!

1「彼らのような夫婦になりたい」

Photo: Library and Archives Canada
戴冠式(1953年)の際に撮影されたエリザベス女王とエディンバラ公。
いつも仲睦まじい女王とエディンバラ公だが、初めて女王がエディンバラ公に出会ったのは、女王がまだ13歳のとき。18歳の公は長身+金髪碧眼で評判のハンサム。そんな彼がある日、テニス・コートのネットをひらりと飛び越えて、女王の元にやってきたのだとか。まさに「The王子」そのものの姿にハートを奪われ、将来結婚するなら絶対この人、と決めたのだそう。そのスマートな姿とは裏腹に、大層口の悪いエディンバラ公にハラハラしながらも、公を見るときの女王の瞳は今でもキラキラしているらしい。彼の掟破りの暴言が、実は規則づくめの女王の息抜きになっているのだ、とはエディンバラ公ご本人の弁だ。そんなラブリーな仲良し祖父母を見て育ったウィリアム王子は、自分も彼らのようにキャサリン妃と末長く幸せな夫婦でいたいと発言している。両親の悲しい別れを経験している王子だけに、単なる美辞麗句ではなさそうだ。

2愛犬コーギーへのイタズラは禁物!

女王の犬好きは有名だが、特に小さな牧羊犬ウェルシュ・コーギーと女王の関係は深い。父のジョージ6世から18歳の誕生日に初めて3頭のコーギーを貰ったのがそもそもの始まりだった。その中の1頭スーザンは女王の新婚旅行にも同行したほどの愛されよう。女王はコーギーのブリーダーでもあり、今までに飼った30 頭あまりのコーギーは、すべて最初の犬スーザンの子孫だという。現在女王の元にいるホリーとウィローは14代目とのこと。彼らは皆大事に育てられ、銀や白磁の食器で専用シェフの作った食事をとるが、あるとき、酒に酔った召使いの1人が、コーギーの水の入れ物にウィスキーを注ぐイタズラをしたからさあ大変。怒った女王陛下は、すぐこの召使いを左遷したそうだ。故ダイアナ妃は、女王の足元にまとわりつき、女王の行くところへはどこへでもついて行くコーギーたちを、「歩く絨毯」と評している。

3「悩ましきX'masプレゼント」

© tsaiproject
初めてキャサリン妃が王室の一員としてクリスマスを共に過ごすことになったとき、困ったのは女王へのプレゼント。好みのわからない義理の家族へのクリスマス・プレゼントには誰しもが頭を悩ませるが、義祖母が何でも持っている英国女王であれば、そのプレッシャーもひと際大きいだろう。そんなキャサリン妃が女王に贈ったのは彼女の祖母のレシピだという、ウリ科の野菜マローを使った手作りの「チャツネ」。インド本国ではカレーのお供として利用されるジャム状の調味料だが、英国ではコールドミートやチーズと共に食される。英国で最初に販売したのは王室御用達フォートナム&メイソンだそうなので、れっきとした「ポッシュな」調味料だ。クリスマス・イブに女王に手渡された手作りチャツネは、翌日の朝食のテーブルにちゃんとのっていたといい、それを見つけたキャサリン妃は、女王の心遣いを嬉しく思ったそう。

4 「祖母というより女王は上司」

© DoD News, photo by EJ Hersom
ハリー王子は女王を祖母と思ったことがほとんどなく、「尊敬すべき厳しい上司のようだ」と、あるインタビューで語っている。現在31歳のハリー王子だが、もっと若い頃ははっちゃけ過ぎてゴシップ記事に登場する回数も多く、優等生のウィリアム王子と比較されることもしばしば。女王に王室メンバーとしてのあり方をたしなめられていたのかもしれない。当の女王は幼い頃から生真面目なところがあり、妹のマーガレット王女が奔放な性格なのに比べ、派手さを嫌がる質実剛健さを持ち合わせ、子供ながらに落ち着いた面を見せていた。その昔、まだほんの幼い頃にも、チャーチル首相に「まだ2歳なのに、ずいぶん威厳がある」と評されたことがあるほど。それにしても、「ほんのたまにしか、おばあちゃんという気がしない」と可愛い孫から大真面目に言われたら、女王はちょっとショックかも?

5われを忘れるほどの競馬好き

コーギーだけではなく、馬のブリーダーとしても知られる女王。自分の育てた馬がダービーでどのような成績を残すのかは非常に気になるところだ。そもそも、ダービーに出場できるだけでも優秀といわれる厳しい世界で、自分の馬を入賞させるのは至難の技らしい。王室所蔵の映像には、若い女王が貴賓席の1番前に駆け寄り「私の馬!私の馬!私の馬!」と興奮する様子が映し出されているが、それは決してオーバーな表現ではないのである。2005年には調教師の馬「モチヴェイター号」が1位でゴールし、喜びのあまり「やったー」と飛び上がった女王。そのショックでつけていた真珠のネックレスが切れ、周囲に飛び散る大惨事に! それでもなお喜び続ける女王の横で、エディンバラ公はしゃがんで散乱した真珠を拾い集めたそう。また、競馬といえば、お金を賭ける? と思ってしまうが、女王にとっては馬の繁殖や飼育自体が賭けのようなもの。1人1ポンドで賭け、「最高当選額16ポンド」といった遊びは貴賓席内でするそうだが、そういうとき女王は自分の馬には賭けないという話も。

6「不必要な電気は消すように」

© Photo by DAVID ILIFF. License: CC-BY-SA 3.0
英国では、電気やガス代の合計が 年収の1割以上になってしまう家庭を「Fuel Poverty(光熱費貧乏)世帯」と呼ぶが、2011年の光熱費20%値上げの際には、王室の年間光熱費が260万ポンドを超える計算になり、女王とその一家は危うく光熱費貧乏になるところだった。驚いた女王はバッキンガム宮殿内に、「不必要な照明は消すように」という告知を張り出し、女王自身も廊下の電気を消して回ったらしい。公邸であるバッキンガム宮殿の部屋の総数は775室、宮殿勤務者数は約450名。その他にも夏に滞在するバルモラル城や冬に使うサンドリンガム・ハウスなど、私邸も含めていくと大変な電気代になることは確か。

7密かなアーセナル・ファン!?

王室嫌いで知られる労働党党首のジェレミー・コービン氏と、エリザベス女王の思わぬ共通点、それはご贔屓のサッカー・チームがアーセナルだということ。コービン氏は、2006年にエミレーツ・スタジアム(アーセナルのホーム・スタジアム)がオープンした際、女王が腰痛のために除幕式を欠席しなければならなかったことのほか、女王が「密かなアーセナル・サポーター」であると証言している。また、現在チェルシー所属のミッドフィルダー、セスク・ファブレガス選手は、アーセナル時代にバッキンガム宮殿の園遊会に招待された際、女王から「ファンです♥」と告げられたらしい。ハリー王子によると、もともとはクイーン・マザー(エリザベス女王の母君)がアーセナルのファンで、それが女王に飛び火したのだそうだ。

8バッグの中には何が?

王室御用達のLauner。
写真はTraviata leather tote 1550ポンド。
www.selfridges.com
エリザベス女王といえば、常に腕にかかるハンドバッグが有名。200個近いハンドバッグを所持しているといわれるが、そのほとんどが1941年創業の英国ブランドLauner(ロウナー)製。中でもクラシック・トラヴィアータという定番を好み、握手がしやすいよう持ち手はオリジナルよりやや長めに、バッグの中はシルク地にカスタム・オーダーしているそう。家の鍵もオイスター・カードも必要ない女王だが、ハンドバッグの中には何を入れているのだろうか。誰かが覗き込んだ訳でもないだろうが、女王が取り出したものを目撃情報として総合すると、きちんと折った5ポンド札(教会への寄付用)、口紅(クラランス製)、手鏡、ポータブル・フック(テーブルの下にバッグを掛けるため)、老眼鏡、万年筆、ミントのど飴などだそう。携帯電話は「孫にかけたりする」程度なので、バッグの中に入っている可能性は少ない。それがスマートフォンかどうかもわかっていないが、白い手袋ではスクロールもしにくいだろう。

9あだ名は「ガンガン」

幼いジョージ王子は女王を「Gan-Gan」と呼んでいるそうだが、この奇抜な呼び名は広く報道されたので、ご存知の方も多いはず。曽祖母にあたる「Great-grandmother」がうまく言えず「ガンガン」になってしまうのだろうとはいうものの、実はジョージ王子に限らず英国王室では、ひいおばあちゃまは代々皆「ガンガン」と呼ばれるという意外な新事実が浮上。ウィリアム王子とハリー王子もクイーン・マザーのことをガンガンと呼んでいたらしいし、チャールズ皇太子もメアリー王妃をそう呼んでいたようだ。英王室の女性たちがいかに長寿であるかがわかるエピソードだが、「Great-grandfather」であるエディンバラ公が何と呼ばれているのか知りたくもある。現在のガンガンである女王陛下は、ジョージ王子やシャーロット王女が泊まりにくる日は、部屋にちょっとしたプレゼントを用意しておくのが常だそうで、ひ孫たちを喜ばせようとする女王の姿が見えてくる。

10女王はスピード狂!?

女王は現在もランド・ローヴァーやジャガーを自ら運転する。1998年にサウジアラビアのアブドラ皇太子を助手席に乗せ、スコットランドのバルモラル城敷地内を自ら案内した際は、ものすごい音を立てて爆走し、皇太子を縮み上がらせたというエピソードがある。第二次世界大戦中は英国女子国防軍の一員となって、他の女子たちと同等の訓練を受けた女王。当時は軍用車両の整備や弾薬の管理に従事し、軍用トラックの運転もこなしたという。こうした経験から、車の運転はいわばプロ級。法律で女性の運転を禁止しているサウジアラビアの皇太子への、ちょっとしたイタズラ心もあったのかもしれない。昨年には、ウィンザー敷地内の公園で芝生に乗り上げてまで歩行者を追い越して行ったジャガーの運転手を見たら、何と教会へ急ぐ女王だったという武勇伝もある。ちなみに女王は免許証や車(公用車)のナンバー・プレートは持っておらず、パスポートも必要ないのだそう。

11歴史ドラマの間違い探しはやめられない!

第一次世界大戦前後の英国を舞台に、カントリー・ハウスでの貴族と使用人たちの生活を描き、大ヒットしたドラマ『ダウントン・アビー』。シリーズは昨年終了したが、女王はこのドラマの大ファン。とりわけ楽しいのが、ドラマの中で使用されている小道具の時代や使い方が間違っているのを見つける、あら探しだという。例えば、大佐が胸につけているメダルの並び順が間違っているとか、時代の違うものをぶら下げているなど。女王はダウントン・アビーのロケ地となったハンプシャーのハイクレア城に何度もゲストとして訪れたことがあるので、なおさら楽しめた模様。なお、チャールズ皇太子の妻であるカミラ夫人もこのドラマのファンだそうで、嫁姑の話題作りにもかなり役立ったはずだ。

12物まねが得意?

女王は若い頃から、有名人や政治家の話し方などを真似しては、家族を笑わせていたという。地方のアクセントを真似るのも得意で、スコットランドのアバディーン地方や、サンドリンガム・ハウスのあるイングランド東部ノーフォークなど、強いアクセントを持つ方言の真似も「素晴らしく上手」と、女王の従姉妹のマーガレット・ローズさんが語る。ちなみに、アバディーン方言はドリック方言とも呼ばれ、この方言で詩が書かれたり聖書が翻訳されたりと、単なるアクセントには止まらない、スコットランドの文化の一端を担う。また、女王がどんな有名人や政治家のマネをするのかは、それを言うと角が立つということで、特定の人物たちの名前は残念ながら公表されていない。例外は、女王の気丈な性格がわかる(13)を参照!

13サッチャー首相とファッション対立?

© Bogaerts, Rob / Anefo
1980年代、鉄の女の異名をとったサッチャー首相は、エリザベス女王とはあらゆる面で異なる価値観を持ち、2人は終始相容れることがなかった。とはいうものの、英国首相は毎週1回宮廷へ出向き、女王と会談するのが昔からの習わし。サッチャー首相は、女王が常に自分より早く現れ、部屋で彼女を待っていたと語り、そのプレッシャーを苦々しく思っていたようだ。女王は女王で、ユーモアを介さずレクチャー好きの首相に辟易し、サッチャー首相の話し方を「50年代のシェイクスピア役者みたい」と評し、家族の前で真似して見せていたとか。ただし、英国の女王と首相という立場上、並んで式典に出席することも多かった。あるとき、「どうです、女性同士お揃いの服を着て出席しては?」という外部の心ないアドバイスを受けた女王が、どれだけ怒ったか想像に難くない。

14秘密のサイン

式典やパーティーへの出席など、大勢のゲストと会う公務が多い女王。そんな中でいちいちお付きのスタッフを呼びつけて耳打ちせずとも、スマートに自分の希望を伝えるため、女王は野球のキャッチャーのようにいくつか秘密のサインを持っている。もちろん、グーやチョキを出すのではなく、普通の人なら見落としそうなさりげない動作だ。ハンドバッグを持ち替えたら「(この人の話、長くて退屈だから)先に進みたい、次に移りたい」、テーブルの上にハンドバッグを置いたら「5分以内に退席したい(ので迎えに来て)」、指輪を回したら「(こちらに来て)話を盛り上げて欲しい」という意味なのだそう。先月は、某国の代表団一行が「無礼」だったとの会話がテレビカメラの映像に映し出され、全世界に流されてしまった女王陛下。これからますます秘密のサインが複雑になるかも…。

15ワードローブの29%はブルー

© HER MAJESTY QUEEN ELIZABETH II 2016
妹・マーガレット王女の結婚の際に、女王が身につけたドレス。
このドレスを含め、膨大なコレクションを誇る女王のワードローブの中から約150点を
紹介する「Fashioning a Reign: 90 Years of Style from The Queen's Wardrobe」が、
3宮殿(ホリールード・ハウス宮殿、バッキンガム宮殿、ウィンザー城)で現在開催中。
はっきりした色彩のスーツとそれにマッチした帽子、ハンドバッグが、昔から女王の定番ファッション。身長160センチと小柄な女王は、公務のときは5センチのヒールの靴を着用するそう。また、野外での式典の際にはスカートが風でめくれないように裾に重りを縫いつけたり、透明傘のふち部分の色をスーツに合わせたりと、細かいテクニックも駆使しているのだとか。年齢が上がるにつれ、スーツの色が大胆になっていくのは自分の姿を引き立たせるため。『ヴォーグ』誌の調査によると、女王のワードローブの29%はブルー系で、似合うだけではなく、お好みの色のよう。次がグリーンの11%、ピンクとパープルが10%と続き、最下位はベージュ。女王は上品にきちんとして見えるコツを聞かれ、「両足首をいつも同じ方向に揃えていればいいのよ」と答えている。簡単なようだが、長年の訓練が必要かも…。

女王陛下のハードな1日

90歳を迎えた今も現役で公務にあたる
女王の日々はどんな感じ?
各メディアで紹介された情報を集め、1日を追った。

7:307:30 起床

まずお茶。トワイニングのアールグレー(イングリッシュ・ブレックファストという説もあり)を、砂糖なし、ミルク入りで1杯とマリー・ビスケット(リッチ・ティー・ビスケットに似たお菓子)。入浴など、身支度開始。

8:308:30 朝食

エディンバラ公と宮殿の庭を眺めながら。お好みはパディントン・ベアと同じくマーマレード・トースト。コーンフレークはタッパウェアに入ったものがテーブルに置かれる。新聞に目を通す。

9:009:00 公務開始

朝を告げるバグパイプの調べでスタート。1日平均300通の手紙が女王の元に届くので、その処理。そして赤い箱に入った政府の重要な書類への署名、外国からの要人や新任の公職者への謁見など。

13:0013:00 昼食

通常は1人でとるが、お付きの女性を招くことも。2ヵ月に1度はエディンバラ公と共に数人のゲストを招く。ランチ後にコーギーの散歩に出ることもあるが、大抵は学校や病院の除幕式など、イベントに出席。

17:0017:00 ハイ・ティー

サンドイッチやスコーン、そして女王の好物ダンディー・ケーキ=写真=など。パン屑はコーギーたちのものに。

レーズン、オレンジ・ピールなどを用いたスコットランド・ダンディー発祥のフルーツ・ケーキ。一般的なフルーツ・ケーキに使われる砂糖漬けのチェリーが嫌いだったスコットランド女王メアリーのために、作られたのが始まりとされる。
© R Gloucester


18:3018:30 再び公務

ハイ・ティーの後、夕食まで再び公務。その日の国会のレポートを読み把握。毎週水曜日には首相が状況説明のために訪れる(「The Audience」と呼ばれる)。

19:3019:30リラックス

ゲストもなくパーティーへの出席もない場合は、着替えてリラックス・タイム。エディンバラ公とテレビを観たり、クロスワードパズルに興じたりする。食前酒の後、テレビを観ながら夕食。今でも再放送されている古典コメディ『Dad’s Army』やタレント発掘番組『X Factor』、そしてクリケットの試合などを観るのがお気に入り。この後、寝るまで再び書類に目を通すこともあり。23:00 就寝。

祝賀ムードを味わいたい!

12日のストリート・パーティーのために用意されているピクニック・ハンパー(マークス&スペンサー)。ピムスやPGティップスなど、英国らしい飲み物も付いてくる。エリザベス女王が生まれたのは4月21日だが、この日とは別に、公式の誕生日がある。18世紀、君主の公式誕生日は毎年6月の第2土曜日と定められ、以来この日にパレードを行い大々的にお祝いするのが伝統となった。ちなみに、6月が選ばれたのは「晴天になる確率が高いから」といわれている。今年の公式誕生日は6月11日。
各地で大小のイベントが開催されるが、ここでは代表的な3つを取り上げた。

6月10日(金)11:00~
セント・ポール大聖堂での礼拝

公式誕生日の前日、王室関係者が集まり感謝の礼拝を行う。この日のために新たに作曲されたという聖歌が、大聖堂付属の合唱団によって披露される。作曲はジュディス・ウィアー、歌詞は、女王の誕生した年に詩人ロバート・ブリッジズによって作られた詩篇を元にしているそう。一般の人々は聖堂内への入場はできないが、この模様はBBC1で放送される。なお、この日は95歳となるエディンバラ公の誕生日でもあり、ダブルでおめでたい1日。

6月11日(土)10:00~
トゥルーピング・ザ・カラー

王室一家のほか、英国の政財官各界の賓客を迎えて行われる式典、「トゥルーピング・ザ・カラー(Trooping the Colour)」(軍旗敬礼分裂式)。英王室軍による華麗な軍楽パレードが有名で、バッキンガム宮殿から式典の会場であるホースガーズ・パレードまで、式典の終了後には再びバッキンガム宮殿までを大行進する。宮殿に戻った王室一家は、英空軍による祝賀飛行を観覧するため、午後1時頃に宮殿のバルコニーに姿を表す。沿道に設えられたパレード見学席のチケットはすでに売り切れだが、宮殿前の大通りザ・マルからパレードを眺めることも可能なほか、BBCでも放送予定。

6月12日(日)10:00~16:30頃
ザ・マル・ストリート・パーティー
(ザ・パトロンズ・ランチ)

バッキンガム宮殿前の大通りザ・マルに1万人分の招待客用テーブルと椅子が用意され、巨大なストリート・パーティーが開催される。そのうち2000人分は、抽選で参加資格を得て、150ポンドのチャリティー・チケット(ピクニック・ハンパー付き)を購入した一般市民たちだ。このパーティーにはエリザベス女王も参加し、特設の席で皆とランチを楽しむ予定。サーカスやバンド演奏なども昼12時から繰り広げられるという。参加したいけどチケットがない! という人は、セント・ジェームズ・パークとグリーン・パークにビッグ・スクリーンが設置されるのに加え、パーティーの模様がBBCで放送されるので、これを見ながら各自ピクニックを楽しもう。ビッグ・スクリーンの見える場所は結構混み合うと予想されるので、早めの場所取りをお勧めする。なお、このストリート・パーティーは雨天決行。念のため傘や雨具は用意して。さらに、家の近所でコミュニティによるストリート・パーティーが開かれる可能性もあるので、各区や市役所のサイトなどでも確認を。

{生誕150年}湖水地方の保護に生涯をかけたビアトリクス・ポター [Beatrix Potter]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2016年7月7日 No.940

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生誕150年 湖水地方の保護に生涯をかけたビアトリクス・ポター

生誕150年 湖水地方の保護に生涯をかけた

ビアトリクス・ポター

ビアトリクス・ポターが散策を楽しんでいた、100年前の景観を保ち続けている湖水地方。彼女の描いた『ピーター・ ラビット』の物語の舞台として有名であるだけでなく、「英国一」とも称される自然の美しさは、ポターの貢献なく しては語れない。ビアトリクス・ポター生誕150年を迎える今年、自然保護に情熱を注いだ彼女の人生を振り返りなが ら、湖水地方の魅力とナショナル・トラストの活動について、あらためて考えてみたい。

●サバイバー●取材・執筆・写真/田中 晴子・本誌編集部

自然保護のために戦った闘士

ビアトリクス・ポターは『ピーター・ラビット』の物語を、豊かな自然をたたえる湖水地方を舞台に描いている。イングランド北西部にあるこの地は、渓谷沿いに大小の湖が点在する風光明媚な地域で、英国内でも有数のリゾート地・保養地としても知られ、その景勝は多くの詩人や芸術家たちを魅了してきた。この地で生まれ育った詩人ウィリアム・ワーズワースや晩年に移り住んだ美術評論家のジョン・ラスキンも、湖水地方の壮大な景観に着想を得ている。だがここでは、封建的なヴィクトリア朝時代に生まれ育ったポターが、いかにして自らの道を切り開き、湖水地方の環境保護運動に力を注ぐに至ったかを紹介していこう。
現在、湖水地方の4分の1がナショナル・トラストの管理下にあるが、ポターは死後に4000エーカーの土地と、15の農場という多大な遺産をナショナル・トラストに遺している。優しげな水彩画で描かれた、青い服を着たウサギ「ピーター」の生みの親は、自然保護のために戦う闘士であり、また非常に優れた農場経営者でもあったのだ。

孤独だった子供時代

10歳頃のビアトリクス・ポターと、母のヘレン。
ポターは1866年7月28日、裕福な中流階級の娘としてロンドンのサウス・ケンジントンに生まれた。父方と母方の財産は、染布工場や造船業などによりイングランド北部で築かれたもので、彼らは産業革命が生んだ新たな市民階級の成功者たちの一部だった。オスカー・ワイルドの戯曲をはじめ、当時活躍した作家の作品には、こうした家庭の子女が上流階級の男性と結婚しようと策を練るといったストーリーが多く見られるが、貴族に匹敵する財力を築き上げた新興階級の家が次に望むのは、由緒正しい家柄、つまり「貴族の称号」だ。ポターの母であるヘレンもそうした考えを持つ一人で、成長したポターとの意見の相違は大きく、母娘の確執にポターは生涯悩まされることになる。
後年、ポターは米国の友人に宛てた手紙に「ありがたいことに、私の教育はおろそかにされました――(もし学校に行っていたら)教育によって独創性が幾分薄れることになったでしょう」と書いているが、当時の良家の子女がそうであったように、幼少時のポターも学校へ行かず、家で家庭教師について読書、作文、絵画や音楽を学んだ。外に友人を作ることもなく、1872年に6歳下の弟バーティ(バートラム・ポター)が生まれるまで、ほかの子供と接する機会もなかったようだ。ポターはその内面を豊かな想像力で満たすことで、寂しさや孤独感をまぎらわせていたのだろう。スコットランド人の乳母が繰り返し語る古い民話を好み、魔女や妖精の存在を信じ、父親の友人から貰った絵本『不思議の国のアリス』の挿絵に夢中になった。

自然観察とベストセラー作家の誕生

愛犬を抱くポター(15歳頃、写真右)と、
初めて湖水地方を訪れた一家が夏を過ごした
ウィンダミア湖畔に建つ「レイ・カッスル」(c CellsDeDells)。
ポターと湖水地方の出会いは早い。
彼女が16歳を迎えた1882年、父のルパートが夏の別荘として、湖水地方のウィンダミア湖西岸に建つ邸宅「レイ・カッスル」を借りたことから始まる。ロンドンでの堅苦しい生活を嫌っていたポターにとって、自然の中で羽を伸ばせるこの休暇は、何より楽しいひとときだったに違いない。目の前に広がる豊かな緑や色鮮やかな草花、のんびりと草を食む家畜、飛び回る昆虫などを観察し、やがてそれらを描くようになっていった。とくにキノコに多大な関心を抱いた彼女は、キューガーデンなどでキノコ研究に没頭。後にその研究結果を学会で発表しようとするものの、「女性」であることが高い障壁となり、受け入れられることなく終わっている。
また、この地で熱心な湖水地方保護活動家のハードウィック・ローンズリー牧師と、一家が知り合ったことも、ポターの人生に大きな影響をもたらした。当時31歳だったローンズリーは、ナショナル・トラストの前身となる「湖水地方保護協会」を立ち上げたところで、以後、彼はポターの終生の友人となる。
ポターは、休暇中に捕まえた昆虫や小動物をロンドンに持ち帰り、弟と一緒に育てながら絵を描き続けた。部屋には常にトカゲ、カエル、イモリ、ヘビ、コウモリ、そしてウサギやハリネズミ、ヤマネなどがいたが、後にピーター・ラビットやベンジャミン・バニー(ピーターのいとこ)といった、絵本の登場人物のモデルとなるウサギたちは、ロンドンのペットショップで購入されたという。彼らを見ながら描いたディナーのプレイス・カード(パーティーのテーブルに置く、参列者の名前が書かれたカード)を目にした叔父の提案により、ポターはいくつかの出版社に挿絵を持ち込み、そのうちの1社からクリスマス・カードとして採用されている。
さらに数年後、元家庭教師の息子に綴った、ウサギを主人公にした絵手紙が、子供たちに大好評だったという知らせを受けたポターは、今度は絵本というスタイルでの出版を考え始める。ローンズリーに助言を求めた彼女は、まず自費出版で世間の手応えを確かめた後、フレデリック・ウォーン社と1902年6月に出版契約を交わした。『ピーター・ラビットのおはなし』の初版8000部は、10月の刊行を待たずに予約だけで完売となり、年内に2度増刷。翌1903年末までには5万冊を売り上げるベストセラーとなった。

「ピーター・ラビット」ってどんな話?

1893年9月4日にポターが元家庭教師の息子(ノエル・ムーア)に宛てて書いた絵手紙が原型であるため、この日がピーター・ラビットの誕生日とされている。
シリーズ第1作『ピーター・ラビットのおはなし』=写真=は1902年に刊行。1作目ではピーターと彼の家族が紹介されている。お母さん、3人の姉妹と暮らすピーターだが、お父さんは近所の農場のマクレガーさんに捕まって「パイにされた」ので登場しない。いくつかのお伽噺がそうであるように、ポターの絵本には、ときに残酷でブラックな描写が含まれていることがあり、単に「青い服を着たウサギのかわいい絵本」だと思っている大人たちを驚かせる。逆に、子どもの心を掴むのはおそらくそのような部分ではないだろうか。1930年までに計23冊を発行。しかし、昨年に未発表作が発見され、今年9月に発売予定となっている。
ちなみに、ピーター・ラビットが登場するのは、1作目のほかに『ベンジャミン・バニーのおはなし』『ティギーおばさんのおはなし』『フロプシーのこどもたち』『「ジンジャーとピクルズや」のおはなし』『キツネどんのおはなし』の計6冊だ。

反抗と喪失―安らぎを求めて湖水地方へ

1894年に撮影された、(向かって左から)父ルパート、
ポター(28歳)、弟のバーティ(22歳)。
母のヘレンは、娘が自立したベストセラー作家になっても、彼女を10代の箱入り娘のように監視した。家には十分財産があるのに、絵具まみれになったり印刷所へ足を運んだりと、労働者まがいの振る舞いをするのは恥ずべきこと。それだけでも我慢ならないのに、フレデリック・ウォーン社の三男で、ポターの担当編集者であるノーマン・ウォーンと結婚すると言い出した娘に、ヘレンは激怒する。娘が「商人」と結婚するなど、考えただけでも耐えられない…! ヘレンは当然のごとく大反対したが、ポターの決意は固かった。ポターはこの時すでに39歳。「ミス・ポター」と呼ばれ続けるのも、従者なしでは未だに一人で外出することが許されないのも馬鹿げた話で、彼女こそ我慢の限界だったのだ。
両親に反対されようとも、私はこの愛を貫く――そう言い張るポターに、父のルパートは妥協案として、「婚約のことはごく限られた者だけにしか伝えず、ノーマンの兄弟にも知らせない」ことを約束させた。
ところが、プロポーズから1ヵ月後の1905年8月、ノーマンはリンパ性白血病のため、37歳でこの世を去ってしまう。ポターは悲しみに暮れたが、秘密の婚約であったことから、誰にもその胸の内を明かすことはできなかった。
秋に入る頃、悲しみから立ち直るため、ポターは思い切って湖水地方のニア・ソーリー村にあるヒル・トップ農場を入手する。以前にスケッチ旅行で訪れた時からニア・ソーリーを気に入っており、いつか物件を購入したいと願っていたのだ。ヒル・トップ農場は、17世紀の農家、農場付属の建物、果樹園のある34エーカーの農地からなっており、本の印税と叔母の遺産で購入した。ただし、ポターはニア・ソーリーに引っ越したわけではなく、あくまで湖水地方に滞在する際の「居場所」を確保したに過ぎない。それでも彼女はなるべくロンドンを離れるように務め、喪失感を埋めるかのように農場での仕事に打ち込んだ。

ロンドンのハイゲート・セメタリーにあるウォーン家の墓。
ノーマンもここに埋葬されている。写真左はノーマンと甥のフレッド。
「ピーター・ラビット」シリーズの絵本が順調に売り上げを伸ばし、印税収入も着実に増えてくると、ポターは長年の知人であるローンズリーが設立したナショナル・トラストを支援し始める。ナショナル・トラストは、土地を購入して開発や破壊から、自然環境や歴史的遺産を守る活動を行っている団体で、ポターはこれに賛同し、湖水地方の土地や建物を次々に購入していった。
また、こうした不動産の購入だけでなく、この地方原産のハードウィック種の羊の保護も率先して行った。ハードウィック種の羊毛は頑丈な上、防水性にも秀でていたことから衣類や敷物に珍重されていたが、数年前から家屋の床張りにリノリウムが使われだし、この羊毛値が暴落。これにより牧羊をやめて、廃業する農家が次々に現れたのだった。この地方で農地経営が行われなくなったら、土地は荒廃し、景色も一変してしまう…。ポターはローンズリーの勧めもあり、本格的な農場経営に加え、羊の飼育にも乗り出していく。水上飛行機の飛行場ができるという噂が立ったときは、抗議文を雑誌へ投稿したり、建設反対の署名運動も行ったりしている。

映画「ミス・ポター」

ポター(レネー・ゼルウィガー演)が絵本作家になるまでを描いた、2006年製作の作品。本作は、婚約者ノーマン・ウォーン(ユアン・マクレガー演)との死別という悲しみを乗り越え、印税で購入したヒル・トップ農場で創作に専念し始めるところで終わる。
原作者のポターにスポットを当て、改めてその人物像が知られるようになったのは、この映画の功績のひとつと言える。また、ユーモアを交えさらりと描いているものの、封建的なヴィクトリア朝時代に、未婚の女性が本を出版することの難しさが伝わってくる。
湖水地方の各名所で撮影されたが、ニア・ソーリー村のヒル・トップ農場は、ロケを行うにはあまりにもポターの私物が多く(死後そのまま保管されている)、現在も農場として運営されていることから、撮影は不可能と判断。代わりに、コニストンにあるユー・ツリー農場が使われた。

第2の出会いと人生の始まり

ニア・ソーリー村にある、ヒル・トップ農場の方向を指すサイン。
後ろに見えるのは、夫婦で暮らしたカッスル・コテージ。
自然保護活動のために購入した土地や建物が増えると、その管理には弁護士が必要となり、ポターはウィリアム・ヒーリスという現地の弁護士に、売買契約や諸手続きを依頼することにした。ヒーリスは40歳を少し過ぎたスラリと背の高い美男子で、大変なスポーツマンだったという。彼はポターの自然保護運動にも共感し、彼女に不動産情報を与えるほか、様々な取引を代行した。ヒーリスは自分の故郷を愛し守ろうとする、ロンドンからやってきたこの強い女性を深く尊敬し、多くの時間を一緒に過ごして土地の改良計画を共に考えた。2人はゆっくりと愛情を育み、ついに1912年6月、ヒーリスはポターに結婚を申し込む。
ポターの両親はまたしても格の違いを理由に結婚に反対するが、思わぬところから助けが入った。スコットランドで暮らしていた独身のはずの弟のバーティが、実は自分は11年前に内密に結婚しており子供もいることを、初めて両親に打ち明けたのだ。ショックを受けた両親は、もはやポターの結婚に反対する気力もなく、翌年10月に2人はロンドンで結婚式を挙げた。ポターは47歳、ヒーリスは42歳。ようやく「ミス・ポター」という呼称を返上し「ヒーリス夫人」となったことを、彼女は心から喜んだ。「今はもう、後ろを振り返らないのが最善でしょう」。ポターは、友人への手紙にこう書いている。
2人はニア・ソーリー村のカッスル・コテージを購入し、ポターが農場経営と絵本執筆、ヒーリスが弁護士事務所での仕事と、幸せで落ち着いた暮らしを送った。しかし一方で、彼らは年老いた親族の生活も支えていた。ヒーリスは伯母の面倒を見ており、ポターにはロンドンに両親がいた。1914年に父親がガンで死去すると、ポターはかつて一家で夏の休暇を過ごしたことのあるウィンダミアの邸宅「リンデス・ハウ」を母のために購入し、彼女をロンドンから呼び寄せる。ヘレンは女中4人、庭師2人、運転手1人を連れて越してきたが、「田舎暮らしは退屈」と常にこぼしていたという。

スキャンダルを乗り越えて

ポターと、5歳下の夫ウィリアム・ヒーリス。
フレデリック・ウォーン社との仕事は、婚約者のノーマンが死去して以来、兄のハロルド・ウォーンが担当編集者となっていた。だが、ハロルドとは作品内容について対立することが少なくなく、そのうち印税支払い書が届かないことも増え、ついに彼女は催促状を送ることにする。
「見つけられる最後の明細書は、1911年のものです」
この手紙を書いたのは1914年。3年も黙していたのは、ノーマンの肉親であり、彼との大切な思い出がある会社だからだろう。ところが彼女の懸念は的中。ハロルドが自分の借金の穴を埋めるため、出版社の資金を流用しようと、合計2万ポンドにのぼる偽造為替手形を使っていたことが判明したのだ。ハロルド逮捕の報を受けたポターは、すぐさま版権の保護を弁護士に依頼。そしてハロルドが二度とウォーン社に関与しないという条件で、新たに2冊の絵本を出版することを約束した。これはノーマンのもう一人の兄フルーイングが、ウォーン社を再建する手助けのためだった。ポターの絵本は、ウォーン社にとっての頼みの綱となっていたのである。
そんな中、今度は弟バーティの急死の知らせが届く。46歳の若さで、死因は脳溢血だった。幼い頃から共に絵や動物を愛し、封建的な両親と戦ってきた弟を亡くしたポターは、大きなショックを受けた。しかし、農場経営や母の世話、ウォーン社への対応など、彼女にはやらなければならないことが山程ある。ポターは立ち止まることなく、前を見て進むのだった。

ナショナル・トラストって何?

産業革命で、都市や農村のあり方が大きく変わりつつあった1894年。美しい田園風景や歴史的な価値がある建物を、国民の『共通遺産』として残そうと、3人の有志たちによって設立されたのが「ナショナル・トラスト」である。
中心となったのは、弁護士のロバート・ハンター。議会に働きかける形の環境保護運動に限界があることに気づき、地域の乱開発を防ぐためには、それが破壊される前に「土地を購入するべし」という結論に達したのが出発点だった。土地の購入資金はトラスト・メンバーの会費や個人の寄付が財源となっており、基本的に政府からの援助は受けず、独立機関として活動。現在では英国最大の民間土地所有者となっている。
また、創立者の一人である牧師・社会事業家のハードウィック・ローンズリー=写真=は、ポター家の友人であり、彼女に多大な影響を与えた。
残りの創設者はオクタビア・ヒルといい、過酷な生活環境に置かれている労働者たちを助けるための、住宅改良運動に尽力した女性として知られる。彼女の提案で「ナショナル」(=国民のための)、慈善的な組織であることを強調するために「トラスト」(=信託)という言葉が選ばれ、名称が決められたという。

遺灰はもっとも愛した丘に

ウィンダミアにある小高い丘「オレスト・ヘッド」からの眺め。
ウィンダミア湖も一望できる。
しかしながら、創作意欲は次第に衰えていった。「視力が衰えた」とポターは話しているが、農場経営に対する興味が大きくなったことも確かだったようだ。1924年には、湖水地方で最も景観の美しい農場のひとつ、トラウトベック・パーク農場を購入。ここは2000エーカーを超える大農場で、ニア・ソーリー村の3つの農場も加えると、ポターはまぎれもない湖水地方屈指の大地主となった。
高級車モリス・カウリーの新車を買い、毎日これらの農場を見て回るため、風を切って走るポターの姿はおなじみだったという。ただし、服装に無頓着な彼女は、いつもブカブカのレインコートに長靴、ヨレヨレの中折れ帽を被って、ホームレスから同類扱いを受けたこともあったらしい。
1943年、クリスマスの3日前の12月22日、77歳のポターはカッスル・コテージにて気管支炎で亡くなるが、その寸前まで精力的に湖水地方の自然保護活動を続けた。死期を悟った時には綿密な遺書を作成し、農場の今後や、自分の作品の寄付先も指示。遺灰はニア・ソーリー村の彼女がもっとも愛した丘に撒くように、と信頼の置ける羊飼いのトムに伝えられた。「村のどこに散骨したかは、夫のヒーリスにも言ってはいけない」と固く口止めされたというトムは、その秘密を守ったまま1986年、90歳で死去している。

あまり身なりを気にしなかったポターは、
浮浪者に間違えられたことも。
ポターの遺言により、ナショナル・トラストは、湖水地方の4000エーカーを超える土地と、15の農場や古家を譲り受けることになった。さらに、ヒル・トップ農場にある家の部屋は彼女が残したままの状態で保存し、誰にも貸してはならないこと、農場で飼育する羊は純粋のハードウィック種を維持すること、そして領地内での狩猟は固く禁じることなども添えられていた。
数多くの才能を持ったパワフルな女性、ビアトリクス・ポター。彼女は、絵本のインスピレーションの源であり、つらい時に自分を支えてくれた湖水地方の美しい自然や動物たちを守るために、あらゆる努力を惜しまなかった。現在、私たちが見ることができる湖と山々で織りなされるドラマチックな風景は、その半生をかけて全力で守ろうとしたポターがいたからこそ、今なお存在しているのである。

湖水地方(Lake District)
ビアトリクス・ポター の足跡をたどる

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湖水地方(Lake District)ビアトリクス・ポター の足跡をたどるMAP

頑張れ日本!リオ五輪 見どころ総まとめ [Rio 2016 Olympics]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2016年8月4日 No.944

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がんばれ日本!リオ五輪 見どころ総まとめ

頑張れ日本!

リオ五輪 見どころ総まとめ

英国中が沸いたロンドン五輪からはや4年。各国が総力を挙げて競うスポーツの祭典が、8月5日からブラジルのリオデジャネイロで開幕する。南米大陸での初開催となるこの夏季五輪での注目の日本人選手や競技など、見どころをまとめた。

●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部

その昔、古代ギリシャで全能の神ゼウスを崇めるために戦争や争いを中止して始まった平和の祭典が今、試練の時を迎えている。
8月5日から21日にかけて開催される第31回リオデジャネイロ夏季五輪。開催国ブラジル国内外には問題が山積みだ。現職大統領の汚職疑惑に対する国民の不満や、景気の後退を背景とする犯罪の増加。国の経済状況を目の当たりにし、五輪開催を快く思わない人も当然見られ、リオでは7月に入ってからもなお五輪ボイコットを求めるデモが発生。聖火リレーが一時中断されたこともある。
政府は治安維持のために、ロンドン大会の約2倍となる数の警察官や兵士を警備にあたらせる構えだが、これにより国庫をさらに苦しめることになるというのは皮肉な話といえる。
治安の悪化に加え、昨年、急増が確認されたジカ熱への懸念などもあいまって、五輪出場を辞退した選手もいる。
問題はそれだけではない。国外に目を向けてみると、ドーピング問題で出場停止処分となるロシア選手が続出し、またイスラム教スンニ派過激組織「IS」に共鳴したブラジル人10人が、国内でテロを企てたとして逮捕されるなど、明るいニュースを探すほうが難しい。それほどにリオ五輪を取り巻く環境は思わしくない。
五輪は「平和の祭典」として成功を収めるのだろうかと不安は否めないが、本大会は、南米大陸での初開催という記念すべき大会でもある。その中心人物となる選手らは、こうした状況下に置かれながらも自らの最高のパフォーマンスで競うべくリオへと乗り込んだ。その数、206ヵ国・地域から1万人超。5日からおよそ2週間、私たちは一つひとつの試合に熱いドラマを見ることになるだろう。商業主義に走りすぎ、「商業五輪」と揶揄されて久しいこのスポーツ・イベントではあるが、選手らのスポーツマンシップがこの平和の祭典の意義を深めることを祈らずにはいられない。その思いと、日本勢活躍の期待を胸に、いざ、リオへ!
チーム JAPAN

チーム JAPAN

4年に1度のこの瞬間のために、切磋琢磨を続けてきたアスリートたち。主将を務めるレスリングの吉田沙保里、旗手の右代啓祐(陸上・十種競技)をはじめ、日本からは国外開催で史上2番目となる337選手が出場する。メダル獲得が期待される、注目の競技を紹介する。
※各競技の日程は、すべてブラジル時間。

競泳

北島の後継者、続々誕生。競泳から目が離せない!

五輪4大会出場、金メダル2つを含む計7個を獲得した競泳界のリーダー北島康介(33)が引退し、大黒柱を失った男子日本競泳界。だが『北島魂』を継ぐ選手は着実に育っている。
リオに向かったのは、男子18人、女子18人の総勢36人。躍進のカギを握るのは、男子400、200メートル個人メドレー、200メートル自由形、800メートルリレーの計4種目に出場予定の萩野(はぎの)公介(21)。中でも400メートル個人メドレーでは、世界選手権の同種目で2連覇を果たしている瀬戸大也(200メートルバタフライにも出場、22)とともに、金メダル争いが予想される(レースは6日)。見逃せない種目のひとつになりそうだ。一方、ロンドン五輪で銀2つ、銅1つを獲得した入江陵介(100、200メートル背泳ぎ、26)は3大会連続出場を果たしている。「自身の集大成」と位置づけた本大会で、狙うはもちろん「金」。また「ポスト北島」との呼び声が高い、200メートル平泳ぎの小関也朱篤(こせき・やすひろ、24)がどのようなレースを見せてくれるかも楽しみ。
女子は、ロンドン大会の200メートルバタフライで銅メダルを獲得し、昨年の世界選手権の同種目で優勝を飾った星奈津美(200メートルバタフライ、25)もメダル候補。そのほか同世界選手権女子200メートル平泳ぎで優勝を果たした渡部香生子(200メートル平泳ぎほか、19)、五輪には2大会ぶりの出場となる金藤理絵(200メートル平泳ぎ、27)、五輪初出場の高校生スイマー池江璃花子(100メートルバタフライほか、16)からも目が離せない。
▲競技日程:6~13日
BBC Sport 競泳ウェブサイト

柔道

お家芸復活をかけた戦い

ロンドン大会では、男子が史上初めて金メダルを逃し、金メダルは女子57キロ級の松本薫(28)の1つにとどまった日本柔道界。ロンドンの雪辱を果たすことができるのか!?
お家芸復活をかけて男子を指導するのは、シドニー五輪金メダリストの井上康生監督。最も金メダルに近いと期待を寄せるのが73キロ級の大野将平(24)だ。昨年の世界選手権で優勝、2月のグランプリ・デュッセルドルフ大会でも勝利を収め、大野自身も、「(リオでは)最低でも金」と宣言している。グレースノート社は、日本男子全員をメダル候補に挙げており、60キロ級の高藤直寿(23)、81キロ級の永瀬貴規(22)、90キロ級のベイカー茉秋(ましゅう、21)には「金」予想を出している。男子計7人のうちロンドン経験者は66キロ級の海老沼匡(26)のみとフレッシュな顔ぶれ。
一方の女子は、松本が2大会連続の金を目標にすえるほか、48キロ級の近藤亜美(21)、3大会連続出場となる52キロ級の中村美里(27)ら計7人。開会式翌日から試合が始まることから、ぜひともメダルを量産して、日本選手団を鼓舞してほしい。
▲競技日程:6~12日
BBC Sport 柔道ウェブサイト

レスリング

吉田、伊調の4連覇なるか!若手の活躍にも注目

メダル量産の筆頭に挙げられるレスリング。4連覇を目指す53キロ級の吉田沙保里(33)、58キロ級の伊調馨(32)をはじめ、女子6人、男子4人が世界に挑む。48キロ級で世界選手権3連覇中の登坂絵莉(22)のほか、五輪初出場となる63キロ級の川井梨紗子(21)、69キロ級の土性(どしょう)沙羅(21)など、いずれもメダル候補。男子は12階級のうち4階級に出場。9階級に出場したロンドン大会から大幅に出場枠を落とし、不安の声も上がるが、踏ん張ってほしいところ。
▲競技日程:14~21日(女子は17~18日)
BBC Sport レスリング ウェブサイト

体操

限りなく金に近い男子個人総合。王者・内村が魅せる!

男女各5人が出場。男子は、3大会連続五輪出場のエース内村航平(27)をはじめ、五輪初出場となる白井健三(19)など、内村が「信頼がおける」と太鼓判を押すメンバーがそろい、男子団体総合で3大会ぶりとなる金メダルを獲得できるかに注目が集まる。ちなみにロンドン大会では、男子団体が銀、内村が個人総合で金、ゆか種目で銀を獲得。昨年グラスゴーで行われた世界選手権で、内村が個人総合(6連覇)、鉄棒で金、白井がゆかで金、男子団体で優勝に輝いている。「体操ニッポン」の力強く美しい演技が今から待ち遠しい。
▲競技日程:6~11日、14~16日
BBC Sport 体操ウェブサイト

バドミントン

「タカマツ」組の金に期待

違法カジノ問題が世間を騒がせたバドミントン界からは、シングルスで男子1人と女子2人、ダブルスの男子1組、女子1組、混合1組の計9人。女子ダブルス世界ランキング1位の高橋礼華(あやか、26) 松友美佐紀(24) 組(タカマツ組)はグレースノート社のメダル予想でも金が期待される。1次リーグAグループのタカマツ組は、オランダ、タイ、インドのペアと対戦。各グループの上位2組が準々決勝に駒を進める。また3月の全英オープンの女子シングルスで日本人として39年ぶりに優勝した奥原希望(21)にもご注目を!
▲競技日程:11~20日
BBC Sport バドミントン ウェブサイト

卓球

卓球王国・中国に迫る!

ロンドン大会で銀メダルを獲得した女子団体=写真。今年の春に引退した平野早矢香(31)=同中央=に代わり、15歳の伊藤美誠が入り、福原愛(27)石川佳純(23) とともに団体「金」を狙う(福原、石川はシングルスにも出場)。一方、男子は水谷隼(27)、丹羽孝希(21)がシングルスおよび団体に、吉村真晴(23)が団体に出場する。3月の世界団体選手権では、男女ともに圧倒的な強さを誇る中国に負けを喫し、準優勝となった。
▲競技日程:6~17日
BBC Sport 卓球ウェブサイト

フェンシング

太田、悲願の金なるか!

2008年北京大会の男子フルーレ個人で銀メダルを獲得し、日本フェンシング界を変えた男、太田雄貴(30)。ロンドン大会で男子団体の準優勝に貢献したほか、昨夏の世界選手権ではフルーレ日本勢初の金メダルに輝いただけに、同種目での金メダル候補として有力(試合は7日)。太田は五輪後に引退を示唆しており、本大会が集大成となる。ほか男子2、女子3選手が出場。
▲競技日程:6~14日
BBC Sport フェンシング ウェブサイト

テニス

世界ランク6位の錦織圭が日の丸を背負う!

日本のスポーツ史において、初めて五輪でメダルを獲得した競技が、実はテニス。1920年アントワープ大会で、熊谷一弥(男子シングルス)、熊谷一弥、柏尾誠一郎組(男子ダブルス)が銀メダルをもたらした。それから1世紀ほどの時を経て、日本テニス界のエース、錦織圭(26)が男子シングルスで金メダルを狙う。ただ、世界ランク6位の錦織は、6月のウィンブルドン選手権で痛めた左脇腹の状態が心配される。男子シングルスには、錦織含む3選手が出場する。
女子シングルスには、世界ランク49位の土居美咲(25)、同70位の日比野菜緒(21)が、女子ダブルスには土居、穂積絵莉(22)組が出場予定。
▲競技日程:6~14日
BBC Sport テニス ウェブサイト

女子バレー

ロンドンの「銅」よりも高く

ロンドン大会での銅メダルよりも上のレベルを目指して、主将の木村沙織(29)をはじめ、荒木絵里香(32)など、ロンドン大会メンバー4人を含む12人が選出された。現在世界ランキング5位の日本は、1次リーグで、五輪3連覇を狙うブラジル、同4位のロシア、同8位の韓国、同9位のアルゼンチン、同21位のカメルーンと対戦する。上位4チームが準々決勝に進む。
▲競技日程:6~ 21日(日本女子は、6日韓国戦、8日カメルーン戦、10日ブラジル戦、12日ロシア戦、14日アルゼンチン戦/女子決勝トーナメントは16日~20日)
BBC Sport バレーウェブサイト

陸上・マラソン

男子400メートルリレー 北京大会以来のメダルへ

男子短距離の桐生祥秀(よしひで、20) ケンブリッジ飛鳥(23)、女子短距離の福島千里(28)など51選手(男子37人、女子14人)が出場。注目の種目は、2008年北京大会で銅メダルを獲得した男子400メートルリレー。100メートルで日本人初の9秒台を狙う桐生、山県亮太(24)、ケンブリッジの3選手と、200メートルの飯塚翔太(25)がバトンをつなぐ。男子1600メートルリレーでは、ドーピング問題に揺れるロシアチームの欠場を受け、日本が繰り上げ出場となった(9大会連続)。この幸運をぜひ活かしてほしいもの。日本女子で初めて五輪4大会連続出場を飾る女子マラソンの福士加代子(34)もお見逃しなく!
▲競技日程:12~21日
BBC Sport 陸上競技ウェブサイト

テコンドー

世界女王、濱田の挑戦!

日本からは唯一、女子57キロ級でロンドン大会5位入賞の濱田真由(22)が出場する。グレースノート社から銅メダル獲得の予想が出されているが、昨年の世界選手権で日本人初の優勝を飾っており、金メダルは決して遠くない。
▲競技日程:17~20日(57キロ級は18日)
BBC Sport テコンドー ウェブサイト

サッカー

女子の雪辱を果たせ!若きイレブンが世界に挑む

ロンドン大会で銀メダルを獲得した代表女子は4大会連続出場を逃し、男子のみがリオの地を踏む。出場資格は23歳以下と規定されており、主将を務める浦和のMF遠藤航(23)、プレミアリーグのアーセナルに移籍したFW浅野拓磨(21)、鹿島のDF植田直通(21)らが選出されている(オーバーエイジ枠として3選手が出場)。優勝候補に挙げられるアルゼンチン、開催国でサッカー大国のブラジルなど計16ヵ国が出場。日本は、スウェーデン、コロンビア、ナイジェリアとグループ・ステージを戦い、上位2チームが決勝トーナメントに進む。
▲競技日程:3~20日(日本男子は、4日ナイジェリア戦、7日コロンビア戦、10日スウェーデン戦/決勝トーナメントは13〜20日)
BBC Sport サッカー ウェブサイト

ゴルフ

トップ選手、相次ぐ辞退…

本大会から正式種目!ゴルフの普及を目的に、112年ぶりに正式種目に復活するも、治安やジカ熱への懸念などを理由に、豪ジェイソン・デイ、英ロリー・マキロイら男子トップ4が出場を辞退。日本勢も松山英樹(24)と谷原秀人(37)が辞退しており、男子は池田勇太(30)、片山晋呉(43)、女子は野村敏京(はるきょう、23)、大山志保(39) が出場する。
▲競技日程:男子11~14日、女子17〜20日
BBC Sport ゴルフ ウェブサイト

7人制ラグビー

15人制とは一味違う!

本大会から正式種目!2015年W杯で一躍人気を集めたラグビー。本大会から、7人制(通称:セブンズ)が初めて正式種目となる。日本は男女ともに出場権を獲得。前半7分、ハーフタイム1分、後半7分の計15分で行われ、15人制とは一味違った、展開の速いラグビーを楽しめる。選手に求められる技術も15人制とは異なり、ラグビー人気の中心的存在の五郎丸歩は出場しない。男女各12ヵ国が3グループに分かれて予選リーグを行い、その後、決勝トーナメントへ。
▲競技日程:女子6~8日、男子9~11日
BBC Sport 7人制ラグビーウェブサイト

パラリンピック

9月7日~18日に行われるパラリンピック。176ヵ国・地域から約4350選手が集い、計22競技で熱戦を繰り広げる。

目標は金メダル10で、東京パラリンピックにつなぐ

北京、ロンドン大会に続き、
車いすテニス男子シングルスで
3連覇を狙う国枝慎吾。
ロンドン大会で金メダル5、銀メダル5、銅メダル6を獲得した日本選手団。2020年東京パラリンピックを盛り上げるためにも、リオで好成績を残すことが期待され、リオ大会では、金メダル10個を含むメダル40個を目標に掲げる。
メダルの最有力候補は、車いすテニス男子シングルスで北京、ロンドンに続き、3連覇を目指す国枝慎吾(32)。7月のウィンブルドン選手権では右ひじの故障で欠場を余儀なくされたが、常に逆境を跳ね返してきた王者の戦いに声援を送りたい。
障害者スポーツ界のレジェンド、競泳女子の成田真由美(45)の復活の一戦も見どころのひとつ。成田は、アトランタ大会(1996年)から北京大会までの4大会に連続出場し、15個の「金」を含む計20個のメダルを獲得している。一度は引退したものの、「水泳の魅力を伝えて若手を発掘したい」と、昨年、7年ぶりの復帰を果たした。
さらに競泳界のエースで、盲目のスイマー木村敬一(25)にとっては3度目の五輪。ロンドン大会の100メートル平泳ぎで銀、100メートルバタフライで銅を獲得し、今回は「金」を狙う。
総勢100人を超す日本選手団の主将を務めるのは、車いすバスケットボール男子の主将、藤本怜央(れお、32)=同左。旗手は、今年、車いすテニス女子の全豪、全仏、全英のダブルスで優勝し絶好調の上地結衣(22)が務める。
知っておくと楽しめるリオ五輪エトセトラ

抑えておきたい リオ五輪基礎知識

開催期間 : 8月5日(金)~21日(日)
英国との時差 : マイナス4時間(例:リオ 午後2時=英国 午後6時)
公式マスコット : 五輪のマスコットは、猫、猿、鳥を合わせたイメージの「ビニシウス」で、パラリンピックのマスコットは、植物をイメージした「トム」。
一般からの投票で命名され、ブラジル出身の音楽家で名曲『イパネマの娘』を作詞したビニシウス・モラエス氏と、作曲したアントニオ・カルロス・ジョビン氏(愛称トム)に由来している。キャラクターをデザインしたのは、なんと日系ブラジル人デザイナーのルシアナ・エグチさん。ちなみに、聖火リレーの際に使われたトーチも日系ブラジル人のロミー・ハヤシさんによってデザインされた。

BBCが勢力を挙げて放送!ロンドン各所には巨大スクリーンも登場。

遠く離れたリオまで足を運ぶことは難しいかもしれないが、英国テレビ史上、最も成功を収めたというロンドン大会同様、BBCが総力を挙げて現地から中継する。TV(BBC1、2、4/英国時間で毎日午後1時~翌朝4時ごろ)、BBCレッド・ボタン、ラジオ、オンライン(BBC Sport)にて放送予定。

開会式中継 8月5日(金) リオデジャネイロのマラカナン競技場からBBC1で中継される。英国時間6日午前0時の開会式開始に先駆けて、同5日午後11時40分から放送。
閉会式中継 8月21日(日) 開会式と同様に、BBC1で中継される。2020年五輪開催国である日本を紹介するパフォーマンスにも注目したい。 巨大スクリーンで観戦しよう 期間中、ロンドン各所には巨大スクリーンが設けられ、観戦が可能。英国人アスリートの試合が流されることが多いと思われるが、オリンピックの雰囲気は十分に味わえそう。クイーン・エリザベス・オリンピック・パーク(E20 2ST)のほか、ロンドン・ブリッジ・シティ(SE1 2DB)=写真、マーチャント・スクエア(W2 1BF)など。 人気種目をハイライトにて! 朝番組「BBC Breakfast」では、前日(早朝)の競技の模様をハイライトにて放送。人気種目がチェックできる。

英メディアが注目するアスリート

モハメド・ファラー
陸上競技・英国(33)
ロンドン大会の5000、1万メートルで金メダルに輝いた中長距離の王者。7月にロンドンで行われたダイヤモンド・リーグの5000メートルで優勝し、好調ぶりをアピールした。頭のてっぺんに両手を置いてMの字を描く『Mobot』ポーズは有名。愛称「モー(Mo)」。

トム・デイリー
飛込・英国(22)
ロンドン大会で、ため息の出るような美しい飛込で観客を魅了したデイリー。銅メダルを獲得した「4年前よりも確実に成長している」と、胸を張る。

ジェシカ・エニス=ヒル
陸上競技・英国(30)
ロンドン大会の陸上女子七種競技で金メダルを獲得。その後、結婚、出産を経て、再び五輪の舞台で雄姿を見せる。

ブラッドリー・ウィギンズ
自転車・英国(36)
英国で人気の自転車競技。過去4大会において人々の期待に応え続けているウィギンズは、今回で5回目の五輪となるが「19歳のころと何も気持ちは変わっていない」と新鮮な気持ちで挑む。

ネイマール
サッカー・ブラジル(24)
スペイン1部リーグのバルセロナに所属するストライカー。オーバーエイジ枠で代表に加わり、地元ブラジルで華麗な技を披露する。

ウサイン・ボルト
陸上競技・ジャマイカ(29)
男子100、200メートルで北京、ロンドン大会を制した世界最速の男。2017年世界陸上(ロンドン開催)での引退を表明していることから、さらなる注目を集めている。出場予定は100メートル(決勝は英国時間15日早朝2時25分)、200メートル(決勝は同19日早朝2時30分)、400メートルリレー(決勝は同20日早朝2時35分)。

さながら地下のデザイン博物館!ロンドン地下鉄を彩るアート

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2016年9月1日 No.948

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さながら地下のデザイン博物館!ロンドン地下鉄を彩るアート

▲写真:セントラル線ガンツ・ヒル駅構内

さながら地下のデザイン博物館!

ロンドン地下鉄を彩るアート

遅延は当たり前、最終目的駅も急に変わる(!)、ストライキや改修工事でしばしば運休するなど悪名高いエピソードに事欠かないロンドンの地下鉄。
しかし、ひとたびその目を、駅を彩るアートとデザインに向けてみると全く違った風景が見えてくる。それぞれの駅が異なる個性を持ち、新しい発見に満ちている。いつしか全駅制覇してみたいとも思わせる、デザインの魅力。今週号では、駅に降り立つのが楽しみになるロンドン地下鉄アート案内をお届けしたい。

●サバイバー●取材・執筆・写真/ホートン秋穂・本誌編集部

パブリック・アートの目覚め

「どんな場所であれ、命あるところに芸術は存在する」
1917年にフランク・ピック(Frank Pick)が漏らした言葉だ。ピックは芸術家ではなく、33年に発足した現在のロンドン交通局の前身となる組織、ロンドン旅客輸送委員会(LPTB)の常務だった人物。パブリック・アートとデザインの重要性を深く理解し、駅の設計や字体の統一、路線図の改良を断行するなど積極的にデザイン・プロジェクトを進めた人物として知られる。今日、私たちが目にするロンドン地下鉄駅の高い芸術性は彼の力によるものが大きい。

シカゴからの新しい風

ピカデリー線、ホロウェー・ロード駅内のタイル。
1863年に世界で初めての地下鉄、メトロポリタン鉄道(後のメトロポリタン・ライン)がパディントン駅~ファリンドン駅区間で開業。その後、次々と路線が開通し、20世紀初めまでには9つの異なる鉄道会社が乱立した。すなわち、①メトロポリタン鉄道(1863年開業)②メトロポリタン・ディストリクト鉄道(68年)③シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道(90年)④ウォータールー・アンド・シティ鉄道(98年)、⑤セントラル・ロンドン鉄道(1900年)⑥グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道(04年)⑦ベーカーストリート・アンド・ウォータールー鉄道(06年)⑧ グレート・ノーザン・ピカデリー・アンド・ブロンプトン鉄道(06年)⑨チャリング・クロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道(07年)が、別々に運営されていたのだ。
馬車や路面電車との競争も激しかったため、各社ともに運賃の値引きなどで優位に立ち、利用客の獲得を狙った。
しかし、決して安くない運営コストをまかないつつ、収益性の高い郊外への延伸を目指すにあたり、資金繰りは非効率的で困難を伴った。
そこに登場したのが、米国人投資家チャールズ・ヤーキス(Charles Yerkes)である。シカゴでの路面鉄道ビジネスで富を得た後、ロンドンの地下鉄事業に関心を示し、1900~02年にかけて次々と路線を買収。02年にはそれらを傘下に収めたロンドン地下鉄電気鉄道会社を創立する。この合併は地下鉄の電力化推進と駅舎デザインの統一に大きく貢献した。
03年には建築家レスリー・グリーン(Leslie Green)が採用され、現在のピカデリー線、ベーカールー線、ノーザン線にあたる路線で、4年のあいだに50駅の駅舎をデザインした。駅舎はオックス・ブラッド・カラーと呼ばれる赤いテラコッタタイルで覆われた鉄筋構造で、上階に半円状の窓を持ち、駅舎上階に商業施設を追設することを考慮し、平面の屋根で統一。内部には各駅で異なる美しい模様のタイルを施し、ひとめでグリーン設計の駅だと分かる造りになっている。
しかし、グリーンはあまりの短期間で数多くの駅のデザインと設計監督をこなさなければならない仕事のプレッシャーと激務からか結核を患い、33歳という若さでこの世を去ることになる。まだまだやりたいことが山のようにあっただろう。その早い死を多くの人が悼んだ。

「地下の鉄道」のブランド作り

ヤーキスが新風を吹き込んだかと思われたロンドン地下鉄電気鉄道会社だったが、開業当初から経営危機に見舞われた。莫大な借入金の利子の支払いが経営を圧迫し、乗客数も依然と伸び悩んでいたのである。
経営の見直しから1907年にジェネラル・マネージャーに就任したアルバート・スタンレー(Albert Stanley)が傘下に入っていない路線も含め、すべてのロンドンの地下鉄路線を「アンダーグラウンド(The Underground)」のブランド名でまとめるとともに、予約システムや統一運賃の導入を決定。収益の改善を図ったという。
08年には赤い丸と青い横帯を組み合わせた図案が考案される。その青い横帯内に駅名や『UNDERGROUND』と白抜きで書かれた統一ロゴマークの「ラウンデル(The Roundel)」の登場である。現在も私たちが目にするこのロゴマークは、経営不振からの脱却を目指した産物だったのだ。
スタンレーの右腕としてデザインに大きく貢献したのが、13年にコマーシャル・マネージャーとなった、先述のフランク・ピックだ。
良いものは使いやすく機能的なものであるべきだというデザイン信念を持ち、「駅名の表示などを覚えやすく認識しやすくすること、そして環境に良く馴染むもの」という依頼のもとに、エドワード・ジョンストン(Edward Johnston)に書体作成を任せた。ジョンストンによる書体『ジョンストン・サンズ』はいくたびかの改良が重ねられたものの、今日でも見ることができる。
また、統一書体の制定だけでなく、それまでは大きさもばらばらで駅構内の至る所に貼り出された広告ポスターのサイズ規格や枚数を統一したほか、乗客が駅名を見やすいようにしたのもピックのアイディアだったという。
20年代以降には郊外への路線の拡張とともに駅舎のデザイン計画にもピックは深く関わる。建築家チャールズ・ホールデン(Charles Holden)を採用し、モダニズム建築による駅舎が30年代、主にピカデリー線の北東エリアで数多く生まれた。広いコンコースで切符売り場の混雑を緩和し、乗客が電車にすぐに乗れるよう、エスカレーターも導入された。
33年には、地下鉄をはじめバスや路面電車をすべて統括する公共機関として創設されたロンドン旅客輸送委員会(LPTB)で、スタンレーは会長に、ピックは常務に就任。地下鉄路線図の改良など様々なプロジェクトにより、統一性を保ちながら、地下鉄デザインは順調な発展を遂げていく。

「統一」から「個性」へ

戦後には人口膨張に伴う交通量の増加を受けて、ヴィクトリア線(68年)、ジュビリー線(79年)が新しく開通し、ピカデリー線も、ヒースロー空港までの延伸が実現(77年)。
70年代末以降は、エドゥアルド・パオロッツィによるトテナム・コート・ロード駅のモザイク壁アートや、デヴィッド・ジェントルマンのチャリング・クロス駅にみられる木版アートなど統一性よりも各駅が「唯一無二」の存在になるようなアート・プロジェクトが新しい潮流となった。スタンレーやピックたちが意識した「統一」の中に、斬新なアクセントが加えられたのだった。
開業してから150年あまり。
ロンドンの地下鉄は今も進化を続けているが、これまでに築かれた「財産」をふり返る試みも行われている。2016年7月には地下鉄のアートを巡るガイドマップが発行され、市内中心部の駅では無料で受け取ることができる。フランク・ピックが礎を築いた「誰もが毎日楽しめるアート」の精神は脈々と受け継がれ、様々なスタイルや色でロンドンの地下鉄駅を彩り、乗客の目を楽しませてくれる。いつも利用する地下鉄の駅にも、今度、ゆっくりと目を向けてみてはいかがだろうか。
独断ピックアップ じっくり鑑賞したい!おすすめ地下鉄駅 15選

おすすめ地下鉄駅 15選

じっくり鑑賞したいおすすめの地下鉄駅を15つ独占ピックアップ!

ベーカー・ストリート駅

Baker Street

ハマースミス・シティ線、サークル線、ベーカールー線、ジュビリー線、メトロポリタン線

ゾーン1

1863年の開通当時の面影をそのまま残したハマースミス・シティ線、サークル線ホームは必見。蒸気機関車が通ったというだけある高い天井と幅広い線路、重厚な煉瓦の壁に圧倒される。
一方、ベーカー・ストリートといえばこの人、名探偵シャーロック・ホームズ。ベーカールー線のホームや通路ではホームズを象ったデザインのタイル壁画に出会うことができる。また、中央切符売り場にある「Ticket Office」、「Luncheon」や「WH Smith & Sons」と書かれた昔の標識やメトロポリタン鉄道時代の紋章など、隠された秘宝のように駅のあちこちにちりばめられた、古いものを発見するのもこの駅の楽しみ方といえる。

トテナム・コート・ロード駅

Tottenham Court Road

セントラル線、ノーザン 線

ゾーン1

1900年開業だが幾多もの改築、改良工事を経たため、当時の面影はほとんど残されていない。79年にロンドン交通局の依頼で、7年かけて制作、86年に完成したエドゥアルド・パオロッツィによるカラフルなモザイク壁画がこの駅の見どころだ。都会の日常を描いたおよそ1000平方メートルに及ぶ巨大なモザイクアートは、大英博物館のコレクションや映画『ブレード・ランナー』、ジョージ・オーウェルの小説『1984』、ファーストフードなど様々なものに着想を得ているといわれる。またノーザン線ホームにある壁画は、同線の黒色を基調により薄い色調のデザインであるのに対し、セントラル線は同線の赤色を基調にし、鮮やかで明るいものになっている。

ホロウェー・ロード駅

Holloway Road

ピカデリー線

ゾーン2

1906年に建てられた駅でレスリー・グリーンによる設計。グリーンのデザインの特徴といえる赤いテラコッタタイルの外壁を備えた駅舎やホームのタイル模様、草木をかたどった深緑のタイルで飾られたチケット売り場窓口がエレガントで美しい。歴史的建造物として「グレードII」に指定されている。周辺にはサッカーチーム、アーセナルのホームグラウンドがあり、荒くれた労働者階級が集う粗野なイメージのエリアだけに、その中で静かにたたずむ駅の優美な雰囲気とのコントラストが面白い。

チャリング・クロス駅

Charing Cross

ベーカールー線、ノーザン線

ゾーン1

まずはノーザン線ホーム一面に展開される、デヴィッド・ジェントルマンによる木版の原画を転写した壁画アートをじっくりと鑑賞したい。13世紀イングランド国王エドワード1世の妻、エリナー・オブ・カスティルの記念碑が置かれた場所、当時のチャリング村(現在のチャリング・クロス)の様子を100メートルにわたる壁画で表している。
一方、ベーカールー線ホームではシェイクスピア、ヘンリー8世の肖像画やレオナルド・ダヴィンチ、ボッティチェリの絵画の一部など、至近距離にあるナショナル・ギャラリーやナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵の優れた作品がホームの壁を華やかに飾っている。

ピカデリー・サーカス駅

Piccadilly Circus

ピカデリー線、ベーカールー線

ゾーン1

1906年開業当時はレスリー・グリーンの建築だったといわれる駅舎は、29年には改築のために閉鎖され、80年代に取り壊されるに至った。現在目にする、ぐるりと回る大円形状のコンコースはチャールズ・ホールデンの設計によるもの(1928年)。ガンツ・ヒル駅同様、地上には駅舎がない数少ない駅の一つだ。ベーカールー線の茶色、ピカデリー線の濃青色を組み合わせたタイルワークに注目して両方のホームを歩いてほしい。またピカデリー・サーカス広場のシンボル、エロスの像のタイルがどこにあるか探してみるのも楽しい(プラットホームとは限らない点、ご留意を)。

レイトンストーン駅

Leytonstone

セントラル線

ゾーン3

映画監督アルフレッド・ヒッチコックが生まれ育った場所としても知られる、東ロンドンのレイトンストーン。生誕100周年を記念して制作されたヒッチコック作品の有名なシーンをモチーフとしたモザイクアートが、駅舎入口から改札へと向かう通路沿いにずらりと並ぶ(写真は『サイコ』の1場面より)。いくつ分かるか試してみては?


オックスフォード・サーカス駅

Oxford Circus

ピカデリー線、セントラル線、ヴィクトリア線

ゾーン1

1900年にセントラル・ロンドン鉄道(現在のセントラル線)の駅として、1906年にはベーカー・ストリート・アンド・ウォータールー鉄道の駅が同じ場所に別々に開業。前者はハリー・ベル・メジャーズ、後者はレスリー・グリーンによる設計とデザインが異なる2つの駅舎の外壁が今でも一部残る。 現在は駅のコンコースにあり、もともとはヴィクトリア線のホームにあったのがドイツ人グラフィック・デザイナー、ハンス・ウンガーのタイルアート=写真左。円を意味する「circle」とオックスフォード・サーカスの「circus」をかけあわせ、同駅に乗り入れる3つの路線の色をクロスで表現している。84年からヴィクトリア線には、複雑に路線が入り乱れ、都会のジャングルに迷いこむ人間をパロディ化した「蛇梯子」のタイル=同右=がこれに代わり設置されている。

ボンド・ストリート駅

Bond Street

セントラル線、ジュビリー線

ゾーン1

1909年創業の高級デパート、セルフリッジズの最寄り駅であり、そのほかの大手デパートや、高級小売店が軒を並べるロンドン随一のショッピング街にあることからか、ジュビリー線のホームのタイルはプレゼントボックスをモチーフとしている。駅の外壁はチャールズ・ホールデンの設計によるものだったが、80年代に取り壊されており、現在はその一部が駅の東側に遺構として痕跡をとどめている。


ホルボーン駅

Holborn

セントラル線、ピカデリー線

ゾーン1

大英博物館の最寄り駅である当駅のホームは、エジプト考古学の発見品やヒエログリフ、古代石版画など大英博物館の所蔵コレクションがモノクロの写真で飾られている。注目してほしいのはギリシャ建築物風の柱の写真。3Dのように浮き出て見える工夫がなされている。


ガンツ・ヒル駅

Gants Hill

セントラル線

ゾーン4

チャールズ・ホールデンによる設計。ホールデンが同時期に設計監督を務めていたロシアのモスクワ地下鉄を参考にした、シンプルながら力強いモダニズム建築のコンコースが特徴的。1930年代に工事が始まったものの、第二次世界大戦中は工事は休止、防空壕として利用されたという。円形交差点の下にあり、地上にまったく駅舎がない点もユニーク。

キングズ・クロス・セント・パンクラス駅

King’s Cross St. Pancras

ピカデリー線、ハマースミス・シティ線、サークル線、メトロポリタン線、ヴィクトリア線、ノーザン線

ゾーン1

ヴィクトリア線のタイルに注目。王様の冠を十字(クロス)にしたモチーフは、キングズ・クロスの駅名の語呂遊びをデザイン化したもの。なお、乗り入れる路線が多い割にはデザイン的に見るものが少ないのが意外。むしろ地上の鉄道駅の方が建築デザインとして一見の価値がある。

ヴィクトリア駅

Victoria

ヴィクトリア線、ディストリクト線、サークル線

ゾーン1

ヴィクトリア線のホームを彩るタイルのモチーフ、こちらは駅名そのまま、ヴィクトリア女王の横顔のシルエットがデザインされている。英国人画家エドワード・ボーデンの作品。


ウェストミンスター駅 / カナリー・ワーフ駅

Westminster / Canary Wharf

近未来的な美しさを備える駅

ウェストミンスター駅の改札からジュビリー線のホームへと続く空間は、巨大なコンクリートの円柱と梁が十字に組まれ、奥深い地底まで複雑に走るステンレス製の長いエレベーターは映画のセットで登場する宇宙船の内部のような趣だ。建築家マイケル・ホプキンスによる設計で1999年に完成し、2001年には王立英国建築協会(RIBA)賞を受賞。

同じく、現代的な建築が印象的なカナリー・ワーフ駅(ジュビリー線)は、広いコンコースに4台並列して走る長いエスカレーターを経て、巨大な半楕円状の窓を仰ぎ見ながら出口へと向かうデザインになっている。そして、窓の外には金融街の高層ビルの姿が映し出される。天井が低く閉塞感を感じる地下鉄駅も多い中、この2駅は広々としており、荘厳かつ近未来的な美を感じさせる。

チェシャム駅

Chesham

ロンドン地下鉄とは思えない! 牧歌的ムードいっぱいの駅

メトロポリタン駅の終着駅チェシャムは地下鉄で行けるロンドン市内中心から最も遠い駅である(チャリング・クロス駅から北西に40キロメートル離れている)。1889年開業当初の小さな駅舎=写真左=や信号扱所=同右下、貯水槽=同右上=は歴史的建造物「グレードII」に指定されている。1つしかない地上ホームには緑があふれ、カントリーサイドの長閑な雰囲気が満ちる。ホームにある煉瓦造りの貯水槽は蒸気機関車の水の補給に用いられたもの。また、信号扱所は今年、修復工事が完了した。

ニュー・ジョンストン書体を造りだした日本人、河野英一氏

ロンドン地下鉄の表示やパンフレット、マップに使われている専用書体「ニュー・ジョンストン」=写真左下=の生みの親が日本人だということをご存知だろうか。目に飛び込んでくるような、くっきりとした書体。この文字は1979年、それまで使われていたジョンストン・フォントを英国在住のグラフィック・デザイナー、河野英一(こうの・えいいち)氏が全面的にリニューアルしたものだ。1916年にエドワード・ジョンストンが生みだした書体は後の書体に多大な影響を及ぼす画期的なものだった。しかし書体は主に駅名表示=同左上=を目的としたため、文字幅が広く、また、ボールド書体(太字)には小文字がないなど、パンフレットや時刻表には不向きだった。1年半かけて制作された河野氏の「ニュー・ジョンストン」書体だが、デザインにおいて同氏が気を使ったのは、意外にも自分のオリジナリティを抑えることだったという。「必要なのは足りない部分を補うこと。人が気づかないように変わっているのが一番いいんです」と、河野氏。イタリック体などを含めて8パターン、1000文字近くが手書きで仕上げられた。「ニュー・ジョンストン」は30年以上、駅名表示から小さなパンフレットに至るまで、愛着をもって使われ続けている。
なお、コベント・ガーデンにある「ロンドン交通博物館」に、「designology」と名づけられた、新しい展示スペースが完成した。この中に、河野氏と「ニュー・ジョンストン」を紹介するコーナーがあるので、機会をつくってぜひ訪れてみていただきたい。

London Transport Museum
Covent Garden Piazza, London WC2E 7BB
Tel: 020 7379 6344
www.ltmuseum.co.uk

鉄道技師が生んだ画期的な地下鉄路線図

©TfL from the London Transport Museum

地下鉄での移動には欠かせない、おなじみの地下鉄路線図。乗換駅が一目でわかる、この明快な路線図は1931年、地下鉄の従業員だったハリー・ベックにより考案された。それ以前の、地理上の距離を正確に反映した路線図は、利用者にとっては非常に使いづらいものだった。地図とは実際の地理的距離に基づいて作られるべきものだ、という常識を打ち破ったのが、このベックの路線図だ。ベックは地下鉄利用者にとって重要なのは駅と駅の距離などではなく、目的の駅までどう乗り継いで到達するかだと考えた。彼は地理的距離を無視し、駅を等間隔に配置。乗換駅を強調して表示するとともに、路線には水平、垂直、斜め45度の線のみを使った地図を作製した。電気回路図にも似たこの地図、ベックが日常的に電気回路を扱う技師だったことからも納得がいく。その後、改良を重ねられた現在の路線図にもベックの地図は受け継がれており、オリジナル・デザインのコピーは、彼の地元の駅であるフィンチリー・セントラル駅の南行きホームに展示されている。

地下鉄全270駅に存在する「迷路(Labyrinth)」を探せ!

近頃、地下鉄駅でこの不思議な迷路のようなものを見かけたことはないだろうか? 一つ一つすべて異なるデザインの「迷路」が、地下鉄全270駅のどこかに展示されている。 2013年、地下鉄開業150周年を記念して、ロンドン交通局はターナー賞の受賞歴もある気鋭のアーティスト、マーク・ワリンガーにアート制作を依頼。各迷路には番号が振られ、その順番は、2009年にギネス・ブック地下鉄最短踏破記録が樹立されたときのルートに基づいているという。ロンドン地下鉄を一つの総体としてとらえ、そこにある長い歴史とデザインを詩的に結び付けた作品となるよう願って制作された。ちなみに「1/270」は、チェシャム駅にある=写真。 次回、地下鉄駅に降り立つ時はこの迷路を探してみては?

ロンドン大火から350年{Part1} 燃えつきた都 ―灼熱の4日間― [The Great Fire of London]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2016年9月29日 No.952

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ロンドン大火から350年 {Part1} 燃えつきた都 ― 灼熱の4日間 ―

ロンドン大火から350年 {Part1}

燃えつきた都 ― 灼熱の4日間 ―

1666年9月。
猛威をふるうペストに疲弊し切っていたシティ・オブ・ロンドンは、灼熱の炎に包まれた。凄まじい勢いで燃え広がる炎を目の当たりにした市民は、「この世の終わりか」と恐れおののいたに違いない。
シティの風景を一変させた火災の発生から350年。今号では、世界の火災史に大災害として記録されることになった、炎の4日間「ロンドン大火(The Great Fire of London)」についてお送りする。
【関連記事】ロンドン大火から350年 {Part2} よみがえった都 ― 天才クリストファー・レンの挑戦 ―

●サバイバー● 取材・執筆・写真/根本 玲子・本誌編集部

ありふれたボヤが原因

17世紀頃の消火活動は、「fire hook(とび口)」を
使って出火元の周囲の家屋を倒壊させ、
延焼を防ぐのが一般的な方法だった。
(イラスト提供:LMA)
9月2日、日曜日。時刻は日付が変わったばかりの深夜1~2時頃のことだった。
ロンドン塔の西、ロンドン・ブリッジのすぐ北に位置する下町プディング・レーンに店を構えるパン屋の主人トマス・ファリナーは、下男の取り乱した声に眠りを覚まされる。一体何事かと問いただせば、かまどのある一階から火の手が上がっているという。木造家屋の火のまわりは早い。すでに階段を使っては外に出られなくなっていることを悟ったファリナーは、家族を伴い窓から通りへと飛び降りた。第一発見者の下男も無事に脱出したが、高所恐怖症だったという下女は窓からどうしても飛び降りることができず、そのまま煙と炎に包まれてしまう。
一方、火事の知らせを聞いたロンドン市長のトマス・ブラッドワースは、「またか…」とばかりに、ろくに取り合わず寝床に戻った。だが、その頃、火勢は東風にあおられ、いよいよシティ・オブ・ロンドンをのみ込もうとしていた――。これが4日間で町を灰にした、かのロンドン大火のファースト・シーンだ。そしてファリナー家の哀れな下女は、この悪名高き大火の最初の犠牲者となってしまったのである。
この大火災以前のシティの火災については、詳しい記録は残っていない。しかし、ローマ時代に建設された市壁(City Wall)に囲まれた空間に、木造住宅がひしめき合っていた中世のロンドンにおいて、火災は日常茶飯事であったのだろう。カンタベリー大司教の書記だったウィリアム・フィッツスティーヴンは、12世紀後半のロンドンの市民生活をこう語っている。「ロンドンの災いは、愚か者の深酒とひんぱんに起きる火事」。どことなく「火事と喧嘩は江戸の花」という言葉を思い起こすフレーズだ。
小さなパン屋で起こった「ありふれた火事」が、なぜ歴史的な被害を招くことになったのか。当時の貴重な目撃証言などを交えながら、大火前夜から鎮火までの様子を探ってみたい。

市壁に囲まれたロンドン

まずは火災現場となった「シティ・オブ・ロンドン」の成り立ちに注目しよう。この地は現在のグレーター・ロンドン市の中心部からみると東寄りに位置しており、今日のロンドンの起源となった場所でもある。現在は金融街として知られ、単に「シティ(The City)」と呼ばれることが多い。
この地にローマ人が初めて侵入したのは、紀元前43年頃。船でテムズ河をのぼってきた彼らは、その後約1世紀をかけて河の北側と南側を結ぶのに便利な地点を選び、船着き場や橋を建設。先住民ケルト人の言葉で「沼地の砦」を意味する「ロンディニウム」を作り上げる。そして外敵の侵入を防ぐため、同地を中心として河の北岸にほぼ半円形に市壁を建造。さらに、その外側に濠(ほり)をめぐらせ、街道が壁を通過する箇所には7つの門を設けた。「オールドゲート(Aldgate)」「ラドゲート(Ludgate)」など、末尾に「ゲート(gate=門)」がつく地名が、それにあたる。この壁に囲まれた約2・5平方キロメートルほどの地域が「シティ・オブ・ロンドン」だ。
その後ローマ人が去り、ヨーロッパからやってきた民族がブリテン島に定住するなどし、イングランドの基礎が築かれる。やがてシティは「商人が暮らす、商売のための町」として目覚ましい発展を遂げていった。宮殿こそなかったものの強力な自治権を持ち、政治の中心である隣のウエストミンスター市に住む国王ですら、おいそれと手出しができない独立した商業都市として機能するに至る。また、ランドマーク的存在のセント・ポール大聖堂を中心に、市街には百近い教区教会が林立していた。この時代において、「教会の多さ=キリスト教徒の多さ」であり、果てはそのまま人口の多さにも繋がった。一説では当時のシティの人口は46万人とされており、イングランドの人口の約1割がシティに集中していたことになる。

「不潔都市」シティ

現在のプディング・レーン(写真上)。
当時は木造家屋がひしめきあう狭い通りだった。
では、人々の暮らしは一体どうだったのか。
火災発生当時のシティの人口密度が非常に高かったことは、すでに述べた。教会や富裕層の家のみがレンガ造りで、ほかはすべて燃えやすい木造住宅。限られた場所で建て増しを繰り返した結果、通りが非常に狭くなっている箇所も多かったという。頻発する火事の予防のために建築規制を行う試みもあったが、あまり効果はみられなかった。さらに、当時の煮炊きや暖房の燃料は石炭や薪。大火災の起こる条件は十分に揃っていたといえよう。
こういった状況が長年にわたって続く一方、住民の数が飽和状態に達しつつあったシティでは、当然ながら「不潔化」も進んでいた。現在のようなゴミ回収システムなどはなく、人々が投げ捨てるゴミ、商店や工場から出る廃棄物のせいで、かつて清らかな水流だったフリート川は悪臭漂うドブ川になっていた。下水施設も発達しておらず、人々は排泄物を『おまる』のような容器に溜めては通りに直接投げ捨てるという、不衛生きわまりない状態。当時のヨーロッパでハイヒールが普及したのは、ゴミと糞尿であふれた通りを歩く際、服の裾を汚さないためだったという話もあるぐらいだ。また、住宅は密集し、日照条件も悪く空気の通りもよくなかった。ネズミなどの害獣にとっては、まことに暮らしやすい環境であったといっていいだろう。このような劣悪な住環境の中、大火前年のシティは、史上最悪のペスト禍に見舞われる。

ロンドン大火を記憶にとどめる記念塔
モニュメント

現在はオフィス街となっているシティに位置する、地下鉄モニュメント駅。その駅名は、大火とその後の復興を後世に伝えるために造られた「ロンドン大火記念塔(The Monument)」=写真右=にちなんでつけられている。今は近代的なビルが立ち並ぶエリアとなっており、当時の様子を想像することは難しい。塔の高さは約61メートルで、火元となったファリナーのパン屋からこの塔までの距離と同じになるようにデザインされている。
建築家のクリストファー・レンとロバート・フックの設計により、大火から11年後の1677年に完成。311段からなる螺旋階段をのぼると下の写真のような絶景が広がる(右に見えるのはセント・ポール大聖堂)。また、「登頂証明書」も発行してもらえる。大人£4.50。

The Monument
Monument St, London EC3R 8AH
Tel 020 7626 2717
www.themonument.info

「今週の死亡者のお知らせ」

当時の国王チャールズ2世。
ロンドン大火は英語で「The Great Fire」、その前年のペスト大流行は「The Great Plague」と呼ばれる。中世ロンドンの市民は、2つの「ザ・グレイト」を連続して経験することになった訳だ。
ペストとは、ペスト菌に感染したネズミなどにたかるノミを媒介に発症する伝染病で、伝染力、致死率ともに高く、発病者は皮膚内に出血が生じ、その死体が青黒く見えることから「黒死病(Black Death)」として恐れられていた。14世紀にヨーロッパと中東を襲ったペストの大流行は、発生地域の人口のうち、実に3分の1の命を奪ったという。ロンドンでの最初の流行は1348年9月~50年初春までで、当時の人口5万人のうち35~40%が死亡したとされている。
そして17世紀のロンドンでは、3度にわたる大流行がみられる。最初が1603年、次が1625年。同世紀最悪の流行となった1665年には、死者は6万3500人を超えた。路地で死体につまずくことも珍しくなく、1人でもペスト患者が発見された家屋は、40日間にわたり隔離されるため、同家屋内の住人全員に感染して共倒れという痛ましいケースも少なからずあったという。
また、各教会では教区内の死亡者の死因が判定され、それらを集計したものが「死亡告知表」として毎週発行されるようになっていた。人々はこれを買い求め、「今週の死亡者数」をもとに疎開について検討したり、何の商品が売れるかを考えたりするなど、商売の予想を立てるのに利用していたという。恐いもの見たさの心境もあったのかもしれないが、どの教区でどの程度ペストが流行しているか危険ゾーンを把握するのにも一役かったとされ、この「お知らせ」は市民の自衛手段のひとつとして用いられていたのである。

ピープスの見た大火、1日目

焼失地域を示す概略図。
被害が西へと拡大していったことがわかる。
© Museum of London
さて、いよいよ場面は冒頭のファリナーのパン屋に移る。
その年の夏は、10ヵ月近い干ばつ続きで空気も建物も非常に乾燥していた上、出火当夜は強い東風が吹き荒れていた。炎はたちまち隣家へと燃え移り、テムズ河岸に沿って並ぶ倉庫街に飛び火する。ここには火薬にタール、油や石炭類などありとあらゆる可燃物が大量に貯蔵されていたからたまらない。火は文字通り爆発的な勢いを得てシティへの『侵攻』を開始する。
ここで当時の様子を日記に綴っていた海軍省の役人、サミュエル・ピープス(下コラム参照)による貴重な目撃証言を紹介しよう。ピープスの暮らす官舎は、ロンドン塔から北西に向かってすぐのシージング・レーンとクラッチト・フライヤーズ通りが交差するあたり、火元のプディング・レーンからは風上に位置していた。火災現場が自宅から近かったこともあり、ピープスは火災当時のシティを歩き回り、その現状を事細かに日記に記している。これをもとに、火災1日目のピープスの行動を追ってみよう。
まず、出火直後の午前3時頃。日曜日に客人を招くため、早くから仕事をしていた女中が火事に気付き、主人のピープスを起こす。西の方で火事が起こっているのを窓から認めた彼だが、「大したことはあるまい」と思い、再び寝てしまう。

1670年頃に描かれたロンドン大火の様子。
燃え落ちるセント・ポール大聖堂。
翌朝起きて再び窓から眺めた際、火事は下火になったように思えたとしている。これは東風で彼の家とは反対方向に火災が広まっていたため、そう見えたようだ。女中から一晩で300軒の家が焼けたと知らされたピープスは、あわててロンドン塔へ赴き、高い場所から火事の様子を確認。次にテムズ河へ向かうと、火は四方八方に荒れ狂い、人々が家財道具を持ち出して河に投げ込んだり、橋のたもとに浮かぶ小舟に運んだりしているのが見えた。誰一人として消火に努める者はいなかったという。この後、ピープスは国王チャールズ2世のいるホワイトホール宮殿を訪れて現状を伝え、延焼を防ぐために家屋の取り壊しを決定するよう進言。これは消火手段が発達していなかった時代、火事の拡大を防ぐための一般的な方策だった(上記の挿絵)。国王はこれに同意し、彼に名代としてロンドン市長のもとへと向かうよう命じる。
通りは住人たちが運び出した家財道具や荷馬車であふれ、病人をベッドにのせたまま担ぐ人々も見られた。混乱を極める通りをなんとか進みながら、ロンドン市長のブラッドワースに国王命令を伝えるものの、予想外の事態にパニック状態になっていた彼は「誰も私の言うことなんか聞こうとしませんよ」と悲鳴を上げ、リーダーシップを発揮するどころか諦めの境地に入っていた。夜になっても、火勢はますます強くなるばかり。炎が教会や家をのみ込み、ガラガラと崩れていく音が響いていたという。

ピープスとイーヴリン
大火の記録を残した証人たち

大火の様子を知る資料としては様々な公文書が残されているが、一般市民の行動、通りの様子はどのようなものだったのか。2人の日記作家が自らの体験を綴ったのものが、現在も残されている。
1人は本文にも登場した、サミュエル・ピープス(1633~1703年)=右絵。仕立て屋の息子から奨学金を得てケンブリッジ大学に進学、王政復古(1660年)後には海軍省の文官となり、最後は海軍大臣にまで登りつめた。彼の日記は暗号を用いて記され、日々の出来事に加え、賄賂や人の悪口、浮気の詳細など他人に読まれては困るようなことまで綴られており、少々スキャンダラスな内容で知られる。
しかし、実際には暗号はちょっとしたヒントさえあれば解読でき、さらに遺言では母校ケンブリッジ大学に寄贈する蔵書の中に日記も入れていたというから、実は「誰かに読んでもらいたい」というのが本音だったのだろう。ピープスの家は風上にあったとはいえ火災現場に近く、市内視察を行うかたわら、荷物を知人宅に避難させたり、庭に穴を掘ってお気に入りのワインやチーズを埋めたりするなど、なかなか忙しかったようだ。
もう1人の日記作家、ジョン・イーヴリン(1620~1706年)=左下絵=は、火薬の製造で財を成した一家に生まれ、オックスフォード大学で学んだ。清教徒革命の時代は戦乱を避けヨーロッパ各地を遊学し、帰国してからはチャールズ2世のお気に入りの知識人の1人として引き立てられた。彼の日記にはピープスのような大胆な記述はないものの、火事の様子を乾燥した空気の状態と結びつけて考察するなど科学者的、全体的視点が感じられる。
実生活でも知己の間柄で、頻繁に文通する仲だったという2人。どちらの日記も、後世の人々にとって当時の社会事情などを知る貴重な資料となっている。

広がる不安、そしてパニックへ

昔のセント・ポール大聖堂。
中央の尖塔は、1561年の落雷で崩れ落ちた。
ロンドン大火の発生時、この尖塔は再建中だった。
ピープスの日記にもあるように、通りは家から運び出された荷物や逃げ惑う人々、そして野次馬たちで混乱を極めていた。住居に火の手が迫った人々は消火に精を出すよりも、持ち出せるだけの荷物を通りや広場、テムズ河に運び出して財産を守ろうとしたのだ。貸し荷馬車屋、渡し船が繁盛したというのもうなずける。テムズ河は一面、荷物を積み込んだ舟などでぎっしりと覆われた。家財道具を積んだ舟の3つに1つには、かならずヴァージナル(ピアノの前身となる楽器、チェンバロの一種)が積まれており、舟から転げ落ちたとおぼしき上等な品物が水面を漂っていたというから、船を手配することのできたのは富裕層に限られていたのであろう。多くの市民は運び出した荷物の番をしながらの野宿をやむなくされた。猛火に追われ、身ひとつで逃げ出した人々も多かったはずだ。命からがら避難場所にたどり着いた数十万の人々は、目の前で自分たちの町、生活のすべてが丸ごと焼け尽くされていくのをどのような思いで眺めたのだろうか。
市内では引き続き消火活動も続けられていたものの、わずかな水による消火活動では荒れ狂う火の勢いに到底追いつかず、延焼を防ぐため火が進む方向にある家屋を火薬で爆破し、広い防火帯をつくるという手段も取られた。しかし、火薬による爆発音は人々にさらなる不安と不要な憶測を引き起こし、「外国軍が侵略してきたのでは」という噂まで広まり、人々はいよいよパニックに陥る。炎は触れるものすべてをのみ込みながら西へ西へと拡大していった。そして3日目の9月4日、とうとうシティのランドマーク、セント・ポール大聖堂に到達する。

倒壊するセント・ポール大聖堂

建築家クリストファー・レン。
火災前のセント・ポール大聖堂は、現在の姿と異なり高い尖塔を有していた(ただし、1561年にこの尖塔は落雷で崩れ落ち、火災当時は尖塔のない姿となっていた)。今日見られるドーム型の建物は、大火後の都市再建事業の一環として、オックスフォード大の天文学の教授で王室建築副総監の職も兼ねていた建築家、クリストファー・レンの指揮のもとに建てられたものだ。
セント・ポール大聖堂は604年にこの地に建てられたが、相次ぐ落雷や火災の被害を受け、この時点までに数回の再建・拡張を経ていた。修復に必要な予算が不足していたことなどもあって、かなり老朽化が進んでいたという。1633年にようやく修復工事が開始されたものの、1642年に清教徒革命が勃発すると工事は中断。クロムウェルによる共和制時代には、教会に対する敬意そのものが希薄になり、本来の役割をほぼ失ってしまう。巨大な建物は集会場や市場、難民救済所として使われ、盗人や乞食の稼ぎ場所にもなっていた。また騎兵隊の宿泊所としても使用され、彼らが内部を一部焼くなどしたせいで、支えを失った天井が傾きはじめていた。そこに追い打ちをかけるかの如く猛火が襲い、セント・ポール大聖堂はとうとう炎上、倒壊という悲惨な最期を迎えることになったのだった。
多少落ちぶれた姿になっていたとはいえ、10世紀の長きにわたり人々の信仰を象徴してきた不動のランドマークが崩れ落ちるとは、誰が想像し得たであろうか。大火発生前から大聖堂の修復計画に意欲的に携わっていたレンも、思いもよらぬ惨事を目の当たりに「そんなバカな…」と、愕然とつぶやいたに違いない。
轟音を立てて崩れ落ちた瓦礫は通りを覆い、熱せられた石は手榴弾のように飛び、屋根を葺いていた鉛が溶け出して周りの通りに流れ落ちた。あたりは馬も人も通れない有様だった。大聖堂なら安全と逃げ込んだ市民も、骨の一片すら残らないほどに焼き尽くされてしまったとみられている。

本当に出火元は
プディング・レーンだった?

今年2月、歴史家のドリアン・ガーホールド氏が、実際に出火元となったパン屋はプディング・レーンのどの位置に建っていたのかを検証した。モニュメントを中心にして半径61メートルの円を描き、様々な当時の地図と照らし合わせ、正確な出火場所を探索。その結果、パン屋が建っていたのは、現在のモニュメント・ストリートの路上であることが判明した。1671~77年にかけて塔が建造されるにあたり、周辺の区画整理が行われたという。当初はなかったモニュメント・ストリートがつくられ、プディング・レーンも西へ移設されたことにより、記録との誤差が生じたと発表した。

国王先導の消火活動

コック・レーンの角にある少年像。
「大食」はキリスト教における7つの大罪
(the Seven Deadly Sins)のひとつ。
一説では、Pudding Laneで出火、
Pye Cornerで鎮火され、
プディングもパイも「食」であることから
「大食」と結びつけられたという。
火勢は一向に収まらず、市民や消防士による消火活動は遅々として進まない。シティの地主たちからの反対に押されて気弱になり、民家の取り壊し命令を実行することができないでいたロンドン市長のブラッドワースも、ここにきてようやく行動を起こさざるを得なくなる。彼が即決即断型の人物であったならば、この4日間におけるシティの運命は大きく変わっていたかもしれない。彼の優柔不断さとリーダーシップの欠如が、焼失地域拡大の一因であったことは否めないだろう。
後手にまわった市長に代わり、国王チャールズ2世の先導でシティの消火活動が進められていった。まず1日目の時点で、ピープスらの進言をもとに火の進む方向にある民家を取り壊し、延焼を防ぐ対策が講じられる。3日目には国王自ら視察に赴き、なんと水桶を手にして消火活動に参加。消防士たちは王弟ヨーク公の指揮のもと、消火活動にあたったという。あまりに美談のような気がしないでもないが、王政復古からまだ日が浅く、人々の支持が高かった王家が英雄的かつ献身的活躍を見せたというところだろうか。
3日目の夜、ようやく強い風が収まりはじめる。4日目には防火帯が功を奏し、火の手はまだまだあがっていたものの勢いは弱まり、大火災はようやく終焉へと向かう。完全に鎮火したのは9月6日だった。最後に火が消し止められた場所はコック・レーン。現在のセント・ポール駅とチャンスリー・レーン駅の中間に位置し、火元となったプディング・レーンと同じく、コック・レーンの角には少年の姿をした記念碑が建てられ、次のような言葉が添えられている。

「This Boy is in Memmory Put up for the late FIRE of LONDON Occasion'd by the Sin of Gluttony.」
(この少年の像は、人々の大食によって引き起こされた先のロンドン大火を記念し建てられた)

一面の焼け野原と化したシティ。被害はあまりにも甚大であった。しかし、いつまでも呆然とうずくまっている訳にはいかない。人々は灰と化したわが町に戻り、再建への一歩を踏み出す。そして政府もこの大災害を機に、シティを新たな空間に生まれ変わらせる都市計画づくりに着手する。
そんな中、鎮火から1週間も経たない9月10日、チャールズ2世に誰よりも早く再建プランを提出した男がいた。燃えつきた町を復興するという壮大なプロジェクトの成功は、彼の尽力なくして語れない。その男の名は、クリストファー・レン。焼失したセント・ポール大聖堂を現在の姿に再建した人物として、先述した建築家である。
 次号の「ロンドン大火から350年 パート2」では、天才的な建築の才能を発揮して、ロンドン復興に生涯をささげたクリストファー・レンについてお送りする。

※本特集は、2010年9月2日号に掲載したものを再編集してお届けしています。
Special thanks to:Museum of London

ロンドン大火から350年 {Part2} よみがえった都 ― 天才クリストファー・レンの挑戦 ― [Christopher Wren]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2016年10月6日 No.953

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ロンドン大火から350年 {Part2} よみがえった都 ― 天才クリストファー・レンの挑戦 ―

ロンドン大火から350年 {Part2}

よみがえった都 ― 天才クリストファー・レンの挑戦 ―

ロンドン大火で燃えつきた町の復興という壮大な都市計画に携わり、シティのランドマーク「セント・ポール大聖堂」を現在の姿に再建した建築家、クリストファー・レン。建築一筋の人生かと思いきや、天文学者、数学者としても活躍したのち、建築家として天才的な才能を発揮した華麗なキャリアの持ち主だ。今号では英国が誇る偉大な建築家の人生をたどるとともに、ロンドン復興までの道のりを紹介しよう。
【関連記事】ロンドン大火から350年 {Part1} 燃えつきた都 ― 灼熱の4日間 ―

●サバイバー● 取材・執筆・写真/根本 玲子・本誌編集部

英国を代表する大聖堂

ネルソン提督やウェリントン公爵など、英国の偉人が眠っていることでも知られるセント・ポール大聖堂。様々な国家的式典が行われる場所でもあり、チャールズ皇太子と故ダイアナ元妃の結婚式、3年前にはサッチャー元首相の葬儀も営まれている。代々の国王と王妃が埋葬され、戴冠式などの王室行事が開かれるウェストミンスター寺院と並び称される、英国国教会の代表的な司教座聖堂だ。
この優雅で壮大なドームが印象的な大聖堂を完成させたのが、17世紀の建築家クリストファー・レンである。
1666年9月2日未明、プディング・レーンの小さなパン屋から上がった火の手は、東風にあおられて一気にシティを燃やしつくし、4日間で町を灰に変えた。焼け野原と化したシティを再建しようと、政府と市民が一丸となって新たな都市計画づくりに取り組む中、真っ先に再建プランを国王へ提出したのが、レンである。彼がいなければ、現在のロンドンの風景はまったく異なるものになっていたかもしれない。クリストファー・レンとは、一体どのような男だったのか。まずは彼の誕生時までさかのぼってみたい。

9歳でラテン語を書く少年

レンは1632年、イングランド南部ウィルトシャーの聖職者の家庭に生まれた。オックスフォード大出身の聖職者である父クリストファー・レン(同名)には、前年に長男が誕生し、父親と同じくクリストファーと名付けられたが生後まもなく死去。翌年に誕生したレンは、待望の息子であった。父親はウィンザー主席司祭で高学歴のエリート、母親のメアリーはウィルトシャーの大地主の一人娘で父の遺産を相続しており、経済的に恵まれた境遇にあった。しかし、母親は2歳年下の妹エリザベスを出産した後しばらくしてこの世を去り、レンは姉スーザンを母親代わりにして育つ。レンは小柄で病弱だったが絵の才能に恵まれ、とくに聖職者だった父方の従兄弟と仲が良く、兄弟のような関係だった。国王チャールズ1世の息子、つまり皇太子(のちのチャールズ2世)も遊び仲間だったという。
体が丈夫でなかったこともあり、レンは父親と個人教授による教育を受けたのち、9歳でロンドンのウエストミンスター・スクールに進学する。この頃すでに科学の世界に魅せられ、ラテン語で父親に手紙を書くといった神童ぶりを見せていた。
レンの一族は王党派で、王室の恩恵を厚く受けていたことから、1642年に清教徒革命が勃発すると、叔父は議会派によって捕らえられ、ロンドン塔に投獄されてしまう。このためレンの父親は疎開を決心し、家族を引き連れてブリストルへと移る。レンが11歳になった頃、姉のスーザンが音楽理論家で数学者のウィリアム・ホールダーと結婚したことをきっかけに、一家は彼女の嫁ぎ先オックスフォードシャーへと居を移した。レンの義理の兄となったホールダーはレンの数学教授的な役割を果たし、彼の学術的、知的成長に強い影響を及ぼしたとされる。彼に天文学への扉を開いたのもホールダーだった。

非凡な科学者としての活躍

学校卒業後のレンはすぐに大学へは進学せず、数年を科学の広い知識を身につけることに費やした(進学を断念したのは体調が思わしくなかったからという説もある)。解剖学者チャールズ・スカバーグのもとへ赴き助手を務め、解剖学についても学んだ。なかなか優秀な助手ぶりだったのだろう、スカバーグの助手を終えた後は数学者ウィリアム・オートレッドのもとで、彼の研究結果をラテン語に翻訳するという仕事を任されている。こうして、レンがオックスフォード大学ウォダム・カレッジに進学したときには、卒業から3年の月日が経っていた。
オックスフォード大を卒業すると、レンは研究員に選出され、様々な研究に専念しはじめた。この時代のレンは人間の脳のスケッチをしたかと思えば、一頭の犬から別の犬への輸血を行う装置を発明してその実演を行ったり、月観測に没頭して地磁気の研究に勤しんだりといった具合。天文学をはじめとし、数学、解剖学といったジャンルにこだわらず、アイディアとインスピレーションの赴くまま突っ走った青年時代だった。
彼の評判は瞬く間に知れ渡り、1657年、レンは25歳の若さでロンドン大学グレシャム・カレッジに天文学教授として招かれる。また、オックスフォード大時代から物理学や科学について討論を行っていた科学者仲間とも交流を続け、彼らがロンドンでレンの講義に参席することもあった。この討論グループは、のちに現在も続く王立協会(ロイヤル・ソサエティ)に発展していく(下コラム参照)。
こうしてますます学者としての名声を高めたレンは1661年、再び母校オックスフォード大に戻る。今度も30歳に満たぬ歳で、天文学教授の職を射止めたのである。

気鋭の学者たちが集った
「ロイヤル・ソサエティ」

現存するもっとも古い科学学会で、バッキンガム宮殿へと続くザ・マルの近くに拠点を置く「ロイヤル・ソサエティ」=写真=は、正式名称を「The Royal Society of London for the Improvement of Natural Knowledge(自然についての知識を深めるためのロンドン王立協会)」という。これはレンをはじめ、物理学者のロバート・フックや数学者のジョン・ウォリスなど、自然哲学および実験哲学に興味を持つオックスフォード大の学者たちがお互いの家や大学を行き来し、それぞれの専門知識やアイディアを交換しては議論をたたかわせ、切磋琢磨していた集まりが原形となっている。
約12名の科学者たちで構成され、「インビジブル・カレッジ(見えない大学)」と呼ばれていたこの討論会は 1660年に週1回の公式ミーティングを開始。1662年にはチャールズ2世の特許状によって王立組織に、現在では会員1400名を擁する一大組織に発展した。そうそうたる顔ぶれの創立メンバーの中でも、レンの業績と人脈が、組織の成立に大きく貢献したのは間違いないだろう。創立メンバーの一員であっただけでなく、1680~82年までは3代目会長も務めた。
ちなみに、ロンドン大学のグレシャム・カレッジ時代、望遠鏡の仕組みを学び改良を行っていたレンは、土星の輪についての理論を固めつつあったが、オランダの天文学者クリスティアーン・ホイエンスに実証論文で先を越されるという悔しい思いをした。また、1982年に米アリゾナ州のローウェル天文台で、天文学者エドワード・ボーエルが発見した小惑星「レン(3062 Wren)」、そして水星にある直径221kmのクレーター「レン(Wren)」は、彼の功績をたたえて命名されている。

「建築家」レンの誕生

科学、数学、天文学の分野で学者としての地位を得たレンの興味が建築へと向かい始めたのは、いつごろだったのだろうか。
レンの生きた時代には、現在我々がイメージするような「建築家」という確固とした専門職はまだ存在していなかった。当時、建築は数学の応用としてとらえられ、高等教育を受けた人間が建築に手を出すというのはそれほど「畑違い」なことではなかったのである。レンも数学や幾何学を応用し、広場の設計や都市計画のあり方について独自の研究をすすめていた。しかし、机上の理論を実践に移すチャンスがなければ、実際の建築家としての能力を試すことはできない。そして、このチャンスは意外に早くやってきた。
1661年、当時ポルトガルからイングランドに割譲されたばかりの北アフリカの港、タンジールの防衛強化工事について依頼を受けたのだ。しかしレンは、オックスフォード大の天文学教授の職を得たばかり。健康上の懸念もあり、この依頼を断っている。
だが2年後、レンが建築へと傾倒していく重要な転換期が訪れる。1663年、当時バロック建築の最先端を行っていたローマに渡ったレンは、彫刻家で建築家でもあるイタリア・バロック様式の巨匠ジャン・ロレンツォ・ベルニーニと会い、古代ローマ時代に建てられたマルケッルス劇場の調査を行う機会を得たのだ。
そして同年、イーリー司教だった叔父より、ケンブリッジ大学ペンブルック・カレッジのチャペル設計の依頼を受ける。これが、レンの建築家としての第1号の仕事となった。
続いて彼は、オックスフォードにあるシェルドニアン劇場の設計にも着手。この建物は前述のマルケッルス劇場の影響を大きく受けたデザインとなった。また1665年には、パリに長期滞在してバロック建築について研究を深めながら、フランドルやオランダにも足を運ぶ。実は、これには単なる学問以上の目的があった。当時レンのもとには、一大プロジェクトが舞い込んでいたからである。

大災害とともに訪れたチャンス

1666年に起きたロンドン大火の様子。
中央で勢いよく燃えているのがセント・ポール大聖堂。
© Museum of London
1660年に王政が復古すると、国王チャールズ2世は老朽化の進んでいたロンドンの「シティ」のランドマーク、セント・ポール大聖堂を蘇らせるため、本格的な修復計画に乗り出した。7世紀初めに建てられたセント・ポール大聖堂は、幾度もの落雷や火災の被害を受け、再建・拡張が数回行われていたものの、予算不足で老朽化がすすむばかりであったのだ。1662年には建物の状態を調査するため勅定委員会が設立され、レンは修復計画の準備を行うよう要請を受ける。彼はこのために、パリで建築の研究に取り組んでいたのである。
そして、ロンドンにとって運命の日が訪れる。
レンの設計プランは1666年8月末に認可されたが、作業に取りかかる間もなく、9月2日未明にロンドン大火が発生。4日間に渡る猛火でシティの3分の2が焼け野原と化し、大聖堂は修復どころか取り壊しを余儀なくされるほどの壊滅的ダメージを受けてしまう。鎮火後まもなくチャールズ2世とロンドン市長により、識者、権力者6人からなる再建委員会が結成される。レンはもちろんその一員となった。
大火という災害によって、レンの仕事は単なる「建物の修復」から「都市再建」という巨大なプロジェクトに膨れ上がる。予期せぬ形ではあったが、これまでは思い描くだけだった都市計画を実現させる絶好のチャンスが到来したのである。火災発生後10日と経たないうちに、レンはチャールズ2世に壮大な再建プランを提出する。これはイタリアの都市をモデルに、主要となるモニュメントやピアザと呼ばれる広場から、街路が放射状に伸びる、バロック様式の「光」の構造を取り入れたものだった。
しかし生憎なことに、この巨大プロジェクトは国王と枢密院によって承認されたものの、生活を優先して再建を急ぎたいシティ住民の反対を招いた。地主と所有権をめぐって紛争が起こるなどしたため、結局採用されずに終わってしまう。もし、レンの構想が実現されていたとしたら、今日のロンドンはパリやローマのような華やかで「大陸的」な顔をもっていたかもしれない。

夢の大型ドームを実現

レンが提出したセント・ポール大聖堂の設計案。左から第一案と第二案、最終的に採用が決定された第三案。
夢のシティ復興プランは諦めざるを得なかったが、レンは災害の再発を防ぐ都市づくりのため、法整備に着手する。まず、火事調停裁判所を設けて家主と借家人の利害調停を行うようにし、建築規制などを盛り込んだ「再建法」をスピード成立させた。
これには、シティに持ち込まれる石炭に課税し公共施設の再建に充てる/新築される建物はすべてレンガもしくは石造りにし建築認可を義務付ける/防火のため主要な通りの幅に規制を設ける/建物の階数を規制する、といった内容が盛り込まれていた。テムズ河沿いに集中していた煙害や悪臭をもたらす工場群を、市壁の外に移転させることにしたのも彼だった。これらは現代にも通用する立派な再建策であり、ここでもレンは学問のジャンルを超えた「天才」ぶりを発揮している。
レンの采配によりシティは急速な復興を遂げ、今日に続く大都市ロンドンの中核が形作られていった。火事が日常茶飯事だったという町は「防災都市」として生まれ変わり、その後大火災が発生することはなく、人々に恐れられた疫病のペストすら町から姿を消していった。
しかしその一方で、彼が大火前から携わっていたセント・ポール大聖堂自体の再建は思ったように運ばず、ろくな準備もはじめられないまま5年近い歳月が経過していた。これは、国王をはじめ聖堂参事会や聖職者たちからの要望や期待が大きく、設計案が決定するまでに二転三転したことによる。レンは聖堂内に広がりのある空間を作るためには大きなドームは必須と考えていたが、長い尖塔やラテン十字型といった伝統にとらわれる聖堂参事会や聖職者からは悉く反対に合う。時間と労力が必要以上にかかり、レンの苛立ちは頂点に達していた。
結局、第一案、第二案を却下されたレンは、3度目の設計案として、すべての意見を取り入れた誰もが納得するデザイン図を提出して着工許可を得た。そして建設が進むにつれ、囲いを立てて現場を見られないようにし、そのままの設計図を提出していたら賛同が得られなかったであろう理想の大型ドームを勝手に完成させてしまうという「荒技」に出たのである。
現在でも世界有数の規模を誇る、高さ111・3メートルのドームは、レンの思い描いていた「光の都市」の中核となる建物であった。巨大プロジェクトを目の前に何度も挫折を味わった中で、「これだけは何としても作り上げたい!」という思いがどれだけ強かったかがわかるだろう。セント・ポール大聖堂には、ほかのレンの建築物には見られない建築家としての意地と誇りが秘められているのである。

レンとの意外な交流!?
ニュートン「世紀の理論」の誕生裏話

万有引力の法則を発見した天才科学者アイザック・ニュートン=右絵(1643~1727)。他人をおおっぴらに賞賛することはほとんどなかったという彼だが、万有引力の法則と運動方程式について述べた著作『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』の中で、レンを「もっとも優れた数学者の1人」と記している。
ちなみに、ニュートンがこの大著を仕上げたきっかけは、意外なことにレンも関係している。
1684年1月のある日、当時学者や作家たちの社交場のような機能を果たしていたコーヒー・ハウスのひとつに、建築家として働き盛りのクリストファー・レン、そして彼の助手を務めたこともある物理学者のロバート・フック、ハレー彗星で知られるエドモンド・ハレーらが集い、惑星の軌道に保つ力の向きと強さについて討論していた。
このとき、最初に「これは太陽に引っ張られる力で、強さは太陽からの距離の2乗に反比例(逆2乗の法則)すると思う。しかしその証明ができなかった」と発言したのがレン。
これに対してフックは「逆2乗の法則からすべての天体の運動の法則が証明される」と自信満々の発言をしたものの、実際にはその証明を提示しなかった。
フックが本当に証明できるのか疑問に思ったハレーは、その後ケンブリッジ大に赴き、ニュートンに同様の質問をぶつけてみたところ、はるか昔に万有引力の法則(=逆2乗の法則)に気付いていた彼は「惑星の軌道の形は楕円だ」と即答した。事の重要性に驚いたフックは、ニュートンにまとまった書物を記すよう説得。ニュートンはハレーの様々な質問に対し、計算や証明を続けながら、大著『プリンキピア』の構想を練っていったという。
しかし同著が発表されると、ニュートンをライバル視していたフックは「この内容は自分が以前ニュートンに文通で知らせたものだ」と怒り出し、大論争に発展。俗世離れしているように思える学問の世界も、実社会に劣らず人間臭さに満ち満ちているという見本のような話である。
レンはこのエピソードの中では脇役といった感じだが、建築家として第一線を行く彼が天文学への興味を失わないばかりか、世紀の科学者ニュートンに劣らない次元の研究に携わっていたことがうかがえて興味深い。

愛する者を次々に失う

息子クリストファーの言葉が刻まれた、
レンの墓碑(写真奥)。
大聖堂の地下納骨堂にある。
ロンドン再建委員会での仕事を機に、1669年、王室建築総監に任命された37歳のレンは、建築家としての名声を得たおかげもあったのだろうか、長年オックスフォードシャーで交友を深めていたコッグヒル卿の娘フェイスと結婚する。
子供時代からの知り合いで、レンの4歳年下だったというフェイスがどのような人物であったのかについては、残念ながらほとんど記録が残されていないが、夫婦仲は円満だったようで、プレゼントの腕時計とともに妻宛に送ったレンの熱烈なラブレターが残されている。
だが、2人の結婚生活はたった6年で終焉を向かえる。2人の間には長男ギルバートが誕生するが、病弱のため1歳半にならないうちに夭折。次に誕生した息子は父親の名を引き継ぎクリストファーと名付けられたものの、出産後にフェイスが天然痘にかかり他界してしまうのである。子を亡くし妻を亡くすという、父親の若き日をなぞるような悲運の連続に、レンはさぞかし落胆したことだろう。
それでも、愛妻の死から約1年半後という比較的早い時期に、レンはフィッツウィリアム卿の娘ジェーンと再婚する。妻を亡くした孤独感には、さすがの天才も耐えがたかったと見える。加えて、1人息子のクリストファーに母親を与えてやりたいという気持ちも強かったのかもしれない。
しかしながら、この結婚生活はさらに短命に終わった。2年後、ジェーンも2人の子どもを産んだ後、結核でこの世を去るのである。彼はその後、独身を貫いている。

天才的建築家として活躍

レンが最後までこだわった大聖堂内の大型ドーム。
ドーム内にモザイクを施す案は叶わず、
代わりに天井画が描かれた。
私生活では不幸続きであったレンだが、この時期から晩年までの建築家としての活躍には目覚ましいものがある。まるで悲しみを追い払うために、必死に仕事に打ち込んでいたかのようにも思える。
セント・ポール大聖堂の建設が進められる間にも、大火で焼け落ちた50を超える教区教会の再建に取りかかり、ロンドン大火とその後の復興を記念した塔「モニュメント」のほか、「ハンプトン・コート宮殿」、「ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ図書館」、そして若き日の天文学者としての素養と建築家としての才能の結晶ともいえる「グリニッジ天文台」など、数えきれないほどの建物の設計を手がけた(下コラムで一部紹介)。英国を代表する建築家として、ついにその地位を不動のものとしたのだ。イタリアやフランスでの研究をもとに、劇的な建築空間を演出する「バロック建築」を英国に最初に取り入れたのも彼である。
もともと数学や天文学、幾何学を専門とする科学者であったレンは、数字や平面を立体的に捉え思考することに人一倍長けていた。また彼のバロック的空間構成には、数学的思考をベースにした彼自身の美的解釈が反映され、これまでにない独創性や大胆な試みが用いられた。彼の建築における天才的センスは、科学者としての素質に裏打ちされたものだったのである。

ロンドン詣でが趣味の晩年

1710年、レンの最高傑作となるセント・ポール大聖堂が完成する。着工許可から約35年、彼は76歳になっていた。父親の名を引き継いだ長男クリストファーも建築家となるべく教育を受け、成長してからは父とともに大聖堂の建設に関わっており、完成時には彼が最後の石材を頂に置いたという。数々の難題を乗り越え、理想の聖堂を作り上げたレンの感慨、誇らしさはひとしおだったであろう。
1718年、血気盛んな建築家ウィリアム・ベンソンに、高齢を理由に王室建築総監の座を明け渡すよう迫られ引退することになるが、引退後もハンプトン・コート地区にある自宅から定期的に大聖堂を訪れては、その美しい姿を眺めるのを晩年の楽しみのひとつにしていたという。
1723年2月、91歳になっていたレンはいつも通りロンドン詣でに出かけた帰りにひどい風邪を引き、数日間床についたまま自宅で息を引き取る。使用人が彼を起こそうとしたところ、すでに冷たくなったいたのを発見したとされている。3月5日、レンの棺はのちに多くの偉人たちが葬られることになるセント・ポール大聖堂の地下納骨堂に納められることになった。彼の最高傑作は、また彼の墓標ともなったのである。
若き日には科学の発展に貢献し、その後の生涯を建築を通してロンドン復興に捧げたクリストファー・レン。彼の墓碑には、息子クリストファーによる「我がためではなく、人々の幸福の為に生きた。レンの記念碑を探している者は周りを見よ」という言葉がラテン語で刻まれている。父親に育てられ、その仕事ぶりを間近で眺めてきた息子の心からの賞賛の言葉であったろう。

あそこもここも!
レンの遺した作品を一部紹介

ハンプトン・コート宮殿の東面
Hampton Court Palace(ロンドン郊外)

1689~94年にかけて、ウィリアム3世とメアリー2世の時代に建て替えられた東面。噴水のある中庭「ファウンテン・コート」もレンによるデザイン。

オックスフォード大学クライスト・チャーチのトム・タワー
Tom Tower(オックスフォード)

1982年完成。中央の塔(トム・タワー)にある大鐘は、当時の門限だった21時5分に101回鳴る。101という数は、カレッジ創設時の学生数といわれている。© gianfrancodebei

グリニッジ天文台
Royal Greenwich Observatory(ロンドン)

1675年にチャールズ2世によって設立された王立天文台。世界時間の基準となる「グリニッジ標準時」が走る。© Royal Greenwich Observatory

ケンブリッジ大学 トリニティ・カレッジの図書館
The Wren Library(ケンブリッジ)

1684年完成。英国に5館存在する納本図書館(流通された全出版物の義務的な納本を受ける権利を有する図書館)のひとつ。 © Andrew Dunn

セント・ジェームズ教会
St James's Church, Piccadilly(ロンドン)

1684年完成。レンが愛した教会。1940年に第二次世界大戦で激しい爆撃を受け、その後修復された。

ロンドン大火記念塔
The Monument(ロンドン)

レンとロバート・フックが設計した、ロンドン大火の記念塔。1677年に完成、展望台がある。高さは約61メール。

旧王立海軍学校
Old Royal Naval College(ロンドン)

1694年に負傷した船乗りたちを収容する「グリニッジ・ホスピタル」として建造されたが、1869年に海軍学校に変わった。現在はグリニッジ大学の一部になっている。 © Bill Bertram

※本特集は、2010年9月30日号に掲載したものを再編集してお届けしています。

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