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クリスマスの陰の主役!ピクルス大研究 [Pickles]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2016年12月1日 No.961

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クリスマスの陰の主役!ピクルス大研究

クリスマスの陰の主役!

ピクルス大研究

伝統的な保存食というだけでなく、作る工程も楽しむクラフト・ブームに乗って、いま熱い視線を浴びている「ピクルス」。普段は料理の名脇役として彩りを添えるが、クリスマスになると、七面鳥や鶏のローストの添え物として輝きを増す。今号では、このピクルスを主役に据えてご紹介することにしよう。

●サバイバー●取材・執筆・写真/ネイサン 弘子・本誌編集部

古くは紀元前の昔から世界各地で食べられてきたピクルス。日本の漬物、韓国のキムチ、ドイツのザワークラウト(キャベツの塩漬け)、インドのアチャール(マスタード・オイルと酢の漬物)……。調べはじめたらきりがないが、ここ英国で食べられるようになったのは16世紀以降。英国人がヨーロッパやインドなどからピクルスを自国に持ち帰り、酢、砂糖などで独自に作るようになったことが始まりとされている。

その後、19世紀後半にピクルスを専門に製造するブランドが立て続けに創業し、市販品が瞬く間に広まっていった。しかし、なぜ19世紀後半に誕生したブランドが多いのか? その答えは2つの画期的な発明にある。1つめはスコットランドの化学者、ジェームズ・ヤングが、1850年に発明した「パラフィン蝋」。これを染み込ませた機密性の高い「パラフィン紙」で瓶を密封することで、従来よりも食べ物の長期保存が可能になった。2つめは1858年、米国の職人、ジョン・L・メイソンが発明した金属製のネジ蓋付きの「Mason jar(メイソン・ジャー)」だ。パラフィン紙で蓋をするよりも扱い易く、密閉度が高くこぼれないこの容器の開発によって、保存食の販売や流通が格段に容易になったのだ。

さて、現代のピクルス事情を探るため、スーパー・マーケットへと足を運んでみた。「ピクルス=ハンバーガーに挟まったペラペラのキュウリの酢漬け」、程度の認識しか持ち合わせていなかったが、改めて注目してみると、スーパーの大きな陳列棚一面に並ぶ種類の豊富さに目を見張った。定番のガーキンから、ゆで卵やクルミにいたるまで! 酢漬けに限らず、オリジナルのソースに漬けられたものもあるなど、多種多様の商品が専門ブランド各社から、またスーパーの自社ブランドとして発売されている。これらを活用すれば、クリスマス・ディナーをより美味しく、食卓をさらににぎやかに演出することができそうな予感。これを機に、ピクルスの世界を覗いてみよう!

英国のピクルスを食べてみよう!

英国のピクルスを食べてみよう!

編集部が選んだいくつかの代表的なピクルスと、ユニークな商品を中心に、それぞれのピクルスの特徴や味わい方、活用法などをご紹介しよう。

Pickle Bites

「ピクルス」ってどういう意味?

「Pickle」の語源はオランダ語の「Pekel(食塩水、漬け汁)」で、「ピクルス、漬け物」という意味の他に、「窮地、苦境に立つ、困っている」という意味も併せ持つ。元はオランダ語で「漬け汁の中に座っている」という苦境を表す言い回しが由来とされている。

Branston Original Pickle

ブランストン・オリジナル・ピクル

Branston Original Pickle
360g/1.30ポンド程度
※主要スーパーにて購入可。
520g、720gなど大容量もあり。
「英国のサンドイッチの歴史に革命を起こした!」とまで言われるピクルスが、1922年創業の「Branston(ブランストン)」の代表的商品「Branston Original Pickle」だ。角切りにしたニンジン、カブ、玉ネギ、カリフラワーを、砂糖、モルト・ビネガー、デーツ、トマト、リンゴなどで作った濃厚なソースに漬け込む。酢だけでなく、デーツやリンゴの深い甘みも感じられるソースに絡まるコロコロの野菜は、マチュア・チェダー・チーズとの相性が抜群! 手軽に作れるこのピクルスとチーズのサンドイッチが紹介されると、爆発的な人気となり、瞬く間に英国の国民食として広まった。
そんな英国人の食卓に欠かせないブランストン。実は2013年に日本を代表する酢のスペシャリスト「ミツカン」が、ブランドと生産工場を引き継いだ。ブランストン・ファンの読者なら、瓶のラベルに印刷された「mizkan」のロゴマークにすでにお気づきのことだろう。母体が代わったあとももちろん、秘伝のレシピで作られた味は変わることなく、英国で愛され続けている。
Pickle Bites

ブランストン・オリジナル・ピクルとチェダー・チーズのサンドイッチ

同社のウェブサイトで紹介されているレシピ通り、ソフトなWhite Farmhouse Breadに、マチュア・チェダー・チーズ、Branston Original Pickleを挟んだサンドイッチを作って試食。濃厚でホロホロとした熟成チーズとピクルスの酸味、程よい歯応えが、フワフワのホワイト・ブレッドに包まれ、絶妙なコンビネーションを見せる!

Beetroot

ビートルート

Baxters Baby Beetroot
340g /1ポンド程度
※主要スーパーにて購入可。
567g、710gの大きいサイズのほか、
通常のモルト・ビネガー、
甘めのモルト・ビネガーに漬かったもの、
スライスしたタイプなどの選択肢がある。
英国人に「ピクルスと言えば?」と聞くと、必ず名前が挙がるブランドのひとつ、1868年創業の「Baxters(バクスターズ)」の「Baxters Baby Beetroot」は小ぶりでかわいい丸ごとビートルートのピクルス。オススメの食べ方として同社のウェブサイトでは、サラダに加えるだけでなく、ジャガイモ、ニンジン、玉ネギと一緒にオーブンでローストしたり、そのままチーズフォンデュの具にしたりするなどして、温かく食べるレシピも紹介している。これからの季節に是非試してみてはいかがだろうか。また、ごく薄くスライスしてグリーンサラダの下に敷けば、シンプルなサラダがぐんとグレードアップ!

Walnuts

クルミ

Opies Pickled Walnuts
390g /2.50ポンド程度
※テスコ、ウェイトローズ他にて購入可。
モルト・ビネガーにポートワインを
加えたタイプもある。
今回紹介するピクルスの中で一番の変わり種といえるのがクルミ。クルミは硬い殻に包まれた印象があるが、「Opies(オーピーズ)」の「Pickled Walnuts」のパッケージに写っているのは、まだ青いクルミの実。この実が熟して木から落ち、殻の外の果実部分が取れると、普段私たちが目にするクルミの姿になる。木から落ちる前のまだ青いクルミを丸ごとモルト・ビネガーに漬けると、後に硬くなる殻の部分までも柔らかいピクルスが出来上がる。果物のプルーン程度の大きさで、柔らかい実に浸みきった酢の酸味が非常に強い。同社では、スライスしてチーズと合わせたり、チキンのほか、クセの強い鹿をはじめとするジビエ料理と合わせたりする食べ方を推奨している。好き嫌いが分かれそうだが、日本への変わり種のお土産にもなりそうだ。

Gherkin/Cucumber

キュウリ

Mrs Elswood
Sweet Cucumber
Sandwich Slices

540g /1.50ポンド程度
※主要スーパーにて購入可。
縦スライスのほか、
輪切りにした商品も販売されている。
英国人の冷蔵庫に必ず入っていると言われるほど定番のキュウリのピクルス。使用されるのはピクルス用の小キュウリ「ガーキン」。「Mrs Elswood(ミセス・エルスウッド)」はキュウリのピクルスの定番ブランド。完璧に家事をこなす昔ながらの典型的なユダヤ人の母親、ミセス・エルスウッドをモデルとした素朴なパッケージが、『手作り感』を感じさせ、つい手に取りたくなる。味わいはまろやかで甘め。そのままおつまみに、タルタルソースの材料に、ハムや前日のローストチキンなどのコールドミートとのサンドイッチにと大活躍! もちろんバーガーに合わせるのも一般的。

Opies Cocktail Gherkins
227g /1ポンド弱
※主要スーパーにて購入可。
1880年創業の「Opies(オーピーズ)」の「Cocktail Gherkins」は、さらに小さな未成熟のガーキンのおつまみピクルス。5センチ程度の小さなガーキンは身がしまって歯応え抜群。ピリッと酸味が強いので、小さめサイズがピッタリ。

Piccalilli

ピカリリ

The Bay Tree Proper Piccalilli
300g /3.30ポンド程度
※ウェイトローズにて購入可。
あまり聞きなれないピカリリは、アジアとの交易によって英国にもたらされた香辛料を使い、18世紀に英国で生まれたもの。「ピカリリ」の名前の由来は、ピクルスをもじって付けられたと考えられており、「インディアン・ピクルス」とも呼ばれる。英国人には『インドらしい食品』と感じられているようだが、インド系英国人に聞いてみると『非常に英国らしい食品』に感じるとのことだった。日本人の感覚でいうところの「カリフォルニア・ロール」のようなものだろうか。
酢、マスタード、ターメリック、ショウガなどの香辛料で作った漬け汁に、カリフラワー、玉ネギ、キュウリなどの野菜を漬け込んだ色濃い黄色のピカリリは、ベイクト・ポテトなどジャガイモと一緒に食べるのが好まれている。また、コールドミートのサンドイッチやホットドッグにも合う。
1994年創業とピクルス関連のブランドとしては比較的新しい「The Bay Tree(ザ・ベイ・ツリー)」の「Proper Piccalilli」は、伝統的な製法で作られていながら、現代的で洗練されたパッケージ・デザインに目がとまる1品だ。ジューシーでパリパリのソーセージを挟んだホットドッグに乗せて食べたい。

Red
Cabbage

紫キャベツ

Haywards Medium and Tangy Red Cabbage
400g/1.90ポンド程度
※主要スーパーにて購入可。
英国人にとって馴染みのある紫キャベツ。ゆでて肉料理の付け合わせに、生でサラダにするほか、ピクルスも代表的な食べ方だ。鮮やかな色の秘密は、紫キャベツに含まれるアントシアニン。この色素が酢の酸によって変化し、濃いピンク色のピクルスに変身する。今回紹介したピクルスの中でも最も簡単に手作りできるもののひとつ。青紫色にゆで上がったキャベツの色が一瞬で濃いピンク色に変わる調理の過程は、まるで科学の実験のようで楽しい。
「Haywards(ヘイワーズ)」の「Medium and Tangy Red Cabbage」は、少し厚めにカットされたキャベツの歯応えと、まろやかな酸味でそのままでもボリボリと食べられてしまう。ちなみに英国のピクルス市場で大きなシェアを持つ1868年創業のヘイワーズ社も、前述のブランストン社に同じく「ミツカン」が取得。2015年に新しいパッケージとレシピで、さらに食べやすくなって再出発した。
Pickle Bites

簡単! 紫キャベツのピクルスの作り方

【材料(3~4人分)】
紫キャベツ…1/8コ(千切り)/米酢、蒸留酢、白ワイン・ビネガーなど…100cc/水…50cc/砂糖…大さじ2(お好みで調節)/塩…ひとつまみ/ベイリーフ…1枚/粒黒コショウ…5粒
【作り方】
①小鍋に紫キャベツ以外の材料を入れて中火にかける。沸騰したら火から下ろして冷ます。②別鍋に湯を沸かし、紫キャベツを約1分サッとゆで、ザルにあげてよく水気を切る。③キレイに洗った瓶に①と②を入れ(青紫色が一気にピンク色に変わる!)、冷蔵庫で1時間以上冷やせば完成。

ピンクのゆで卵

ピクルスを食べた残りの漬け汁に、固ゆでにした卵を2時間漬ければ、こんなにかわいい色に変身!浅漬けなら漬け汁の味がほんのりと移る程度で食べやすい。ホーム・パーティーの1品にいかが?

Egg

Pandora Pickled Eggs
510g/2ポンド程度
※テスコ他で購入可。
スーパーの陳列棚で見たときのインパクトが大きいのがこの商品。日本人にはあまり馴染みのない、ゆで卵のピクルスは、たんぱく質を多く含み、ヨーロッパの寒い冬を乗り切るために伝統的に食べられてきた保存食だ。
「Pandora(パンドーラ)」の「Pickled Eggs」は、小ぶりのゆで卵が透明なスピリット・ビネガー(蒸留酢)に浮かぶ。黄身の色は変色していないだろうか?と思いながら半分に割ってみると、ごく普通の黄身の色。固ゆでの身はキュッとしまって小さめ。味は「酸っぱいゆで卵!」としか言いようがない!単独で食べるのは一口で断念。ごく稀にパブで供されるほか、フィッシュ&チップス・ショップに置かれていることもあり、フライの付け合わせとしても食べられている。

Onion

タマネギ

【左】Garner's Original Pickled Onions
454g/2.80ポンド程度
※主要スーパーにて購入可。
甘さを加えた食べやすいタイプもある。
【右】Haywards Sweet and Mild Silverskin Onions
400g/1.90ポンド程度
※主要スーパーで購入可。
甘めの味からスパイシーなものまで、種類が豊富。
一見ラッキョウの漬物のような小玉ネギのピクルス。「Ploughman’s Lunch(農夫の昼食)」と呼ばれる、英国の農夫に食されてきた簡素な昼食で、パン、チーズと供に食べるのが伝統的な食べ方だ。
「Garner's(ガーナーズ)」の「Garner's Original Pickled Onions」は、伝統的な製法で作られた強い酸味が特徴。一方、「Haywards(ヘイワーズ)」の「Sweet and Mild Silverskin Onions」は、小玉ネギよりもさらに小さく真っ白な品種の「Silverskin(シルバースキン)」を甘酢に漬けたピクルス。ラッキョウにも似た味わいで食べやすく、日本のカレーの付け合わせにもピッタリ。

~伝統と革新の神秘ワールド~英国式占星術星座別「2017年の運勢」付き! [Astrology]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2017年1月5日 No.965

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~伝統と革新の神秘ワールド~英国式占星術星座別「2017年の運勢」付き!

~伝統と革新の神秘ワールド~

英国式占星術 星座別「2017年の運勢」付き!

精神分析学や心理療法、さらには人工知能の技術とも関わりながら学問として独自の発展を続ける英国式占星術。
その歴史を紐解くかたわら、2017年の展望を星座ごとにお送りする。

●サバイバー●取材・執筆/ホーリー・グレイル、本誌編集部

セント・ジョンズ・ウッド生まれの魔法学校

人は未来を予想したり夢見たりすることはできても、実際に知り得ることはない。知ることのできないものを知りたいと思うのが人情というもの。とはいえ、どれほど科学やテクノロジーが進んでも、未来を予知することはできないようになっている。聖書の世界では、人類は思い上がってしまったがゆえに異なる言語を話し始めるようになったとされているが(後述)、未来予知の能力を授からなかったのも、なんらかの意味があるのだろう。
しかし、「知りたい」という気持ちを抑えることができないのも事実。知ることはできくなくても、より具体的に予想しようと様々な試みがなされてきた。星の動きから、未来を推し測ろうとする占星術もそのひとつだ。中でも英国式占星術の発達ぶりは特筆に値する。
今や欧米諸国、日本でもてはやされているほか、新興国でも高水準の評価と人気を得ている、その英国式占星術だが、実は『ハリー・ポッター』に登場する魔法魔術学校のような研究組織の活動によって支えられていることはあまり知られていない。その端緒は神智学運動との関わりが深かったアラン・レオとチャールズ・カーターというふたりの英国人によって開かれた。
神智学運動というのは、ロシアの霊媒師ヘレナ・ブラヴァツキー夫人を中心に設立された秘教的カルト団体である神智学協会によって啓発された、宗教、芸術、文学、哲学など多岐に渡るムーブメントのこと。19世紀末から20世紀初頭にかけて、アメリカ、ヨーロッパ、さらにインドで多くの支持を得た。
当時ロンドンのセント・ジョンズ・ウッドに本部を置いていた神智学協会に出入りしていたのがレオである。レオは、1915年、協会内部に占星術専門の支部「Astrological Lodge of the Theosophical Society」を組織する。そのわずか2年後の1917年、レオは他界してしまうのだが、親しみを込めてロッジと呼ばれるこの組織は、後に英国の主要な占星術研究教育機関を生み出す母胎となる。
占星術に試験制度を導入し専門学校化しようとしていたレオの夢を叶えたのが、その後継者であるカーターだった。このカーター、本職は法廷弁護士という異色の存在。1948年、カーターは占星術の専門教育機関である「Faculty of Astrological Studies」を設立し、試験制度を施行する。
カーターの占星術は出来事に焦点を当てる従来の運勢判断とは異なり、心理学的な解釈を加える、当時にしては斬新なスタイルであった。
ここからは多くの優秀な占星術師が誕生し、1970年代以降の英国式占星術は、精神分析学や心理療法の研究所、ルネサンス学で有名なウォーバーグ研究所、スイスの人工知能の技術とも関わりながら学際的な独自の発展を遂げていく。
今日の英国占星術の国際社会における位置づけの高さをレオが見たなら、おそらく満面の笑みを浮かべることだろう。

アーサー王伝説に秘められた謎も占星術がらみ!?

ウィリアム・リリー誕生時の出生天球図(ホロスコープ)。
リリーの監修による手書き
(オックスフォード大アシュモリアン博物館蔵)。
英国史には、占星術との関わりを抜きにしては考えられない側面がある。ここで、中世から近代にかけての英国式占星術の歴史を簡略に紹介しよう。
ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハのアーサー王伝説『パーシヴァル』では占星術の知識が隠喩として語られている。エッシェンバッハは中世ドイツの詩人で、12世紀終盤に活動した人物だ。
古のギリシャやローマの占星術は中世の暗黒時代に教会権力によって一旦は封印されたものの、12世紀にイスラムやインド、またケルト民族のドルイド教を経て英国に伝えられた。アーサー王伝説はこうした時代背景を反映している。
そもそも占星術の起源は紀元前20世紀から16世紀のバビロニア(現イラク)にまで遡る。聖書に記されているバベルの塔()は、実はバビロニア人の天体観測所だったという。バビロニア人は「天体の現象は地上の出来事と関係する」という「科学的仮説」に基づき、観察という「科学的方法」によって未来予測が可能だと信じていた。バビロニアの占星術は、紀元前6世紀にはバビロン捕囚を機にユダヤとペルシャに伝わり、さらにペルシャからエジプトとインドへ流れていく。
バビロニアで基礎を築いた占星術は、やがてギリシャ、ローマへと伝播。紀元後2~3世紀のエジプトの都市アレキサンドリアで完成する。ドロテウス、プトレマイオスらが体系化して現在の出生天球図(ホロスコープ)の骨格が仕上がった。古代ローマ帝国滅亡後は、12世紀にアラビア語やペルシャ語の文献がヨーロッパに伝わるまで、イスラム圏で発展を続けるのである。
※バベルの塔…旧約聖書の「創世記」11章に登場。人類は天に届くような塔を造ろうとし、神の怒りをかう。人々は突然異なる言葉を話し始め、意思疎通ができなくなって塔の建築は失敗したとされている。

星が決めていた国家の政策

エリザベス1世の寵愛を受けたジョン・ディー
(John Dee 1527年7月13日~1608年または1609年)。
歴史学者によっては近代初期とも解釈されるルネサンス期に、占星術は黄金時代を迎える。
エリザベス女王の時代は、まだ一般人を占う占星術は発達しておらず、国家の出来事を占って政策を決定する政治占星術が王朝内で密かに実践されていた。
さらに、ヨーロッパの宮廷は占星術師を雇用し、スパイとして国外に派遣することも頻繁に行われていた。例えば、エリザベス1世の宮廷占星術師であったジョン・ディーも秘密諜報員であり、大陸に渡りスパイ活動を行っていた。ちなみに、ディーの秘密文書は「007」と署名されており、これはユダヤ教の神秘思想カバラに由来する。
ディーは、宮廷に入る以前からエドワード6世から恩給を受けていたケンブリッジ大学の数学者。最初からエリザベス1世のお抱えだったわけではなく、エリザベスの腹違いの姉、メアリーがイングランド女王として即位(メアリー1世)した際、同女王からの依頼でスペイン王太子フェリペとの結婚の相性を占っている。
情報は全て妹エリザベスに筒抜けだったとされ、ディーは1555年に反逆罪で投獄される。
しかし、1558年、メアリー1世は死去。エリザベスが君主として即位すると、まず最初にしたことは、ディーに戴冠式の日取りを占ってもらうことだった。以来、ディーとエリザベス1世は親密な関係を築き、結婚占いの相談役となった。
結局、エリザベスは一度も結婚することなく生涯を終え、跡継ぎがなかったため、スコットランド王(ジェームズ6世)が、イングランド王を兼ねるという時代を迎えることになるのだが、エリザベス1世の治世にイングランドが大きな力をつけたことは事実。すべてがディーの占いのおかげとは言わないが、多少の貢献はあったと見るのが自然だろう。
また、ディーはエリザベスに対して様々な政治的助言も行った。大英帝国という概念や、大英図書館を既に構想している。

占星術の役割は魂のケア

ロンドン大火を予言した、ウィリアム・リリー
(William Lilly 1602年5月1日または11日~1681年6月9日)。
17世紀の科学革命以降、欧州大陸では近代化が進むにつれ、占星術は迷信として葬られる一方で、熱心な天文ファンが新たな科学的宇宙論を展開する。英国内でも似た傾向は見られたものの、欧州大陸と大きく異なった点は、占星術は葬られることなく、むしろ商産業化して、印刷技術の発達とともに広く一般化していったことだ。
個人鑑定を行う英国式占星術は、ウィリアム・リリーによって大きく進展した。
リリーはディーよりもさらに政治色が濃く、1649年に共和国評議会に占星術師として雇われている。それ以前から既に政治家の顧客が多く、イングランド内戦の時には、チャールズ1世とオリバー・クロムウェル双方の相談役になっている。そのため1651年には政治犯として投獄され、62年にはチャールズ2世により幽閉される憂き目にもあった。
66年のロンドン大火を48年に予言したことは有名で、リリーは事件との関連性を疑われて尋問にかけられた。しかし、罪には問われず、81年に80年という長い一生を終えている。
この後も英国占星術は絶え間なく変化をとげていくが、20世紀になって、一気に近代化が進んだことは9頁で述べた通りである。
現代人は魂と引き換えに科学技術と自由意志を獲得して、もはやディーやリリーの時代のように運命に翻弄されるようなことはなくなったといわれている。しかし、古代ギリシャ人が、運命とは魂と直結しているダイモン(神霊)だと考えていたように、どれほど科学や技術が進歩しようとも、やはり我々には知り得ない、コントロールしきれないものが存在することは否めない。
哲学者イアンブリコスは、「魂は今生での目的を成就するのに最も相応しい時間に、その時の星の布置を選んで生まれてくる」と言っている。時代がどのように移ろうとも、英国式占星術のコンサルテーションでは魂のケアを最大限に配慮する。これからもそれに変わりはなく、英国式占星術はさらなる進化を遂げていくことだろう。
あなたの今年の展望は?2017年の運勢

2017年の運勢

あなたの今年の展望は?星座別に2017年の運勢をホーリー・グレイルが占います。

ホーリー・グレイル プロフィール

占星術のチャートリーディングとバッチフラワー療法を組み合わせたコンサルテーションを行っている。 1964年生まれ、水瓶座。神話学博士。

牡羊座

牡羊座

3月21日~4月20日
ラテン語Ariesアリエス/英語Ariesエアリーズ

夏がオトシどころ、飛ばし過ぎに注意

今年の牡羊座の運勢の大きなポイントを挙げるとすると次の3つ。まず最初に、この宮を航行している天王星が、天秤座を航行している木星と緊張度の高い、180度の衝の座相を作る点。10月の初めまでは、気持ちばかりが昂揚して現実がついてこないという事態を避けるため、意識の拡大を創造性や長期的な展望に結びつける努力が必要です。気球に乗ってどこまでも高く飛びすぎて着陸地点を見失う…そんなことにならないように注意。
次に、3月から4月にかけて金星がこの宮で逆行します。その前後、つまり2月から5月中旬にかけては対人関係や財政面での変化が起こりやすく、価値観が変動しやすい時期。自己発見の機会として捉え、人格的な成長に結びつけましょう。
3番目は、7月から8月にかけて主護星の火星が夏の太陽と合し、さらに吉角を作る時。生命力がアップし、何事もマックスの状態で果敢に挑むことができます。夏を今年1年間のピークと定めて、計画を立てると良いでしょう。
牡牛座

牡牛座

4月21日~5月20日
ラテン語Taurusタウルス/英語Taurusトーラス

曇りのち晴れ、執着を手放し幸運をゲット

今年は前半と後半とでは運勢が大きく切り替わるでしょう。前半は、はっきりとしないモヤモヤとした状態が続きます。新旧交代の時期で、対人関係や財政面などで諸々の欲求を満たすうえで見直しが起こり、停滞感だけでなく倦怠感すら感じるかもしれません。この時期の出会いや投資は一時的なもので永続性に欠けるので、短期的なゴールを設定して、自己発見の機会や新たな価値観の創造と捉えるのが賢明です。
その後、6月に主護星の金星がこの宮に入ると、まるで眠りから覚めたようにリフレッシュして本来の自分の感性が甦ります。幸運な対人関係や快適で美しい生活が見つかるでしょう。7月後半から8月にかけては、勝敗を決めるストレス度の強いイベントがあり、取捨選択で迷うかもしれません。
これを無事乗り切れば、9月後半から、運勢は高水準で推移していき、長期的に取り組んできたことの結果も出て、海外での今後の発展や拡張に関して良い指針となるでしょう。
双子座

双子座

5月21日~6月21日
ラテン語Geminiゲミニ/英語Geminiジェミナイ

飛躍と発展の年、ゴールに達して苦難からの解放も実現

双子座は、昨年から土星の影響を少なからず受けています。これまでの努力が実り達成感を得る人もいれば、現実に直面しチャレンジを乗り越えようともがいている人もいます。表れ方は様々ですが、気分が憂鬱になる傾向があります。これはそこから何かを学んで次のステップに活かしていくための試練と捉えましょう。
今年は木星からの吉角も受けるので、飛躍のチャンスもあります。長期的な目標が形になり、経済的にも潤うでしょう。双子座の主護星は伝令の神マーキュリーが司る水星。水星がこの宮を通過する6月は、誕生月とも重なり、活気に溢れてビジネスも好調で有益なイベントがあるでしょう。
その一方で、水星が逆行する4月、8月、12月は、小休止を入れて内省的に過ごしながら、次の展開の準備を進める時期。8月下旬から9月にかけては、建設的な努力が必要な時期で、取捨選択に迷うような案件が発生しやすく緊張の強まる時期です。瞑想や針灸はストレス管理に効果的。
蟹 座

蟹 座

6月22日~7月22日
ラテン語Cancerカンケル/英語Cancerキャンサー

ジェットコースターのような年、安全ベルトの着用を

アットホームな気持ちでいられる平和な環境が大切なこの星座ですが、昨今の世界情勢ではそのような居場所を見つけることは大変難しくなっています。今年も変動の波が押し寄せ、チャレンジが続くと思われますが、魚座を航行する海王星と小惑星キロンから吉角を受けており、精神的な喜びも多い時期です。内省的な探求により、アットホームで落ち着ける気持ちを回復することができるでしょう。
軍神マーズが司る火星がこの宮を通過する6月と7月は焦りや苛立ちが強くなりストレスを感じる一方で、6月下旬から7月初めにかけては誕生日とも重なり、有意義な出来事や重要な動きが多い時です。思い切ってなにかを始めるのにも良い時期。8月は美神ヴィーナスが司る金星がこの宮に入り、美しい英国の夏を存分に満喫できるでしょう。ロマンチックな出会いやハッピーなイベントにも遭遇します。
10月からは吉神ジュピターの加護を受け、4年に1度の幸運期が到来します。
獅子座

獅子座

7月23日~8月23日
ラテン語Leoレオ/英語Leoリオ

今年も好調、ピークは夏

多くの星から吉角を受け今年も好調な運勢が続きます。長期的な目標に向けて継続して努力を重ねてきたことが形になる時で、持続的発展のために工夫や刷新を試みる時です。
今年は、誕生月もある夏に多くのことが集中します。単なるエキサイティングなホリデーでは終わらない、夏の決戦の場となりそうですが、勝利を収めるでしょう。今年の夏は、カラフルでドラマチックな展開になりそうです。一方で、8月21日にアメリカ大陸で観測される皆既日食はこの宮で起こるため、その近辺の誕生日の人たちは昨年から来年に向けて大きな変化が起こりやすくなっています。充分な警戒と、何が起きても動じない覚悟と意志力が必要です。老王の失墜とならぬよう心当たりのある方は注意しましょう。
9月にはラブ・ロマンスもありそうです。夏の嵐が過ぎ去った後にホッと一息つける楽しい秋の始まりとなるでしょう。10月から11月にかけては新たなゴールへ向けて一歩前進するチャレンジが浮上。
乙女座

乙女座

8月24日~9月23日
ラテン語Virgoウィルゴ/英語Virgoヴァーゴ

日々是精進、ストレスを感じたら深呼吸

乙女座の主護星は水星、それと穀物の大地母神の名がついた準惑星セレスもこの星座を支配します。水星とセレスの動きから今年1年を占ってみましょう。年初から水星の吉角を受け、好調なスタートを切るでしょう。2月初めまでは順調なペースで進み、その後もセレスからの吉角を受けるので、5月半ば過ぎまでは努力の甲斐あって心地よい春を迎えることができるでしょう。
その後6月の夏至までは、結果を出す時期に入りストレス度も増しますが、この時期も水星とセレスからの援助を受け、奉仕に見合った報酬を得るでしょう。しかし8月から9月にかけては、水星がこの宮で逆行するので、反省の時期に入り、思うように物事が進行しません。夏休みをしっかり取って、心身を休め今後の展開について模索すると良いでしょう。
年間を通じて、うつ状態から悲観的になったり、心配や不安から心身の不調を感じることがあるかも。気分を明るく保つ工夫や健康法の実践が必要。
天秤座

天秤座

9月24日~10月23日
ラテン語Libraリブラ/英語Libraリーブラ

チャレンジの年、冷静な判断をこころがけて

今年、最も大きな影響力のある星の動きとして、主護星である金星の逆行を挙げることができます。2月から5月にかけては、一時的に対人関係が不安定になったり、金融取引に関して変動も起こりやすくなります。この時期に趣味や好みの変化が表れたら、内面的な価値観の移ろいと考えて、新たな自己発見の機会としましょう。永続性には欠けるので、大きな決断を下す時期ではありません。
拡大と発展を促す木星がこの宮を航行しているので大きなチャンスにも巡り会いますが、手を広げすぎると収拾がつかなくなり、大転換の危機的状況にもなりかねません。バランスを取るのが難しいと感じたら、平衡状態を保つようにセルフケアを心がけましょう。
10月中旬から11月初めは金星がこの宮に入り、ようやく本来の自分らしさを取り戻すことができるでしょう。その後も12月初めまでは火星がこの宮を航行するので、新たな目標に向かって積極的に行動を起こすと良いでしょう。
蠍 座

蠍 座

10月24日~11月22日
ラテン語Scorpiusスコルピウス/英語Scorpioスコーピオ

12年に1度の好機到来、存分に活用を

伝統的な占星術では蠍座の主護星は火星。今年は年明けから火星の吉角を受け、幸先の良いスタートを切ります。1月中は寒さも吹き飛ぶ勢いで前進できるでしょう。2月は今年最初のチャレンジの時期となり、これを乗り切れば4月半ば過ぎから5月半ば過ぎにかけて良い結果が出てきます。
7月から8月にかけては主護星が夏の太陽と合し、最も運勢が盛んな時期で何事にも意欲的に取り組めます。ストレスや夏バテが原因でせっかくのチャンスを逃さないように、日頃からよく鍛えておきましょう。この時期の注意点は無意味な競争や争いに巻き込まれやすいこと。また疲労から事故や怪我も起こりやすいので、レジャーやスポーツは無理せずに楽しみましょう。
10月には拡大と発展を促す吉星ジュピターがこの宮に入り、12年に1度のビッグチャンスの到来です。来年の展開に向けて新たな動きが出てくるでしょう。12月には主護星がこの宮に入り、パワー全開となります。
射手座

射手座

11月23日~12月21日
ラテン語Sagittariusサギッタリウス/英語Sagittariusサジテイリアス

ゴールは近い、極端を避け中庸を

今年は何事も極端な方向に向かう傾向が出てきます。リスクの大きな選択を楽観視して行い、結果を侮ると取り返しのつかないことになるので注意。一方で、この宮を航行する土星の知恵を借りて冷静な判断ができれば、リスクをおかさずに力量内で大きな成果を積み上げることができるでしょう。
長期的な目標を達成して、さらなる成長のための基礎作りに励む時です。新たに組織を再編成したり、イノベーションへ向けた長期的な企画をスタートすると良いでしょう。7月半ば過ぎから9月初めにかけては、火星の力を借りて勢いが出ます。特に、7月下旬から8月初めにかけては活動的になり、多彩なイベントに思い切ってチャレンジできる時です。ホリデーの冒険旅行や秋以降の展開に向け、新分野の開拓に全力投球できるでしょう。
一方で、心理的な問題を抱えやすい年なので、不安や恐怖、混乱を素直に自覚して自分の弱点や短所に振り回されないようにしながら、長所を伸ばしましょう。
山羊座

山羊座

12月22日~1月20日
ラテン語Capricornusカプリコルヌス/英語Capricornカプリコーン

引き続き変動運、しかし努力が酬われる日は近い!

今年は政治、経済、文化の面で一方の極端な点からもう一方の極端な点へ振り子のように揺れ動く傾向があり、この星座は最も強く影響を受けます。責任感が強く、重要な社会的役割を担うことが多い山羊座の人たちは、積極的に不正やリスク回避のために働きかけるか、消極的に責任を引き受けて犠牲者となる道を選ぶかの選択を迫られるでしょう。
特に3月から4月にかけては、対人関係や財政面での変動が起こりやすく、今年1年の運勢を大きく左右する分かれ道にもなりかねません。大きな変化や拡張を試みると目論見が外れやすい年ですが、抑制を効かせながら堅実的に努力を積み重ねると予想以上の成果が出る時です。
6月から7月にかけては、潜在的にあった目標が明らかになり始め、迷いも出てくる時期です。一方で、幸運な出会いや楽しいイベントも増え、明るい結果へと導かれるでしょう。8月と9月は、バランスを回復する調整期間で、情報や知識を集めて下準備を進めることを心がけましょう。
水瓶座

水瓶座

1月21日~2月19日
ラテン語Aquariusアクアリウス/英語Aquariusアクエリアス

緊張感の強い発展と飛躍の年、夏が正念場

これまで長期的にやってきたことの結果が出て、到達点が明らかになります。偶然のチャンスや突然の閃きが重なって、さらなるブレイクスルーもありえます。また、テクノロジーや人道的なグループを組織化して、単なる思いつきから始めたことが飛躍的な進化を遂げる時です。革新的なアイディアによって結ばれたネットワークに関わると、今後の展開の礎となる実績や基盤ができるでしょう。
7月中旬から9月初めにかけては、行方を阻む問題やライバル争いの起こりやすい時ですが、一方で積極的にイベントを起こしてリーダーシップを発揮できる時です。正面衝突は避け、忍耐強く可能性を最大限に引き出す粘りが必要です。ストレス度もアップするので夏バテには注意。
9月下旬から11月初めまでは、落ち着いた美しい秋を満喫できそうです。美的な感性も増し、芸術性が要求される分野に関わる人たちには、頭の中で思い描いたアイディアやデザインをスムーズに実現できるでしょう。
魚 座

魚 座

2月20日~3月20日
ラテン語Piscesピスケス/英語Piscesパイシーズ

時に大波、秋以降は拡大発展の好機到来

年明けから愛情と幸運の女神ヴィーナスの加護を受け、1月中は幸先の良いスタートを切ることができます。時に心が乱れ冬の嵐のように揺れることもありますが、ハッピーなイベントもあり気分転換となるでしょう。しかし2月26日に南米からアフリカで金環日食が起こり、誕生日がこの日付と前後する人たちは、今年は変動運となるでしょう。
5月半ば過ぎから6月半ば過ぎまでは今年最初のチャレンジに遭遇します。この結果の善し悪しは、8月から10月初めに表れ、その時期は軌道修正も可能です。このため8月半ばから9月初めは秋以降の展開を試行錯誤する重要な時期となります。有益なメッセージや情報をキャッチしましょう。
年間を通じて心理的な問題を抱えやすいのですが、不安や恐怖、混乱を癒すサポート手段を見つけると幾分か楽に過ごせるでしょう。朗報もあります。10月から約1年、ジュピターの加護を受けるので、4年に1度の拡大発展の好機に入り、海外運も上昇します。

黒い瞳の伯爵夫人 クーデンホーフ光子の決意 [Mitsuko Coudenhove-Kalergi]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2017年2月2日 No.969

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黒い瞳の伯爵夫人 クーデンホーフ光子の決意

黒い瞳の伯爵夫人

クーデンホーフ光子の決意

今からおよそ100年前。
ウィーン社交界で人々の注目を集めた、美しい日本女性がいた。
「黒い瞳の伯爵夫人」とも呼ばれたクーデンホーフ光子を今号では取り上げる。
写真2点はいずれも光子が暮らしたころのウィーンの街角の風景。

【参考文献】
木村毅『クーデンホーフ光子伝』(鹿島出版会、1976年)
シュミット村木眞寿美(編訳)『クーデンホーフ光子の手記』(河出書房新社、2010年)
鹿島守之助(訳)『クーデンホーフ・カレルギー回想録』(鹿島研究所出版会、1964年)
鹿島守之助(訳)『母の思い出 伯爵令嬢オルガ・クーデンホーフ・カレルギー手記』(鹿島研究所出版会、1963年)他

●サバイバー●取材・執筆/根岸 理子

日本のシンデレラ

クーデンホーフ光子―この優雅で美しい響きの名前に聞き覚えのある読者も多いのではないだろうか。光子は、外国人と結ばれ片仮名の苗字を名乗ることに非常に勇気の必要だった明治時代に、オーストリア貴族と結婚した日本女性である。のちに夫となるハインリッヒ・クーデンホーフ(Heinrich Coudenhove-Kalergi)伯爵との出会いは、おとぎ話のように美しく伝説化されている。
そのストーリーは次のようなものだ。
オーストリア・ハンガリー代理公使として日本に駐在していたハインリッヒが冬のある日、乗馬を楽しんでいたところ、愛馬が凍てついた道で足を滑らせ、転倒してしまった。道に放り出された「異人」を人々は遠巻きに眺めるだけであったが、近くの店から飛び出してきて躊躇することなく彼を介抱した美少女がいた。それが、光子であった―というのが、もっともよく語られている二人の馴れ初めである。ただこれは、残念ながらかなり脚色された話のようだ。
実際に二人がどのように出会ったのか、確かなところは今となっては知るよしもない。しかし、ハインリッヒが光子を見初めたことから始まった関係であったらしい。貴族でもある外交官と結婚した町娘は、まさに「日本のシンデレラ」と呼ばれるにふさわしいが、王子―ハインリッヒ―との結婚で、光子の人生が「めでたし、めでたし」と締めくくられたわけではない。本稿では、その後、彼女が歩んだ苦難の道をも紹介することにしたい。

電撃結婚

光子―本名・青山みつ(戸籍名は「みつ」だが、のち自ら光子と称したので以降すべて光子と表記する)は、1874年7月7日(16日とも)、東京牛込に生を受けた。
父の青山喜八は骨董商を営んでおり、その店は、オーストリア・ハンガリー公使館からほど近い場所にあった。そうした縁で、二人は結ばれたのであろう。光子は近所でも評判の美少女であった。少女時代の写真をみても、長身でスラッとしており、白鳥のように優美な首が印象的な女性だ。洋装の方が似合いそうな顔立ちで、ハインリッヒが一目ぼれしたとしても納得がいく。
一方のハインリッヒも長身で精悍な顔つきのなかなかの美男子だった。彼は1859年、オーストリアの伯爵フランツ・クーデンホーフとスラヴ貴族であったマリーの長男として、ウィーンで産声をあげた。オーストリア・ハンガリー代理公使として日本に赴任したのは、1892年のこと。ハインリッヒは33歳となっていた。
来日してまもなく18歳の光子と知り合い、文字通り「電撃的に」結ばれたとされている。 しかし実際には、この結婚話はハインリッヒと光子の父親との間で取り決められたというのが真相に近いようだ。光子の実家には、ハインリッヒの立場にふさわしい金額が納められたと見られるが、親の決めた相手と結婚することはその時代の女性にとってはむしろ当然の義務。少なくとも、結婚式での写真を見る限り光子の表情は明るく、その運命を前向きに受け止めていたと感じられる。
光子はハインリッヒとともに市ヶ谷の洋館に住み、翌年には第一子ヨハネス(1893年生まれ)が誕生。さらにリヒャルト(1894年生まれ)と続けて子供に恵まれる。親元にも近く、東京で暮らした新婚時代は、光子にとって忘れがたい、幸せな日々だったようである。

日本からの旅立ち

ハインリッヒと光子の結婚式の写真。
光子の顔にはまだあどけなさが残る。
そうした幸福な日々についに変化が訪れる。
1896年、ハインリッヒに本国への帰還命令が下されたのだった。その時には、光子も大きな不安を感じたに違いない。そんな彼女に、ハインリッヒはアジアでの勤務を希望することを約束した。折々には日本に帰ることができると信じての旅立ちであったのである。光子夫妻には、日本女性二人が、乳母として同行した。
外国人外交官と正式に婚姻を結んだ日本女性とあって、旅立ちの前に、光子は皇后(のちの昭憲皇太后)に拝謁を許され、特別にお言葉を賜った。「どんな場合にも日本人としての誇りを忘れないように」という内容のその言葉を、光子は終生大事にして生きたといえる。
光子は、ハインリッヒの領地ボヘミアのロンスペルク城へ向かうため、神戸から始まった船旅について、子供たちに書き残している(シュミット村木眞寿美が『クーデンホーフ光子の手記』として翻訳している)。寄航した国々の印象は鮮やかで、初めて触れた異文化への驚きが生き生きと語られている。新しい世界に目を開かれていく光子の興奮した様子が伝わってくるような文章だ。母国を離れた心細さを味わいながらも、ハインリッヒと密に過ごしたこの旅も、のちの光子を支える大事な思い出となるのだが、光子がそれを予知できようはずもなかった。

外国人妻としての日々の始まり

ハインリッヒと光子が一家で暮らした
ロンスペルク城。
©Mejdlowiki
1896年3月、ついに欧州に到達。日本人である自分をハインリッヒの親族はどのように迎えるのか、光子は不安でいっぱいだったはずだ。ここでまことしやかに伝えられているのが、すること為すことすべて―言葉から食事のマナー、衣服の着こなし、立ち居振る舞いなど―に対して周囲からチクリチクリと当てこすられ、光子がひどく「いじめられた」という話である。
光子自身は、そのようなことは語っておらず、皆、彼女を温かく受け入れてくれたとしている。とはいえ、、実際、周りと馴染み分かり合うには、それなりの時間がかかったと考えるほうが自然だろう。東洋人、しかも平民の娘である光子への偏見は相当強かったのではなかろうか。
そのような新しい生活では、ハインリッヒの気遣いは不可欠だった。ハインリッヒに守られる中で少しずつ新しい環境に慣れていった光子は、やがて、彼の親族の住居に呼ばれたり、知人・友人の夜会に招かれたりと、伯爵夫人らしい華やかな日々を送るようになっていく。まさにシンデレラの世界であるのだが、一つだけ異なっていたのは、シンデレラは自らの国で幸せになったが、光子は母国とのつながりを失いつつあったということである。
当初は、ヨハネスとリヒャルトの乳母の日本女性たちがいたので、光子も日本語で会話する機会が多かった。
しかし、領地管理人が不正を行なっていたことが発覚したため、ハインリッヒは外交官を辞し、領地を自ら管理することを選択したのである。かくして、アジア駐在の話は夢と消え、夫妻はロンスペルクに身を落ち着けることになった。
日本に家族がある乳母たちを、ずっと引き留めておくわけにもいかず、光子は彼女たちを帰国させた。ついに、ロンスペルクで唯一の日本人となってしまったのである。子供たちは、壁に向かって自分たちには分からない日本語で、長い独り言をつぶやく光子の姿を目撃している。そこで語られた光子の言葉は、どのようなものであったことか。
ホームシックというのは、体験した者でなければわからない。その身が在るべき場所にないような、それまで長く生きてきた場所に引かれるような、強烈な感覚。母国語で語り合う相手がいない生活の中で、光子はどのようにその感情・感覚を乗り越えたのか。ロンスペルクの住人たちは、時折、ただ一人馬で駆けるほっそりした光子の姿を見かけたという。光子は周囲にぶつけることのできない想いを、乗馬で紛らわしていたのではない。しかし、落馬で怪我を負ったことで、彼女はこのささやかな慰めさえ失ってしまうのである。
「帰省」という形で一時的にでも日本に戻ることができていれば、光子の心も癒されたかもしれない。しかし、度重なる妊娠・出産により、そうした計画もかなわなかったのだった。

「八番目の子供」

日本で誕生したヨハネス、リヒャルトに加えて、ハインリッヒ・光子夫妻は子宝に恵まれた。三男ゲロルフ(1896年生まれ)、長女エリーザベト(98年生まれ)、次女オルガ(1900年生まれ)、三女イーダ・フリーデリーケ(01年生まれ)、四男カール(03年生まれ)と、ほぼ2年ごとに「おめでた」が続いた。子供たちが背の順にずらりと並んでいる微笑ましい写真が残っているが、彼らを見つめる光子の表情は柔らかく優しい。
しかし、若い光子は、一家の主婦、そして七人の子供たちの母親というよりも、「八番目の子供」として女学生のような生活をしていたようである。ドイツ語、英語、フランス語などの語学に加えて、算数、歴史、地理、ヨーロッパ風の礼儀作法など、学ぶことは山ほどあった。真面目な光子は、そうした勉強に全力で取り組んだ。
ところが、七人目の子供、カールが生まれた後、光子は肺を患ってしまう。ハインリッヒは何とか回復させようと、光子を南チロルへ連れて行き、子供たちも呼び寄せた。新鮮な空気と暖かい気候のおかげで、病気からも無事全快、一安心した光子であったが、気付かぬうちに、夫との永遠の別れの日がゆっくりと近づいていたのである。妻や子供たちについては、あれこれ心配するが、自身の健康には無頓着なハインリッヒであった。

二人のマリー

ハインリッヒは光子と出会う前に、愛する二人の女性との死別を経験している。奇しくも二人とも「マリー」という名前であった。
一人目のマリーは、自らの母親。ギリシャ系スラヴ貴族出身で、美しく優しい母・マリーをハインリッヒは心から敬愛してやまなかった。だがしかし、母は36歳という若さで病(猩紅熱といわれている)により世を去ってしまう。その時、ハインリッヒはまだ17歳であった。
母親の旧姓は「カレルギー」であり、1903年にハインリッヒが苗字を「クーデンホーフ=カレルギー」としたのは、母の存在の「証し」を残したかったからと考えられる。
彼が常に身に着けていた金のロケットの中には母の遺髪が入っており、「お母さん、私のことを忘れないでください」という言葉が刻まれていたという。ハインリッヒだけでなく、妻を熱愛していた父も、最愛の女性を失ったショックから立ち直ることは生涯できなかったようであり、マリーの早すぎる旅立ちは、その後、クーデンホーフ家に暗い影を落としたのだった。
二人目のマリーは、ハインリッヒがウィーンで軍務に服していた20歳の時出会ったフランスからの音楽留学生であった。若い二人はたちまち恋に落ち、マリーはほどなく子供を身ごもった。二人は結婚を望んだが、ハインリッヒの父が強く反対し、彼をドナウ河畔の城で謹慎させてしまう。
若すぎるということと、マリーが平民の出自だったことから結婚を認めなかったようだが、この恋は悲劇的な結末を迎える。マリーが、ハインリッヒが閉じ込められていた城の庭でピストル自殺を遂げたのである。愛してやまない女性の亡骸を目にした時のハインリッヒのショックと悲しみは、いかばかりであっただろう。
恐らくは、日本で光子が出会った時のハインリッヒは、愛する者を失う苦しみを立て続けに経験し、胸に埋められない穴を抱えた状態で、いまだ立ち直れていなかった。しかし、光子は、ハインリッヒは大きな明るい声で笑い、誰からも好かれ尊敬される人だったと繰り返し語っている。彼女との結婚により、ハインリッヒはその胸の空洞を埋めることができた、ということなのかもしれない。

学者肌の語学の天才

ハインリッヒが一目ぼれしたのも
うなずける美貌の光子(撮影年などは不明)。
語学に堪能(18ヵ国語を自由に使いこなせたという)で、諸宗教についても通じていた学者肌のハインリッヒ。それにもかかわらず、聡明だったはずの光子と学問上の話をすることはほとんどなかったとされている。
「女学者」「女物知り」タイプの女性、そして「ブルーストッキング」(教養ある上流階級婦人タイプ)の女性たちを、ハインリッヒは嫌ったという。光子は自分が無知で受身だったので、愛されたというようなことを語っている。しかし、実際のところは、光子は非常に頭の良い、知的な女性だった。
ハインリッヒにその気さえあれば、共に刺激を与え、成長できる関係になっていた二人だったのではあるまいか。二人がそうした関係を築けていれば、ハインリッヒの早すぎる旅立ちの後、光子はもう少し楽であったのではないかと思わずにはいられない。
ただその美しさをめで、守り、子供のように扱うのではなく、光子を「共に生きる同志」と見るべきだったのではないだろうか。そうしていれば、光子はハインリッヒの考えをより深く知ることもできていたはずで、あまりにも急に訪れた「悲劇」に対して、もう少し備えることもできていたと断言したい。

早すぎる別れ

ハインリッヒとの永遠の別れの日は、光子が全く予期しない形で訪れた。
1906年5月14日早朝。
早起きのハインリッヒは、いつもと変わらず5時に起き、日課の散歩に出かけた。だが途中で胸の痛みを覚えて城に戻り、召使を呼んだ。蒼白な顔をしてソファーに横たわっている主人の姿に驚いた召使が、光子を呼びに行こうとするのを押しとどめると、ハインリッヒは肌身離さず身に着けていた金のロケットに唇を押し当て、そのまま息を引き取ったのである。
まだ46歳という若さであった。光子も子供たちもこの突然すぎる別れにどれほどショックを受け、悲しみに打ちひしがれたことだろう。
几帳面なハインリッヒは、20年にわたって毎日かかさず日記をつけており、それは数十冊にも及んでいた。忠実な執事と光子は、自分が死んだ場合にはそれらを焼却するようにというハインリッヒの言葉に従い、深い悲しみの中、庭で日記を燃やした。そこにはどのような言葉が綴られていたのであろうか。日記はハインリッヒにとって自らとの対話のようなものであったと推測できるが、それを、妻との、光子との対話とすることはできなかったのかと悔やまれる。
光子と最後の言葉を交わすことなく、逝ってしまったハインリッヒ。光子は、3歳から13歳までの七人もの子供を抱えて、文字通りただ一人、異国に取り残されてしまったのである。光子はまだ32歳だった。

肩にのしかかる重圧

ハインリッヒの遺言状には、光子を包括相続人とし、七人の子供たちの後見人ともすると指定してあった。日本人であり、また、それまで自らもハインリッヒの娘であるかのような生活をしていた光子に、財産管理などできるかと、クーデンホーフ一族の誰もが危ぶんだが、光子は覚悟を決めた。
「家長」という新しい責務を引き受けることにしたのである。母国日本に帰ることを選ばず、子供たちを立派なオーストリア人―ヨーロッパ人―として育てる決意をしたのだった。
きゃしゃな光子の肩にのしかかる、過酷なほどの重圧。これは、優しく忍耐強かった光子の性格を一変させてしまったようである。その美しい顔から微笑みが消え、子供たちや使用人は、専制的にふるまう光子を恐れるようになる。のちにカトリック有数の作家となった三女のイーダ・フリーデリーケは、当時の光子は癇癪を起こすと雌獅子のように恐ろしく、子供たちは彼女が眉を寄せるだけで震え上がったと語っている。
この時、もし光子に心から信頼できる身内や友人がいれば、事態は異なっていたかもしれない。一人で考え、一人で決めなければならない状況が、彼女をそこまで追い込んだのである。孤立無援の光子は、なぜ彼女を一人残してそのように早く去ってしまったのかと、天にいるハインリッヒに向かって、繰り返し問いかけたことだろう。

ウィーンでの日々

パリのゲラン本店にある、香水「Mitsouko」のボトル。
ゲランは、「ミツコ」の名を当時流行した小説から
とったとしているが、美しい光子のことを
聞き及んでいた可能性は高いと思われる。
©Miyako Hashimoto
光子はやがて領地の一部を売り、ウィーンに移り住むことに踏み切る。
シェーンブルン宮殿にほど近い場所に住居を定め、息子たちはテレジアヌムに、娘たちはサクレ・クール学院に入れた。「黒い瞳の伯爵夫人」として光子がウィーン社交界で注目を浴びたといわれているのは、この時代のことである。光子が「サロンの女王」と言われるほど社交にいそしんだかどうかは定かではないが、輝くばかりの美青年に成長したヨハネスとリヒャルトにエスコートされる日々は、ハインリッヒが生きていた時とはまた異なった幸せを、つかのまながら彼女に感じさせてくれたに違いない。
貴族の子弟が通う名門校・テレジアヌムの、金ボタンのついたコートを着て、腰にはサーベルまで下げた美形の息子たちと連れ立って歩くと、光子の胸は誇りでふくらんだ。彼らの姉と間違われるほど、若々しく美しいこの頃の光子であった。

巣立っていく子供たち

1930年、ベルリンで開催された
パン・ヨーロッパ会議に参加した、
イーダ・ローラン(当時49歳、写真右)。
左は小説家トーマス・マン。
©German Federal Archives
その自慢の息子たちの巣立ちの日は、思いがけなく早くやってきた。
芝居好きの光子は、ある日、ウィーン社交界で話題になっていたイーダ・ローラン(Ida Roland 1881~1951)という女優の舞台を観に行くことにし、ヨハネスとリヒャルトを伴って出かけた。
すっかり感動した光子は、イーダと交流を持つようになり、ある時、光子とヨハネスは非公式の晩餐会に招待されたが、ヨハネスは所用で応じることができなかった。一人での出席をためらう光子に、通常は社交にあまり熱心ではないリヒャルトが、自分が代わりに行っても構わないかと尋ねた。イーダの舞台に心奪われたのは光子だけではなかったのである。
晩餐会では、イーダとリヒャルトは隣り合って座ることになり、いつもは寡黙なリヒャルトが彼女と楽しげに話し込んでいる姿は、光子を驚かせた。
それから数日後、ウィーンのフォルクス・テアターで開かれた仮装舞踏会に光子と共に参加したリヒャルトは、「彼だけのために来た」というイーダと夢心地で踊った。以来二人は離れられない関係となったのである。
光子が事態に気付いた時には、二人はすでに結婚する決意を固めていた。20歳にもならない、まだ学生であるリヒャルトと、離婚歴もあり、娘までいる30歳を過ぎた女優との結婚。
光子だけでなく、クーデンホーフ一族の長老で、当時ボヘミアの知事であったマックス・クーデンホーフも猛反対する。しかし、そのような周囲の反対に従うようなリヒャルトではなかった。イーダとの愛を選んだリヒャルトは、一族と絶縁状態になった。恋人にも等しかった最愛の息子を、光子は生きながらにして失ってしまったのである。
光子の予想を超える恋愛・結婚をしたのは、長男のヨハネスも同じであった。ヨハネスの妻となったのは、元はサーカスの馬術師であったリリーという女性。光子は彼女とも良い関係を築くことができず、結果として思い出深いロンスペルクの城を明け渡すことになってしまった。
すべて良かれと思ってやったことだったが、光子の厳しさを嫌い、大事に育ててきた子供たちが次々に去っていくという悲しい思いを経験する。やがて卒中により半身不随となった光子の傍を最後まで離れなかったのは、次女のオルガだけだった。

EUの生みの親!?
リヒャルト

リヒャルト 光子の次男、リヒャルト・ニクラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギー(Richard Nikolaus Eijiro Coudenhove-Kalergi 1894~1972)は、欧州統合運動のきっかけとなったパン・ヨーロッパ(Pan-Europe)思想を提唱したことで名高い。そのため、光子は「パン・ヨーロッパの母」とも称されることとなった。つまり、リヒャルトは、現在のEU設立の先駆者といえる。
光子は日本生まれの長男ヨハネス(リヒャルトと同じく「光太郎」という日本名を持つ)とリヒャルトを特別扱いしていたという。女優イーダ・ローランとの結婚により、一時は光子やクーデンホーフ一族と絶縁状態になったリヒャルトだが、イーダのヒモのような状態になるだろうという周囲の予想に反して、ウィーン大学で立派に哲学博士号を取得した時は、さすがの光子も喜んだといわれる。しかし、晴れがましい博士号授与式には、イーダとの同席を拒んで光子は出席しなかった。
映画「カサブランカ」に出てくる反ナチスの指導者ビクターのモデルともささやかれているが、様々な「伝説・逸話」に彩られているクーデンホーフ一族の例にならって、これも事実とは言い切れないようだ。
リヒャルトのパン・ヨーロッパ思想には、父母の国際結婚や、父・ハインリッヒの諸国諸宗教への関心と理解が影響を与えていると思われるが、母・光子の人生は、異なる言語・文化・習慣を持つ者が一つになる事の難しさをも伝えているようである。

果てぬ望郷の想い

光子が他界したことを伝える告知。
「Mitsu」と「Aoyama」の文字が見える。
「私は、いつも仮装舞踏会に出ているような気がしている」
光子は、そのオルガに語っている。22歳になるかならないかで、母国にすぐに戻れる、少なくとも帰省はできると信じて異国にわたった光子。子供たちは立派なヨーロッパ人に育てることはできたが、自身は借り着をまとっているような気持ちから逃れられなかった。自分の弱点は決して人に見せてはならないとも、光子はオルガに語っている。町娘から異国の伯爵夫人になったシンデレラは、常に気を張って生きていたのである。
晩年の光子の楽しみは、ウィーンの日本大使館を訪ね、日本語を話し、日本の新聞を読んだり、レコードを聴いたりすることであったという。どれほど日本に帰りたかったことだろう。しかし一方、自分が愛した母国が、決して同じままではないことも悟っていた光子であった。
また、結婚問題で疎遠になった愛息リヒャルトが、パン・ヨーロッパ思想の提唱者として著名になったことを光子は喜んだが(コラム参照)、それは息子個人についての喜びの域を出ておらず、彼がテニス選手になったとしても、光子は同様に喜んだであろうと、リヒャルト自身は冷静に分析している。
1941年8月27日、光子永眠。
折りしも、ついに帰ることのできなかった懐かしい母国・日本は悲惨な戦争に突入しようとしていた。それを見ずに済んだことは救いだったといえる。
ロンスペルクの夫の墓近くに埋葬されることを望んでいたものの、それはかなわず、光子はウィーンのヒーツィングにあるクーデンホーフ家の墓に葬られ、今も静かに眠っている。
夫ハインリッヒは、光子に別れも告げずに旅立ったが、「君は本当に良くやってくれた。ありがとう」と、天で彼女を迎えてくれたと願いたい。光子が67年の生涯で最もほしかったのは、何よりもハインリッヒからのねぎらいの言葉だったという気がしてならないのである。

在英邦人への影響を探る EU離脱を選んだ英国 [Brexit]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2017年3月2日 No.973

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在英邦人への影響を探る EU離脱を選んだ英国

在英邦人への影響を探る

EU離脱を選んだ英国

51.9% 対 48.1%―。
その差、わずか3.8%。
英国がEU離脱を選んだ国民投票の結果が世界に驚きをもって伝えられてから8ヵ月余り。
いよいよ離脱に向けて本格交渉が始まろうとしている。
今号では、「予想は困難」と承知しながらも在英邦人、および在英日系企業に対象をしぼり様々な声を集めてみることにした。

●サバイバー●取材/本誌編集部

去る2月9日。
国民投票に際しては明確に「離脱支持」を打ち出していたデリー・テレグラフ紙の一面を、テリーザ・メイ首相の満面の笑顔が飾った。
同首相の笑顔が紙面にこれほど大きく掲載されるのは珍しい。
笑顔の理由は、下院で行われた投票で、EUからの完全離脱、いわゆる「ハード・ブレグジット(hard Brexit)」をめざす英政府案を494名の国会議員が支持したことにある。反対派の122票をおさえての大勝で、英国はいよいよ荒波にこぎだすことになった。
国民投票の再実施を望む動きや、国民投票の結果は法的拘束力がないとしてその無効化を訴える試みなどもなされたが、メイ首相の固い信念の前にはすべて「悪あがき」に終わった。
それほどまでにメイ氏の「ハード・ブレグジット」への思いは強い。6月23日の国民投票を前に、メイ氏は「残留派」支持を表明していたものの、派手に動くことはしなかったのも、当時のキャメロン首相をたてていただけで、内心は「離脱派」だったのではないかと勘ぐりたくなる。
既に抜群の反射神経も見せており、西側諸国の中では一番にトランプ米大統領と会談するなど、これからも必要に応じてメイ首相は機敏に動くはずだ。
英国民は、この首相にすべてを預けて見守るしかない。
もちろん、メディアや各界の有識者は英国民の不安を代弁しつつ、首相に多くのことを望み、時には強く批判することになるだろう。しかし、前線で実際に戦うのはメイ氏率いる現政権である。その健闘を祈るばかりだ。
インドには、次のようななことわざがある。
No crowd ever waited at the gates of patience.
(「忍耐」という門の前では誰も群がらない)
誰も好きこのんで忍耐の必要な困難な道を進みたがらない、しかし、その道をいった者は成功するとの意味だという。
英国は今、「忍耐」の門の前に立たされている。
在英国日本国大使館イメージ

在英国日本国大使館

日系企業を含む経済活動などに
悪影響を及ぼさないよう、英国に期待

在英国日本国大使館としては、昨年6月の国民投票の結果を踏まえ、英国のEU離脱に向けた関連動向を注視し対応してまいりました。
また日本政府は、昨年9月に「英国及びEUへの日本からのメッセージ」(首相官邸ウェブサイト※で公開中)を公表し、日系企業を含む経済活動や、世界経済に悪影響を及ぼすことのないよう、英国及びEUに対して求めてきました。
先般のメイ首相の演説等に見られるとおり、英国政府は、可能な限りの予測可能性を提供したいとした点や、英国・EU間における市場の一体性の確保、急激な制度変更の回避等を重視し、自由貿易推進の立場から英国がEU離脱後も自由で開かれた世界経済システムの拡大・推進に向け努力する意思を示した点等、我が国が伝達した日系企業の声を真剣に受け止めたものと評価しています。
今後、EUとの交渉等を通じ具体化されていくとともに、引き続き日系企業を始めとする全てのステークホルダーの声に耳を傾けることを期待します。
当館としては、本件に関する今後の動向を一層注視し、日系企業や在英邦人の皆様の御懸念・御要望を踏まえながら対応していく所存です。
首相官邸ウェブサイト: 英国及びEUへの日本からのメッセージ
英国における在留邦人の割合 (2015年10月1日現在)
英国における在留邦人の割合イメージ
アーンスト&ヤングイメージ

アーンスト&ヤング(英系会計事務所)

Tier2カテゴリーの申請条件、緩和への期待は非現実的か

離脱後のEU国民の取り扱いは?

英国のEU離脱後のEU国民(およびEU内に居住する英国人)の取り扱いについては、現時点では予想の域をでませんが、自由移動の権利を引続き保障するか、あるいは破棄するかが大きな論点となっています。離脱後はEU国民への特別措置が設けられることも予想されますが、条件等は明らかではありません。可能性として、特定の期日までに英国に「EU条約に基づいて居住している」ことの証明の提示などが挙げられます。
現在条約に基づいて英国に居住するEU国民には、EU条約に基づいて英国に居住している証明となる書類の準備、または条件を満たすことが出来るならば登録証、永住権や国籍を取得することをお勧めしています。EU離脱後も、英国に引続き居住することを確実に保障出来るものは「英国籍の取得」のみですが、書類の準備や登録証、永住権の取得も将来的に役立つ可能性はあります。
尚、英国で就労していない自己充足的生活者は、充分な生活資金の証明と併せて、総合疾病保険に加入されることをお勧めします。 将来的には、EU国民が英国で就労するためには何らかの規制が設けられることが予想されますが、一つの可能性としては、一般の外国人同様にビザの取得が求められるようになることが考えられます。従って、企業はEU国民の雇用に伴うコスト、あるいはEU外からのリソース確保の可能性などを踏まえて、現在の人材採用・活用を見直す必要があると言えます。
今後は低スキルのEU労働者減少の埋め合せとして、ポイント制のTier 3カテゴリーの活用なども考えられますが、最近のテレサ・メイのスピーチからも判るように、Tier 2カテゴリーの緩和を期待することは余り現実的とは言えません。
Website: www.ey.com
日立イメージ

日立

事業への影響を慎重に評価し、対応を検討

為替や金融市場の混乱など、不確実性が高い状態が当面継続すると思われますが、当社への影響は限定的です。
鉄道事業では、英国の「Hitachi Rail Europe」、イタリアの「Hitachi Rail Italy」「Ansaldo STS」により、欧州全体をカバーする事業体制を既に確立しています。英国では、IEPなど約1,630両の受注があることに加え、今後5年間で2,000両以上の需要が見込まれており、英国だけで数年はフル稼働が続く見通しです。欧州大陸については、買収した「Hitachi Rail Italy」「Ansaldo STS」の拠点を活用していきます。両社は、買収以降も着実に受注を積み上げ、約1.2兆円の受注残を抱えており、各地の拠点を活用しながらグローバルに事業を展開していきます。
原子力事業では、英国のエネルギー政策上、原子力発電はベースロード電源と位置付けられており、ホライズン・プロジェクトも英国内のプロジェクトであるため、EU離脱や政権交代が直接的に大きな影響を与えることはないと考えています。
英国における英国外からの調達や日本からの輸出に係る関税、欧州域内における人財の流動性などは、今後交渉が行われる経済協定等の内容次第ですが、英国政府としても経済への影響を最小化すべく最大限努力されるものと考えています。今後も、当社の事業への影響を慎重に評価し、対応を検討していきます。
Website: www.hitachi.co.jp(日本)/ www.hitachi.eu/en-gb(英国)
ホンダイメージ

ホンダ

今後も英国での事業を継続

1年後、拠点を英国から移される確率は?

― 想定していません。

ハード・ブレグジットは、御社にとってビジネス・チャンスとなり得るか?

― 環境や条件が不明確な状況に対して、コメントすることはできません。

メイ首相率いる政府は交渉役として期待できるか?

― 英国の経済、及び英国進出企業が、今後も継続的に発展できるような環境を実現してくれることを期待しています。

今後の対応について

― ブレグジットがいかに実現されるかは、現時点では明確ではありませんので、今後の展開を慎重にモニターしていきたいと考えています。ただ、言えることとしては、英国にあるスウィンドン工場が10代目「Civic Hatchback」のグローバル生産拠点としての役割を果たしていくことに変更はなく、今後も英国での事業を継続していきます。
Website: www.honda.co.jp(日本)/ www.honda.co.uk(英国)
Baker McKenzie.に聞く

ハード・ブレグジット在英邦人のビザはどうなる?

Q ハード・ブレグジットにより、ビザの締め付けはさらに厳しくなる?

英国の欧州離脱によってもたらされる正確な影響は、未だに定かではありません。
しかし、メイ首相は2月初めの演説にて、英国はEUとの離脱交渉の初期段階で同意に達し、すでに英国に居住するEU国籍者(とその家族)の権利を保護することを優先目標とする、と表明しました。それに加え、英国は非EU諸国からの移民流入を抑制しつつも、優秀な外国人材の積極的活用を主眼とする旨を示しました。
また、英国には非EU加盟国との貿易協定を自由にとり決める権利があり、メイ首相は特に米国やインドなどを挙げましたが、日本との結束が強化される可能性もあります。

Q EEA加盟国の国籍保持者との結婚により、英国に滞在している日本人は、今後、どのような決断を迫られる可能性がある?

欧州経済地域(EEA) 国籍者の配偶者を持ち、英国に居住する日本人はレジデンス・カード、あるいは永住権カードの申請をできるだけ早く行い、英国居住権の正式な証明ができるよう処置をとることをおすすめします。
今後、居住資格の条件がどのように変更するかは予測が困難なものの、このような処置をとり、長期の居住資格を現時点で保護することが重要であると思われます。

Q ブレグジットのおかげで日英の貿易協定が結ばれ、日本人に対するビザもとりやすくなる日がくる?

ブレグジット以外のエリアでは、Tier2就労ビザに関する変更がすでに実施されており、日本人が就労ビザを取得する事が一段と困難になりました。今年4月より、非 EEA 移民のスポンサーとなる雇用主には、経済面で下記のさらなる負担が加わることとなります。

a)健康保険付加料 (IHS)
  1人当たり年間 £200、今年4月3日より施行(家族を含む)
b)技能負担金(ISC)
  Tier2就労者1人当たり年間 £1,000(大・中型企業向け)、今年4月6日より施行

これらの変更により、大型企業が移民のスポンサーとなり、3年間有効のTier2(ICT)ビザを取得するには、通常のビザ料金に加え、先行して£3,600を支払う事が義務付けられることとなります。

上記に引続き、 UKVI が給与に含まれる手当の種類や額を給与全体額の一部として再検討する可能性もでてきました。これにより、場合によってはTier2(ICT)カテゴリにおけるビザの申請に影響が出るかもしれません。さらに、今年4月で Tier2(ICT)短期カテゴリは廃止になり、新規でICTビザを申請するには、Tier2長期カテゴリの最低給与基準の引き上げ額である£41,500に見合わなければなりません。
もう少し前向きな面では、ICT雇用者がビザを最長9年間延長する場合の最低給与基準額は引き下げられる予定です。新たな資格給与額は£120,000と予想されており、今年4月からの施行となる見込みです。また、Tier2(ICT)長期スタッフビザ取得において、新しいルートが追加されました。申請者の給与額が£73,900あるいはそれ以上であることを条件とし、申請以前の12ヵ月間の雇用は不必要となるため、既存の雇用者を英国に移動することを考慮する際、雇用主にはより選択肢が増えることになります。
Website: www.bakermckenzie.com/globalmigration
産経新聞社 ロンドン支局  岡部 伸氏

産経新聞社

二兎を追うメイ政権、損失を最小限にとどめられるか
ロンドン支局 岡部 伸氏

「円満離脱」もFTA結べるか注視

「移民の流入制限」と「単一市場への移動の自由」の「二兎」を追うメイ政権が「強硬離脱」に転じたのは、まず移民制限を確保し、交渉で実質的単一市場アクセスに近い条件を引き出す現実的な作戦に転じたためだ。
10兆円規模の投資をし、英国人を中心に14万人を雇用してきた日本の対英投資は、欧州単一市場に移動の自由があることが前提で、「強硬離脱」は、日本企業にも不利益が生じる。
EUを離脱すれば、英国で生産された商品に域外共通関税がかかる。日産やトヨタ、ホンダの3社は英国に工場を建て英国の自動車の半分以上を生産しているが、多くがEU各国に輸出しており、10%の関税がかかる。
離脱後に英国がEUと関税などの市場アクセスを自由なものにする包括的自由貿易協定(FTA)を結べるかどうかがカギだ。スイスやカナダとの間で先例があるが、EU側は現時点で容易に応じない方針だ。しかし、トランプ米大統領が英国とのFTA交渉優先を表明したことが追い風となる可能性もある。
そもそもEUにも通商貿易で英国との関係維持のメリットは少なくない。いやドイツやスペインなど対英貿易黒字国のEUこそ、域外共通関税がかかるとデメリットが大きい。最終局面で双方の損失を最小限にするFTAなどを結ぶ妥協に転じ、「円満離脱」する可能性も十分ある。したがって日本企業への影響は英国とEUの離脱交渉の行方を注視する必要があるといえる。
日本経済新聞社 欧州総局長  大林 尚氏

日本経済新聞社

英経済を左右する「対外関係」、どれだけ深化させられるか
欧州総局長 大林 尚氏

ブレグジットが日系企業に及ぼす影響

昨年6月に英有権者がブレグジットを選択したあとも、日系企業の対英投資は活発だ。孫正義ソフトバンク社長による半導体設計会社「アーム・ホールディングス」の買収(発表時の外為相場でおよそ3兆3000億円)が典型だが、これほど派手な案件でなくても民間資金は英国へ流れている。カルロス・ゴーン日産自動車社長はメイ首相に直談判し「ブレグジットによる懸案事項を解決した」と、小紙「私の履歴書」で語っている。不確実性を警戒しながらも、英経済が底堅く推移するという見通しがあるからこそお金を投じているわけだ。儲けを追求しつつフェア精神を大切にする日系企業は、英政府・経済界に歓迎されている。
私はブレグジット後の日英関係について、どちらかというと楽観している。もちろんメイ氏が宣言したEU単一市場からの完全な脱退は、英国を拠点とする日系企業や英国に暮らす日本人に欧州の窓口としての英国の機能が弱まる不利益をもたらす。モノとサービス、お金、そして人が自由に行き来する利点を手放すのだから影響は避けられまい。
一方、企業は現在地の居心地に悪さを感じるようになれば、より快適な地に自由に移動できる。グローバリゼーションの深化によってこの動きは個々人にも広がっている。それが現実になれば英経済には打撃だが、どの国にとっても栄枯盛衰はつきもの。米国や英連邦の国・地域、さらには中国などとの関係どこまで深化させられるかが、この先数十年の英経済を左右するだろう。

これだけは知っておきたい!ブレグジットの基礎用語

1 ブレグジット(Brexit)とは?

英国のEU離脱のニュースでおなじみになったこの言葉は、「Britain=英国」「exit=出る」との造語。「ハード・ブレグジット」とは「強硬離脱」とも訳され、英国が移民の受け入れ制限を最優先して、EUの単一市場へのアクセスを失うことを覚悟でEU離脱交渉を行うこと。これに対し、英国がEU離脱において、欧州の単一市場へのアクセスを確保することをめざす場合は「ソフト・ブレグジット」と呼ぶ。

2 リスボン条約第50条(アーティクル50)とは?

1952年に創設された「欧州石炭鉄鋼共同体」(ECSC)、58年発足の「欧州経済共同体」(EEC)と「欧州原子力共同体」(EURATOM)の3つの共同体がまとめられ、67年、「欧州共同体」(ECs)が誕生。さらに、93年にはEU(European Union)が生まれるに至った。
しかし、このEUの憲法を制定するための条約はフランスとオランダでは国民投票により批准が拒否されるなど、なかなかまとまらず、幾多の修正を経て、2007年、「欧州連合条約および欧州共同体設立条約を修正するリスボン条約Treaty of Lisbon amending the Treaty on European Union and the Treaty establishing the European Community」としてようやく調印が行われた(09年12月に発効)。
この新しい基本条約内で、加盟国の離脱について手続きを定めているのが第50条、「アーティクル50(Article 50)」だ。
これによると、全ての加盟国は憲法上の要件に従って離脱を決定でき、離脱に向けた手続きは、当該国が欧州理事会(EUの最高協議機関)に離脱を通告することでスタート。欧州理事会への通告後、離脱する国はEUと脱退協定締結のための交渉を開始。脱退協定が発効する日から、EU法は離脱国に適用されなくなるが、それまでは加盟国としての権利・義務がある。ただ、離脱国とEUの交渉が難航し、脱退協定が締結できなかった場合、離脱通告から2年でEU法が適用されなくなる(全ての加盟国が同意すれば、この期間は延長できる)。
英国はまもなく脱退通告を行うと見られている。

3 EEA(European Economic Area「欧州経済領域」)とは?

EEAは、EUの28ヵ国にアイスランド、リヒテンシュタイン、ノルウェーを加えたもの。なお、現在のEU加盟国は次のとおり(カッコ内の数字は、欧州の共同体への加盟年を示す)。
オーストリア(1995)/ベルギー(1958)/ブルガリア(2007)/クロアチア(2013)/キプロス(2004)/チェコ共和国(2004)/デンマーク(1973)/エストニア(2004)/フィンランド(1995)/フランス(1958)/ドイツ(1958)/ギリシャ(1981)/ハンガリー(2004)/アイルランド(1973)/イタリア(1958)/ラトヴィア(2004)/リトアニア(2004)/ルクセンブルク(1958)/マルタ(2004)/オランダ(1958)/ポーランド(2004)/ポルトガル(1986)/ルーマニア(2007)/スロバキア(2004)/スロベニア(2004)/スペイン(1986)/スウェーデン(1995)/英国 (1973)

ロンドンで空前のブーム!Matcha(抹茶) 特集

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2017年4月6日 No.978

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空前のブームに迫る!Matcha {抹茶}

ロンドンで空前のブーム!

Matcha(抹茶) 特集

最近、ロンドンのあちこちで見かけるようになった「Matcha」の文字。日本で当たり前のように親しまれる抹茶が、いま英国でスーパーフードとして脚光を浴びている。そこで、抹茶のチカラに改めて注目してみるとともに、そのブームに迫ってみたい。

●サバイバー●取材・執筆/名越 美千代、本誌編集部

世界各地で美容や健康への意識が高まり、オーガニックや体に良い食べ物へのこだわりを持つことは現代のトレンドだ。アサイー、ココナツオイル、チアシード…。加速する健康ブームに合わせて、スーパーフードと呼ばれる、栄養豊富で体を癒す成分が突出して含まれるとされる食品が、次々に注目されてきた。そして、一昨年あたりからスーパーフードとして新たにブレークしたのが、日本が誇る伝統飲料、抹茶である。
2015年頃からニューヨークで抹茶を提供する「Matcha Bar」が瞬く間に増えたのを皮切りに、世界中で抹茶愛好者は大増殖。ロンドンでも、ひと昔前なら日本食材店でしか手に入らなかったものが、 今では健康食品店や大手スーパー、百貨店など、どこのお茶コーナーにも様々な欧米ブランドの緑茶や抹茶関連商品が並んでいる。
街角でも大手のコーヒーチェーン店はもちろん、それ以外にも抹茶ドリンクを扱うカフェが見受けられるようになった。「Matcha」という単語は、「tofu」や「edamame」のごとく、英語にすっかり浸透したようだ。それどころか、いまや、抹茶とのコラボレーションは、日本人の常識を超えるところまで進化している。
ここまで欧米で抹茶が受け入れられたのはなぜだろう。
中国などのアジアの人々はともかく、コーヒーや紅茶のような茶色がかった抽出飲料に慣れている欧米人には、抹茶の鮮やかすぎるほどの緑色も、粉を溶かしたような舌触りも、どちらかというとためらいを覚える飲み物だったに違いない。それでも、文化の違いによる味覚の壁を越えて抹茶が受け入れられたのは、あらゆる可能性を秘めた抹茶パワーに身も心も疲れ果てた現代人が引き寄せられたからだろう。
抹茶はスーパーフードの効能の定番である抗酸化作用や、免疫力向上作用に優れているとされる。豊富に含まれるカテキン、ビタミン、テアニンなどの成分によって、アンチエイジングや美肌、爪や髪の艶出し、ダイエットなどの美容面、ガンや糖尿病予防、代謝促進、睡眠改善、血圧やコレステロール値の降下作用といった健康面への働きかけのほか、ストレス解消やリラックス効果などまで期待できるという。日本に馴染みのない人にもちょっと異文化に手を出してみようと思わせるに十分なほど、魅力的なラインアップである。
実は欧米では、抹茶よりもカテキンを多く含む煎茶もダイエット飲料として人気がある。ただ、同じ緑色の日本発の飲み物だからか、抹茶と混同されている感も否めない。メディアでは、健康オタクなセレブとして知られる女優のグウィネス・パルトロウが抹茶ラテ片手に微笑む写真をインスタグラムに投稿し、人気モデルのミランダ・カーも緑茶を使ったフェイシャル・トリートメントを「美しさの秘密」として紹介。とにもかくにも、「グリーンティーは体に良い」という認識が日本国外で確立されたのは間違いないだろう。もともと和食にはローカロリー食のイメージがあることや、日本の伝統文化へのあこがれ、茶道の作法のエキゾチック感なども抹茶人気を後押ししたという面があるかもしれない。だが、抹茶に関していうと、海外での人気のキーワードはやはり、美容・健康である。
緑茶の本家である日本でも、抹茶を使ったお菓子やドリンクは日本の女子がこよなく愛する定番だが、こちらは健康志向というよりも、抹茶が持つ高級感と風味、ほかの食材との相性の良さが人気の主な理由だろう。本来、抹茶は伝統的な様式にのっとって供される飲み物であり、抹茶入りというだけで特別感がある。加えて、濃厚な味と、苦みと甘さのバランスを持っており、和洋問わず、料理やお菓子にアクセントをつけてくれる。欧米におけるカカオに通じるところがあるかもしれない。
今回は、何気なく抹茶を口にする日本人でも意外と気にかけてこなかったような、抹茶についての豆知識をお届けする。紅茶の国、英国で、抹茶文化がどのように受け入れられているかもご紹介したい。 

抹茶をもっと知る7つの豆知識

抹茶と煎茶、違いは何?

抹茶はチャノキ(学名:Camellia sinensis)というツバキ科の常緑樹の葉を蒸してから乾燥させ、砕いて葉脈などの不純物を取り除いたのちに、臼で挽いて粉末状にしたもの。煎茶も、同じチャノキの葉が使われるが、こちらは蒸したのちに揉んで、よりをかけながら乾燥させて、針状に大きさや形が整えられる。
どちらも緑茶に分類されるが、両者の根本的な違いは形状ではなく、茶葉が育つときに浴びる日光の量にある。煎茶用の茶葉には新芽が出てから茶摘みの段階まで太陽の光をいっぱいに浴びさせるのに対して、抹茶用の茶葉には茶摘み前の一定期間、覆いをかぶせ、直射日光が当たらないようにして育てる。
日光をたくさん浴びた煎茶用の茶葉では光合成が起こり、木の根で作られたのちに葉まで運ばれたテアニンが渋み成分のカテキンに変化して、程よい渋みと爽やかな香りのお茶ができる。逆に、日光が遮ぎられて光合成が抑制された抹茶用の茶葉は、渋みの元でもあるカテキンの量は増えないが、旨み成分となるテアニンなどのアミノ酸が多く残ることとなり、まろやかで深いコクと旨みを兼ね備えたお茶になるというわけだ。

抹茶も紅茶も実は同じ茶葉?

実は、18世紀には西洋の植物学者は緑茶と紅茶が同じ木の葉を使っているということを知らず、それぞれの材料となる木には別々の学名をつけていた。「Camellia sinensis」という同じツバキ科の木としてまとめられたのは19世紀後半になってからとされる。
同じ原材料にもかかわらず、緑茶、ウーロン茶、紅茶と、見た目も味もかなり異なる理由は、製造過程で発酵させる度合いの違いにある。茶葉は発酵が進むと成分のカテキンが酸化し、色が赤くなっていく。薄い茶色のウーロン茶は半発酵茶、かなり黒くなる紅茶は完全発酵茶に分類される。一方、緑茶は、 摘んだお茶の葉をすぐに蒸して酸化酵素の働きを止めることで成分変化を最小限にとどめており、葉の緑色も残すことができる。ゆえに、 緑茶は不発酵茶と呼ばれる。
発酵の度合いの違いにより、紅茶はミネラルが豊富でアミノ酸が少なく、香りや渋みが引き立つ、コクがある味となるが、緑茶は甘みを加えるアミノ酸が残ることで、渋みが抑えられた味となるのだ。
発酵の度合いイメージ

抹茶の美味しさの秘密はテアニン!

抹茶は苦いという印象を持つ人も多いだろうが、煎茶と飲み比べてみれば、実はほのかに甘いということがわかるだろう。抹茶の独特の旨みや甘みに関与している成分が、テアニン(Theanine)というアミノ酸の一種だ。テアニンの含有量が多い抹茶ほど質の高い抹茶といえる。旨み自体を生み出すだけでなく、お茶に含まれるカフェインやカテキンの苦みや渋みを抑える働きもあるのではないかといわれている。テアニンを含む代表的な植物はチャノキで、 テアニンという名前もこの成分が発見された当時にチャノキの学名だった「Thea sinensis」に因んで命名された。
テアニンは茶葉の部分ではなく根で作られ、木の生育によって茎を通って葉に移動する。そこで日光を浴びるとカテキンへと変化するが、日光が遮られればテアニンのまま残るので、緑茶の中でも、茶畑を覆って作られるタイプの抹茶や玉露に多く含まれることになる。抹茶だけをみても、まだ日光が弱い時期に収穫される一番茶のほうが、暑くなってから摘み取られる二番茶よりもテアニンが多いのだという。
このテアニン、ストレスの多い現代社会で注目されている成分でもある。脳に働きかけて脳のα波の出現を活発化させてリラックス効果をもたらす、また、脳の興奮を抑えて神経を沈静化し、その結果、睡眠改善を促すとされる。学習能力や集中力を向上させたり、女性の月経前症候群や更年期障害の症状を和らげたりするのにも有効とする説もあるそうだ。こうした効果を謳ったテアニン入りのサプリメントも発売されている。

どうして抹茶は高い…。製法にヒントあり!

抹茶ができるまでの工程ではふたつの特殊な手間がかけられている。
まずは、 茶藁(わら)や葦簀(よしず)、化学繊維などの遮光資材によって茶畑全体を覆う手間。「覆下栽培」と呼ばれるこの栽培法では、新芽が出た段階から少なくとも20日以上、茶葉に強い日差しが当たらないようにすることで 、茶葉に旨みや甘みを蓄えさせる。また、茶葉の鮮やかな緑色も保たれる。摘み取った生の茶葉を蒸して乾燥させ、細かく砕いてから葉脈や茎など不要なものを取り除けば、抹茶の原材料となる茶葉、碾茶(てんちゃ)の完成だ。
この碾茶を石臼などで挽いて粉末状にして抹茶にするのだが、この作業にもまた手間がかかる。せっかくの茶の香りや味が粉末化の工程で発生する熱によって損なわれないよう、技術と工夫が必要。茶道用の高級抹茶の場合、1台の茶臼で1時間に40グラムほどしか製造できないとされ、希少価値が高い。
抹茶といっても、値段はピンキリ。これは、覆下栽培にどれだけの手間をかけるか=碾茶の出来の良し悪し、そして、挽き方=熟練の職人による手作業か、機械による大量生産粉砕か、また、最初に収穫した一番茶か、2回目に収穫した二番茶かといった要素が反映される。
ただ、抹茶の定義も実は曖昧。公益社団法人「日本茶業中央会」の定義では、抹茶とは「覆下栽培した茶葉を揉まずに乾燥した茶葉、碾茶を茶臼で挽いて微粉状に製造したもの」とされるのだが、実際にはこの定義からずれたものが「加工用抹茶」や「食品用抹茶」として流通していることも、価格差に関係している。

そもそもカテキンって何?

健康に良いとされるポリフェノールのフラバノール類に分類される「カテキン」は、緑茶にも多く含まれる成分。お茶特有の渋味を生み出しているのもカテキンだ。カテキンにもいくつかの種類があるのだが、日常生活の中で緑茶がかかせない日本では、お茶に含まれるカテキンが特に詳しく研究されてきた。その結果、効果・効能として挙げられているのは、食中毒を防止する抗菌・殺菌作用、風邪のウィルスが細胞に取り付くのを妨げる抗ウィルス作用、ガンや動脈硬化を引き起こす活性酸素を処理する活性酸素除去作用、悪玉コレステロールを抑制するコレステロール低減作用、肝臓の酵素を増やして活性化させることで脂質代謝を活発にする体脂肪低減作用、アレルギー症状を引き起こすヒスタミンの放出を抑制する抗アレルギー作用などなど。また、虫歯予防、口臭予防、認知症予防、高血圧抑制、老化防止効果など、まさに良いことづくしだ。
カテキンは高い温度で抽出されやすいので90度以上の高温で一気に入れると、より多くのカテキンを含んだお茶を淹れることができるという。また、初摘みの一番茶が収穫される頃はまだ日光も弱いため、時期的に太陽光をふんだんに浴びた二番茶、三番茶のほうがカテキンを多く含むといわれている。

抹茶と煎茶、どっちが体に良い?

現代の日本人が日常に飲んでいる緑茶の代表はやはり、煎茶だろう。そして、抹茶が健康に良いという印象が強いとはいえ、実際にスーパーフード的な効能を持つカテキンを多く含んでいるのは煎茶。そのカテキン含有量は抹茶の倍ともいわれている。ただし、普通にお茶を淹れた場合にはそのお茶に含まれる栄養分の7割は茶殻と一緒に捨てていることになるそうで、それならば、そのまま水に溶かしてすべてを無駄なく飲むことができる抹茶に軍配が上がるかもしれない。
そこで、抹茶と並んで注目されるのが粉末緑茶だ。見た目は抹茶に似ていても、材料となる茶葉は碾茶ではなく、カテキンが豊富な煎茶。粉を水や湯に溶かすだけなので、お手軽で、急須も不要、茶殻も出ない。無駄なく摂り入れることができる。抹茶のように料理やお菓子作りにも使えるし、抹茶よりも安いのでコスパも良い。抹茶のようなまろやかさや味わいには欠け、苦みも出るものの、健康ドリンクという点では抹茶に対抗できるといえるかもしれない。

濃茶と薄茶って何?

茶道のお手前で使われる抹茶には、濃茶(こいちゃ)と薄茶(うすちゃ)がある。この違いは文字通り、抹茶の濃さ。濃茶では一杯当たり茶匙3杯ほどの抹茶に少なめのお湯を使う。仕上がりがとろりとするため、濃茶を「練る」ともいう。 一方、薄茶では濃茶の半分くらいの量を使い、さらりとした口当たりに仕上げる。こちらは、薄茶を「点てる」という。
お茶席においては、薄茶は比較的気軽なお手前とされ、茶道初心者が最初に習うのも、一般的なお茶席で供されるのも、薄茶。対して、濃茶は格式が高いものとされ、習うのも上級者になってから。ちなみに、濃茶は2、3人で回し飲みするため、大人数の茶会には向かないとされる。
お茶席で使われる抹茶の製法はどちらも同じ。ただし、濃茶は濃度が高いため、質の良し悪しが顕著に現れる。 そのため、渋みや苦みが少なくまろやかな甘みで、上品な香りを持つ上級品が使われる。濃茶用の抹茶を薄茶として飲むことはできるが、逆は難しいようだ。

英王室御用達の老舗

フォートナム&メイソンで聞いてみた

フォートナム&メイソンイメージ ■観光客にも英国に住む人々にも安定した高い人気を誇るロンドン・ピカデリーの高級食材店、フォートナム&メイソン(以下F&M)。グランドフロアでは豊富な種類のお茶を販売中だ。アール・グレイ、ロイヤル・ブレンド、ブレックファスト・ブレンドなどの定番56種類のお茶に加え、希少なレア・ティー68種類。緑茶の取り扱いも22種にのぼる。まさにお茶のエキスパートと呼べるF&Mで、最近の英国抹茶事情を尋ねた。
F&Mではいつから抹茶の取り扱いを始めましたか。売れ行きはいかがですか。
抹茶は2016年の販売開始以来、よく売れています。昨年からなので、前年比は出せませんが、毎月、売り上げは順調に伸びています。
抹茶は現地在住のお客様と観光客では、どちらに人気ですか。
どちらにも好評をいただいています。ロンドンでの抹茶人気はかつてないほどの高まりを見せています。毎週、F&Mへ食料の買い出しにいらっしゃる当地のお客様は健康を気遣う方が多く、抹茶を定期的に買っていかれます。旅行者にもおみやげとして好評です。
抹茶が購入される理由はなんでしょう。

フォートナム&メイソン抹茶イメージ

▲グランドフロアに並ぶ抹茶。
茶筅とお茶碗も取扱中。
最近の売れ行きが好調なのは、緑茶、特に抹茶は健康に良いと人々が認識しているからかもしれません。最近はなににつけても健康志向が高くなっていて、お客様は体に良いとされる高品質の製品を求めています。 F&Mには310年の歴史に裏打ちされた素晴らしい専門知識があります。抹茶を取り扱うにあたり、他のお茶と同様に正統派の味と質を考え、こだわり抜いて茶葉を選びました。F&Mで販売する抹茶には最高品質の等級であるセレモニアル・グレード(Ceremonial Grade)が与えられています。
抹茶を飲んだお客様からの反応はいかがですか。
抹茶の好みははっきりと分かれます! 好きか、嫌いか、ですね。変わった風味の味わいですし、飲んだ感覚も他のお茶とは異なります。抽出させたものではなく、茶葉を粉末状にしたものを飲むわけですから。抹茶のはっきりとした緑色も、興味をもたれる方と、色を見て敬遠される方とに分かれます。
F&Mでは抹茶の楽しみ方をどのように提案していますか。
F&Mで扱っている抹茶は高品質のものなので、日本の伝統的な飲み方をお勧めしています。けれども、慣れていない人にとっては、抹茶は非常に強い味で、渋みもあるため、F&M内のレストランでは、飲みやすくなるように、牛乳やハチミツも一緒に提供しています。抹茶は魚料理にとても良く合うともお勧めしていますよ!

Fortnum & Mason
181 Piccadilly, St James’s, London, W1A 1ER
www.fortnumandmason.com

ロンドンでも大人気!

抹茶を使った気になるお店

抹茶ロールのしっとり感が病みつきに
Japanese Patisserie WA Cafe

Japanese Patisserie WA Cafeイメージ

抹茶ロールケーキは、ホールサイズでの注文も、
72時間前まで受け付けている。
店内では、抹茶や各種日本茶の茶葉や
ティーバッグも購入可能。
2014年末に西ロンドンのイーリング・ブロードウェイにオープンして以来、人気を集めてきたこの店は、「WA(=和)」の店名が示す通り、日本らしさにこだわったカフェ。ショーケースには「まるで日本みたい!」と思わずつぶやきたくなるようなケーキに、日本風のパンが並んでいる。スイーツ部門とパン部門はそれぞれ、日本人シェフが担当する。
抹茶を使ったスイーツでは、抹茶ロールが人気。 抹茶入り生クリームとホームメイドの餡を、抹茶を練り込んだきめ細かなスポンジで包んでいる。使用する抹茶は京都・宇治のもの。ケーキ用の抹茶は、ドリンク用に使っている抹茶と同様に、クオリティの高いものに限っているとのこと。また、抹茶の味に馴染みのない現地の人にも受け入れられやすいよう、苦みが少なくて柔らかい、質のよい抹茶を選んでいるという。
また、パンのコーナーには緑茶を使ったクロワッサンとクリームチーズ入りのあんパンなどが並ぶ。うっすらと緑色でサクサクのクロワッサンは、クロワッサンの本場から来たフランス人の常連客にすら「ハマった」と言わしめたのだそう。
またドリンク・メニューでは、ほんのり甘い豆乳を使った抹茶ラテ(温・冷)やストレートのアイス抹茶のほか、煎茶や玄米茶といった日本茶も提供している。
ケーキやパンは電話注文による取り置きもできるそうなので、売り切れでがっかりしたくない人は事前に予約しておくのも良いだろう。カフェスペースもあり。

Japanese Patisserie WA Cafe
32 Haven Green, Ealing, W5 2NX
電話:020-8991-7855
www.wacafe.co.uk
月~金:午前8時~午後6時
土:午前8時30分~午後6時
日、祝日:午前9時30分~午後6時

抹茶ドリンクが充実!
Tombo Poké & Matcha Bar

Tombo Poké & Matcha Barイメージ

【下段写真右】
抹茶とマンゴーを合わせたジュース。
色のコンビネーションが面白い!
抹茶ドリンクやスイーツを扱う店が増えたといっても、日本人の舌を満足させてくれるお店はまだまだ少ないが、こちらの抹茶は期待を裏切らないおいしさだ。
お茶好きのオーナーは8年前、良質な日本のお茶がロンドンで買えるようにとお茶を扱う会社をロンドンで立ち上げた。ヨーロッパに流通しているお茶はドイツ経由で輸入されるものが多いそうだが、同店では、まろやかでコクのある深蒸し茶の産地として知られる静岡県掛川市から直接輸入。ロンドンのカフェやレストランにも卸しているという。
日本の伝統文化としての抹茶も大切にする「Tombo」では、温かい抹茶はトレーニングを受けた従業員が茶筅(ちゃせん)で点てる。一方で、海外らしい抹茶の楽しみ方も提案。マキアート風に仕上げた「マッチアート(Matchiato)」、抹茶とジュースを組み合わせた抹茶ジュースなど、店頭のメニューは見た目も楽しく、どれにしようか悩むほどだ。抹茶ドリンクの定番、抹茶ラテには、バニラやシナモン風味があるなど、一味変わった選択肢がある。
抹茶スイーツも充実。抹茶アイスクリームを使ったサンデーには、チョコやオレオなどが添えられた洋風の「London」と、白玉、あずき、柚子の皮などを添えた和風の「Tokio」。ケーキでは抹茶ガトーや抹茶ロールなど種類も豊富で、サウス・ケンジントンにある「Tombo1号店」で作られる。お茶もスイーツも日本の良さをわかってもらえるようなものに、というのがメニュー作りにおけるコンセプトのひとつだという。
ちなみに、抹茶ドリンクと合わせて提供されている「Poké」は、ロンドンで近年注目を集めているハワイ風ちらし丼。ベジタリアン向けのポケには、抹茶と味噌を合わせた意外な組み合わせのドレッシングが添えられ、こちらも絶品だ。

Tombo Poké & Matcha Bar
28 D'Arblay Street, Soho, W1F 8EW
電話:020-7734-1333
www.tombopoke.com
月~土:午前11時30分~午後9時
日:午前11時30分~午後8時
※メニューは異なるが、サウス・ケンジントン店でも抹茶ドリンクやスイーツを提供。

ロンドンではめずらしい抹茶のミルクレープ
KOVA Patisserie

KOVA Patisserieイメージ 2016年11月にソーホーのど真ん中にオープンしたケーキ屋。狭いながらも店内にはカフェスペースもある。日本を意識した手作りのケーキと、オーガニックを謳った日本茶や抹茶ドリンクがセールスポイントだ。
この店で最も特徴的なスイーツは、日本のドトールコーヒーなどで知られるミルクレープ。 15〜20枚ほどのクレープをクリームや果物を間に入れながら何層にも重ね、ケーキのような形に整えたものだ。日本発祥ともいわれる定番スイーツだが、ロンドンではまだめずらしいかも。
「KOVA」のミルクレープのラインアップは、チョコ味、バニラ味、果物入り、そして、抹茶クリームを挟みこんだ上からさらに抹茶をふりかけた抹茶ミルクレープ。加えて、抹茶ティラミスや、抹茶ロールなどもある。使われている抹茶には少し苦みが感じられるので、お茶の渋みを好む人には良いかもしれない。

KOVA Patisserie
Unit 5, 9 – 12 St Anne’s Court, Soho, W1F 0BB
www.kovapatisserie.com
月~木:昼12時~午後8時
金・土:昼12時~午後9時30分
日:昼12時~午後6時

初めてでも安心、快適 ♪ <難易度別>この夏は英国でキャンプ!

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2017年5月4日 No.982

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初めてでも安心、快適 <難易度別>この夏は英国でキャンプ!

初めてでも安心、快適

<難易度別>この夏は英国でキャンプ!

■休暇旅行(ホリデー)が大好きなことで知られる英国人。不況が長引いている上、欧州でテロ騒動が頻発している昨今、英国で人気を集めているのが、国内でのキャンプ・ホリデーだ。キャンプ場で読書をしたり、周辺を散歩したり、知らない子ども同士で遊んだり、まるで我が家がキャンプ場に移動したかのように、のんびり楽しく過ごすのが「英国風」。従来のサバイバルなキャンプやアウトドアが苦手なインドア派にも挑戦しやすい。今回は、そんな英国風キャンプの楽しみ方を紹介しよう。

●サバイバー●取材・執筆・写真/名取 由恵・本誌編集部

「キャンプ」というと、何を思い出すだろうか。子供の頃の飯盒炊飯? それとも、河原でのバーベキューや川遊び、魚釣りといったアウトドアなアクティビティ?
筆者が初めて体験したキャンプは、25年前の英国での野外音楽フェスティバルだった。テントを設営したのも、寝袋で寝たのも初めて。電気もガスもお湯もなし、水ですら最低限しか使えない環境のなかで、日頃自分たちがどれほど恵まれた生活をしていたのか、そのありがたみが身に染みたのを覚えている。
そもそも、キャンプとは何か? キャンプとは自宅を離れ、テントやキャンピング・カーといった一時的なシェルターを使って過ごすこと。日本語では「野外で一時的に生活する」という意味の野営、露営、宿営などと呼ばれる。
はるか昔、人類の多くは狩猟採集をしながら移動生活や遊牧生活を送っていた。ローマ帝国はイタリア半島を離れ、遠い場所まで遠征して帝国の領地を広げていったが、遠征地では木の棒を立て、布や皮を張るテントを使っていたという。また、北米の原住民やモンゴルの遊牧民は、ティピーやユルトなど、移動式のテントで生活する習慣があった。このように、人間と野外生活の関係は深い。時を経るにつれ、次第に人間は定住型の生活を送るようになり、さらに近代化が進められると、多くの人々は都市部で暮らすようになった。
しかし、19世紀後半になると、野外生活から様々なことを学ぼうとする動きが世界的に起こる。1861年、米国コネティカット州で教育者のフレデリック・ウィリアム・ガンが子どもたちを集めて学校主催のキャンプを行ったことが、現代流キャンプの始まりとされる。日本でも明治期に西洋諸国の制度を取り入れるなかで、教育活動の一環としてキャンプが推奨されるようになった。
一方、英国ではどうだったか。英国の近代キャンプの父といわれるのが、トーマス・ハイラム・ホールディング(1844~ 1930年)だ。ホールディングは9歳のとき、両親とともに米国の平原を幌馬車で旅しており、大人になってからアイルランドで仲間とキャンプをしながらサイクリング旅行を敢行。その様子を綴った著書『Cycle and Camp in Connemara』を1908年に出版している。また1901年には、ホールディングを中心にして、英国初のキャンプ団体「Association of Cycle Campers」が結成された。同団体は、後に非営利団体「The Camping and Caravanning Club」(中級者向け:キャンピングカーで、快適に過ごす参照)に発展している。相次ぐ世界大戦により、キャンプは一時停滞したものの、戦後には再び人気が復活。イングランド観光局「Visit England」が2015年に行った調査によれば、同年上半期におよそ450万人の英国人が平均3・7泊のキャンプ・ホリデーを楽しんだという。これは前年の同時期と比較すると8%も増加しており、キャンプの人気が今もなお衰えていないことが明らかになっている。
さて、このように英国で根強い人気を誇るキャンプだが、その人気の秘密は何だろうか。
まずは、海外でホテルに宿泊する旅行と比べて、割安・手軽ということが挙げられるだろう。飛行機やホテルをあらかじめ予約する必要もなく、キャンプ場のスペースさえ空いていれば、すぐにでも出かけることができる。長期の休みが取れない場合は、週末だけ近所のキャンプ場でプチ・ホリデーを楽しむことも可能だ。
また近年、欧州ではテロ事件が相次いで発生しており、欧州方面の旅行を避けて、英国内に留まる人が増えているのも、理由のひとつだとされている。
しかしながら、キャンプ人気の一番の理由は、何よりもキャンプ自体の面白さではないだろうか。キャンプの魅力は、大自然のなかでゆっくりリラックスして過ごせること。清浄な空気や緑に囲まれた環境で身体を動かし、家族や友人と一緒に楽しく過ごしながら、非日常のなかで自分を見つめ直していく。何かとストレスの多い現代社会で、キャンプの良さが見直され、注目を集めているのは、自然のリズムと同調することにより、忘れていた何かを思い出し、本来持っている自分らしさを取り戻すことができるからなのかもしれない。
ぜひ今年の夏は、英国でキャンプを体験してみてはいかがだろうか。

キャンプの王道、テントで過ごす

ャンプといえば、テントと寝袋。一度はテントで王道のキャンプを体験してみたい。英国には各地にキャンプ場があり、場所によって設備も異なるが、多くのキャンプ場は、テントを張るピッチ(芝生)に電源や水道が引かれており、共同で使用するトイレ・シャワー・炊事場・コインランドリーが完備されている。食べ物や生活用品を販売するる売店、カフェ、レストランのほか、フィッシュ&チップス、ピザなどのテイクアウェイを注文できるところもある。子ども用のプレイグラウンド、プール、テニスコートがあるファミリー・フレンドリーな場所も多い。ほとんどのキャンプ場で、テントの側に車を駐車できるようになっているので、荷物を運ぶ心配もない。
一方、森のなかにぽつぽつとテントが点在するようなキャンプ場もある。わざわざ電気も水道もない不便な場所でキャンプし、夜空を眺めたり、野生の生き物や植物を観察したりして、文字通りのサバイバル生活を楽しめる。ここまで到達できたら、あなたも立派なキャンプ上級者!
テントで過ごすメリットとデメリット

キャンプ場の探し方

英国には3,000ヵ所を超えるキャンプ場があるといわれている。その膨大な数のなかから、どのキャンプ場を選べばよいのだろうか?

1 英国のどこに行くか、大まかなエリアを検討する。

人気のある場所は、①天候が温暖な場所 ②海の近く ③自然に囲まれたところ。ロンドンからだと、イングランド南東部のサセックスやケント、南部のドーセットやハンプシャー、南西部のデヴォン、東部のサフォークやノーフォーク辺りが行きやすい。広大な自然が広がり、野生のポニーが生息する、ハンプシャーのニュー・フォレストデヴォンのダートムーア周辺は人気スポット。思い切って、ウェールズやスコットランドのキャンプ場にチャレンジするのもいいだろう。

2 インターネットで、キャンプ場を検索する。

おすすめ検索サイトは「www.ukcampsite.co.uk」。行きたいエリアを選択し、トイレ・シャワーなどの設備、子どもの遊び場の有無、大人用か、子ども・ペットもOKか、公共交通機関で行けるかといった必要条件を絞り込み、料金を考慮に入れながら、候補地を比較。他のキャンパーたちのレビューも参考にしよう。キャンプ場の多くは、ピッチのタイプ、利用者数、付属物の有無によって料金を設定。キャンプ初心者なら、最初は天候が比較的穏やかな地域で、設備が充実しているキャンプ場を選ぶのが無難だろう。価格は1人1泊20ポンド程度~が目安。

テントの選び方

テントはサイズ、定員数、耐水圧、重量を考慮して選ぼう。キャンプの目的によってテントの種類も変わる。例えば、公共交通機関を利用する場合やバックパッカーなら軽量テント。野外フェスティバルでは組み立てが必要ないポップアップ・テント。家族連れや1週間以上のキャンプなら、しっかりとした素材のテントが良い。
また、初めてテントを建てる場合は、事前に自宅の庭などでテントの建て方と用具が揃っているかをチェックすること。アウトドア・ショップのサイトは「www.gooutdoors.co.uk」「www.cotswoldoutdoor.com」「www.blacks.co.uk」「www.millets.co.uk」など。

携帯必需品

テント
ハンマー(テントの設営用)
寝袋(封筒型〈square〉=写真右=とマミー型〈mummy〉=同右下=の2種類がある。英国の夜は夏でもかなり気温が下がることがあるので、耐久温度をしっかり確認すること)
スリーピングマット/エアマットレス(ウレタン状のマット、もしくはポンプで空気を入れるエアマットレスを寝袋の下に敷く。これがないと背中に小石や枝が当たったり、地面からの冷気を直に感じたりして寒い)
懐中電灯/ランタン
雨具(傘よりもレインコートが便利)
ゴミ袋
ウェットティッシュ

キャンピング・カーで、快適に過ごす

の座席やソファを倒してベッドにすることで、車のなかで寝泊まりできる仕様になっているのがキャンピング・カー(英語では「camper van」「motorhome」など)。また、自家用車の後ろにつける牽引式のトレイラーは「キャラバン(caravan)」と呼ぶ。キャンピング・カーも様々なタイプがあり、車内に流し台、コンロ、冷蔵庫などの調理設備、トイレ・シャワーが設置されているものもある。
キャンプ場は、キャンピング・カーが使用可能な場所を選ぼう。生活排水・トイレの処理場(waste water disposal point / chemical waste disposal point)があるところが便利だ。事前に、キャンピング・カーの使い方、給水や排水のシステム、カセットトイレやポータブルトイレの処理方法、ガスや電気の使用方法を確認しておく必要がある。
キャンピング・カーで過ごすメリットとデメリット

車の選び方

頻繁に出かける予定があるならキャンピング・カーを購入するのもよいが、年1回出かける程度なら、レンタルするのが現実的だろう。

1 「camper van」と「caravan」のどちらのタイプにするかを決める。

車のなかで寝泊まりする人数によって、車のサイズが決まる。大型車になると、普通自動車免許だけでは運転できず 、運転のスキルも必要になるのでご注意を。とくに「caravan」タイプは、急カーブや後進の際の運転が難しいとされる。その反面、「caravan」は牽引する車と切り離して、トレイラー部分だけをキャンプ場に残しておくことができるので、周辺に出かける際は車だけで身軽に行動できる。

2 ウェブサイトを利用しよう!

キャンピング・カー及びキャンプ関連の非営利団体「The Camping and Caravanning Club」のウェブサイトを利用しよう(www.campingandcaravanningclub.co.uk)。キャンプ場を運営するほか、キャンプに関する様々な情報・アドバイスを提供しており、キャンプ場の検索、キャンピング・カーのレンタルなどもできる。

グランピングで、贅沢に過ごす

が降っても、お風呂に入れなくても、衣服が濡れたままでも「耐え忍ぶ」というイメージがあるキャンプ。ここがインドア派にとってキャンプの壁が高い理由だが、そんなインドア派でも手軽にキャンプを楽しめるのがグランピングだ。
グランピングとは、グラマラス(glamorous)とキャンピング(camping)をかけた造語で、英国では2005年頃から登場したといわれる。キャンプ場にテントやキャンプ道具など必要なものがあらかじめ用意されているので、快適にラクにキャンプを楽しむことができる。ネイティヴ・アメリカンの移動式テントである「ティピー(Tipi)」=写真上、遊牧民が使う「ユルト(Yurt)」、木の板で造られた「ポッド(Pods)」などに、ベッドや暖房などの家具が設置されており、リネン・タオル類も用意されている。高級レストランの食事やホテル並みのサービスを提供し、ホットタブやスパ、ビューティサロンが併設されているところもある。グランピングの場所を検索するなら「Cool Camping」(https://coolcamping.com/campsites/glamping)のウェブサイトがおすすめ。
グランピングで過ごすメリットとデメリット

家族連れにおすすめ!センターパークで過ごす

リデー・パークと呼ばれる大規模なキャンプ場では、テントやキャンピング・カー以外に、コテージやロッジ=写真左上、バンガロー、アパートメントに宿泊できる。「テントもキャンピング・カーもグランピングもハードルが高い。だけど自然のなかで家族と一緒に楽しくホリデーを過ごしたい!」という人は、このような施設を利用することも可能。
なかでも家族連れにおすすめな場所が、「センターパーク(Center Parcs)」(www.centerparcs.co.uk)だ。オランダ生まれのホリデー施設で、英国内にはロンドン近郊のベッドフォードシャーのウォーバン・フォレスト、英南西部ウィルトシャーのロングリート・フォレストほか5ヵ所ある。どこも森に囲まれた自然たっぷりの環境。センターパークの良いところは、子ども用のアクティビティがたくさん用意されていること。巨大温水プールのほか、サイクリング、アーチェリー、テニス、ミニゴルフ、サッカー、幼児向けの工作教室、料理教室など盛り沢山! 子どもを預けることもできるので、大人だけでジムやスパに行ったり、カフェやレストランでゆっくり過ごしたりすることもできる。
仲の良い友達家族と一緒に出かけて、ロッジやアパートメントをシェアして割安に済ませるのもいいかも。費用は決して安いとは言えないが、家族全員たっぷり遊べるので充実度は高いだろう。

体験レポート

英国でのキャンプはここが楽しい!

【ケース①】
F子さんの場合
キャンプ地:コーンウォール
キャンプ・スタイル:テント
人数:家族4人
日程:6月5日~9日
キャンプ歴:7年
コーンウォールへ4泊5日のキャンプに行ってきました。
コーンウォールは、何度行っても好きな場所です。残念ながら、天気は最悪の予報。英国でのキャンプで辛いのは、やっぱり雨。雨が多い国なので、降らないわけがない。普段は滞在期間の半分ぐらいの雨は覚悟しているのですが、キャンプ期間中、全部雨マークなのは、やっぱりガックリ。英国人の夫に「英国だから雨は当たり前!」とあきれられてしまいました。とりあえず、テントを建てるときと、片づけるときだけ、天気が何とかなっていることを祈るばかり…。
ロンドンから出発して、車で約5時間ほど走ってコーンウォールに到着。今回は、セント・マイケルズ・マウント(写真上)、ランハイドロック・ハウス、エデン・プロジェクト、そしてセント・アイヴス、パドストウの町を見てまわりました。
途中、晴れた日もありましたが、やっぱり予報どおり雨。雨が降るとテントのなかはすごい音になります。大雨だと耳栓がないと寝られません。キャンプ場で気になる音は、雨と人の話し声かな。あと、テントのなかはそれなりに快適なのですが、雨が降っているとトイレやシャワーのブロックに行くのが本当につらい。レインコートを着ても、雨風に打たれながら帰って来ると足は濡れるし、テントのなかも湿気でジトッとした感じ。だんだん不機嫌になる私ですが、息子たちは楽しそうにボードゲームをしていました。
「雨の多い英国でキャンプするのは嫌だ! ママはやっぱりホテルが好き!」と言ったら、夫と息子たちは「僕らは雨でもテントが好きだよ。濡れるのもキャンプの醍醐味のひとつ」という反応でした。
今回のキャンプで学んだことは、雨の日はできるだけ手を抜いて、レストランで食べるということ。雨風のなか、無理して料理するより、少しでもドライで暖かい場所でご飯を食べる方が幸せを感じられるから。
出発の日は雨が上がって、無事にテントをたたみ、荷造りして帰りました。たくさん文句も言いましたが、終わってみたら、良いホリデーになりました。ホリデーは何であれ、楽しい。雨であれ、嵐であれ…。その瞬間には、いつも楽しいことを発見できるような気がします。

Carlyon Bay Camping Park
www.carlyonbay.net
1泊2人分の基本料金:£15~38

【ケース②】
T子さんの場合
キャンプ地:ドーセット
キャンプ・スタイル:キャンピング・カー
人数:家族3人
日程:8月3日~7日
キャンプ歴:3年
昨年8月初旬、、ドーセットのウェアラムにあるキャンプ場で、4泊5日のキャンプを体験しました。
今回はキャンピング・カーを利用。家族みんなで使えるように、義両親と共同で購入しました。このキャンピング・カーは2人用なので、車の隣りにテントも建て、寝るときはテントを使うようにしました。本当は4人用のキャンピング・カーを買いたかったのですが、小型の車の方が何かと小回りも効くし、道幅の狭いカントリーロードを運転するときも心配しなくて済むので、結果的には正解でした。
ウェアラムのキャンプ場を選んだのは、敷地内に屋外プールがあるため。気温は20度くらいだったものの、英国人は平気で泳ぎます。子どもも毎日泳いでいました。プールのほかにも、子ども用のプレイエリアがあり、売店では毎朝焼きたてのパンが買えます。シャワーはたっぷりお湯がでて、トイレも清潔でした。
キャンプ場の裏手にあるウェアラム・フォレストを散策したり、プールの町で海水浴をしたり、ダードルドア(最初の写真)とラルワース・コヴまで出かけたり、キャンプ場を拠点にいろいろな所に行きました。
滞在中は、ほぼ毎日自炊でした。近所のスーパーまで出かけて買い出しをします。1日目の夜はバーベキューもしました。野外で炊事して食べる食事は、ことさら美味しく感じられます。キャンプ場のなかでは、子どもだけで夜遅くまで自由に遊びまわれるのがいいですね。子どもも大人も大満足のホリデーでした。

Wareham Forest Tourist Park
www.warehamforest.co.uk
1泊2人分の基本料金 :£15.30~43.30

【イングランドの国民的スポーツ】クリケット観戦に行こう![Cricket]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2017年6月1日 No.986

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【イングランドの国民的スポーツ】クリケット観戦に行こう!

イングランドの国民的スポーツ

クリケット観戦に行こう!

美しい芝生でプレーが行われ、途中にはティータイムまであり優雅な雰囲気漂う英国発祥のスポーツ、クリケット(cricket)。別名「紳士のスポーツ」とも呼ばれる。その存在に憧れを感じつつも、時には数日間に及ぶなど試合がとにかく長く、「ルールが複雑でよくわからない」…と敬遠してしまいがちなスポーツでもある。そこで、せっかく英国にいるならばクリケット観戦を楽しんでみたい! という人のために、試合を理解するためのヒントと観戦レポートをお届けする。

●サバイバー●取材・執筆・写真/ホートン秋穂・本誌編集部

春~秋は、とにかく試合が目白押し!

どの試合を観る?

春から秋にかけて、英国では週末ともなるとあちらこちらでクリケットに興じる人の姿を目にすることができる。球技としての競技人口はサッカーに次ぐ世界第2位であり、4年に1度のワールドカップでは10万人規模のスタジアムで人々が熱狂し、世界で10億人以上がテレビ観戦するという。イングランド代表戦から国内のカウンティ(州別対抗)リーグ、女子や16歳以下のジュニアリーグ、地元の草野球レベルのチームリーグなど幅広いレベルで試合が行われる。これだけ多岐にわたると、何を見ればよいのか初心者には見当もつかないかもしれない。まずは競技会の種類を抑えておこう。

国際戦

「ジ・アッシューズ」に代表される イングランド・ナショナルチームの試合
ICC(インターナショナル・クリケット・カウンシル)には現在約30ヵ国が加盟し、各種試合が行われている。その中でも、厳しい条件をクリアしたテスト・カントリーと呼ばれる10ヵ国のみで繰り広げられるのが伝統的なテストマッチ(国際試合)。そもそもテストマッチとはイングランド対オーストラリアの定期戦の呼び名だったため、特に時期を区切ったり、10ヵ国間で優勝を決めたりすることはない。2ヵ国間で行われ、各国チームは他の9ヵ国それぞれを相手に、1つずつある「タイトル」を競う。最大5日間かけて催され、クリケットの試合の中では最も伝統と格式がある競技会とされる。
また1975年からは4年に1度ワールドカップが開催されている。テスト・カントリー10ヵ国に加え、予選を通過した国が優勝を競う、1日試合形式のワン・デイ・インターナショナル(以下、ODI/試合形式については、下記参照)の最高峰といえる大会だ。
テストマッチの中でも、「ジ・アッシューズ(The Ashes)」と呼ばれるイングランド対オーストラリアの試合は、最古の歴史と伝統を誇り、最も盛り上がる試合のひとつである。しかし、チケットは入手困難を極める。次戦は今年11月に開幕するが、オーストラリアで開催予定なので生で観戦するのは難しい。そこで今年のおすすめは、イングランド対南アフリカのテストマッチ(7月6日~)、もしくはODI、T20(下記参照)の観戦だ。格上の南アフリカを相手にイングランドがどう戦うか、レベルの高い試合が期待できる。ただし、こちらもチケットは人気なので予約は早めに済ませたい。テストマッチよりはODI、T20の方が取りやすい。
またロンドンには、2大グラウンド「ローズ(Lord’s Cricket Ground)」=タイトル写真=と「ジ・オーヴァル(The Oval)」があり、クリケットの聖地とされるローズよりも、ジ・オーヴァルの方が収容人数も多いのでチケットは取りやすい。だが、由緒ある雰囲気の下で試合を楽しみたいなら断然、ローズを推したい。

テストマッチ・世界ランキング
(男子 2017年5月現在 ICC発表)
1位 インド、2位 南アフリカ、3位 オーストラリア、 4位 イングランド、5位 ニュージーランド、6位 パキスタン、7位 スリランカ、8位 西インド諸島、9位 バングラデシュ、10位 ジンバブエ

クリケットの聖地

ローズの舞台裏ツアーに参加しよう!

200年以上の歴史を誇るローズ・クリケット・グラウンドでは毎日、一般見学ツアー(100分)が催行されている。ピッチを眺める観覧席に加え、MCCのメンバーや選手だけしか入れない瀟洒で優雅な佇まいのクラブハウス、選手の汗の匂いがかすかに感じられるロッカールームにも案内される。建物の歴史に関する説明だけでなく、ユーモアたっぷりに語られるクリケットこぼれ話に耳を傾ける充実の内容だ。
特に圧巻は「ロング・ルーム」と呼ばれる広間=写真右。大きな窓からは目に眩しい緑の芝生のグラウンドが広がり、思わずため息がもれる美しさ。壁にはクリケットにまつわる18世紀~21世紀にかけての絵画が多く飾られ、さながら美術館を訪れるような感覚で楽しめる。MCCは1998年まで女性の入会を認めていなかったので、このロング・ルームに入れる女性はただ一人、英女王だけだったという。
敷地内にはクリケット博物館もあるので、ツアーの開始前に見学するのもおすすめ。ツアーではその中でも特に有名な「ジ・アッシューズ」のコーナーの丁寧な説明が行われる。香水瓶をトロフィーに見立てたとされるテラコッタ製の優勝杯=同左=の実物は10センチほどのサイズで想像以上に小さくてびっくり。オリジナルのトロフィーがこの博物館のガラスケースを出ることはなく、実際に試合で選手が掲げるのは精巧にできたレプリカなのだとか。レプリカは敷地内のショップで販売されているので、お土産におひとついかが?
Lord's Cricket Ground
St John's Wood, London NW8 8QN
ツアー料金: 大人20ポンド 子供(5~15歳)12ポンド
※ツアーは、試合当日・試合準備日など特定日を除いて毎日開催される。
www.lords.org/lords/things-to-do/tours-of-lords/

国内線

気軽かつ本格的なファーストクラス・カウンティ・チームの試合
国際試合の場合、人気の試合になるとチケット代は最低100ポンド以上というものも珍しくない。もっと気軽に懐にも優しく、レベルの高い試合を見たい場合は全18チームからなる国内ファーストクラス・カウンティ・チームの試合がおすすめ。チケット代も席を選ばなければ20ポンド程度とお手頃だ。テストマッチに相当する国内最高峰で4デイマッチのリーグ戦、カウンティ・チャンピオンシップ、もしくは1日試合形式のワンデイ・カップがある(ともに2部制)。
カウンティ・チームでの活躍をもとにイングランド代表選手が選ばれるので、未来のスターをいち早く発掘する気分で観戦するもよし、自分の地元チームを応援するもよし、だ。ちなみにこのカウンティは現在の行政区分ではなく、18世紀にカウンティ対抗で試合が行われた当時の歴史的区分が適用されている。現在のロンドンはミドルセックスとサリーに区分される。ローズはミドルセックスの、ジ・オーヴァルがサリーのホームグラウンドとなっている。また一説によると、注目の一戦はヨークシャーとランカシャーの戦い。15世紀の薔薇戦争にちなみ、その名もローゼズ・マッチ(Roses Match)と呼ばれている。歴史的な因縁がクリケットにも持ち込まれるとは、いかにも英国らしい。

ファーストクラス・カウンティ・チーム(2017年)…[1部] Surrey, Hampshire, Yorkshire, Essex,Lancashire, Middlesex, Somerset, Warwickshire/[2部]Nottinghamshire, Kent, Gloucestershire, Worcestershire, Northamptonshire, Glamorgan, Sussex, Derbyshire, Leicestershire, Durham

草の根レベル

地元密着型マイナー・カウンティ・チームの試合
公式戦扱いにはならない、アマチュアの試合としてマイナー・カウンティの試合がある(現在、20のカウンティが登録中)。たとえば筆者の住むハートフォードシャーのクラブはこのマイナー・カウンティに位置づけられる。ハートフォードシャー内だけで約127のアマチュア・クラブがあり、1つのクラブでもレベルや年齢別に複数のチームが存在する。このアマチュア・クラブ内からハートフォードシャーの代表選手が選ばれ、他のマイナー・カウンティ代表チームと対戦する。
こちらも3日間行われる試合と1日完結型の試合がある。ジュニア・チームの試合にはファーストクラス・カウンティ・チームのスカウトマンも訪れ、将来のスターが発掘されるケースもあるという。例えば現イングランド代表のスティーブン・フィン(下記参照)は、ハートフォードシャー出身の選手。地元の小さなクラブのジュニア・チームでプレーしていたところをミドルセックスにスカウトされ、16歳という史上最年少で公式戦デビューを飾った。
観戦はもちろん無料。観覧席もない簡素なグラウンドが多いせいか、ピクニック・チェアやラグ持参で観戦する人も少なくない。草野球を見る感覚で気軽に観戦できるのがアマチュア・リーグの最大の魅力といえる。

格式重視

名門クラブ MCCの試合ほか

黄色と赤のストライプが特長的なジャケットや帽子は、
MCCのメンバーの証。写真はローズにあるショップ
(購入は会員のみ)。
英国のクリケットを語るときに外せないのがメリルボン・クリケット・クラブ(MCC)の存在。ローズはミドルセックスのホームグラウンドであるのと同時にMCCのホームでもある。MCCは1787年に設立された現存する最古のクラブで1万8000人の会員を有する。会員になるにはウェイティングリストで29年待ちという超名門。MCCが定めたルールは世界中でクリケットの公式競技規則として採択され、今日もクリケット競技の規則を管理・裁定する最も権威ある機関としての役割を果たしている。
ローズを舞台にこのMCCがプレーするクリケットの試合やオックスフォード大対ケンブリッジ大の試合、2大名門パブリックスクールのイートン校対ハーロウ校の試合は古き良き英国の伝統試合をその目で見たいという人におすすめ。

試合形式をチェック!

近年では短時間で決着をつける形式のものが登場。多様化の兆しが見られ、人気を集めている。

テストマッチ/カウンティマッチ

伝統的な国別・カウンティ別対抗戦の試合形式。球数無制限の2イニング制を採用。カウンティマッチは最大4日間、テストマッチは最大5日間で勝敗が決まる
スピード感を例えると?…チェス

ワンデイ・インターナショナル(ODI)

50オーバー(300球)限定1イニング制で行われる国別対抗戦。試合時間はおよそ5~6時間程度となる。ワールドカップもこの形式で行われる
スピード感を例えると?…ゴルフ

トゥエンティ・トゥエンティ(Twenty20)

2003年に登場した短時間で終わる試合形式。20オーバー(120球)限定1イニング制を採用、1試合2時間半程度で終了する スピード感を例えると?
スピード感を例えると?…テニスまたはサッカー

シックス・ア・サイド(6-a-side)

6人制クリケット。5オーバー(30球)限定1イニング制で、1試合50分程度で終了する。公式の試合ではあまり見られないスタイル
スピード感を例えると?…テニスまたはサッカー

ここだけ押さえればおそらく(!?)わかる!

初心者向け 観戦のヒント

イニング  10人アウトで攻守交替

試合は1チーム11人の2チームで行う。先攻チームが10人アウトになると1回表終わり。後攻チームも同じく10人アウトになると1回裏が終了。この「回」を【イニング】という。テストマッチなど正統な試合は1試合2イニングからなる。
守備は投手 【ボウラー】と捕手 【ウィケット・キーパー】以外の9人の野手【フィールダー】であたるが、各ポジションは、戦略に合わせて自由に配置でき、いつでも変更できる。
通常、後攻チームが逆転した時点またはイニングが終了した時点で得点が多いチームが勝利、同じ得点であれば引き分けとなる。ただし、テストマッチやカウンティマッチの場合、一方のチームが得点上でどれだけリードしていても、試合期間中に2イニングを終了させることができなければ、つまりアウトが取れずに試合時間が終了すれば、「引き分け」になってしまう。どこまで得点をリードし、いかに早く相手をアウトにするか、得点で負けていてもどうすれば粘って引き分けに持ち込めるか、時間、天気(雨天で試合が中断し、そのまま試合終了となる場合もある)、選手のコンディションなどを考慮した総合的な頭脳プレーが求められる。これはキャプテンに負うところが大きい。
数日間に及ぶクリケットの試合がチェスの試合に例えられるのはまさにこうした戦術上の駆け引きがあるからといえる。
クリケットのポジション説明

ラン  2人の打者が走って、場所が交替できたら1点

常に2人の打者 【バッツマン】 がピッチに入り攻撃を行う。1人がアウトになると、次の打者と交代する。バッツマンはアウトになるまでグラウンドに立ち続けるが、アウトになると同一イニングで再び打席に立つことはできない。
打撃後やウィケット・キーパーがボールをそらしたときなどに2人のバッツマンがバットを持ってお互いのバッターボックス【クリース】めがけて走る。これを【ラン】と呼び、守備側の返球で【ウィケット】(上図参照)を倒されるよりも早く、2人ともバットか体の一部がクリースを越えるごとに1点 (往復で2点)が入る。どちらかがアウトになると得点にならない。ボールを打っても、返球までに場所を交替するのは間に合わないと判断したら走らなくてもよい。声を掛け合うなど、2人の打者のあうんの呼吸が求められる。
バッツマンはウィケットを倒されなければ、空振りを何回してもアウトにならない。野球のようなファウルゾーンがなく360度どこへでも打撃可能。
また野球にあるデッドボールというものがなく、身体にボールが当たっても「痛いだけ」で試合には何の影響も与えない。ただしバッツマンが足で投球がウィケットに当たるのを防いだとされる場合にアウトにされるレッグ・ビフォー・ウィケット【LBW】というものもある(LBWには細かい条件があり、審判が判断)。

バウンダリー  越えたら4点もしくは6点

クリケット場の中央には両端がバッターボックスになっている長方形の場所【ピッチ】があり、このピッチのまわりで野手【フィールダー】が守備にあたる。それをさらに大きく楕円状に取り囲む形でロープが置いてある。これが【バウンダリー】でバッツマンが打ったボールが地面を転がりながら、あるいはワンバウンド以上で越えた場合、自動的に4点【4ラン】の得点となる。野球のホームランのようにノーバウンドで越えると6点【6ラン】の得点となる。このバウンダリーを越えない場合はバッツマンらが懸命に走って得点を稼ぐことになる。

アウト  フライを捕るか、ウィケットに命中させて倒すか

クリケットのユニークな特徴は、打撃だけが「攻撃」ではない、という点である。ウィケットのベイル(下図参照) が落ちるとアウトになるので、ボウラーはウィケットを狙って投球。バッツマンはアウトをとらせないために、ウィケットを守るためにボールを打ち返す。守備側はとにかく打撃チームのバッツマンを早くアウトにし、得点を少なく抑えなければならない。
以下①~⑤が代表的なアウト。1イニングの攻撃は10人アウトになると終了。
①ボウルド (bowled)
ボウラーの投球でウィケットが直接倒された場合
②コート (caught)
バッツマンの打ったボールがノーバウンドで捕球された場合
③ランアウト (run out)
バッツマンが走っている間にボールがウィケットに戻り(送球により、または捕球したフィールダーがボールを持った手で触れて)、ウィケットが倒された場合
④スタンプト (stumped)
反則投球でない投球に対しポッピング・クリース※(打者線)の外でボールを空振り、または見逃し、そのままランを試みぬまま、ウィケット・キーパーが捕球したボールをグラブごとウィケットにあて、ウィケットが倒された場合に宣告されるアウト。スピンのかかったボールを打ちに前に出てミスショットした際によく見られる。※ポッピング・クリース(下図参照):バッツマンが打撃するときにはこの線をまたがないとアウトになってしまう。ノンストライカーにとっては野球で言うところの塁の役割になり、この線の中にバットか身体の一部を入れていないとアウトになる
⑤LBW (Leg Before Wicket)
バッツマンが足を使って、投球がウィケットに当たるのを防いだとされる場合
クリケットの説明

オーバー  6球投げたらひと区切り

通常、1チームにはボウラーが4人ほどいる(最低2人)。1人のボウラーは必ず、6球続けて投げなければならない。この6球を投げる間に何人アウトにしようと得点が何点入ろうと関係なく6球投げ切る。6球(これを1オーバーと数える)が終わると、別の投手がもう一方のクリース側から投げる。1オーバーごとにウィケット・キーパーは場所を変えることになる(ウィケット・キーパーは各チームに1人のみ)。
また投手によって速球専門【ファスト・ボウラー】、変化球専門【スピナー】とさまざまに異なるので野手たちもキャプテンの指示に従い、守備位置を変える必要がある。さらに1オーバーごとに2人の打者はピッチの中央で短い作戦会議を開くので、全員が位置変えしているような印象を受ける。

試合の流れを知る、観戦レポート

実録!観戦に出掛けた!

では「実際にクリケットの試合を見に行こう」ということで、筆者と編集部Cさんとでローズで行われたカウンティ・チャンピオンシップ、ミドルセックス対エセックスの全4日間の試合の3日目を観戦することになった。しかしこのふたりではクリケットのド素人なので少し心もとないため、幼い頃からクリケットに親しみ、40代後半になっても地元ハートフォードシャーで毎週末クリケットの試合に明け暮れる英国人のN氏に案内役となってもらった。
まず、チケットを買うところからN氏の指南を仰ぐことになった。何日もあるクリケットの試合、何日目を買えばいいのか、どこの席を買えばいいのかがわからない。N氏曰く、個人的には試合の勝敗が決まりそうな2日か3日目がおすすめで、座席も人によって好みがあるけれども一般的にはボウラーの後方にあたる席が人気とのこと。理由は、変化球や速球など投手によって異なるボールの動きが見えるポジションだからということらしい(実際、ボールが速すぎて筆者にはよくわからなかった…。観戦を重ねるうちにきっと見えてくるようになるのだろう)。
試合開始は午前11時だが、10時頃に到着したため、選手が試合前の調整を行う練習グラウンドにまず足を向ける。意外だったのは、選手がウォーミングアップでフットサルを行っていたことだ。練習場の出入り口では選手のサインをもらうために熱心なファンがじっとお目当ての選手が出てくるのを待つ。中には選手名鑑に付箋をいっぱいつけたサインコレクターと思しき年季の入った男性ファンも存在。サインには気軽に応じる選手が多かったのも印象に残った。

ウォーミング・アップ後の選手から
サインをもらう熱心なファンの姿が見られた。
そして午前11時に試合開始。とはいっても、前日からの続きなので試合に出かける前には途中経過を頭に入れておくことが肝要だ。前日までの試合状況がわかるスコアシートは場内にあるスタンドにて1ポンドで販売している。バッツマンの打順や誰が何点得点したかが記されているので手元に持っていると便利。
すでに1日目と2日目で先攻のミドルセックスが1イニング目半ばで507点という大量の得点を達成。戦略的にエセックスにこのイニングで追い抜かれることはないだろうと判断し、7人がアウトを取られた段階で自ら「ディクレア(declare)=これ以上、攻撃の必要なし」をして攻撃を終了したため、エセックスの攻撃が始まり4番目の打者がピッチに立ったところで3日目は幕を開けた。
駆け引きのポイント

ミドルセックスはカウンティ・チームの中でも強豪のチームであるのに対し、エセックスは今年2部リーグから1部リーグに昇格したばかりの格下の相手。N氏によれば、「ミドルセックスは早く相手をアウトにして、2イニング目に持ち込みたいところ。一方、エセックスは得点で追いつくというよりも『アウトを取らせず、時間的に粘って引き分けにもっていきたい』」とのこと。これがこの試合の見どころとなる両者の駆け引きなのだよ、とN氏は説明してくれた。
実際、その言葉を裏付けるようにミドルセックスの野手は「攻め」の守りが目についた。ボウラーが投球すると同時にぐっと打者に近寄り、少しでもボールがチップしてフライになればそれをキャッチするぞ、という勢いで守るのだ。ボウラーや打者の特徴によって守備のフォーメーションは変わるらしく、その指示はキャプテンが声を出して行う。

野球のように頻繁にアウトが取れるわけではないので、
いざアウトが取れると、選手らは大きな声をあげて称え合う。
試合が盛り上がっているのかいないのかは、なかなか打者もアウトにならないし、得点もゆっくりとしか入らないので、正直わかりづらい。時折、ボウラーがウィケットを狙って投球して外れたときやフライをキャッチしそこねたときなどに客席から漏れるため息などによって、「あ、今は見どころだったのだ」ということに気づく。得点を期待して観戦というよりは、いつどんな風にアウトになるかということを人々は待ちわびているような印象をもった。
観覧席に座る人々も日本の野球と違い応援団もおらず、誰がどちらのファンかということはまったくわからない。本や新聞を片手にのんびりピクニック気分で観戦する人が多いのもクリケットの特徴かもしれない。

観客席はリラックスした雰囲気。
上の近未来的な建物はメディア・センター
ランチ休憩は午後1時から40分間で、午後のティータイムは午後3時40分から20分間。場内には軽食やアルコールなどの飲み物が買えるスタンドも複数ある。
筆者らはエセックスが10アウトを取られ、イニングが変わるタイミングでスタジアムを後にしたが、後日のニュースを見たところ、翌最終日は途中で雨天中止となり試合終了。点数だけではミドルセックスの圧勝に見えるが、2イニング目で10アウトを取ってイニングを終了させることができなかったので、結局は引き分けになり、エセックスにはラッキーな結果となった。
N氏の話を聞きながら、戦略が少し見えるようになると、細かいところまでは理解できないものの、頭脳戦としてのクリケットの醍醐味に触れることができ、多くの観客を惹きつける理由がよくわかった。また、好天の下、屋外で気持ちよく風に吹かれながらのクリケット観戦は不思議と心地よい時間となった。

イングランド・クリケット界イケメンをチェック!

Alastair Cook(32)

前イングランド・ナショナルチーム・キャプテン(2012年~2017年2月)、エセックス所属のバッツマン。吸い込まれるような黒い瞳をもち、そのソフトで甘いマスクに女性らが心をときめかせる。
Steven Finn(28)

ミドルセックス所属の速球専門ボウラー。ナショナルチームでも活躍中。2メートルの長身イケメン。爽やかな笑顔と力強い投球に思わず胸キュン。
Stuart Broad(30)

ナショナルチームに所属するボウラー。金髪、青い目のクラシックな美男子。ハリポタ映画のドラコ・マルフォイに似ていることからマルフォイというあだ名で呼ばれることも。
Chris Jordan(28)

バルバドス出身でナショナルチームのオールラウンダーとして活躍。インドのプロリーグにも所属している。引き締まった精悍な黒い肌と真っ白な歯のこぼれんばかりの笑顔にグッとくる女性も多いはず。
James Anderson(34)

ランカシャー所属のボウラー、ナショナルチームにも所属。少年のような茶目っ気のある笑顔と野性的な顔立ちが魅力のハンサム・ボーイ。

【激突 スペイン VS イングランド】無敵艦隊、壊滅への道(前編) [Battle of Armada]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2017年6月29日 No.990

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激突 スペインVSイングランド 無敵艦隊、壊滅への道(前編)

激突 スペインVSイングランド

無敵艦隊、壊滅への道(前編)

エリザベス1世が即位した16世紀中頃のイングランドとは、まだ弱小国のひとつでしかなかった。
その一方で、世界最強国家スペインとは、巧みな外交によって辛うじて友好関係を保っていた。
しかし、いつしか両国の間には不気味な暗雲がたちこめ始める。
王位継承問題や宗教紛争、さらには経済摩擦。両国君主は最後まで戦争回避の道を模索する。
残念ながら全てのオプションは尽き、戦争はもはや不可避となった。
超大国スペインと弱小国イングランド。
その激突までの道のり、そして激突の瞬間を、前編と後編でつぶさに見てみることにしたい。

●サバイバー●取材・執筆/手島 功

世界を分け合ったスペインとポルトガル

1529年春、日本列島はスペインとポルトガルによって東西に分断され、両国による日本進出優先権もローマ教皇によって承認された。二国間で交わされた『サラゴサ条約』によるものだ。
スペインに先駆けてイスラム勢力を駆逐し、いわゆるレコンキスタ(国土回復運動)を終えていたポルトガルは、東方の豊かな香辛料を求め、インドへの航路開拓を模索していた。それ以前にもアジア産の香辛料はヨーロッパに届いていたが、インドから内陸を運ばれてくる胡椒やクローブといった人気の香辛料は、間に商人が入る度に利益が上乗せされ、ポルトガルに届く頃には胡椒1グラムが銀1グラム相当にまで、末端価格が跳ね上がっていた。しかもそれが、ライバルであるヴェネチア商人やイスラム商人たちの懐を肥やしている訳である。後に航海王として歴史に名を残すこととなるエンリケ王子は、自分たちだけで直接、産地から香辛料を手に入れるためには、インドへの航路を拓く以外ないとの思いに至り、次々と冒険者たちをアフリカの先へと送り込んだ。
1488年、バルテロメウ・ディアズがまずは喜望峰に到達。その10年後にはバスコ・ダ・ガマがインドにたどり着き、遂に喜望峰経由のインド航路の開発に成功、仲買人を排除した香辛料貿易でポルトガルは莫大な利益を上げていく。
一方、1492年にレコンキスタを終えたスペインも、ポルトガルの後塵を拝しながらも外洋に船団を送り出し、やがて両者は世界各地で激しい衝突を始める。
度重なる利権争いによる激突の末、1494年に両国間で話し合いが持たれ、大西洋の真ん中あたりに一本の線を引き、この線より東をポルトガル領とし、この線より西の開発優先権をスペインに与える、ということで当面の決着をみた。これがトルデシリャス条約と呼ばれるものであり、これをローマ教皇も承認した。下記の図を見ると、南米大陸中、なぜ現在もブラジルだけがポルトガル語圏で、その他はスペイン語圏となったのかが理解できる。

サラゴサ条約によって、地球はスペイン領とポルトガル領に二分された。
迷惑な話だが、この後、遅れをとって世界に進出するフランスやオランダ、そしてイングランドにとり、
誠にやっかいな条約として立ちはだかることとなる。
1522年、そのトルデシリャス条約に矛盾を生じさせる事態が発生する。マゼラン一行の生き残りが世界周航を遂げて帰国したのである。それまで、何となく「地球は丸い」のではないかと思われてきたものが、彼らが地球を一周して帰ってきたことで、地球の丸さは確実となった。
地球が球体である以上、スペインがどこまでも西に進み、ポルトガルがどこまでも東に進むと、当然のことながら、どこかで両者は再びぶつかり合うこととなる。
二国による二度目の話し合いが持たれ、その結果、東にもう一本の線が引かれることとなった。東南アジアにはヨーロッパで人気のクローブやナツメグといった香辛料を産するモルッカ諸島(現インドネシア領)があり、当然ながらこれの奪い合いとなった。結局、ポルトガルがスペインに賠償金を支払う形でこれを獲得。これによってポルトガルは、アジア貿易での利権をとりあえず確保した。東側の境界線とは、そのような都合でモルッカ諸島のわずか東側、ちょうどニューギニアを縦半分に割る辺りにサクッと引かれた。その子午線上を北にツツッと指でなぞって行くと、やがてそこには日本列島が現れ、その指は三陸沖をかすめて北海道の真ん中を抜けていく。のちにまた両国が優先権を求めて激突することになる日本だが、当時はまだ日本の正確な地図はヨーロッパにはなかったため、このような大雑把な結果となった。これが冒頭で述べた『サラゴサ条約』であり、これも正式にローマ教皇の承認を得た。
ポルトガルとスペインが勝手に線引きをし、それをローマ教皇が承認したというだけの話で、当然ながら時の室町幕府がそれを知る由もない。
二つの条約の末、得をしたのはポルトガルとスペイン、どちらであったか。条約締結時の事情だけで言えば当時、金のなる木であった香辛料を抑えたポルトガルであった。しかし後にスペインは、中南米や北米の一部に加え、ブラジル以外の南米大陸を好き放題に蹂躙した末に、豊富な銀や金を蔵するポトシ銀山などを発見し、スペインに巨万の富をもたらした。さらにスペインは1580年にそのポルトガルすらも併合。当時、世界地図を二分していた勢力が一かたまりとなり、スペインはまさに「太陽の没することのない帝国」へと突き進んでいく。

血まみれメアリー

チューダー朝の2代目国王となったヘンリー8世=左上=と、
その長女メアリー・チューダー(後のメアリー1世)=左下。
そしてスコットランド王ジェームズ4世に嫁いだ
ヘンリー8世の実姉マーガレット・チューダー=右上=と、
その孫メアリー・スチュアート=右下。
エリザベスはやがて、この腹違いの姉といとこの子供、
『2人のメアリー』と激しく対立していく。
16世紀の初め頃、スペインの人口は800万程度。フランスは1500万ほどであった。一方のイングランドはウェールズを併せてもわずかに300万人前後で、この当時のイングランドとは名実共に弱小国であった。
弱小国の宿命として当時のイングランドはスペインやフランスといった大国に飲み込まれないよう、どちらともつかず離れず、微妙な関係を保っていた。しかし、チューダー朝の初代国王となったヘンリー7世は、北方で対立するスコットランドがフランスに接近して脅威が増していたため、若干スペイン寄りへと舵を切っていく。まずはアラゴン(カスティーリャと合併してスペインを形成した一国家)の王女キャサリンを、長男アーサーの妃として迎えた。この時アーサー15歳、妻は16歳であった。翌年、アーサー病死。スペインとの関係を重視したヘンリー7世は、わずか17歳にして未亡人となったキャサリンと、次男坊を再婚させることにした。この次男坊こそが後のヘンリー8世である。
ヘンリー8世即位と同じ年、地味ながらも英国史にとって重要なもう一つの政略結婚の話が整っていた。ヘンリー8世の実姉であるマーガレット・チューダーが、スコットランド王、ジェームズ4世の元に嫁いだのである。後にこの家(スチュアート家)から誕生する一人の女性がスペインとイングランドの間に、修復不能な深い溝を刻み込んでいくこととなる。

メアリー1世(1516~58)
庶子の座へと転落させられたどころか、
エリザベスの母、アン・ブーリンによって
「エリザベスの世話役」という屈辱的な仕事まで与えられた。
当然、エリザベスとは不仲で、彼女が自身亡き後の後継者を
エリザベスと認めたのは、その死の前日であったと言われる。
まもなくキャサリンはヘンリー8世の子を身ごもった。生まれたのは女の子だった。後のメアリー1世である。
女性の君主が全く認められていない訳ではないものの、チューダー朝に取って代わろうとする内外の勢力に付け入る隙を与えず盤石な体制を固めるため、どうしても男子が欲しいヘンリー8世。あれこれと模索する中、フランス帰りで才色兼備と謳われたアン・ブーリンと出会って恋に落ち、この女性に王子を産ませたいと思うようになる。ところがローマ教皇は離婚を認めていない。ヘンリー8世はもともと熱心なカトリック教徒であったため、そのあたりの事情は重々承知していた。そのため「離婚が駄目なら」とウルトラC級の屁理屈をひねくり出した。それは「そもそもキャサリンは兄の妻であり、その兄嫁との婚姻自体、無効であった」というもので、当然ながらローマ教皇の猛烈な反対にあった。それにもかかわらずヘンリー8世は半ば強引にアン・ブーリンと結婚し、子までもうけてしまった。この子が後のエリザベス1世である。その翌年、自ら英国国教会の長となり、ローマ・カトリックから離脱。その4年後の1538年、ローマ・カトリック教会もヘンリー8世を破門した。
結婚を無効とされたことにより、キャサリンとの間に生まれたメアリーは婚外子、つまり庶子となり、王女、および王位継承権第1位の資格を剥奪され、不遇な日々を送ることとなる。

フェリペ2世(1527~98)
「書類王」とも言われ、ほとんどの時間を
スペイン・マドリッド郊外の
エスコリアル宮殿内の執務室で過ごした。
この絶対的な王は、みなぎる自信のためか、
報告は好きでも、他人の意見を必要としなかった。
エリザベスの周囲には、
脇を固める参謀たちの姿が数多見受けられるが、
どの資料を読んでも、
フェリペ2世の周囲にはもの言う側近の気配が
感じられない。
エリザベスを溺愛しつつも、やっぱり王子が欲しいヘンリー8世。謀反の罪などの名目でアン・ブーリンの首をはね、やがてジェーン・シーモアと再婚、この3番目の妻がやっと男児を生むことになる。これが5歳でヘンリー8世の跡を継いで即位することになるエドワード6世であった。しかし、エドワード6世はわずか15歳でこの世を去る。エドワード6世急逝により、思いがけず王位が転がり込んできた長女のメアリー。即位してメアリー1世となった。
メアリー1世はすぐさま、自分を庶子の身に貶めた英国国教会を棄て、イングランドを再びカトリック教国に戻そうと動き始めた。メアリー1世がヘンリー8世の嫡子としての正当な後継者であることを世間に認めさせるためには、彼女にとっての邪教、英国国教を棄て何がなんでもカトリック教へ回帰しなくては筋が通らないのである。
さらにメアリーは周到であった。母の出身地であるスペインの次期国王、フェリペ王子との縁組を勝手に整え、スペインの後ろ盾を得た上で、敬虔なカトリック教国イングランド再建への道を画策した。
フェリペ王子の父であり、神聖ローマ帝国のカール5世はこれを大いに歓迎した。ローマ・カトリックに反旗を翻した誠にけしからん邪教の国イングランドが、再びカトリック教を頂いた上に、向こうから『女王の配偶者』の席を用意して、おいで、おいでと手招きをしているのである。
自らをカトリック教会の守護者と自負するフェリペ王子自身にとってもメアリー1世との婚姻はハプスブルク家の十八番(おはこ)でもある婚姻による版図拡大のまたとないチャンスであった。それと同時に、道を外れたイングランド国民を正しい道(カトリック教)へと回帰させることで、北部ヨーロッパの宗教紛争も下火になるかもしれぬ。そういう意味では決して悪くない縁組であった。
一方のイングランド。このままでは大国スペインに飲み込まれてしまうのではないかと危惧する声が高まり、一部では反乱が起きるほどであったが、メアリーは構わずフェリペとの結婚を強行した。
その2年後の1556年にはカール5世の退位に伴い、フェリペ王子がフェリペ2世として即位。そしてここに、イングランド女王メアリー1世と、スペイン国王フェリペ2世という極めて政治的なカップルが誕生したのである。
イングランドをカトリック教国へと引き戻したメアリー1世は母親と自分を不遇の目に遭わせた英国国教会を憎み、これを弾圧しただけでなく、女こどもを含む300人ほどの新教徒たちを火刑に処した。そのため、彼女は後に新教徒たちから『ブラッディ・メアリー(血まみれメアリー)』という有難くない称号をもらい、さらにはその称号はトマトジュースとウォッカベースのカクテルに姿を変え、今も我々の喉にチリチリとした刺激を与え続けているのである。
もしもメアリー1世とフェリペ2世の間に子供が生まれていれば、英国は今もカトリック教国であった可能性も否定できない。しかし、歴史は2人の間に子を授けることはなかった。メアリー1世は子ども欲しさのあまり想像妊娠までするほどであった。しかし、結婚からわずか4年後の1558年、メアリー1世永眠。卵巣腫瘍だったと言われている。
そしていよいよ、エリザベスに王位がまわってきた。

燃え広がる宗教紛争

メアリー1世の逝去によりイングランド併呑の望みを絶たれたフェリペ2世ではあったが、世界に領土を広げた巨大国家スペインを統治する立場にあった彼は、多忙な日々を送っていた。
フェリペ2世は父、カール5世から広大な領土を譲り受けていたが、同時に莫大な借金も引き受けていた。植民地経営というのは大層、金が掛かるものである。『太陽の没することのない帝国』も内情は火の車であった。
財政難に頭を痛めるフェリペ2世にとって、さらなる頭痛の種があった。宗教紛争の拡大である。
発端は1517年、ドイツでルターが「九十五か条の論題」を提出したことに始まる。敬虔なカトリック信者であり神学者であったルターが、贖宥状(かつては免罪符と訳されていたもの)の濫発や教会の腐敗に危機感を覚えて書いた意見書であった。ところがそれはルターの思惑を飛び越えて、やがて新教(プロテスタント)という新しい考えにカタチを変え、北部フランス、ジュネーブ、ネーデルランドやイングランド、スコットランドなどに飛び火していった。
元々敬虔なカトリック信者であったヘンリー8世は、当初はルターを否定し、ローマ教皇より『信仰の擁護者』と称えられるほどだったものの、十数年後にはキャサリンと離婚してアンと結婚したいという全く個人的かつ、不純な動機でローマ教会から離脱、破門されて反カトリック側にまわった。

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16世紀 チューダー朝とスチュアート朝の複雑な相関関係
16世紀 チューダー朝とスチュアート朝の複雑な相関関係
カトリック教会の守護者を自認するフェリペ2世としては何としてでもこの邪教どもの拡大を阻止しなければならないのである。
そもそもなぜスペインはかくも頑なにカトリック教を護ろうとしたのか。
その理由の一つは、レコンキスタにある。レコンキスタを完成させるにあたり、ローマ・カトリックに改宗しないムーア人やユダヤ人を徹底的に国外に追放した。つまりレコンキスタとは、スペインの十字軍的気風の中で完成に漕ぎ着けたものであった。
もう一つの理由として、スペインがアラゴンとカスティーリャの両国がくっついて成立した国であるというところにある。政治、経済、文化が異なる二国を結びつける唯一の原理、いわば接着剤の役割を果たしたのがカトリック教であった。そのためスペインは圧倒的にカトリック教国でなければならず、それを乱す者は悪であり、徹底的な弾圧が行われたのである。
そして1568年、スペイン領ネーデルランドにおいて大規模な反乱が発生する。ネーデルランドは低地帯という意味であり、フェリペ2世がカール5世から受け継いだ領土で、この当時は現在のベルギー、ルクセンブルク、オランダのベネルクス三国のあたりを意味していた。
ネーデルランド生まれのカール5世の時代には、比較的緩やかな治世が敷かれ、自由を謳歌していたネーデルランドであったが、フェリペ2世の登場によって一変。民衆には重税が課され、恐怖政治に加え新教徒弾圧が始まる。民衆が反発するとスペインは直ちに本国から1万の軍を派遣し弾圧は激化していく。カトリック系住民の多かった南部ネーデルランドはやがて脱落。新教徒たちは拠点をアントワープからネーデルランド北部(以降、南部ネーデルランドと区別するためオランダと呼ぶ)のアムステルダムへと移し、スペイン軍に激しく抵抗を重ねていった。
それにしてもオランダ反乱軍の抵抗は予想以上に活発だった。世界最強と恐れられたスペインの正規軍と、ほぼ互角に渡り合っているのである。
ある日、現地から届けられた報告書に目を通したフェリペ2世の顔から一瞬にして血の気が引いていった。オランダの反乱軍に援軍を送り、これを陰で支えている者がいるとの報告であった。エリザベスである。
つい先ほどまでイングランドは、メアリー1世とフェリペ2世の婚姻によってスペインと親戚関係にあり、友好国のはずであった。そのイングランドが、かつての義理の妹エリザベスが、スペイン領土内の内乱に対して密かに兵を出し、こともあろうか反乱軍側に加担しているというのだ。これは一体どういうことなのか。
この時エリザベスは、父ヘンリー8世が始めた英国国教会へと戻そうとしていた。しかし国内にはカトリック教徒もまだまだ多い。従って無用な摩擦を避けたいエリザベスは中道路線を敷き、できる限り緩やかな形でそれを遂行しようとしていた。
しかし、海峡を隔てたオランダではスペインによって新教が激しく弾圧されている。仮にこれが制圧されるようなことがあれば、自称十字軍はやがて海を越えてイングランドにまで侵攻して来る恐れがある。エリザベスにとって、これを対岸の火事とする訳にはいかなかったのである。
フェリペ2世とエリザベスの間に生じた摩擦は、ここに来てきな臭い煙を立ち上らせていた。

もう一人のメアリー

メアリー・スチュアート(1542~87)
スコットランド女王の座に満足していれば、首と体が分離する、
などという屈辱的な最期を迎えずに済んだはずであった。
しかし、彼女が訴え続けたイングランドの王位継承権とは、
全くナンセンスなものであったのだろうか。
エリザベス没後、メアリーが残した一粒種のジェームズ6世が、
ジェームズ1世となってイングランド王をも継承した。
このことからも、彼女の訴えが、
決して突飛で無謀なものでなかったことが分かる。
ただ、やり方が拙劣に過ぎ、人望も無さ過ぎた。
メアリー1世が死の床にあった頃、フェリペ2世の瞳は妻であるメアリー1世を飛び越えて、スコットランドにいるもう一人のメアリーに向けられていた。
メアリー1世が死ねば、イングランドの王位継承権は我が手から水がこぼれ落ちていくようにたちどころに消えていく。ところがどうだ、スコットランドのメアリー・スチュアート。ヘンリー8世の実姉マーガレット直系の孫だ。父、ジェームズ5世がイングランドとの戦いで敗死したため、生後6日にしてスコットランド女王の座についていた。チューダー家の血を引く立派なイングランド王位継承者である。
フェリペ2世の理屈では、エリザベスはローマ教皇もお認めにならぬ、いわば不倫相手との間にできた娘、つまり庶子である。庶子に王位継承権はない。しかし、スコットランドの女王、メアリーは血統書つきの王位継承者なのである。おまけにカトリック教徒でもある。フェリペ2世は、メアリー1世亡きあとの次の妃としてスコットランドのメアリーに照準を合わせた。
ところがある日、まさに突然、フェリペ2世の構想は夢想に終わる。メアリーがわずか15歳にして、スコットランド女王の座はそのままに、フランスの王太子の元に嫁いでしまったのである。これでメアリーとの婚姻話は事実上消滅した。
それから少ししてメアリー1世が亡くなりエリザベスが女王となると、フランスに嫁いだメアリーはフェリペ2世と全く同じ理由でエリザベスの即位に異議を唱え、我こそが正当なイングランド王位継承者である、と鼻息も荒く主張を始めることとなる。
つい数ヵ月前までスコットランドのメアリーを狙っていたフェリペ2世は考えた。もしもメアリーの主張が通るようなことがあって、メアリーがイングランド王とスコットランド王を兼ねるような事態となれば、ブリテン島全体が自動的に宿敵フランスの同盟国となってしまう。それはスペインにとって、極めてマズイ展開であった。
そこで再びフェリペ2世は考えた。とりあえずここはエリザベス支持派のふりをして歩み寄ることにしよう、と。政略結婚のスペシャリストはさらに考えた。それではエリザベスが私の妻となるのはどうだ。この6つほど年下の独身女王が英国国教なる邪教を棄てて改心し、カトリックに改宗するのであれば夫婦となってやるのも悪くはない。そして今度こそ子を作り、やがてスペインに取り込んでいけばいいのだ。
エリザベスはフェリペ2世のこの申し出に対しイエスともノーとも言わず、のらりくらりの腹芸に徹し、これを巧みに時間稼ぎに利用した。
フランスに嫁いでから数年の後、メアリーが突然スコットランドに帰ってきた。夫であり、フランス国王となっていたフランソワ2世がわずか16歳で病死したのである。この時代、人がやたらと死ぬ。こんなに次々と人が死に、急展開を続けるストーリーは、むしろわざとらし過ぎて三文小説家でも避けて通りがちだが、この時代、冗談のように登場人物が次から次へと死ぬ。シェイクスピアもこのあたりに生まれる人だが、話のネタには困らない時代だったのかもしれない。
ここから先は短期間のうちに登場人物が死に過ぎて、小説なら編集者にボツにされそうな展開なのだが、間違いなく英国史の一遍である。駆け足で行くので、しばし我慢してお付き合いいただきたい。

ダーンリー卿(1545~67)
祖父は違えど、祖母は同じマーガレット・チューダー。
従ってメアリー・スチュアートとダーンリー卿は
従姉弟(いとこ)同士の関係であった。
周囲の反対を押し切って夫婦になった2人だったが、
蜜月は長く続かず、
やがてダーンリー卿(ヘンリー・スチュアート)は
他殺体で発見されることとなる。
20歳そこそこで未亡人となったメアリーは、早速お気に入りの貴族、ダーンリー卿と再婚を済ませる。このダーンリー卿という人物もメアリー同様、ヘンリー8世の実姉マーガレットの孫にあたる人物(ジェームズ4世の死去により再婚した先の家系。祖母は同じだが祖父が異なる)で、つまりダーンリー卿自身もまた、イングランド王位継承者の一人であった。この、チューダー家直系の血を引く2人の婚姻は、王位継承権の点からエリザベスにとって大変な脅威となった。
ところがエリザベスにとって幸いなことに、傲慢で嫉妬深いダーンリー卿の性格が災いし、2人はすぐに不仲となった。そしてメアリーはイケメンのイタリア人秘書と昵懇の仲となる。嫉妬したダーンリー卿は配下の者に命じ、このイタリア人をメアリーの目前で殺害させた。これによって2人の不和は決定的となる。ところがこの時、メアリーはそのお腹にダーンリー卿の子を宿していた。これがエリザベスの死後、ジェームズ1世となる人物である。
ジェームズ出産後、母親となって少しは大人しくなるのかと思えば、今度はボスウェル伯と親密になる。ある日、夫であるダーンリー卿が何者かの手によって爆殺される。その直後、ボスウェル伯はメアリーにプロポーズし、半ば強引に妻とした。
ダーンリー卿を殺害したのは誰か。

メアリー・スチュアートの愛人、イタリア人秘書のダヴィッド・リッチオは、
スコットランドのホリルード宮殿にて、メアリーの目の前で殺害された。男の嫉妬も怖い…。
誰もが1組のカップルの顔を思い浮かべるが、決定的な証拠がない。しかも女の方は曲がりなりにもスコットランド女王である。審議は困難を極めた。ただその『奔放』などという生易しい言葉ではもはや済まされない滅茶苦茶さに、メアリーは遂に旧教(カトリック)側の支持者すらも失っていた。そしてメアリーは捕らえられ、王位を剥奪された上で幽閉された。危険を察したボスウェル伯も国外へと逃げ落ちた。
ある日、幽閉先を脱出したメアリーはイングランドとの国境を越え、親戚にあたるとは言えつい数年前には側室の子で庶子だから王位継承は認めない! と牙をむいた、まさにその相手のエリザベスに庇護を求めるのである。
オランダ派兵などでただでさえ多忙なエリザベス。亡命者メアリーの扱いには手を焼いたが、とりあえずメアリーを緩やかな軟禁状態とし、それ以降、約20年にも渡って、この聡明なれど感情の抑制力に欠ける危険な女をイングランドで抱えていくことになる。そして事実、このメアリーこそが後に国を揺るがす大問題を起こし、エリザベスを窮地に追いやっていく。

海賊たちとの経済戦争

フェリペ2世にとって、英国国教とカトリック教の間を行ったり来たりするイングランドは、実に危険な存在であった。下手に介入してイングランド国民の反発を買えば、むしろイングランドの新教化は加速するであろう。かといって寛容過ぎてもまた新教化を許してしまう。どうしたものかと思案を巡らせるフェリペ2世であった。そのフェリペ2世をさらに悩ませる知らせが、遠くカリブ海の方から続々と届いてくる。
16世紀の初め頃から南米への進出を始めたスペインは、現地人たちを殺戮、あるいは奴隷として酷使していた。一方でカトリック教に改宗した現地人は奴隷として使ってはならぬとの通達が本国から届いていたため、労働力が不足しがちであった。その労働力の穴を補う名目でアフリカから大量に黒人が売られていく。
スペインの植民地に黒人奴隷を連れて行けば連れて行っただけ高く売れる。さらにカリブ海には金銀財宝を満載して本国に向かうスペイン船が往来している。
獲物を倒した獅子の上空には、ハゲタカが舞うものだ。南米という打ち出の小槌を手にしたスペインに、群がって利益を上げようとする連中が現れるのもある意味必然であった。
アフリカからの奴隷を南米各地のスペイン商人たちに売りつけた後、奴隷を降ろして軽くなった船でスペイン戦を襲い、金銀財宝類を根こそぎ奪い去る輩どもが出現した。ジョン・ホーキンズやフランシス・ドレークなどに代表されるイングランドの海賊たちであった。
彼らの名誉のために正確に表現すれば、彼らは私掠船(Privateer)の船長たちだ。私掠船とは国からの許可を受けた上で海賊行為、または私的な戦争を行う者たちの総称で、戦利品の一部を国家に献上する仕組みである。相手国側から抗議があった場合、国はその者どもを見捨てればよい。つまり国にしてみれば許可を出すだけで、彼らが海賊行為に成功して無事に戻ってくれば利益を得られ、失敗して全員が海の底に沈んでも痛くも痒くもない。相手国が訴えてきたら、「我、関知せず」とシラを切ればよいのである。国家にとって実に都合がよいシステムであった。また、私掠船も私的軍隊という体裁をとっていたので捕虜となった場合は海賊ではなく、軍人としての処遇を要求することが認められていた。
このような組織が当時は正式に認められており、イングランドのみならず、オランダやフランスも公然とこれをやっていた。先に述べたトルデシリャスとサラゴサ条約によって、世界地図から締め出しを食わされた海洋新興国が編み出した苦肉の策であった。

フランシス・ドレーク(1543?~96)
まだ若い頃、ホーキンズの遠征船に同行させて
もらって行った中南米の港で、
友好国であったはずのスペインからだまし討ちにあい、
大勢の味方を殺された上、
命からがらイングランドに逃げ帰った。
この日から死の間際まで、
スペイン人に対する憎悪が消えることはなかったという。
スペイン人から『エル・ドラケ(悪魔)』と恐れられるほどの存在となっていたドレーク。駐英スペイン大使からさんざん抗議を受けていたエリザベスであったが「あら、それはいけませんね、きつく叱っておきましょう」と、例によってのらりくらり作戦でかわす日々が続いていた。
1581年。ドレークは南米南端のホーン岬(ドレーク海峡)を回り、スペイン領の沿岸地帯を次々と襲って莫大な財宝を得ただけに留まらず、そのまま太平洋を横断し、先述のモルッカ諸島にも立ち寄って香辛料を満載した後、インド洋、喜望峰沖をひた走り、マゼラン隊に次ぐ世界周航を成し遂げ無事にプリマスに帰港した。
ドレークが持ち帰った戦利品は60万ポンド相当と言われ、ドレークはその半分をエリザベスに献上し、残りを自分を含め生き残った船員たちに等しく配分した。
駐英スペイン大使は、本来友好国であるイングランドの海賊が我が国の植民地や輸送船を襲撃した上、国家財産を奪うとは何事か、ただちにドレークらを捕らえてその首を差し出せと大変な剣幕で迫った。
後日、エリザベスはドレークを召喚した。
旗艦ゴールデン・ハインド号の甲板上で女王を迎えたドレーク。エリザベスは剣を抜き、ひざまずくドレークに向かい少々ドスのきいた声で囁いた。「スペイン王がそなたの首を早く寄越せと言っているのですよ」と。そして今度はその剣をドレークの肩にそっと置き、威厳を持った声で言い放った。

エリザベス1世(1533~1603)
現女王のエリザベス2世と並び称されることが多い
エリザベス1世だが、
当時はまだスコットランドやアイルランドが統合されておらず、
いわゆるグレート・ブリテン誕生前夜。
人口も、イングランドとウェールズを合わせても
300万人前後という小さな国家の元首に過ぎなかった。
「さあ、立ちなさい。サー・フランシス・ドレーク」
それはナイト叙勲の儀式であった。
ドレークが女王にもたらした30万ポンドとは、フェリペ2世を激怒させてでもナイトの称号を与えて良いほどに莫大なものであった。それはイングランドの国庫歳入の半分に相当した。もっと分りやすい例で言えば、数年後に勃発する無敵艦隊との海戦にかかった戦費の合計が33万ポンドだったということからも、それがいかに巨額であったかが推測される。嫌味な見方をすれば、イングランドはスペインから分捕って来た金でスペインと戦ったことになる。
エリザベスはこの時期、弱小国でありながら世界最大の大国相手に、宗教問題ではフェリペ2世を刺激せぬようにゆるやかに英国国教会への回帰を進めつつ、裏ではオランダ反乱軍に援軍を送り王位継承問題に於いても回答を引き延ばしつつ、ドレークらを利用してスペインの植民地や船舶を襲撃してはその金銀財宝を掠め取り、国庫を潤しては知らん顔を決め込むという危険な外交を行っていた訳である。フェリペ2世と笑顔でワルツを舞いながら、その背後にはしっかりとナイフを握り締めているかのような凄みすら感じさせる。

切られた最後のカード

わざわざゴールデン・ハインドまでやってきて、
ドレークにナイトの叙勲をするエリザベス。
サーとなったドレークは、この後、無敵艦隊がやって来るまでの間、
プリマス市の市長を務め、市政やインフラ整備などに精を出す。
スペイン国内では1585年あたりから一部強硬派が大鉄槌を下すべく、イングランド上陸作戦の構想を具体的に練り始めていた。
財政難もあって、フェリペ2世はまだ乗り気ではなかったと言われるが1587年、ついにフェリペ2世も、その重い腰を上げなくてはならない最後のカードが切られてしまう。
イングランドに亡命し、エリザベスの庇護の元、軟禁状態に置かれていたあのメアリーが、再びイングランドの王位を主張し始めたのである。しかも、その王位奪取の計画はエリザベス暗殺計画とセットになっていた。
エリザベスの暗殺計画はメアリーだけに限らず、イングランド国内の旧教の過激派にもあればスコットランドの旧教派にも、そして何よりスペインによるものもあったとされる。そのため女王の周囲にはインテリジェンス、つまり諜報活動のネットワークが蜘蛛の巣状にビッシリと張り巡らされていた。
ある日、女王暗殺を目論む組織とメアリーとの間で交わされた書簡がこの蜘蛛の巣にかかった。これらの書簡は全てスパイによって開封され、目を通された上で先方に届けられていた。そしてある日、女王暗殺計画の決定的な証拠を握られた組織は一網打尽に捕らえられ、全員が処刑された。
カトリック教徒であり、元スコットランド女王であり、現スコットランド王ジェームズ6世の母であり、ヘンリー8世の姉マーガレットの孫であり、その点から確かに王位継承者の一人であるメアリーの処遇を、誰もが息を呑んで見守ることとなった。
カトリック教の、正統かつ有力な王位継承者であるメアリーを処刑すれば、今度こそフェリペ2世も黙ってはいまい。しかしエリザベスにも、メアリーの処刑を急がねばならない理由があった。スコットランドの旧教派がメアリー奪還の動きに出ることも考えられたし、スペイン軍がメアリー救出を理由に侵攻してくる可能性もあった。
裁判でメアリーは最後まで無罪を主張した。しかし、彼女を有罪と断定するだけの有力な証拠は揃いすぎていた。
メアリーの極刑が決まった。
議会はメアリーの即時処刑を望んだが、強気だったエリザベスもここにきて迷いに迷った。しかしメアリーが脱獄したとか、スペイン軍が上陸したとか、不穏な噂が出始め国内には不安と不信感が黒い霧のように広まりつつあった。エリザベスは遂に観念し、処刑許可状に署名した。
こうして、生涯にわたってエリザベスの頭痛の種であり続けたメアリーは断頭台の露と消えた。
確かにメアリーには、イングランドの王位を求めるだけの資格があった。ダーンリー卿との間に生まれた子がエリザベスの後継者となり、エリザベスの死後、イングランド王位を継承してジェームズ1世となることがそれを自ずと証明している。しかし、メアリーの行動は過激に過ぎ、遂に支持者を失った。スコットランド女王の座だけで満足していればあるいは幸せな人生を送ることができたのかもしれない。それでもメアリーは最後までイングランド王位の座にこだわり続け、散っていった。
そしていよいよ、無敵艦隊がやってくる。

後編に続く…


【激突 スペイン VS イングランド】無敵艦隊、壊滅への道(後編) [Battle of Armada]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2017年7月06日 No.991

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激突 スペインVSイングランド 無敵艦隊、壊滅への道(後編)

激突 スペインVSイングランド

無敵艦隊、壊滅への道(後編)

イングランドをカトリック教国へと回帰させたメアリー1世が逝去。
これを継いで女王となったエリザベスは、再びイングランドを父ヘンリー8世が創設した英国国教会の国へと戻そうと画策する。
同時にエリザベスはスペイン領オランダで激化する宗教戦争で密かに新教徒側に援軍を送り、さらに西インド諸島ではドレークらを海洋に放ちスペイン船を襲わせては金銀財宝を奪わせて国庫を潤わせていた。
そしてある日、エリザベス暗殺を企てたスコットランドの元女王メアリーをエリザベスは処刑。
カトリック教徒であるメアリーのイングランド王位継承を支持していたスペインのフェリペ2世はこれに激怒。
イングランドに大鉄槌を下すため、ついに大艦隊出動の命を下した。

●サバイバー●取材・執筆/手島 功

1588年7月19日。イングランド本土最南端、コーンウォールのリザード岬沖に130隻で編成された堂々たる無敵艦隊(アルマダ)が姿を現した。
メアリー・スチュアート処刑後も、エリザベス、フェリペ2世ともに直接対決には消極的であった。そのため、何とかオランダ(当時は北部ネーデルランド)に於ける和平の道を模索したりもしたが、それもままならぬうちに時だけは容赦なく流れ、遂に艦隊は決戦の場へと辿り着いてしまったのである。
この前年、「攻撃は最大の防御である。迎え撃つよりスペイン本土に攻め込むべし」と激しく迫るフランシス・ドレークに根負けし、エリザベスは『暗黙の了解』という形で敵地攻撃の許可を与えた。ドレークらはスペイン南西部のカディスという港町を襲撃し、イングランド侵攻に向けて集結していたスペイン艦船に大打撃を与え、悠々と帰国した。この攻撃で無敵艦隊の出撃は一年遅れたと言われる。
ドレーク襲撃の知らせに驚き憤慨したフェリペ2世であったが、その後はまるで離婚届を処理する役人のように淡々と襲撃模様の仔細に耳を傾け、無敵艦隊改革の号令を発した。少なくともフェリペ2世はドレークの襲撃から2つのことを学んでいた。

レパントの海戦(1571年)
地中海の覇権を争って、教皇・スペイン・ヴェネチアの連合軍と
オスマン帝国海軍がギリシャのコリント湾口で激突。
オスマン帝国は戦艦300隻の9割を失い、
3万人近い死者を出して大敗した。
この時の主力艦は両軍ともに大勢でオールを漕ぐガレー船であった。
まず着目したのはドレークらが操っていたガレオン船という新タイプの帆船の快速性だ。この時まで無敵艦隊の主力となっていたのは「ガレー船」という、大勢の奴隷や囚人がオールをヨイセ、ヨイセと漕いで進む太古の時代と同じスタイルのものであった。ガレー船を敵船に激突させて接舷しては兵士が敵船に乗り込み、チャンバラの末に雌雄を決するやり方である。わずか17年前の1571年、オスマン帝国海軍を粉砕して地中海の覇権を奪い返したレパントの海戦でもスペイン軍とオスマン帝国両軍はこの手漕ぎの船とチャンバラで戦った。
ところがドレークらが操るガレオン船は人力の推進力を持たず、巨大な帆布にいっぱいの風を受け、迎撃に漕ぎ出したガレー船の間を高速でスルスルとすり抜けていった。まるで旧式艦隊をあざ笑うかのように。フェリペ2世は、ガレー船が既に時代遅れになっていることを悟った。スペインが縄張りとしてきた地中海は外洋と比較して遥かに穏やかである。ところがイングランド周辺の北方の海は天候も不順で荒れやすく、さらに潮流も激しいことで知られており、ガレー船ではまともに戦えまい。フェリペ2世はガレオン船導入を急がせた。
そしてもう一点。大砲だ。それまでのスペイン海軍の戦い方とは先述の如く白兵戦が主であり、大砲はせいぜい相手の動きを止める程度の役割としか考えられていなかった。ところがドレークの艦隊は船体両舷にズラリと大砲を並べ、それをドッカンドッカンとぶっ放しては停泊中の艦船を粉砕して去っていったのである。
フェリペ2世は領内にあるガレオン船のみならず大型商船をも掻き集め、これに大砲を多数搭載させ、比較的短期間のうちにガレオン船主体の新艦隊整備に成功した。
王位継承問題、オランダの宗教戦争、経済摩擦など、要因は複数あったものの今回のイングランド侵攻、表面上の理由は宗教紛争である。イングランドの正当な王位継承者であるカトリックのメアリー・スチュアートを処刑したエリザベス。邪悪な手段を弄してイングランド王位を簒奪した忌まわしい女、エリザベス。この女を、そして英国国教とかいう邪教を信仰する連中をこらしめ、この世で唯一正しいローマ・カトリックに帰依させる、それがこの遠征の大テーマなのである。
ローマ教皇から正式に『十字軍』として承認された無敵艦隊。兵士や船員たちは万が一、邪教徒の汚れた砲弾を食らった場合に備え、告白と永遠の祝福の儀式を受けていた。艦隊には聖職者、修道士、異端審問官なども多数乗船していた。彼らは乗組員たちの心のケアをするだけでなく、イングランドが降伏した時、哀れな邪教徒たちを改宗させる任務も負っていたのである。

呪われた艦隊

第7代メディナ・シドニア公
(1550~1615)

シドニア公(アロンソ・ペレス・デ・グスマン)の
最高司令長官への抜擢には誰もが驚き、
首をかしげた。
その中で最も驚き、
困惑したのがシドニア公本人であった。
シドニア公はこの職から逃れるため、
考えられる限りの手を尽くしたが、
遂に逃がれることはできなかった。
無敵艦隊を率いる最高司令長官は、艦隊派遣の立案者とされ、「スペイン海軍の父」とも謳われた実戦経験豊富なサンタ・クルス公であった。ところが出発の直前、過労とストレスが原因で急死した。神の祝福を受けながら後に『呪われた艦隊』と揶揄されるに至るのには、こういった不運な事情もある。
フェリペ2世が指名した新しい最高司令長官はメディナ・シドニア公爵という人物であった。ところがシドニア公には海戦どころか、陸戦の経験もほとんどない。そのため「なぜ私なのでしょうか、私には実戦の経験もない上に船酔いが激しく、とても任務が遂行できるとは思えません。どうか別の方にこの名誉をお授けください」とフェリペ2世に宛てて嘆願書を出し、何とかこの恐ろしい大役から逃れようと試みた。フェリペ2世はこれを黙殺した。
シドニア公が選ばれた理由はたった一つ。彼が大貴族であり社会的地位が圧倒的に高かったからである。スペイン軍には貴族出身の者が多かった。金も土地も持たない名ばかり貴族も多かったが貴族は貴族、士官のほとんどが貴族であった。世はまだ封建の時代である。貴族たちの上に立つ者は絶対的に地位の高い貴族でなければならなかった。
一頭のオオカミに率いられた100頭のヒツジの群れは、一頭のヒツジに率いられた百頭のオオカミの群れに勝る―後にそう言って自画自賛するのはナポレオンだ。
戦争などしたこともなく船酔いまでするお人よしのヒツジが、世界最強と恐れられたオオカミたちを率いていく。オオカミたちもたまったものではなかった。
実はフェリペ2世にとって最高司令長官などある意味誰でも良かった。というのも戦争の作戦司令室は常にフェリペ2世の頭の中に存在するのであり、無敵艦隊は彼が立案した戦争のシナリオを忠実に実行するだけで良かったのである。

フェリペ2世の描いたシナリオ

フェリペ2世の頭の中にあった作戦とはこうだ。
わが艦隊は英海峡に入ってのち常に風上の位置を維持し偏西風を受けて東進。敵は距離をおいて大砲を打ち込んで来るであろうが極力雑魚には関わらず、パルマ公が待つダンケルクへ直進。そこでパルマ公率いる3万の精鋭部隊と合流し、イングランド東岸のマーゲート付近に上陸。一気にロンドンまで攻めあげこれを陥落する。
見事な『絵に描いた餅』であった。
このシナリオ通りに事が運べば、なるほど無敵艦隊が運んでいる兵士約1万8000に、パルマ公の精鋭部隊3万(実際は戦死や病死のため1万8000程度に減っていた)が加わり、5万に近い大軍勢がイングランドに上陸することになる。ろくに王室正規軍も持たず慌てて市民を徴兵して作り上げた即席イングランド軍など、まさに赤子の手をひねるがごとし、の作戦であった。
しかし、フェリペ2世の台本には大きな欠陥が少なくとも3つあった。1つはイングランドの艦隊が決して雑魚程度ではなかったこと。2つ目はオランダの反乱軍と交戦中のパルマ公部隊が、上陸作戦に参加できないという不測の事態が発生することへの想像力の欠如。そして3点目に、このプランAに狂いが生じた場合の代替案、すなわちプランBが全く用意されていなかったことだった。

チャールズ・ハワード・エッフィンガム卿
(1536~1624)

エリザベス1世のいとこ。
ハワード卿は海軍最高職の座にありながら、
身分の低い船員にすらへりくだった態度をとり、
戦後政府から船員たちに
十分な給料が出ないことを知るとそれを嘆き、
自分の財産を切り崩してまで給料を支払ったと言われる。
一方、迎え撃つ側のイングランド。
当初の作戦は、コーンウォール沖から英海峡に侵入してくる敵艦隊を海峡の中間地点あたりで迎撃。これと騎馬戦のように対峙し、敵よりも長い射程距離を持つイングランド軍の大砲で攻撃しこれを逐次粉砕していく、ということでほぼ一致していた。
これにたった一人、猛然と異論を唱えた者がいた。艦隊副長官に任命されていたドレークである。彼は、それでは偏西風を後ろから受ける敵艦隊が常に風上に立ち、我が軍は猛スピードで東進してくる敵に対し、正面から風を受けながらこれを阻止し続けなければならない。やがて押されてジリジリと後退を余儀なくされるは必至。そうこうしているうちにポーツマスやワイト島あたりに好き放題に上陸されてしまうだろうという、実に現実的なものであった。
ドレークの考えはむしろ逆であった。
ジョン・ホーキンズの指揮のもとに改良が施された我が軍の艦船の方が、敵艦よりも高速である。従ってわが軍は英海峡に入ってきた敵艦隊の背後にまわり込み、常に風上のポジションを確保、東進する敵艦隊に後方からカウンター攻撃を仕掛けるのがよかろうというものであった。そのため艦隊の一部をプリマス港に派遣するよう直訴する。
イングランド軍最高司令長官はチャールズ・ハワード・エッフィンガム卿。高貴な身分で統率力にも優れ、それでいて偉ぶったところがなく、一兵卒の健康にまで気を使う人格者として知られていた。合理的なハワード卿はドレークに絶対的な信頼を寄せていた。その申し出を了解するのみならず艦隊の約半分をドーバー海峡守備隊として残し自らもプリマスに入港、ドレークとともに敵艦隊を待つことにしたのである。

敵艦、見ゆ

ウィリアム・アダムズ
(1565~1620)

幕府から所領を与えられ、名字帯刀を
許されて旗本となった初めての西洋人。
三浦按針(名字は所領を与えられた三浦半島から。
按針は航海士の意)を名乗ったアダムズだが、
家康の死後は冷遇された。
晩年はオランダやイングランドの商館があった
長崎県平戸に居を移し、
帰国することなく平戸で人生の幕を閉じた。
アダムズの墓はその後キリスト教弾圧時に
破壊されたが1954年、
平戸市内の高台にある公園内に建て直された。
リザード岬沖に現れた無敵艦隊は兵士約1万9000、船員、漕ぎ手、その他非戦闘員の総数約1万1000、総勢約3万人を130隻の艦船に満載し、英海峡を東に進んでいた。急ごしらえで改造された無敵艦隊は主にキャノン砲と呼ばれ、ボーリングの球サイズの大玉を発射する大砲を積載していた。破壊力はあるものの有効射程距離は二百五十メートル程度であった。
迎え撃つイングランド軍は大小、さまざまな寄せ集めの武装船163隻。兵士約1500、船員約1万4400の総勢約1万6000と、無敵艦隊の約半分の人員であった。
イングランド側はカルバリン砲という中玉砲を多く搭載していた。砲弾はメロン程度の大きさで、破壊力ではキャノン砲に劣るが、有効射程距離は350メートル程度と有利であった。
イングランド側はこの戦いを砲戦と位置づけていたが、中世騎士の気風が残るこの当時のスペイン兵たちは白兵戦こそが武人の誉れであり、大砲などという飛び道具は邪道であるとこれを軽んじていた。ただし大砲を重視していたフェリペ2世の命により、搭載してきた砲弾の数は12万発強と少なくはなかった。それに引き換えイングランド側が用意したのはその約半分、それも補充はいつも小出しであった。理由は簡単だ。エリザベスが戦費を惜しんだためである。砲弾だけでなくイングランドの庭先での戦争にも関わらず、食料も慢性的に不足していた。エリザベスは、即位以来『倹約家』として知られたが、国家存亡を賭けた戦いの中において砲弾や兵士の食料すらも惜しむのは倹約家の域を超えた『超ド級のケチ』であり、この性癖は後にも遂に変わることはなかった。
この限られた砲弾と食料を沿岸からせっせと艦隊に運ぶ輸送船団の中に24歳という一人の若い船長がいた。彼はこの戦争が終わってちょうど10年の後、一獲千金を目指してオランダ船に乗り込み、関ヶ原合戦の半年前という緊迫した日本の、現大分県臼杵の海岸に漂着する。カトリック教宣教師たちとは全く異なる世界観を持つこの男に興味を持った徳川家康はこの男を寵愛し、外交顧問に抜擢。帰郷を望む男に対し家康は三浦半島に所領まで与え旗本の一人として厚遇した。男の名をウィリアム・アダムズという。日本名、三浦按針。1620年、故国に思いを馳せながら平戸にて56年の生涯を閉じることになるのだが、もちろん自分がそのような数奇な人生を歩むことになるなど、この時は露ほども知らない。

無敵艦隊は、輸送船を取り囲むように
半月型のフォーメーションを組んで侵略。
イングランド側にしてみると
攻略しづらい陣形だったが、
一旦戦闘が始まると、
艦と艦の間が狭いため、
スペイン側は味方同士の衝突が頻発した。
無敵艦隊は半月型の陣形を取り英海峡へと侵入してきた。シドニア公の旗艦サン・マルティン号を中心に主力艦隊を前列に置き、その後ろに輸送船団、それを護るようにさらに後列に四つの艦隊を配置していた。
そして無敵艦隊がリザード岬沖にその姿を現した日の2日後、ついに本格的な戦闘が始まった。
まずはプリマス沖で、そしてその翌日にはポートランド沖でドレークらは後方からカウンター攻撃を仕掛け、双方距離を置いての激しい砲撃戦が展開された。しかしどちらも砲弾は容易に当たらない。被害はいずれも最小限で、無敵艦隊はほぼ陣形を変えずに東進を続けていた。
ドーセットを超えたあたりで、左前方にワイト島が見えてくる。シドニア公はオランダのパルマ公に「軍勢の準備、よろしきや?」との伝令を送り続けていたが、「港を反乱軍に包囲されており、困難」との回答が届くだけであった。
ここに来てフェリペ2世の描いたシナリオは、彼が描かなかった部分のシナリオによって乱され始めた。スペイン軍の上陸作戦の詳細はおおむねイングランド側に分析されていた。フェリペ2世は当然パルマ公部隊が乗船時に敵から妨害を受ける、と想定して手を打っておくべきであった。フェリペ2世はこれを怠った。
無敵艦隊とはパルマ公部隊の護送船団であって彼らの準備が整っていないとなると艦隊は無防備な洋上で敵の攻撃にさらされながら、部隊の準備が整うのをひたすら待ち続けねばならない。そのためシドニア公は、ワイト島上陸を模索し始めた。というのもワイト島を過ぎてしまうとそこから東の海岸は浅瀬が続き、大艦隊を収容できるだけの水深を持つ港がなくなってしまうのである。
無敵艦隊はワイト島に向けて舵を切った。しかしそれはイングランド軍にとっては想定内の行動であり、ドレークらは身体を張って無敵艦隊の前面に展開し、激しい砲撃戦の末、これを阻止した。
こうしてワイト島に上陸してパルマ公部隊の準備を待つというオプションは消えた。
結局、無敵艦隊は7月28日、フランス領カレーの沖合いに投錨。イングランド軍から丸見えの危険な海域でパルマ公からの朗報を待つこととなった。
翌日、カレー沖に追い込んだ敵を粉砕すべく、砲弾を満載した無傷のドーバー海峡守備隊がドレークらに合流してきた。
シドニア公らは当時定番となっていた火船攻撃を警戒し、艦隊の外側を囲むように小型船やボートを配置していた。そして夜陰、予想通りドレークらの放った火船が艦隊目がけてまっしぐらに突進してきた。

イングランド軍による火船攻撃。
スペイン軍はパニック状態となり、
錨を繋いだロープをぶった切って逃走した。
のちに1ヵ月も続く『呪われた航海』では、
錨を失ったことで航海がより困難なものとなる。
予想し、警戒していたにも関わらず無敵艦隊は未曾有の大パニックに陥った。というのも彼らが想定していたのは小型ボートにタールや木材、火薬などを積み込んで送り込んでくる程度の常識的な火船攻撃であった。ところがドレークらがここで犠牲としたのは、90から200トンまでの中型船であり、その後の戦力低下を考えると常識外れの作戦であった。これに可燃物を満載させた上、大砲に火薬と砲弾を詰めた8隻を、ダンゴになって停泊する無敵艦隊に向けて一気に送り込んだのである。この夜、月が満ちている。文学的な意味合いとは別に満月はイングランドの火船攻撃に大いなる幸運をもたらした。大潮である。大潮に加速された火船は紅蓮の炎を上げて夜空を焦がし轟々と不気味な音をたてて艦隊に突進、大砲も巨大な音を立てて咆哮し続けた。次から次へと迫って来る巨大な火の塊に度肝を抜かれたスペイン兵らは「抜錨せよ」の命令を無視して錨と、各艦を繋いでいたロープをぶった切って逃走した。そのため各艦同士が激しく衝突し、艦隊に甚大な損傷を与えることとなる。
夜が明けて、目の前に広がる光景にドレークらは思わず息を呑んだ。前日まで堂々たる威容を誇っていた敵艦隊が惨憺たる姿となってバラバラに浮かんで、あるいは座礁しているのである。ドレークらの期待を遥かに超えた成果が、闇の中で勝手に挙がっていた。
ついに無敵艦隊が誇る三日月形の陣形は崩れ去った。
この日、西からの風が一層強い。
イングランド軍は徹底的に風上側を維持し、大規模な砲撃を加えながらスペイン艦船を東に押しやる作業に没頭した。もちろんスペイン側もこのままではフランドル地方の浅瀬で座礁する危険性に気づいている。そのため、逆風の中必死に抵抗し、反撃を試みていた。これが無敵艦隊とイングランド軍の、事実上最後で最大の局地戦となるグラヴリーヌの戦いである。

グラヴリーヌの戦い。
これまで、単縦陣の艦隊運動を守ってきたイングランド軍であったが、
最後は両軍入り乱れての大混戦となった。
海戦の素人であり続けたシドニア公ではあるが、それでも彼は誇り高きスペイン帝国の大貴族である。彼は砲弾飛び交う戦場を果敢に駆け回り、集中攻撃を受ける僚艦を助けたり、沈没に瀕した艦船から兵士たちを救出するなど、漁船団の大親分のような忙しい時間を過ごしていた。
やがて激しい砲撃戦の中で、ドレークたちはあることに気がついた。無敵艦隊からの砲撃が散発的となってきたのである。ドレークは結論を導き出し、確信した。
「敵の砲弾は尽きつつある…」
ドレークは躊躇せず敵艦の懐奥深くへと突っ込んでいく。それを見た他の艦もドレークに続いた。もはや敵兵の表情まで読み取れるほどの接近戦となり、火縄銃による銃撃戦も始まった。大砲はぶっ放せば面白いように命中する。弾切れとなったスペイン側にとってこれはもはや集団リンチであった。
西風にフランドルの海岸線まで押され、座礁するスペイン艦も多かった。そこもまた地獄であった。駆けつけたオランダ兵は降伏したスペイン人を捕らえ、その場で喉を掻き切り死体を海岸線に打ち棄てた。戦場は、もはや殺戮の場と化していた。
「もう何もかもおしまいだ」
シドニア公はつぶやいた。最高司令長官が部下に聞こえるように吐いてよい台詞ではなかった。しかし目の前で繰り広げられている現実は、艦隊の壊滅と自らの死を覚悟するのに十分な状況に過ぎる。
ところがここで海の神がこの『呪われた』艦隊に、たった一度だけ微笑んだ。突然、風向きが変わったのである。
この風を利用して無敵艦隊が取りうる道は2つあった。
一つはこのまま東からの風に乗って敵を押し返し、パルマ公部隊の到着を期待する。もう一つは、このまま戦場を離脱し、スペインに帰るというものであった。シドニア公は決断した。
「故郷に、帰ろう…」
英海峡における、スペイン無敵艦隊の進路

英海峡における、スペイン無敵艦隊の進路

無敵艦隊壊滅

スペイン無敵艦隊の航路

スペイン無敵艦隊の航路

およそ8時間に渡る激闘の末、北へ敗走し始めた無敵艦隊をイングランド軍も追撃した。しかし、エジンバラ沖を過ぎたあたりで、もはや敵艦隊に戦闘の意志なしと判断し追撃は終了した。ドレークたちの艦も砲弾はほぼ空となり食料も底が見えていたのである。
送りオオカミ達の追撃から辛くも逃れた無敵艦隊であったが彼らが進むその先には、ドレークたちよりも恐ろしい悪魔が艦隊を丸ごと飲み込もうとその巨大な口を開けて待ち構えていた。わずかに残っていた水も食料もほとんどが腐敗し、船内には食中毒やチフス、赤痢、壊血病が蔓延、それに飢餓が加わり船員たちはバタバタと倒れた。
さらに艦隊は嵐に翻弄され、スコットランド沿岸やアイルランド西海岸の岩礁などに激突して沈没する船が続出した。多くの陸兵が溺死。辛うじて海岸に辿り着いた者も警戒中のイングランド兵に捕らえられ、ほとんどがその場で縛り首となった。世界最強と恐れられた陸兵たちの多くは敵と一度も剣を交えることなく病死や溺死、あわよくば縛り首、といった悲惨な最期を遂げざるを得なかった。
数字に関しては諸説あるが、グラヴリーヌの戦いにおけるスペイン側の戦死者は約600、重傷者は800前後、沈没した艦船はわずかに2隻でその他、座礁あるいは行方不明となったものが十数隻と壊滅と呼ぶにはほど遠い状況であった。無敵艦隊が真の意味で壊滅するのはこの戦いの後、およそ1ヵ月に及ぶ『呪われた航海』によるものである。残りの艦船の多くはスコットランドかアイルランド沿岸で沈没、座礁あるいは行方不明となり、この航海だけをとっても8000人前後が命を落としたと言われる。
最終的にスペインまで逃げ帰ることができたのは、出発時の約半分に相当する67隻とする資料が多い。やっとの思いで祖国に逃げ帰った後も力尽きて命を落とす者が続出。この年の終わりまで生き伸びた者は1万人程度と、出発時の3分の1にまで減っていた。生還者の中には精も根も尽き果ててボロ雑巾のようになったシドニア公もいた。彼は同国人の軽蔑を一身に浴びながら故郷セビリヤへと帰っていった。たった一人、シドニア公を咎めるどころか、公の健康をその後も気遣い続けた人物がいた。フェリペ2世である。彼はこの敗北を驚くほど冷静に受け止め、責任を負う覚悟をし、生存者たちにできる限りの救いの手を差し伸べたと言われる。
一方のイングランド。無敵艦隊敗走後も警戒を解かず、しばらく洋上に留まったため、赤痢やチフス、そして飢餓から命を落とす兵を多数出すことになった。ただ少なくともこの戦闘においての戦死者は100人に満たず、重傷者400程度、喪失艦船は火船攻撃で犠牲とした8隻のみであった。一体、無敵艦隊がぶっ放し続けた約12万発の砲弾はどこへ消えたのであろうか。
こうして無敵艦隊は自滅した。戦場の指導者たちはフェリペ2世の作戦に縛られ続け、過去の栄光に浸る余り、すでに海戦のスタイルが様変わりしていることを受け入れられず、イングランド上陸作戦最大の要となるパルマ公部隊合流作戦の危うさに何の危惧も抱いていなかったなど、艦隊壊滅の要因は少なくない。ただ、これら大失策の責任は、自身も感じていたようにフェリペ2世が負うべきものであった。全てを現場監督たちに丸投げしたエリザベスが偉大であったかどうかの評価は避けるが、フェリペ二世は『机上の大将』でありながら戦争行為に口を挟みすぎた。無敵艦隊というオオカミの群れを率いていたのは実はシドニア公ではなく、宮殿の執務室にいるフェリペ2世というヒツジだったのである。

太陽没して、現れた者

確かに、この戦争においてスペインはイングランドに大敗を喫した。しかし、喪失した艦船や兵士の数から言えば、スペインという大国をそのまま衰退に追いやるほど大きな損失ではない。事実、英西戦争はこの後もしばらく続くこととなる。
次に仕掛けたのはイングランド軍であった。無敵艦隊壊滅の翌年、ドレークは140隻からなる大艦隊を率いてリスボンを目指した。ところが期待していたポルトガルの義勇軍が決起せず、約2ヵ月の遠征でほとんど戦果を得ることなく帰還した。それどころか、まるで前年のワンサイドゲームの代償を払うかのように、イングランド軍は1万の兵の約半分を病気や飢餓という下らない理由で失った。
時の大蔵卿ウィリアム・セシルが約5000人分の給与の支払いがなくなったと喜び、顰蹙を買った。イングランドも極度の財政難に陥っていたのである。

エリザベス1世
(1533~1603)

通称「アルマダ・ポートレート」と呼ばれる、
無敵艦隊に対する勝利を記念して制作された肖像画。
背景には無敵艦隊が描かれている。
エリザベスの右手は地球儀の上に置かれ、
いずれ世界をその手中に収めるという決意が表されている。
大敗北から海軍強化の必要性を学んだフェリペ2世はすぐさま改革に着手し、以降3度のイングランド遠征を試みたがいずれも嵐にあって失敗に終わった。追い討ちをかけるようにフランスで起こったユグノー(新教徒)戦争が激化。こちらも王位継承問題から始まった戦争で、スペインは旧教同盟としてこれに軍事介入するも孤立して失敗。一方、無敵艦隊壊滅に勢いづいたオランダは、英仏と協力してスペイン勢力を押し返していった。ヨーロッパを忙しく転戦したパルマ公もこの最中に戦死した。
各地で同時多発的に起こった宗教紛争への介入にことごとく失敗したスペインの財政は危機的状況にあった。広大な土地を持つものの、新大陸の銀山程度しか頼れる収入がなくいつしか『太陽の没することのない帝国』は大借金帝国へと、転落の道を歩んでいく。
1598年、数々の戦争を宮殿の執務室で指揮し続けたフェリペ2世死去。その5年後、宿敵エリザベスもまたこの世を去る。
エリザベスからイングランド王位を継承したのは皮肉にもメアリー・スチュアートの一粒種ジェームズ6世(イングランド王としてはジェームズ1世)であった。理想主義者であり平和主義者でもあった「友愛」の人、ジェームズはフェリペ3世と和平を結び、英西戦争はスペインとイングランド、両国を財政的に疲弊させただけで終結した。
この隙をついて台頭して来るのがオランダだ。オランダは東インド会社を中心に海外で勢力を拡大し、以降約五十年に渡り海洋王国として君臨する。イングランドの東インド会社がインドに拠点を移して綿花と出会い、産業革命を経てやがて七つの海を制する大英帝国に成り上がっていくにはまだこの先、200年も待たなくてはならないのである。(了)

【参考文献】
マイケル・ルイス著『アルマダの戦い』新評論
青木道彦著『エリザベス1世』講談社現代新書
杉浦昭典著『海賊キャプテン・ドレーク』講談社学術文庫
小林幸雄著『イングランド海軍の歴史』原書房
永積昭著『オランダ東インド会社』講談社学術文庫
浅田實著『東インド会社』講談社現代新書
ジャイルズ・ミルトン著『さむらいウィリアム』原書房
白石一郎著『航海者』文春文庫 他

次世代への大いなる遺産 リスティッド・ビルディングの使命 [Listed Building]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2017年8月3日 No.995

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次世代への大いなる遺産 リスティッド・ビルディングの使命

次世代への大いなる遺産

リスティッド・ビルディングの使命

リスティッド・ビルディングとは、「歴史や建築の観点から後世に残すべきものを守る義務と責任が、我々にはある」という国民の共通意識のもとに作られた制度だ。
政府主導の法律が原点とはいえ、国民の理解が得られなければ今日まで守り続けられることもなかったはず。
日本に比べていろいろと緩いように思われる英国だが、同制度については強い意気込みが感じられる。
リスティッド・ビルディングについて知ることで、英国文化の真髄を垣間みることができるかもしれない。

289-305 Regent Street W1、3 Cavendish Place W1、313-319 Regent Street W1と3つの住所を持つ建築物。グレードⅡ。メインの写真は、2011年に建て替え工事中の同建物を西側から撮影したもの。外壁を保持しつつ、内側を建て替える作業が進められているのがよくわかる。下の写真は、東側(リージェント・ストリート側)からのもの。左側が工事中、右側が現在のもの。外壁は漂白されたようだが、造りはそのまま。工費は余計にかかるだろうが、街並みを保つためには必要な『経費』と考えていいだろう。

●サバイバー●取材・執筆/名越 美千代・本誌編集部

失って初めて分かる大切なもの

英国で、後世に残す価値や意義のある建造物を指定、保護するリスティッド・ビルディング(Listed Building、以下LB)の概念が生まれたのは、第二次世界大戦がきっかけだ。自国の歴史に誇りを持つ英国らしく、先史時代の歴史的遺跡を指定して保護する法律は1882年から存在したのだが、戦後になり、この考えはさらに発展。英国の歴史、風景の一部であるカントリーハウスや産業遺産である工場跡などにも幅広い視点から価値を見出して、保護すべきものとして指定する動きが生まれた。
英国では、1940年から41年にかけて、ロンドンをはじめ多数の都市がドイツ軍による激しい空襲を受けた。焼け落ち、破壊された区域を見て、人々は、 ストーンヘンジや城などの遺跡のほかにも、後世に伝承すべき大切なものがあると思い知ったはずだ。
都市や街を修復して産業を再編成するためには、まず包括的な計画が必要とされた。そこで作られた法律が『Town and Country Planning Act 1944』と『同1947』だった。これは、地方自治体がまず都市計画を作り、土地や建物の所有者はそれを遵守して、改築や修復、取り壊しなど手を加える際には地方自治体に計画を申請して、許可を取るように義務付けるもの。現在もこの考え方を基盤とした法律が引き継がれている。
空襲で損傷を受けた歴史的建造物については、どれを残して、どれを取り壊し、どのような優先順位で修復していくかということを考えていく必要に迫られ、政府は保護・保存すべき建築物救済リストも作り始めた。このリストが、のちのLBの前身となり、保護を指定するにあたってのグレード評価やそのために必要な条件もこの頃から導入されるようになった。振り返ってみれば、戦争で失ったものも大きかったが、得たものも大きかったといえるのかもしれない。

資金難との果てしなき戦い

東ロンドンのホワイトチャペルそばで、
外壁だけがスックと建っているのを目撃。
街並みの保全はラクじゃない!
歴史的名所や自然景勝地の保護を目的とした活動団体としては、ナショナル・トラスト(National Trust)が有名だ。こちらは、1895年に個人の有志らが設立したチャリティ団体であり、英国人の愛国心を上手にくすぐる戦略で多くの寄付を得て、大成功を収めている。設立にあたって、『ピーター・ラビット』シリーズで名高い、絵本作家、ビアトリクス・ポターが深くかかわったことも、人々の関心を集めるのに役立ったという点では大きかった。
一方、 政府主導で同様の活動を行う場合、予算の多くは限りある国庫予算から捻出しなければならない。つまり、使われるのは納税者のお金ということになる。
当然ながら、国にとっては過去の資産を守ることよりも、福祉や教育といった現状の問題に取り組むことが優先であるだろう。大邸宅をひとつ管理するにしても、膨大な維持費が必要だ。当時の政府では、国庫への負担(納税者からの反発)を不安視するあまり、国の管理は古い記念碑くらいに限って、歴史的遺物や文化財の保護・保存はナショナル・トラストに任せたほうがよいとする見解でまとまっていたという。
しかしながら、政府内にも気骨ある人々がいたと見える。政府は試行錯誤しながらも、保護・保存が必要とされる歴史的スポットの登録数を地道に増やしていく。1970年にはイングランドだけで300ヵ所を数え、その地を訪れる人の数も増えていった。ここから、ナショナル・トラストのように、入場料や年間会員費、併設したミュージアムやショップからの収入などで運用資金を調達できる仕組みが整えられていくことになる。
とはいえ、戦後の混乱の中から始まった保護・保存の動きのスピードは、このあたりまでは比較的ゆっくりとしたものだった。そこへ、保護・保存の活動をもっと積極的に進める必要を政府に思い知らせる事件が起こる。

「後悔、先に立たず」の教訓

それは1980年8月末のできごとだった。バンクホリデー明けの火曜日に保護指定を受けるはずだった建物が、その直前の連休中にすっかり、取り壊されてしまったのだ。
この建物は西ロンドンにあったファイアストーン・タイヤの元工場。タイヤ工場自体は前年に閉鎖され、開発業者が買い取っていたのだが、建物が1920~30年代にアールデコの旗手として知られた建築デザイン会社によるものだったために、保存を求める声が上がっていた。
しかし、保護・保存指定を受けてしまうとおいそれとは再開発ができなくなることを恐れた開発業者が、LB指定直前にあわてて元工場へブルドーザーを送り込むという暴挙に出たことで、全ては手遅れとなった。
LB指定を承認するはずだった 当時の環境大臣は、これを知って怒り心頭だったに違いない。すぐに、1970年代にリスト化されていたイングランドの保護・保存登録対象建築物を見直すように要請。また、保護・保存指定を迅速に進めるため、専門家の育成にも力を入れた。こうして、より強固に、そしてより現実的に機能する、LBの地盤作りが改めて開始された。
1983年、サッチャー政権のもと、国家遺産を守るための法律、『1983 National Heritage Act 』に基づき、『the Historic Buildings and Monuments Commission』という団体が作られ、LBとして登録された歴史的資産はすべて、ここへ管理が任されることになった。この団体は後日、『イングリッシュ・ヘリテージ(English Heritage)』に改称される。
LB指定とするかどうかの判断を専門家が効率よく行えるようにするため、対象物のタイプ、建てられた年代、携わった建築家、歴史、内装、外装、その他の情報などをこと細かく記録していくためのマニュアルも作成された。
小さな標識や墓石も条件にさえあえば、登録できるようになり、また、映画館や空港など比較的近年のものでも、築30年以上であれば対象とされるようにもなった。こうして対象物となる範囲も広げられていき、LB指定数も見る見るうちに増えていった(2016年時点で37万6470件。イングリッシュ・ヘリテージ調べ)。

英国人の誇りの表れ

2015年に『イングリッシュ・ヘリテージ』は、政府からの援助は継続されるものの慈善団体として独立することとなり、ここからさらに担当別に2つの団体に分かれた。
特殊な歴史的遺物の管理は『イングリッシュ・ヘリテージ』という名前を引き継いだ団体へ。そして、幅広い分野から後世に残すべき国内の資産を選んでLBとして登録し、管理を担うのは、新たに設立された団体『ヒストリック・イングランド(Historic England)』へと、それぞれの受け持ちが明確に決められ、今に至っている。
過去の資産を後世に残す作業は、平和で、気持ちに余裕のある豊かな社会でなければできないことで、実利主義で目先の利益にとらわれていても不可能だ。豊かになったはずの現代でも、根底の問題は変わらない。
ここ数年の間に政府は、社会保障や社会整備に予算を回すために、LB関連の予算を削る傾向にあり、それがLBを審査する専門家の数にも影響を及ぼしている。LB指定によって、歴史的資産の管理や修復の費用を所有者に任せることができるのがこのシステムの利点だが、LB所有を推奨するために政府が認めていたLB修復にかかるVAT(付加価値税)の免除制度も、2012年に廃止されてしまい、LBに登録された不動産物件の購入を考える人々の判断に影響を与えている。
社会状況によって、文化的活動が消極的にならざるを得ないこともある。 しかし、自分が暮らし働く、この国の建物や街並みに誇りを持って大切にしていこうという、英国人の気概の表れとも思えるLB制度は、これからも大切に受け継がれていって欲しいと強く願わずにはいられない。

「オープンハウス・ロンドン」で、
非公開のリスティッド・ビルディング に出かけよう!

グレードⅠに指定されている、
首相官邸(ダウニング街10番地)。
© Sergeant Tom Robinson RLC/MOD

「オープンハウス・ロンドン(Open House London)」は、普段なら関係者にしか立ち入りが許されない建物に入ることができる、年に1度の機会だ。対象とされる750軒余りの建物すべてがリスティッド・ビルディングとは限らないものの、ロンドン市内の歴史的建築物のほか、個人宅、政府や教育機関の建物など、興味深い場所が揃う。ガイドツアー利用で建物の魅力をより深く味わうことも可能だ。
入場は無料だが、建築物によっては事前予約が必要(首相官邸など、人気の高い場所については抽選制)。効率良く回るためには、8月中旬に発行されるガイドブック『オープンハウス・ロンドン・ガイド(7ポンド)』の購入がお勧め。なお、抽選に関する詳細はまもなく発表される予定だが、締め切りまでの期間が短いので、ウェブサイトで頻繁にご確認を。

期間:9月16&17日
※ガイドブックの申し込みは「オープンハウス・ロンドン」のウェブサイト(www.openhouselondon.org.uk)から「Get the guide」をクリック。事前予約の詳細もガイドブックに記載されている。

リスティッド・ビルディング なんでもQ&A

リスティッド・ビルディング なんでもQ&A

北部イングランド、カンブリアにある「Long Meg Stone Circle」。ストーンヘンジなどとは違い、誰がいつ傷つけたり盗んだりしてもおかしくない環境にあり、「Heritage at Risk」(危険にさらされている歴史的建造物)の指定を受けている。

Q1

LB、勝手に手を加えるのは犯罪?

所有者であっても、LBに 許可なく手を加えることは法的に許されない。所有者には、変更計画を事前に申請する義務があり、承認を得ずに取り壊しや改装などを行ったことが発覚すれば、罰金を科されるか、または、刑罰処分を受けることもあり得るという。ただ、LB所有者の多くはこの制度の意義をよく理解しており、LBの保護・保存へ貢献することに喜びも感じている。政府からLB維持のための補助金が出ることもあるので、LB関連の規制が無視されることはめったにないとされている。
しかしながら、それでも、法の目をごまかそうとする輩も存在している。例えば、19世紀前半に賛美歌の作詞作曲で知られた女流作曲家が住んでいた由緒正しいマナーハウスを、開発業者が無許可のまま、モダンに改装してしまった悪質な例も報道されている。ジョージアン様式の邸宅は、寄木細工の床や窓の木枠が取り外され、ジャクジー風呂まで設置されてしまっていた。このあきれた開発業者に対して裁判所は、罰金と法定費用の一部を合わせた30万ポンドを支払うよう、また、これが払えない場合は20ヵ月の懲役を言い渡したことが報じられた。
Q2

持ち主でなくても申請できる?

LB指定への申請は誰でもできる。ただ、 申請申込書では、なぜ、どのような背景からその物件がLBに指定されるべきなのか、理由を明確にしなければならない。ヒストリック・イングランドが根拠を認めれば、そこから文化・メディア・スポーツ省(Department for Digital, Culture, Media & Sports)に推薦され、最終的にはここで判断されてLB指定に至るという流れになっている。
また、ヒストリック・イングランドは、一般からの推薦だけに頼らず、LB候補物件を独自のプログラムでも探す活動を行っている。
Q3

LBリストから外されてしまうケースもある?

北イングランド、ホールトンにある
「Daresbury Hall」。
火災で大きなダメージを受け、
修復が必要となっているLBの例。
© Historic England
もはや、歴史的にも建築的にも特別な意味を有さないと判断されたLBは保護指定から外されることもある。例えば、火事で燃えてしまったり、LBの指定の根拠となっていた事柄が既に意味をなさなくなっていたり――。こうした場合がこれに当てはまるだろう。
ただし、火事になっても燃え方によっては、そこから元どおりに戻すように指示されることもある。元の形に修復することを要求されるので、使う資材にもこだわらなければならない。普通の家の再建よりもはるかに費用がかかることは間違いないだろう。
LBリストから外す場合もやはり、ヒストリック・イングランドへの申請が必要だ。ここでの承認後、文化・メディア・スポーツ省へ回り、大臣によって承認がなされるという、指定承認時の過程と同じ流れとなる。
Q4

LBに指定されると、不動産売買に不利? 有利?

そもそも、LBが多いエリアは概して雰囲気も良く、他の物件も値段が高めになっていることが多い。LB購入自体は前向きなことだと言えるだろう。不動産業者がLB物件を売り出すときの常套句は『character(個性)』であり、独創性を重んじる英国人のハートに響く。LB指定を受けた家に住むことは誇りであり、ロマンなのだ。「少しくらい改築コストがかかっても、後世に価値のある家を残すという大きな役割を果たすこともできる」と、LB物件をあえて購入する人も少なくはないようだ。
ただし、いざという時の改装コストを甘くみてはいけない。使用資材や修復作業のやり方まで細かい指定を受ける可能性がある。レンガひとつとっても、その辺の店で手に入るレンガではなくアンティークのレンガを探すように指示されるかもしれないし、特殊な技術を持つ職人に頼まなければいけなくなるかもしれない。実際に、改修費用がLB購入時に考えていたよりもはるかに高くついたというケースは多いようだ。住宅保険も、エキストラ分を考慮して準備しておかなければ、いざという時に被害額がカバーできないこともあり得る。
そして、落とし穴はもう一つ。 前の住民がうっかり(または故意に)やってしまった無許可の改築が残っていた場合だ。たとえ誰が『やらかした』ものだろうが、LB指定時の状態で保存する義務は、現在の所有者が負う。知らなかったでは済まされないため、無許可の改築跡がみつかると修復を指示されて、思わぬ出費に泣く羽目になることもあるとのこと。
ちょっとしたことにも制約が多く、許可をもらうまでには時間もかかる。ドアをひとつ付けるためだけに3ヵ月以上待つことさえあるとされている。LBの管理は時間とコストがかかるということを十分に理解した上で、購入することが望ましい。
Q5

LBの登録は有料?

LB指定による物件の保護を希望する場合、ヒストリック・イングランドのウェブサイトから個人で申請を行うなら無料。ただし、複雑な申請内容を自分で記入するのが難しいこともあり、その場合は、 ヒストリック・イングランドが提供する有料のヘルプ・サービスを利用することもできる。
また、 早く承認しなければ打ち壊される恐れがあるといった 一刻を争うような理由がない限り、通常は申請から承認を得るまでには数ヵ月かかる。LB指定を急ぐケースのためには、有料の優先申し込みサービスも提供されている。
Q6

こんなものでもLB?

北西イングランド、ランカシャーの
「Carnforth」保全地区内の建造物は
損壊が進んでおり、懸念が寄せられている。
写真は石炭の積出し作業場の建物で
1930年代、イタリア人戦争捕虜が建設に従事。
リスティッド・『ビルディング』というものの、対象物は必ずしも建物である必要はない。 線路やゲート、桟橋、戦場跡、壁、墓石、郵便ポストや電話ボックスなど、建物以外の意外なものも、LBの中に見受けられる。
また、LBは誰もが保護・保存指定に納得するような美しいものばかりでもない。例えば、1995年にグレードⅡ指定を受けたビル『センター・ポイント』。ロンドンのオックスフォード・ストリートの東の端にそびえ立つこの建物は1966年の建設当時から、蜂の巣のような粗野な風貌が大不評だっただけに、LB指定が承認されたニュースも世間では賛否両論で受け入れられた。
Q7

イングランド以外はⅠ、Ⅱとは分類しない?

イングランドにおけるLB は、次の3等級に分けられる。
・グレードⅠ:最高に重要な建造物で、LB全体のわずか2.5パーセント
・グレードⅡ*:注目すべき重要な建造物で、LB全体の5.8パーセント
・グレードⅡ:その他の保護すべき建造物にあたり、LB全体の約92パーセントを占める

一方、イングランド以外の地域ではグレードの表記は異なる。北アイルランドでは、A級、B+級、B級、スコットランドではA級、B級、C級という表示になる。
Q8

城はぜーんぶ、LB?

グレードⅠに指定されたばかりの
「Humber Bridge」(1981年完成)。
グレードⅠの価値があるのかという
疑いの声も聞かれている。
英国のお城や宮殿はそもそも古くて貴重なものなので、LB指定を受けているものがほとんど、しかも多くがグレードⅠだという。
古ければ古いほど、LB指定は承認されやすいようだ。例えば、1700年以前の建築物はすべて、また1700年から1840年までの建築物もほぼ全部が、LB指定を受けている。
一方で、1945年以降の建築物の選定については注意深く行われている模様。ヒストリック・イングランドには、築30年未満の物件は登録対象として考慮しないという『30年ルール』もあるという。
唯一の例外は、ロンドンのシティにある「No.1 Poultry」というビル。1997年に完成したこのビルは、ポストモダニズムの建築家として知られるジェームズ・スターリングが晩年にデザインしたものであり、ロンドンのポストモダニズム建築の傑作として認められていることから、2016年にグレードⅡとして登録された。イングランドで指定を受けたLBとしては最も建築年度が新しいものだという。

リスティッド・ビルディング観察法

リスティッド・ビルディング観察法

マップ検索で拡大していき、ロンドン中心部を見たところ。濃紺の三角形がLBを示すが、その数のあまりの多さに驚いてしまう。ロンドンはまさにLBだらけ!! この図の中で、自分で気になる部分をさらに拡大していくと、それぞれのLBの所在地や登録理由などを確認することができる。政府の担当部署の仕事ぶりに(公務員として、当然とはいえ)思わず感心。英国人の歴史的建造物に対する情熱の深さを感じさせる。
まずは、ヒストリック・イングランドのホームページから「Search」へ進む。
https://historicengland.org.uk/sitesearch
キーワードや、知りたいLBの「リスト・エントリー・ナンバー」がわかっていれば、この「Search」画面から探せる。
自宅や勤務先の周辺、そのほか興味のある通りなどにどんなLBがあるかを知りたい時は、この下の「The List」をクリックすれば、次画面から、ポスト・コードやアドレスを使ってマップ検索ができる。

または、ホームページのトップ右上のMENUから「Listing」→「Search the List」に進むと、すぐにマップ検索ができる。
https://historicengland.org.uk/listing/the-list
「Search using a Map」の「Explore」ボタンをクリックすると、英国の地図が現れる。どんどん拡大して、自分が探したいエリアを絞り込んでいくと…
マップ上に点在する濃紺の三角印がLBを示す。気になる三角印をクリックすると、まずは名前やグレードなどが表示される窓が開く。さらに「View List Entry」をクリックすれば、所在地や登録年度、そのLBの歴史や保護指定に至った理由など、詳しい情報がわかるようになっている。

上の画像は、「センター・ポイント」に
関する詳細を記したページのトップ。
1995年11月24日にLBにグレードⅡとして
登録されたことから始まり、
外観、内装などことこまかに記されている。
一般的にいって、広く知られたLBほど、
この情報が多い。
例えば、オックスフォード・ストリートの東端にそびえたつ、「センター・ポイントCentre Point」=写真下=を探してみると、結果はこの通り。

パブ・チャンピオン
The Champion Public House

12-13 Wells Street, Fitzrovia, London W1T 3PA
リスト・エントリー・ナンバー:1267696

ヒストリック・イングランドのウェブ・サーチで、なんとジャーニー編集部隣のパブ『チャンピオン』=写真=も1970年にLBのグレードⅡの指定を受けていたことが判明した!
ウェブ検索できた詳細によると、この建物は1860年から1870年にかけて建てられたもの。 外壁に使われている黄色味がかったゴールト(Gault)レンガ(当時の建物によく使われていたらしい)、漆喰、クラシックな装飾、バー部分の張り出し、内部の壁柱や、大きな鉄製の飾りランプなどが、LB指定のポイントとして細かく挙げられている。今度飲みにいくときは、細部までもっと気をつけて見てみないと!(さっそく飲みにいかねば!?)

デンマーク・ストリート6番地
No 6 Denmark Street

Denmark Street, London WC2H 8LX
リスト・エントリー・ナンバー:1271976

ロンドン中心部でいうと、バッキンガム宮殿やタワー・ブリッジ、国会議事堂など、グレードⅠに指定されている国宝級の建造物が目白押し。また、グレードⅡの指定を受けている建造物も数多くあることがよく分かったが、果たして「グレードⅡ*」というのはどういった建造物なのか。探してみると、ソーホーにあるデンマーク・ストリート6番地がそれであることを発見。17世紀に建てられた個人向けテラストハウスで、今も残っている希少な例だという。

~伝統と革新の神秘ワールド~英国式占星術星座別「2017年の運勢」付き! [Astrology]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2017年1月5日 No.965

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~伝統と革新の神秘ワールド~英国式占星術星座別「2017年の運勢」付き!

~伝統と革新の神秘ワールド~

英国式占星術 星座別「2017年の運勢」付き!

精神分析学や心理療法、さらには人工知能の技術とも関わりながら学問として独自の発展を続ける英国式占星術。
その歴史を紐解くかたわら、2017年の展望を星座ごとにお送りする。

●サバイバー●取材・執筆/ホーリー・グレイル、本誌編集部

セント・ジョンズ・ウッド生まれの魔法学校

人は未来を予想したり夢見たりすることはできても、実際に知り得ることはない。知ることのできないものを知りたいと思うのが人情というもの。とはいえ、どれほど科学やテクノロジーが進んでも、未来を予知することはできないようになっている。聖書の世界では、人類は思い上がってしまったがゆえに異なる言語を話し始めるようになったとされているが(後述)、未来予知の能力を授からなかったのも、なんらかの意味があるのだろう。
しかし、「知りたい」という気持ちを抑えることができないのも事実。知ることはできくなくても、より具体的に予想しようと様々な試みがなされてきた。星の動きから、未来を推し測ろうとする占星術もそのひとつだ。中でも英国式占星術の発達ぶりは特筆に値する。
今や欧米諸国、日本でもてはやされているほか、新興国でも高水準の評価と人気を得ている、その英国式占星術だが、実は『ハリー・ポッター』に登場する魔法魔術学校のような研究組織の活動によって支えられていることはあまり知られていない。その端緒は神智学運動との関わりが深かったアラン・レオとチャールズ・カーターというふたりの英国人によって開かれた。
神智学運動というのは、ロシアの霊媒師ヘレナ・ブラヴァツキー夫人を中心に設立された秘教的カルト団体である神智学協会によって啓発された、宗教、芸術、文学、哲学など多岐に渡るムーブメントのこと。19世紀末から20世紀初頭にかけて、アメリカ、ヨーロッパ、さらにインドで多くの支持を得た。
当時ロンドンのセント・ジョンズ・ウッドに本部を置いていた神智学協会に出入りしていたのがレオである。レオは、1915年、協会内部に占星術専門の支部「Astrological Lodge of the Theosophical Society」を組織する。そのわずか2年後の1917年、レオは他界してしまうのだが、親しみを込めてロッジと呼ばれるこの組織は、後に英国の主要な占星術研究教育機関を生み出す母胎となる。
占星術に試験制度を導入し専門学校化しようとしていたレオの夢を叶えたのが、その後継者であるカーターだった。このカーター、本職は法廷弁護士という異色の存在。1948年、カーターは占星術の専門教育機関である「Faculty of Astrological Studies」を設立し、試験制度を施行する。
カーターの占星術は出来事に焦点を当てる従来の運勢判断とは異なり、心理学的な解釈を加える、当時にしては斬新なスタイルであった。
ここからは多くの優秀な占星術師が誕生し、1970年代以降の英国式占星術は、精神分析学や心理療法の研究所、ルネサンス学で有名なウォーバーグ研究所、スイスの人工知能の技術とも関わりながら学際的な独自の発展を遂げていく。
今日の英国占星術の国際社会における位置づけの高さをレオが見たなら、おそらく満面の笑みを浮かべることだろう。

アーサー王伝説に秘められた謎も占星術がらみ!?

ウィリアム・リリー誕生時の出生天球図(ホロスコープ)。
リリーの監修による手書き
(オックスフォード大アシュモリアン博物館蔵)。
英国史には、占星術との関わりを抜きにしては考えられない側面がある。ここで、中世から近代にかけての英国式占星術の歴史を簡略に紹介しよう。
ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハのアーサー王伝説『パーシヴァル』では占星術の知識が隠喩として語られている。エッシェンバッハは中世ドイツの詩人で、12世紀終盤に活動した人物だ。
古のギリシャやローマの占星術は中世の暗黒時代に教会権力によって一旦は封印されたものの、12世紀にイスラムやインド、またケルト民族のドルイド教を経て英国に伝えられた。アーサー王伝説はこうした時代背景を反映している。
そもそも占星術の起源は紀元前20世紀から16世紀のバビロニア(現イラク)にまで遡る。聖書に記されているバベルの塔()は、実はバビロニア人の天体観測所だったという。バビロニア人は「天体の現象は地上の出来事と関係する」という「科学的仮説」に基づき、観察という「科学的方法」によって未来予測が可能だと信じていた。バビロニアの占星術は、紀元前6世紀にはバビロン捕囚を機にユダヤとペルシャに伝わり、さらにペルシャからエジプトとインドへ流れていく。
バビロニアで基礎を築いた占星術は、やがてギリシャ、ローマへと伝播。紀元後2~3世紀のエジプトの都市アレキサンドリアで完成する。ドロテウス、プトレマイオスらが体系化して現在の出生天球図(ホロスコープ)の骨格が仕上がった。古代ローマ帝国滅亡後は、12世紀にアラビア語やペルシャ語の文献がヨーロッパに伝わるまで、イスラム圏で発展を続けるのである。
※バベルの塔…旧約聖書の「創世記」11章に登場。人類は天に届くような塔を造ろうとし、神の怒りをかう。人々は突然異なる言葉を話し始め、意思疎通ができなくなって塔の建築は失敗したとされている。

星が決めていた国家の政策

エリザベス1世の寵愛を受けたジョン・ディー
(John Dee 1527年7月13日~1608年または1609年)。
歴史学者によっては近代初期とも解釈されるルネサンス期に、占星術は黄金時代を迎える。
エリザベス女王の時代は、まだ一般人を占う占星術は発達しておらず、国家の出来事を占って政策を決定する政治占星術が王朝内で密かに実践されていた。
さらに、ヨーロッパの宮廷は占星術師を雇用し、スパイとして国外に派遣することも頻繁に行われていた。例えば、エリザベス1世の宮廷占星術師であったジョン・ディーも秘密諜報員であり、大陸に渡りスパイ活動を行っていた。ちなみに、ディーの秘密文書は「007」と署名されており、これはユダヤ教の神秘思想カバラに由来する。
ディーは、宮廷に入る以前からエドワード6世から恩給を受けていたケンブリッジ大学の数学者。最初からエリザベス1世のお抱えだったわけではなく、エリザベスの腹違いの姉、メアリーがイングランド女王として即位(メアリー1世)した際、同女王からの依頼でスペイン王太子フェリペとの結婚の相性を占っている。
情報は全て妹エリザベスに筒抜けだったとされ、ディーは1555年に反逆罪で投獄される。
しかし、1558年、メアリー1世は死去。エリザベスが君主として即位すると、まず最初にしたことは、ディーに戴冠式の日取りを占ってもらうことだった。以来、ディーとエリザベス1世は親密な関係を築き、結婚占いの相談役となった。
結局、エリザベスは一度も結婚することなく生涯を終え、跡継ぎがなかったため、スコットランド王(ジェームズ6世)が、イングランド王を兼ねるという時代を迎えることになるのだが、エリザベス1世の治世にイングランドが大きな力をつけたことは事実。すべてがディーの占いのおかげとは言わないが、多少の貢献はあったと見るのが自然だろう。
また、ディーはエリザベスに対して様々な政治的助言も行った。大英帝国という概念や、大英図書館を既に構想している。

占星術の役割は魂のケア

ロンドン大火を予言した、ウィリアム・リリー
(William Lilly 1602年5月1日または11日~1681年6月9日)。
17世紀の科学革命以降、欧州大陸では近代化が進むにつれ、占星術は迷信として葬られる一方で、熱心な天文ファンが新たな科学的宇宙論を展開する。英国内でも似た傾向は見られたものの、欧州大陸と大きく異なった点は、占星術は葬られることなく、むしろ商産業化して、印刷技術の発達とともに広く一般化していったことだ。
個人鑑定を行う英国式占星術は、ウィリアム・リリーによって大きく進展した。
リリーはディーよりもさらに政治色が濃く、1649年に共和国評議会に占星術師として雇われている。それ以前から既に政治家の顧客が多く、イングランド内戦の時には、チャールズ1世とオリバー・クロムウェル双方の相談役になっている。そのため1651年には政治犯として投獄され、62年にはチャールズ2世により幽閉される憂き目にもあった。
66年のロンドン大火を48年に予言したことは有名で、リリーは事件との関連性を疑われて尋問にかけられた。しかし、罪には問われず、81年に80年という長い一生を終えている。
この後も英国占星術は絶え間なく変化をとげていくが、20世紀になって、一気に近代化が進んだことは9頁で述べた通りである。
現代人は魂と引き換えに科学技術と自由意志を獲得して、もはやディーやリリーの時代のように運命に翻弄されるようなことはなくなったといわれている。しかし、古代ギリシャ人が、運命とは魂と直結しているダイモン(神霊)だと考えていたように、どれほど科学や技術が進歩しようとも、やはり我々には知り得ない、コントロールしきれないものが存在することは否めない。
哲学者イアンブリコスは、「魂は今生での目的を成就するのに最も相応しい時間に、その時の星の布置を選んで生まれてくる」と言っている。時代がどのように移ろうとも、英国式占星術のコンサルテーションでは魂のケアを最大限に配慮する。これからもそれに変わりはなく、英国式占星術はさらなる進化を遂げていくことだろう。
あなたの今年の展望は?2017年の運勢

2017年の運勢

あなたの今年の展望は?星座別に2017年の運勢をホーリー・グレイルが占います。

ホーリー・グレイル プロフィール

占星術のチャートリーディングとバッチフラワー療法を組み合わせたコンサルテーションを行っている。 1964年生まれ、水瓶座。神話学博士。

牡羊座

牡羊座

3月21日~4月20日
ラテン語Ariesアリエス/英語Ariesエアリーズ

夏がオトシどころ、飛ばし過ぎに注意

今年の牡羊座の運勢の大きなポイントを挙げるとすると次の3つ。まず最初に、この宮を航行している天王星が、天秤座を航行している木星と緊張度の高い、180度の衝の座相を作る点。10月の初めまでは、気持ちばかりが昂揚して現実がついてこないという事態を避けるため、意識の拡大を創造性や長期的な展望に結びつける努力が必要です。気球に乗ってどこまでも高く飛びすぎて着陸地点を見失う…そんなことにならないように注意。
次に、3月から4月にかけて金星がこの宮で逆行します。その前後、つまり2月から5月中旬にかけては対人関係や財政面での変化が起こりやすく、価値観が変動しやすい時期。自己発見の機会として捉え、人格的な成長に結びつけましょう。
3番目は、7月から8月にかけて主護星の火星が夏の太陽と合し、さらに吉角を作る時。生命力がアップし、何事もマックスの状態で果敢に挑むことができます。夏を今年1年間のピークと定めて、計画を立てると良いでしょう。
牡牛座

牡牛座

4月21日~5月20日
ラテン語Taurusタウルス/英語Taurusトーラス

曇りのち晴れ、執着を手放し幸運をゲット

今年は前半と後半とでは運勢が大きく切り替わるでしょう。前半は、はっきりとしないモヤモヤとした状態が続きます。新旧交代の時期で、対人関係や財政面などで諸々の欲求を満たすうえで見直しが起こり、停滞感だけでなく倦怠感すら感じるかもしれません。この時期の出会いや投資は一時的なもので永続性に欠けるので、短期的なゴールを設定して、自己発見の機会や新たな価値観の創造と捉えるのが賢明です。
その後、6月に主護星の金星がこの宮に入ると、まるで眠りから覚めたようにリフレッシュして本来の自分の感性が甦ります。幸運な対人関係や快適で美しい生活が見つかるでしょう。7月後半から8月にかけては、勝敗を決めるストレス度の強いイベントがあり、取捨選択で迷うかもしれません。
これを無事乗り切れば、9月後半から、運勢は高水準で推移していき、長期的に取り組んできたことの結果も出て、海外での今後の発展や拡張に関して良い指針となるでしょう。
双子座

双子座

5月21日~6月21日
ラテン語Geminiゲミニ/英語Geminiジェミナイ

飛躍と発展の年、ゴールに達して苦難からの解放も実現

双子座は、昨年から土星の影響を少なからず受けています。これまでの努力が実り達成感を得る人もいれば、現実に直面しチャレンジを乗り越えようともがいている人もいます。表れ方は様々ですが、気分が憂鬱になる傾向があります。これはそこから何かを学んで次のステップに活かしていくための試練と捉えましょう。
今年は木星からの吉角も受けるので、飛躍のチャンスもあります。長期的な目標が形になり、経済的にも潤うでしょう。双子座の主護星は伝令の神マーキュリーが司る水星。水星がこの宮を通過する6月は、誕生月とも重なり、活気に溢れてビジネスも好調で有益なイベントがあるでしょう。
その一方で、水星が逆行する4月、8月、12月は、小休止を入れて内省的に過ごしながら、次の展開の準備を進める時期。8月下旬から9月にかけては、建設的な努力が必要な時期で、取捨選択に迷うような案件が発生しやすく緊張の強まる時期です。瞑想や針灸はストレス管理に効果的。
蟹 座

蟹 座

6月22日~7月22日
ラテン語Cancerカンケル/英語Cancerキャンサー

ジェットコースターのような年、安全ベルトの着用を

アットホームな気持ちでいられる平和な環境が大切なこの星座ですが、昨今の世界情勢ではそのような居場所を見つけることは大変難しくなっています。今年も変動の波が押し寄せ、チャレンジが続くと思われますが、魚座を航行する海王星と小惑星キロンから吉角を受けており、精神的な喜びも多い時期です。内省的な探求により、アットホームで落ち着ける気持ちを回復することができるでしょう。
軍神マーズが司る火星がこの宮を通過する6月と7月は焦りや苛立ちが強くなりストレスを感じる一方で、6月下旬から7月初めにかけては誕生日とも重なり、有意義な出来事や重要な動きが多い時です。思い切ってなにかを始めるのにも良い時期。8月は美神ヴィーナスが司る金星がこの宮に入り、美しい英国の夏を存分に満喫できるでしょう。ロマンチックな出会いやハッピーなイベントにも遭遇します。
10月からは吉神ジュピターの加護を受け、4年に1度の幸運期が到来します。
獅子座

獅子座

7月23日~8月23日
ラテン語Leoレオ/英語Leoリオ

今年も好調、ピークは夏

多くの星から吉角を受け今年も好調な運勢が続きます。長期的な目標に向けて継続して努力を重ねてきたことが形になる時で、持続的発展のために工夫や刷新を試みる時です。
今年は、誕生月もある夏に多くのことが集中します。単なるエキサイティングなホリデーでは終わらない、夏の決戦の場となりそうですが、勝利を収めるでしょう。今年の夏は、カラフルでドラマチックな展開になりそうです。一方で、8月21日にアメリカ大陸で観測される皆既日食はこの宮で起こるため、その近辺の誕生日の人たちは昨年から来年に向けて大きな変化が起こりやすくなっています。充分な警戒と、何が起きても動じない覚悟と意志力が必要です。老王の失墜とならぬよう心当たりのある方は注意しましょう。
9月にはラブ・ロマンスもありそうです。夏の嵐が過ぎ去った後にホッと一息つける楽しい秋の始まりとなるでしょう。10月から11月にかけては新たなゴールへ向けて一歩前進するチャレンジが浮上。
乙女座

乙女座

8月24日~9月23日
ラテン語Virgoウィルゴ/英語Virgoヴァーゴ

日々是精進、ストレスを感じたら深呼吸

乙女座の主護星は水星、それと穀物の大地母神の名がついた準惑星セレスもこの星座を支配します。水星とセレスの動きから今年1年を占ってみましょう。年初から水星の吉角を受け、好調なスタートを切るでしょう。2月初めまでは順調なペースで進み、その後もセレスからの吉角を受けるので、5月半ば過ぎまでは努力の甲斐あって心地よい春を迎えることができるでしょう。
その後6月の夏至までは、結果を出す時期に入りストレス度も増しますが、この時期も水星とセレスからの援助を受け、奉仕に見合った報酬を得るでしょう。しかし8月から9月にかけては、水星がこの宮で逆行するので、反省の時期に入り、思うように物事が進行しません。夏休みをしっかり取って、心身を休め今後の展開について模索すると良いでしょう。
年間を通じて、うつ状態から悲観的になったり、心配や不安から心身の不調を感じることがあるかも。気分を明るく保つ工夫や健康法の実践が必要。
天秤座

天秤座

9月24日~10月23日
ラテン語Libraリブラ/英語Libraリーブラ

チャレンジの年、冷静な判断をこころがけて

今年、最も大きな影響力のある星の動きとして、主護星である金星の逆行を挙げることができます。2月から5月にかけては、一時的に対人関係が不安定になったり、金融取引に関して変動も起こりやすくなります。この時期に趣味や好みの変化が表れたら、内面的な価値観の移ろいと考えて、新たな自己発見の機会としましょう。永続性には欠けるので、大きな決断を下す時期ではありません。
拡大と発展を促す木星がこの宮を航行しているので大きなチャンスにも巡り会いますが、手を広げすぎると収拾がつかなくなり、大転換の危機的状況にもなりかねません。バランスを取るのが難しいと感じたら、平衡状態を保つようにセルフケアを心がけましょう。
10月中旬から11月初めは金星がこの宮に入り、ようやく本来の自分らしさを取り戻すことができるでしょう。その後も12月初めまでは火星がこの宮を航行するので、新たな目標に向かって積極的に行動を起こすと良いでしょう。
蠍 座

蠍 座

10月24日~11月22日
ラテン語Scorpiusスコルピウス/英語Scorpioスコーピオ

12年に1度の好機到来、存分に活用を

伝統的な占星術では蠍座の主護星は火星。今年は年明けから火星の吉角を受け、幸先の良いスタートを切ります。1月中は寒さも吹き飛ぶ勢いで前進できるでしょう。2月は今年最初のチャレンジの時期となり、これを乗り切れば4月半ば過ぎから5月半ば過ぎにかけて良い結果が出てきます。
7月から8月にかけては主護星が夏の太陽と合し、最も運勢が盛んな時期で何事にも意欲的に取り組めます。ストレスや夏バテが原因でせっかくのチャンスを逃さないように、日頃からよく鍛えておきましょう。この時期の注意点は無意味な競争や争いに巻き込まれやすいこと。また疲労から事故や怪我も起こりやすいので、レジャーやスポーツは無理せずに楽しみましょう。
10月には拡大と発展を促す吉星ジュピターがこの宮に入り、12年に1度のビッグチャンスの到来です。来年の展開に向けて新たな動きが出てくるでしょう。12月には主護星がこの宮に入り、パワー全開となります。
射手座

射手座

11月23日~12月21日
ラテン語Sagittariusサギッタリウス/英語Sagittariusサジテイリアス

ゴールは近い、極端を避け中庸を

今年は何事も極端な方向に向かう傾向が出てきます。リスクの大きな選択を楽観視して行い、結果を侮ると取り返しのつかないことになるので注意。一方で、この宮を航行する土星の知恵を借りて冷静な判断ができれば、リスクをおかさずに力量内で大きな成果を積み上げることができるでしょう。
長期的な目標を達成して、さらなる成長のための基礎作りに励む時です。新たに組織を再編成したり、イノベーションへ向けた長期的な企画をスタートすると良いでしょう。7月半ば過ぎから9月初めにかけては、火星の力を借りて勢いが出ます。特に、7月下旬から8月初めにかけては活動的になり、多彩なイベントに思い切ってチャレンジできる時です。ホリデーの冒険旅行や秋以降の展開に向け、新分野の開拓に全力投球できるでしょう。
一方で、心理的な問題を抱えやすい年なので、不安や恐怖、混乱を素直に自覚して自分の弱点や短所に振り回されないようにしながら、長所を伸ばしましょう。
山羊座

山羊座

12月22日~1月20日
ラテン語Capricornusカプリコルヌス/英語Capricornカプリコーン

引き続き変動運、しかし努力が酬われる日は近い!

今年は政治、経済、文化の面で一方の極端な点からもう一方の極端な点へ振り子のように揺れ動く傾向があり、この星座は最も強く影響を受けます。責任感が強く、重要な社会的役割を担うことが多い山羊座の人たちは、積極的に不正やリスク回避のために働きかけるか、消極的に責任を引き受けて犠牲者となる道を選ぶかの選択を迫られるでしょう。
特に3月から4月にかけては、対人関係や財政面での変動が起こりやすく、今年1年の運勢を大きく左右する分かれ道にもなりかねません。大きな変化や拡張を試みると目論見が外れやすい年ですが、抑制を効かせながら堅実的に努力を積み重ねると予想以上の成果が出る時です。
6月から7月にかけては、潜在的にあった目標が明らかになり始め、迷いも出てくる時期です。一方で、幸運な出会いや楽しいイベントも増え、明るい結果へと導かれるでしょう。8月と9月は、バランスを回復する調整期間で、情報や知識を集めて下準備を進めることを心がけましょう。
水瓶座

水瓶座

1月21日~2月19日
ラテン語Aquariusアクアリウス/英語Aquariusアクエリアス

緊張感の強い発展と飛躍の年、夏が正念場

これまで長期的にやってきたことの結果が出て、到達点が明らかになります。偶然のチャンスや突然の閃きが重なって、さらなるブレイクスルーもありえます。また、テクノロジーや人道的なグループを組織化して、単なる思いつきから始めたことが飛躍的な進化を遂げる時です。革新的なアイディアによって結ばれたネットワークに関わると、今後の展開の礎となる実績や基盤ができるでしょう。
7月中旬から9月初めにかけては、行方を阻む問題やライバル争いの起こりやすい時ですが、一方で積極的にイベントを起こしてリーダーシップを発揮できる時です。正面衝突は避け、忍耐強く可能性を最大限に引き出す粘りが必要です。ストレス度もアップするので夏バテには注意。
9月下旬から11月初めまでは、落ち着いた美しい秋を満喫できそうです。美的な感性も増し、芸術性が要求される分野に関わる人たちには、頭の中で思い描いたアイディアやデザインをスムーズに実現できるでしょう。
魚 座

魚 座

2月20日~3月20日
ラテン語Piscesピスケス/英語Piscesパイシーズ

時に大波、秋以降は拡大発展の好機到来

年明けから愛情と幸運の女神ヴィーナスの加護を受け、1月中は幸先の良いスタートを切ることができます。時に心が乱れ冬の嵐のように揺れることもありますが、ハッピーなイベントもあり気分転換となるでしょう。しかし2月26日に南米からアフリカで金環日食が起こり、誕生日がこの日付と前後する人たちは、今年は変動運となるでしょう。
5月半ば過ぎから6月半ば過ぎまでは今年最初のチャレンジに遭遇します。この結果の善し悪しは、8月から10月初めに表れ、その時期は軌道修正も可能です。このため8月半ばから9月初めは秋以降の展開を試行錯誤する重要な時期となります。有益なメッセージや情報をキャッチしましょう。
年間を通じて心理的な問題を抱えやすいのですが、不安や恐怖、混乱を癒すサポート手段を見つけると幾分か楽に過ごせるでしょう。朗報もあります。10月から約1年、ジュピターの加護を受けるので、4年に1度の拡大発展の好機に入り、海外運も上昇します。

黒い瞳の伯爵夫人 クーデンホーフ光子の決意 [Mitsuko Coudenhove-Kalergi]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2017年2月2日 No.969

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黒い瞳の伯爵夫人 クーデンホーフ光子の決意

黒い瞳の伯爵夫人

クーデンホーフ光子の決意

今からおよそ100年前。
ウィーン社交界で人々の注目を集めた、美しい日本女性がいた。
「黒い瞳の伯爵夫人」とも呼ばれたクーデンホーフ光子を今号では取り上げる。
写真2点はいずれも光子が暮らしたころのウィーンの街角の風景。

【参考文献】
木村毅『クーデンホーフ光子伝』(鹿島出版会、1976年)
シュミット村木眞寿美(編訳)『クーデンホーフ光子の手記』(河出書房新社、2010年)
鹿島守之助(訳)『クーデンホーフ・カレルギー回想録』(鹿島研究所出版会、1964年)
鹿島守之助(訳)『母の思い出 伯爵令嬢オルガ・クーデンホーフ・カレルギー手記』(鹿島研究所出版会、1963年)他

●サバイバー●取材・執筆/根岸 理子

日本のシンデレラ

クーデンホーフ光子―この優雅で美しい響きの名前に聞き覚えのある読者も多いのではないだろうか。光子は、外国人と結ばれ片仮名の苗字を名乗ることに非常に勇気の必要だった明治時代に、オーストリア貴族と結婚した日本女性である。のちに夫となるハインリッヒ・クーデンホーフ(Heinrich Coudenhove-Kalergi)伯爵との出会いは、おとぎ話のように美しく伝説化されている。
そのストーリーは次のようなものだ。
オーストリア・ハンガリー代理公使として日本に駐在していたハインリッヒが冬のある日、乗馬を楽しんでいたところ、愛馬が凍てついた道で足を滑らせ、転倒してしまった。道に放り出された「異人」を人々は遠巻きに眺めるだけであったが、近くの店から飛び出してきて躊躇することなく彼を介抱した美少女がいた。それが、光子であった―というのが、もっともよく語られている二人の馴れ初めである。ただこれは、残念ながらかなり脚色された話のようだ。
実際に二人がどのように出会ったのか、確かなところは今となっては知るよしもない。しかし、ハインリッヒが光子を見初めたことから始まった関係であったらしい。貴族でもある外交官と結婚した町娘は、まさに「日本のシンデレラ」と呼ばれるにふさわしいが、王子―ハインリッヒ―との結婚で、光子の人生が「めでたし、めでたし」と締めくくられたわけではない。本稿では、その後、彼女が歩んだ苦難の道をも紹介することにしたい。

電撃結婚

光子―本名・青山みつ(戸籍名は「みつ」だが、のち自ら光子と称したので以降すべて光子と表記する)は、1874年7月7日(16日とも)、東京牛込に生を受けた。
父の青山喜八は骨董商を営んでおり、その店は、オーストリア・ハンガリー公使館からほど近い場所にあった。そうした縁で、二人は結ばれたのであろう。光子は近所でも評判の美少女であった。少女時代の写真をみても、長身でスラッとしており、白鳥のように優美な首が印象的な女性だ。洋装の方が似合いそうな顔立ちで、ハインリッヒが一目ぼれしたとしても納得がいく。
一方のハインリッヒも長身で精悍な顔つきのなかなかの美男子だった。彼は1859年、オーストリアの伯爵フランツ・クーデンホーフとスラヴ貴族であったマリーの長男として、ウィーンで産声をあげた。オーストリア・ハンガリー代理公使として日本に赴任したのは、1892年のこと。ハインリッヒは33歳となっていた。
来日してまもなく18歳の光子と知り合い、文字通り「電撃的に」結ばれたとされている。 しかし実際には、この結婚話はハインリッヒと光子の父親との間で取り決められたというのが真相に近いようだ。光子の実家には、ハインリッヒの立場にふさわしい金額が納められたと見られるが、親の決めた相手と結婚することはその時代の女性にとってはむしろ当然の義務。少なくとも、結婚式での写真を見る限り光子の表情は明るく、その運命を前向きに受け止めていたと感じられる。
光子はハインリッヒとともに市ヶ谷の洋館に住み、翌年には第一子ヨハネス(1893年生まれ)が誕生。さらにリヒャルト(1894年生まれ)と続けて子供に恵まれる。親元にも近く、東京で暮らした新婚時代は、光子にとって忘れがたい、幸せな日々だったようである。

日本からの旅立ち

ハインリッヒと光子の結婚式の写真。
光子の顔にはまだあどけなさが残る。
そうした幸福な日々についに変化が訪れる。
1896年、ハインリッヒに本国への帰還命令が下されたのだった。その時には、光子も大きな不安を感じたに違いない。そんな彼女に、ハインリッヒはアジアでの勤務を希望することを約束した。折々には日本に帰ることができると信じての旅立ちであったのである。光子夫妻には、日本女性二人が、乳母として同行した。
外国人外交官と正式に婚姻を結んだ日本女性とあって、旅立ちの前に、光子は皇后(のちの昭憲皇太后)に拝謁を許され、特別にお言葉を賜った。「どんな場合にも日本人としての誇りを忘れないように」という内容のその言葉を、光子は終生大事にして生きたといえる。
光子は、ハインリッヒの領地ボヘミアのロンスペルク城へ向かうため、神戸から始まった船旅について、子供たちに書き残している(シュミット村木眞寿美が『クーデンホーフ光子の手記』として翻訳している)。寄航した国々の印象は鮮やかで、初めて触れた異文化への驚きが生き生きと語られている。新しい世界に目を開かれていく光子の興奮した様子が伝わってくるような文章だ。母国を離れた心細さを味わいながらも、ハインリッヒと密に過ごしたこの旅も、のちの光子を支える大事な思い出となるのだが、光子がそれを予知できようはずもなかった。

外国人妻としての日々の始まり

ハインリッヒと光子が一家で暮らした
ロンスペルク城。
©Mejdlowiki
1896年3月、ついに欧州に到達。日本人である自分をハインリッヒの親族はどのように迎えるのか、光子は不安でいっぱいだったはずだ。ここでまことしやかに伝えられているのが、すること為すことすべて―言葉から食事のマナー、衣服の着こなし、立ち居振る舞いなど―に対して周囲からチクリチクリと当てこすられ、光子がひどく「いじめられた」という話である。
光子自身は、そのようなことは語っておらず、皆、彼女を温かく受け入れてくれたとしている。とはいえ、、実際、周りと馴染み分かり合うには、それなりの時間がかかったと考えるほうが自然だろう。東洋人、しかも平民の娘である光子への偏見は相当強かったのではなかろうか。
そのような新しい生活では、ハインリッヒの気遣いは不可欠だった。ハインリッヒに守られる中で少しずつ新しい環境に慣れていった光子は、やがて、彼の親族の住居に呼ばれたり、知人・友人の夜会に招かれたりと、伯爵夫人らしい華やかな日々を送るようになっていく。まさにシンデレラの世界であるのだが、一つだけ異なっていたのは、シンデレラは自らの国で幸せになったが、光子は母国とのつながりを失いつつあったということである。
当初は、ヨハネスとリヒャルトの乳母の日本女性たちがいたので、光子も日本語で会話する機会が多かった。
しかし、領地管理人が不正を行なっていたことが発覚したため、ハインリッヒは外交官を辞し、領地を自ら管理することを選択したのである。かくして、アジア駐在の話は夢と消え、夫妻はロンスペルクに身を落ち着けることになった。
日本に家族がある乳母たちを、ずっと引き留めておくわけにもいかず、光子は彼女たちを帰国させた。ついに、ロンスペルクで唯一の日本人となってしまったのである。子供たちは、壁に向かって自分たちには分からない日本語で、長い独り言をつぶやく光子の姿を目撃している。そこで語られた光子の言葉は、どのようなものであったことか。
ホームシックというのは、体験した者でなければわからない。その身が在るべき場所にないような、それまで長く生きてきた場所に引かれるような、強烈な感覚。母国語で語り合う相手がいない生活の中で、光子はどのようにその感情・感覚を乗り越えたのか。ロンスペルクの住人たちは、時折、ただ一人馬で駆けるほっそりした光子の姿を見かけたという。光子は周囲にぶつけることのできない想いを、乗馬で紛らわしていたのではない。しかし、落馬で怪我を負ったことで、彼女はこのささやかな慰めさえ失ってしまうのである。
「帰省」という形で一時的にでも日本に戻ることができていれば、光子の心も癒されたかもしれない。しかし、度重なる妊娠・出産により、そうした計画もかなわなかったのだった。

「八番目の子供」

日本で誕生したヨハネス、リヒャルトに加えて、ハインリッヒ・光子夫妻は子宝に恵まれた。三男ゲロルフ(1896年生まれ)、長女エリーザベト(98年生まれ)、次女オルガ(1900年生まれ)、三女イーダ・フリーデリーケ(01年生まれ)、四男カール(03年生まれ)と、ほぼ2年ごとに「おめでた」が続いた。子供たちが背の順にずらりと並んでいる微笑ましい写真が残っているが、彼らを見つめる光子の表情は柔らかく優しい。
しかし、若い光子は、一家の主婦、そして七人の子供たちの母親というよりも、「八番目の子供」として女学生のような生活をしていたようである。ドイツ語、英語、フランス語などの語学に加えて、算数、歴史、地理、ヨーロッパ風の礼儀作法など、学ぶことは山ほどあった。真面目な光子は、そうした勉強に全力で取り組んだ。
ところが、七人目の子供、カールが生まれた後、光子は肺を患ってしまう。ハインリッヒは何とか回復させようと、光子を南チロルへ連れて行き、子供たちも呼び寄せた。新鮮な空気と暖かい気候のおかげで、病気からも無事全快、一安心した光子であったが、気付かぬうちに、夫との永遠の別れの日がゆっくりと近づいていたのである。妻や子供たちについては、あれこれ心配するが、自身の健康には無頓着なハインリッヒであった。

二人のマリー

ハインリッヒは光子と出会う前に、愛する二人の女性との死別を経験している。奇しくも二人とも「マリー」という名前であった。
一人目のマリーは、自らの母親。ギリシャ系スラヴ貴族出身で、美しく優しい母・マリーをハインリッヒは心から敬愛してやまなかった。だがしかし、母は36歳という若さで病(猩紅熱といわれている)により世を去ってしまう。その時、ハインリッヒはまだ17歳であった。
母親の旧姓は「カレルギー」であり、1903年にハインリッヒが苗字を「クーデンホーフ=カレルギー」としたのは、母の存在の「証し」を残したかったからと考えられる。
彼が常に身に着けていた金のロケットの中には母の遺髪が入っており、「お母さん、私のことを忘れないでください」という言葉が刻まれていたという。ハインリッヒだけでなく、妻を熱愛していた父も、最愛の女性を失ったショックから立ち直ることは生涯できなかったようであり、マリーの早すぎる旅立ちは、その後、クーデンホーフ家に暗い影を落としたのだった。
二人目のマリーは、ハインリッヒがウィーンで軍務に服していた20歳の時出会ったフランスからの音楽留学生であった。若い二人はたちまち恋に落ち、マリーはほどなく子供を身ごもった。二人は結婚を望んだが、ハインリッヒの父が強く反対し、彼をドナウ河畔の城で謹慎させてしまう。
若すぎるということと、マリーが平民の出自だったことから結婚を認めなかったようだが、この恋は悲劇的な結末を迎える。マリーが、ハインリッヒが閉じ込められていた城の庭でピストル自殺を遂げたのである。愛してやまない女性の亡骸を目にした時のハインリッヒのショックと悲しみは、いかばかりであっただろう。
恐らくは、日本で光子が出会った時のハインリッヒは、愛する者を失う苦しみを立て続けに経験し、胸に埋められない穴を抱えた状態で、いまだ立ち直れていなかった。しかし、光子は、ハインリッヒは大きな明るい声で笑い、誰からも好かれ尊敬される人だったと繰り返し語っている。彼女との結婚により、ハインリッヒはその胸の空洞を埋めることができた、ということなのかもしれない。

学者肌の語学の天才

ハインリッヒが一目ぼれしたのも
うなずける美貌の光子(撮影年などは不明)。
語学に堪能(18ヵ国語を自由に使いこなせたという)で、諸宗教についても通じていた学者肌のハインリッヒ。それにもかかわらず、聡明だったはずの光子と学問上の話をすることはほとんどなかったとされている。
「女学者」「女物知り」タイプの女性、そして「ブルーストッキング」(教養ある上流階級婦人タイプ)の女性たちを、ハインリッヒは嫌ったという。光子は自分が無知で受身だったので、愛されたというようなことを語っている。しかし、実際のところは、光子は非常に頭の良い、知的な女性だった。
ハインリッヒにその気さえあれば、共に刺激を与え、成長できる関係になっていた二人だったのではあるまいか。二人がそうした関係を築けていれば、ハインリッヒの早すぎる旅立ちの後、光子はもう少し楽であったのではないかと思わずにはいられない。
ただその美しさをめで、守り、子供のように扱うのではなく、光子を「共に生きる同志」と見るべきだったのではないだろうか。そうしていれば、光子はハインリッヒの考えをより深く知ることもできていたはずで、あまりにも急に訪れた「悲劇」に対して、もう少し備えることもできていたと断言したい。

早すぎる別れ

ハインリッヒとの永遠の別れの日は、光子が全く予期しない形で訪れた。
1906年5月14日早朝。
早起きのハインリッヒは、いつもと変わらず5時に起き、日課の散歩に出かけた。だが途中で胸の痛みを覚えて城に戻り、召使を呼んだ。蒼白な顔をしてソファーに横たわっている主人の姿に驚いた召使が、光子を呼びに行こうとするのを押しとどめると、ハインリッヒは肌身離さず身に着けていた金のロケットに唇を押し当て、そのまま息を引き取ったのである。
まだ46歳という若さであった。光子も子供たちもこの突然すぎる別れにどれほどショックを受け、悲しみに打ちひしがれたことだろう。
几帳面なハインリッヒは、20年にわたって毎日かかさず日記をつけており、それは数十冊にも及んでいた。忠実な執事と光子は、自分が死んだ場合にはそれらを焼却するようにというハインリッヒの言葉に従い、深い悲しみの中、庭で日記を燃やした。そこにはどのような言葉が綴られていたのであろうか。日記はハインリッヒにとって自らとの対話のようなものであったと推測できるが、それを、妻との、光子との対話とすることはできなかったのかと悔やまれる。
光子と最後の言葉を交わすことなく、逝ってしまったハインリッヒ。光子は、3歳から13歳までの七人もの子供を抱えて、文字通りただ一人、異国に取り残されてしまったのである。光子はまだ32歳だった。

肩にのしかかる重圧

ハインリッヒの遺言状には、光子を包括相続人とし、七人の子供たちの後見人ともすると指定してあった。日本人であり、また、それまで自らもハインリッヒの娘であるかのような生活をしていた光子に、財産管理などできるかと、クーデンホーフ一族の誰もが危ぶんだが、光子は覚悟を決めた。
「家長」という新しい責務を引き受けることにしたのである。母国日本に帰ることを選ばず、子供たちを立派なオーストリア人―ヨーロッパ人―として育てる決意をしたのだった。
きゃしゃな光子の肩にのしかかる、過酷なほどの重圧。これは、優しく忍耐強かった光子の性格を一変させてしまったようである。その美しい顔から微笑みが消え、子供たちや使用人は、専制的にふるまう光子を恐れるようになる。のちにカトリック有数の作家となった三女のイーダ・フリーデリーケは、当時の光子は癇癪を起こすと雌獅子のように恐ろしく、子供たちは彼女が眉を寄せるだけで震え上がったと語っている。
この時、もし光子に心から信頼できる身内や友人がいれば、事態は異なっていたかもしれない。一人で考え、一人で決めなければならない状況が、彼女をそこまで追い込んだのである。孤立無援の光子は、なぜ彼女を一人残してそのように早く去ってしまったのかと、天にいるハインリッヒに向かって、繰り返し問いかけたことだろう。

ウィーンでの日々

パリのゲラン本店にある、香水「Mitsouko」のボトル。
ゲランは、「ミツコ」の名を当時流行した小説から
とったとしているが、美しい光子のことを
聞き及んでいた可能性は高いと思われる。
©Miyako Hashimoto
光子はやがて領地の一部を売り、ウィーンに移り住むことに踏み切る。
シェーンブルン宮殿にほど近い場所に住居を定め、息子たちはテレジアヌムに、娘たちはサクレ・クール学院に入れた。「黒い瞳の伯爵夫人」として光子がウィーン社交界で注目を浴びたといわれているのは、この時代のことである。光子が「サロンの女王」と言われるほど社交にいそしんだかどうかは定かではないが、輝くばかりの美青年に成長したヨハネスとリヒャルトにエスコートされる日々は、ハインリッヒが生きていた時とはまた異なった幸せを、つかのまながら彼女に感じさせてくれたに違いない。
貴族の子弟が通う名門校・テレジアヌムの、金ボタンのついたコートを着て、腰にはサーベルまで下げた美形の息子たちと連れ立って歩くと、光子の胸は誇りでふくらんだ。彼らの姉と間違われるほど、若々しく美しいこの頃の光子であった。

巣立っていく子供たち

1930年、ベルリンで開催された
パン・ヨーロッパ会議に参加した、
イーダ・ローラン(当時49歳、写真右)。
左は小説家トーマス・マン。
©German Federal Archives
その自慢の息子たちの巣立ちの日は、思いがけなく早くやってきた。
芝居好きの光子は、ある日、ウィーン社交界で話題になっていたイーダ・ローラン(Ida Roland 1881~1951)という女優の舞台を観に行くことにし、ヨハネスとリヒャルトを伴って出かけた。
すっかり感動した光子は、イーダと交流を持つようになり、ある時、光子とヨハネスは非公式の晩餐会に招待されたが、ヨハネスは所用で応じることができなかった。一人での出席をためらう光子に、通常は社交にあまり熱心ではないリヒャルトが、自分が代わりに行っても構わないかと尋ねた。イーダの舞台に心奪われたのは光子だけではなかったのである。
晩餐会では、イーダとリヒャルトは隣り合って座ることになり、いつもは寡黙なリヒャルトが彼女と楽しげに話し込んでいる姿は、光子を驚かせた。
それから数日後、ウィーンのフォルクス・テアターで開かれた仮装舞踏会に光子と共に参加したリヒャルトは、「彼だけのために来た」というイーダと夢心地で踊った。以来二人は離れられない関係となったのである。
光子が事態に気付いた時には、二人はすでに結婚する決意を固めていた。20歳にもならない、まだ学生であるリヒャルトと、離婚歴もあり、娘までいる30歳を過ぎた女優との結婚。
光子だけでなく、クーデンホーフ一族の長老で、当時ボヘミアの知事であったマックス・クーデンホーフも猛反対する。しかし、そのような周囲の反対に従うようなリヒャルトではなかった。イーダとの愛を選んだリヒャルトは、一族と絶縁状態になった。恋人にも等しかった最愛の息子を、光子は生きながらにして失ってしまったのである。
光子の予想を超える恋愛・結婚をしたのは、長男のヨハネスも同じであった。ヨハネスの妻となったのは、元はサーカスの馬術師であったリリーという女性。光子は彼女とも良い関係を築くことができず、結果として思い出深いロンスペルクの城を明け渡すことになってしまった。
すべて良かれと思ってやったことだったが、光子の厳しさを嫌い、大事に育ててきた子供たちが次々に去っていくという悲しい思いを経験する。やがて卒中により半身不随となった光子の傍を最後まで離れなかったのは、次女のオルガだけだった。

EUの生みの親!?
リヒャルト

リヒャルト 光子の次男、リヒャルト・ニクラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギー(Richard Nikolaus Eijiro Coudenhove-Kalergi 1894~1972)は、欧州統合運動のきっかけとなったパン・ヨーロッパ(Pan-Europe)思想を提唱したことで名高い。そのため、光子は「パン・ヨーロッパの母」とも称されることとなった。つまり、リヒャルトは、現在のEU設立の先駆者といえる。
光子は日本生まれの長男ヨハネス(リヒャルトと同じく「光太郎」という日本名を持つ)とリヒャルトを特別扱いしていたという。女優イーダ・ローランとの結婚により、一時は光子やクーデンホーフ一族と絶縁状態になったリヒャルトだが、イーダのヒモのような状態になるだろうという周囲の予想に反して、ウィーン大学で立派に哲学博士号を取得した時は、さすがの光子も喜んだといわれる。しかし、晴れがましい博士号授与式には、イーダとの同席を拒んで光子は出席しなかった。
映画「カサブランカ」に出てくる反ナチスの指導者ビクターのモデルともささやかれているが、様々な「伝説・逸話」に彩られているクーデンホーフ一族の例にならって、これも事実とは言い切れないようだ。
リヒャルトのパン・ヨーロッパ思想には、父母の国際結婚や、父・ハインリッヒの諸国諸宗教への関心と理解が影響を与えていると思われるが、母・光子の人生は、異なる言語・文化・習慣を持つ者が一つになる事の難しさをも伝えているようである。

果てぬ望郷の想い

光子が他界したことを伝える告知。
「Mitsu」と「Aoyama」の文字が見える。
「私は、いつも仮装舞踏会に出ているような気がしている」
光子は、そのオルガに語っている。22歳になるかならないかで、母国にすぐに戻れる、少なくとも帰省はできると信じて異国にわたった光子。子供たちは立派なヨーロッパ人に育てることはできたが、自身は借り着をまとっているような気持ちから逃れられなかった。自分の弱点は決して人に見せてはならないとも、光子はオルガに語っている。町娘から異国の伯爵夫人になったシンデレラは、常に気を張って生きていたのである。
晩年の光子の楽しみは、ウィーンの日本大使館を訪ね、日本語を話し、日本の新聞を読んだり、レコードを聴いたりすることであったという。どれほど日本に帰りたかったことだろう。しかし一方、自分が愛した母国が、決して同じままではないことも悟っていた光子であった。
また、結婚問題で疎遠になった愛息リヒャルトが、パン・ヨーロッパ思想の提唱者として著名になったことを光子は喜んだが(コラム参照)、それは息子個人についての喜びの域を出ておらず、彼がテニス選手になったとしても、光子は同様に喜んだであろうと、リヒャルト自身は冷静に分析している。
1941年8月27日、光子永眠。
折りしも、ついに帰ることのできなかった懐かしい母国・日本は悲惨な戦争に突入しようとしていた。それを見ずに済んだことは救いだったといえる。
ロンスペルクの夫の墓近くに埋葬されることを望んでいたものの、それはかなわず、光子はウィーンのヒーツィングにあるクーデンホーフ家の墓に葬られ、今も静かに眠っている。
夫ハインリッヒは、光子に別れも告げずに旅立ったが、「君は本当に良くやってくれた。ありがとう」と、天で彼女を迎えてくれたと願いたい。光子が67年の生涯で最もほしかったのは、何よりもハインリッヒからのねぎらいの言葉だったという気がしてならないのである。

在英邦人への影響を探る EU離脱を選んだ英国 [Brexit]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2017年3月2日 No.973

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在英邦人への影響を探る EU離脱を選んだ英国

在英邦人への影響を探る

EU離脱を選んだ英国

51.9% 対 48.1%―。
その差、わずか3.8%。
英国がEU離脱を選んだ国民投票の結果が世界に驚きをもって伝えられてから8ヵ月余り。
いよいよ離脱に向けて本格交渉が始まろうとしている。
今号では、「予想は困難」と承知しながらも在英邦人、および在英日系企業に対象をしぼり様々な声を集めてみることにした。

●サバイバー●取材/本誌編集部

去る2月9日。
国民投票に際しては明確に「離脱支持」を打ち出していたデリー・テレグラフ紙の一面を、テリーザ・メイ首相の満面の笑顔が飾った。
同首相の笑顔が紙面にこれほど大きく掲載されるのは珍しい。
笑顔の理由は、下院で行われた投票で、EUからの完全離脱、いわゆる「ハード・ブレグジット(hard Brexit)」をめざす英政府案を494名の国会議員が支持したことにある。反対派の122票をおさえての大勝で、英国はいよいよ荒波にこぎだすことになった。
国民投票の再実施を望む動きや、国民投票の結果は法的拘束力がないとしてその無効化を訴える試みなどもなされたが、メイ首相の固い信念の前にはすべて「悪あがき」に終わった。
それほどまでにメイ氏の「ハード・ブレグジット」への思いは強い。6月23日の国民投票を前に、メイ氏は「残留派」支持を表明していたものの、派手に動くことはしなかったのも、当時のキャメロン首相をたてていただけで、内心は「離脱派」だったのではないかと勘ぐりたくなる。
既に抜群の反射神経も見せており、西側諸国の中では一番にトランプ米大統領と会談するなど、これからも必要に応じてメイ首相は機敏に動くはずだ。
英国民は、この首相にすべてを預けて見守るしかない。
もちろん、メディアや各界の有識者は英国民の不安を代弁しつつ、首相に多くのことを望み、時には強く批判することになるだろう。しかし、前線で実際に戦うのはメイ氏率いる現政権である。その健闘を祈るばかりだ。
インドには、次のようななことわざがある。
No crowd ever waited at the gates of patience.
(「忍耐」という門の前では誰も群がらない)
誰も好きこのんで忍耐の必要な困難な道を進みたがらない、しかし、その道をいった者は成功するとの意味だという。
英国は今、「忍耐」の門の前に立たされている。
在英国日本国大使館イメージ

在英国日本国大使館

日系企業を含む経済活動などに
悪影響を及ぼさないよう、英国に期待

在英国日本国大使館としては、昨年6月の国民投票の結果を踏まえ、英国のEU離脱に向けた関連動向を注視し対応してまいりました。
また日本政府は、昨年9月に「英国及びEUへの日本からのメッセージ」(首相官邸ウェブサイト※で公開中)を公表し、日系企業を含む経済活動や、世界経済に悪影響を及ぼすことのないよう、英国及びEUに対して求めてきました。
先般のメイ首相の演説等に見られるとおり、英国政府は、可能な限りの予測可能性を提供したいとした点や、英国・EU間における市場の一体性の確保、急激な制度変更の回避等を重視し、自由貿易推進の立場から英国がEU離脱後も自由で開かれた世界経済システムの拡大・推進に向け努力する意思を示した点等、我が国が伝達した日系企業の声を真剣に受け止めたものと評価しています。
今後、EUとの交渉等を通じ具体化されていくとともに、引き続き日系企業を始めとする全てのステークホルダーの声に耳を傾けることを期待します。
当館としては、本件に関する今後の動向を一層注視し、日系企業や在英邦人の皆様の御懸念・御要望を踏まえながら対応していく所存です。
首相官邸ウェブサイト: 英国及びEUへの日本からのメッセージ
英国における在留邦人の割合 (2015年10月1日現在)
英国における在留邦人の割合イメージ
アーンスト&ヤングイメージ

アーンスト&ヤング(英系会計事務所)

Tier2カテゴリーの申請条件、緩和への期待は非現実的か

離脱後のEU国民の取り扱いは?

英国のEU離脱後のEU国民(およびEU内に居住する英国人)の取り扱いについては、現時点では予想の域をでませんが、自由移動の権利を引続き保障するか、あるいは破棄するかが大きな論点となっています。離脱後はEU国民への特別措置が設けられることも予想されますが、条件等は明らかではありません。可能性として、特定の期日までに英国に「EU条約に基づいて居住している」ことの証明の提示などが挙げられます。
現在条約に基づいて英国に居住するEU国民には、EU条約に基づいて英国に居住している証明となる書類の準備、または条件を満たすことが出来るならば登録証、永住権や国籍を取得することをお勧めしています。EU離脱後も、英国に引続き居住することを確実に保障出来るものは「英国籍の取得」のみですが、書類の準備や登録証、永住権の取得も将来的に役立つ可能性はあります。
尚、英国で就労していない自己充足的生活者は、充分な生活資金の証明と併せて、総合疾病保険に加入されることをお勧めします。 将来的には、EU国民が英国で就労するためには何らかの規制が設けられることが予想されますが、一つの可能性としては、一般の外国人同様にビザの取得が求められるようになることが考えられます。従って、企業はEU国民の雇用に伴うコスト、あるいはEU外からのリソース確保の可能性などを踏まえて、現在の人材採用・活用を見直す必要があると言えます。
今後は低スキルのEU労働者減少の埋め合せとして、ポイント制のTier 3カテゴリーの活用なども考えられますが、最近のテレサ・メイのスピーチからも判るように、Tier 2カテゴリーの緩和を期待することは余り現実的とは言えません。
Website: www.ey.com
日立イメージ

日立

事業への影響を慎重に評価し、対応を検討

為替や金融市場の混乱など、不確実性が高い状態が当面継続すると思われますが、当社への影響は限定的です。
鉄道事業では、英国の「Hitachi Rail Europe」、イタリアの「Hitachi Rail Italy」「Ansaldo STS」により、欧州全体をカバーする事業体制を既に確立しています。英国では、IEPなど約1,630両の受注があることに加え、今後5年間で2,000両以上の需要が見込まれており、英国だけで数年はフル稼働が続く見通しです。欧州大陸については、買収した「Hitachi Rail Italy」「Ansaldo STS」の拠点を活用していきます。両社は、買収以降も着実に受注を積み上げ、約1.2兆円の受注残を抱えており、各地の拠点を活用しながらグローバルに事業を展開していきます。
原子力事業では、英国のエネルギー政策上、原子力発電はベースロード電源と位置付けられており、ホライズン・プロジェクトも英国内のプロジェクトであるため、EU離脱や政権交代が直接的に大きな影響を与えることはないと考えています。
英国における英国外からの調達や日本からの輸出に係る関税、欧州域内における人財の流動性などは、今後交渉が行われる経済協定等の内容次第ですが、英国政府としても経済への影響を最小化すべく最大限努力されるものと考えています。今後も、当社の事業への影響を慎重に評価し、対応を検討していきます。
Website: www.hitachi.co.jp(日本)/ www.hitachi.eu/en-gb(英国)
ホンダイメージ

ホンダ

今後も英国での事業を継続

1年後、拠点を英国から移される確率は?

― 想定していません。

ハード・ブレグジットは、御社にとってビジネス・チャンスとなり得るか?

― 環境や条件が不明確な状況に対して、コメントすることはできません。

メイ首相率いる政府は交渉役として期待できるか?

― 英国の経済、及び英国進出企業が、今後も継続的に発展できるような環境を実現してくれることを期待しています。

今後の対応について

― ブレグジットがいかに実現されるかは、現時点では明確ではありませんので、今後の展開を慎重にモニターしていきたいと考えています。ただ、言えることとしては、英国にあるスウィンドン工場が10代目「Civic Hatchback」のグローバル生産拠点としての役割を果たしていくことに変更はなく、今後も英国での事業を継続していきます。
Website: www.honda.co.jp(日本)/ www.honda.co.uk(英国)
Baker McKenzie.に聞く

ハード・ブレグジット在英邦人のビザはどうなる?

Q ハード・ブレグジットにより、ビザの締め付けはさらに厳しくなる?

英国の欧州離脱によってもたらされる正確な影響は、未だに定かではありません。
しかし、メイ首相は2月初めの演説にて、英国はEUとの離脱交渉の初期段階で同意に達し、すでに英国に居住するEU国籍者(とその家族)の権利を保護することを優先目標とする、と表明しました。それに加え、英国は非EU諸国からの移民流入を抑制しつつも、優秀な外国人材の積極的活用を主眼とする旨を示しました。
また、英国には非EU加盟国との貿易協定を自由にとり決める権利があり、メイ首相は特に米国やインドなどを挙げましたが、日本との結束が強化される可能性もあります。

Q EEA加盟国の国籍保持者との結婚により、英国に滞在している日本人は、今後、どのような決断を迫られる可能性がある?

欧州経済地域(EEA) 国籍者の配偶者を持ち、英国に居住する日本人はレジデンス・カード、あるいは永住権カードの申請をできるだけ早く行い、英国居住権の正式な証明ができるよう処置をとることをおすすめします。
今後、居住資格の条件がどのように変更するかは予測が困難なものの、このような処置をとり、長期の居住資格を現時点で保護することが重要であると思われます。

Q ブレグジットのおかげで日英の貿易協定が結ばれ、日本人に対するビザもとりやすくなる日がくる?

ブレグジット以外のエリアでは、Tier2就労ビザに関する変更がすでに実施されており、日本人が就労ビザを取得する事が一段と困難になりました。今年4月より、非 EEA 移民のスポンサーとなる雇用主には、経済面で下記のさらなる負担が加わることとなります。

a)健康保険付加料 (IHS)
  1人当たり年間 £200、今年4月3日より施行(家族を含む)
b)技能負担金(ISC)
  Tier2就労者1人当たり年間 £1,000(大・中型企業向け)、今年4月6日より施行

これらの変更により、大型企業が移民のスポンサーとなり、3年間有効のTier2(ICT)ビザを取得するには、通常のビザ料金に加え、先行して£3,600を支払う事が義務付けられることとなります。

上記に引続き、 UKVI が給与に含まれる手当の種類や額を給与全体額の一部として再検討する可能性もでてきました。これにより、場合によってはTier2(ICT)カテゴリにおけるビザの申請に影響が出るかもしれません。さらに、今年4月で Tier2(ICT)短期カテゴリは廃止になり、新規でICTビザを申請するには、Tier2長期カテゴリの最低給与基準の引き上げ額である£41,500に見合わなければなりません。
もう少し前向きな面では、ICT雇用者がビザを最長9年間延長する場合の最低給与基準額は引き下げられる予定です。新たな資格給与額は£120,000と予想されており、今年4月からの施行となる見込みです。また、Tier2(ICT)長期スタッフビザ取得において、新しいルートが追加されました。申請者の給与額が£73,900あるいはそれ以上であることを条件とし、申請以前の12ヵ月間の雇用は不必要となるため、既存の雇用者を英国に移動することを考慮する際、雇用主にはより選択肢が増えることになります。
Website: www.bakermckenzie.com/globalmigration
産経新聞社 ロンドン支局  岡部 伸氏

産経新聞社

二兎を追うメイ政権、損失を最小限にとどめられるか
ロンドン支局 岡部 伸氏

「円満離脱」もFTA結べるか注視

「移民の流入制限」と「単一市場への移動の自由」の「二兎」を追うメイ政権が「強硬離脱」に転じたのは、まず移民制限を確保し、交渉で実質的単一市場アクセスに近い条件を引き出す現実的な作戦に転じたためだ。
10兆円規模の投資をし、英国人を中心に14万人を雇用してきた日本の対英投資は、欧州単一市場に移動の自由があることが前提で、「強硬離脱」は、日本企業にも不利益が生じる。
EUを離脱すれば、英国で生産された商品に域外共通関税がかかる。日産やトヨタ、ホンダの3社は英国に工場を建て英国の自動車の半分以上を生産しているが、多くがEU各国に輸出しており、10%の関税がかかる。
離脱後に英国がEUと関税などの市場アクセスを自由なものにする包括的自由貿易協定(FTA)を結べるかどうかがカギだ。スイスやカナダとの間で先例があるが、EU側は現時点で容易に応じない方針だ。しかし、トランプ米大統領が英国とのFTA交渉優先を表明したことが追い風となる可能性もある。
そもそもEUにも通商貿易で英国との関係維持のメリットは少なくない。いやドイツやスペインなど対英貿易黒字国のEUこそ、域外共通関税がかかるとデメリットが大きい。最終局面で双方の損失を最小限にするFTAなどを結ぶ妥協に転じ、「円満離脱」する可能性も十分ある。したがって日本企業への影響は英国とEUの離脱交渉の行方を注視する必要があるといえる。
日本経済新聞社 欧州総局長  大林 尚氏

日本経済新聞社

英経済を左右する「対外関係」、どれだけ深化させられるか
欧州総局長 大林 尚氏

ブレグジットが日系企業に及ぼす影響

昨年6月に英有権者がブレグジットを選択したあとも、日系企業の対英投資は活発だ。孫正義ソフトバンク社長による半導体設計会社「アーム・ホールディングス」の買収(発表時の外為相場でおよそ3兆3000億円)が典型だが、これほど派手な案件でなくても民間資金は英国へ流れている。カルロス・ゴーン日産自動車社長はメイ首相に直談判し「ブレグジットによる懸案事項を解決した」と、小紙「私の履歴書」で語っている。不確実性を警戒しながらも、英経済が底堅く推移するという見通しがあるからこそお金を投じているわけだ。儲けを追求しつつフェア精神を大切にする日系企業は、英政府・経済界に歓迎されている。
私はブレグジット後の日英関係について、どちらかというと楽観している。もちろんメイ氏が宣言したEU単一市場からの完全な脱退は、英国を拠点とする日系企業や英国に暮らす日本人に欧州の窓口としての英国の機能が弱まる不利益をもたらす。モノとサービス、お金、そして人が自由に行き来する利点を手放すのだから影響は避けられまい。
一方、企業は現在地の居心地に悪さを感じるようになれば、より快適な地に自由に移動できる。グローバリゼーションの深化によってこの動きは個々人にも広がっている。それが現実になれば英経済には打撃だが、どの国にとっても栄枯盛衰はつきもの。米国や英連邦の国・地域、さらには中国などとの関係どこまで深化させられるかが、この先数十年の英経済を左右するだろう。

これだけは知っておきたい!ブレグジットの基礎用語

1 ブレグジット(Brexit)とは?

英国のEU離脱のニュースでおなじみになったこの言葉は、「Britain=英国」「exit=出る」との造語。「ハード・ブレグジット」とは「強硬離脱」とも訳され、英国が移民の受け入れ制限を最優先して、EUの単一市場へのアクセスを失うことを覚悟でEU離脱交渉を行うこと。これに対し、英国がEU離脱において、欧州の単一市場へのアクセスを確保することをめざす場合は「ソフト・ブレグジット」と呼ぶ。

2 リスボン条約第50条(アーティクル50)とは?

1952年に創設された「欧州石炭鉄鋼共同体」(ECSC)、58年発足の「欧州経済共同体」(EEC)と「欧州原子力共同体」(EURATOM)の3つの共同体がまとめられ、67年、「欧州共同体」(ECs)が誕生。さらに、93年にはEU(European Union)が生まれるに至った。
しかし、このEUの憲法を制定するための条約はフランスとオランダでは国民投票により批准が拒否されるなど、なかなかまとまらず、幾多の修正を経て、2007年、「欧州連合条約および欧州共同体設立条約を修正するリスボン条約Treaty of Lisbon amending the Treaty on European Union and the Treaty establishing the European Community」としてようやく調印が行われた(09年12月に発効)。
この新しい基本条約内で、加盟国の離脱について手続きを定めているのが第50条、「アーティクル50(Article 50)」だ。
これによると、全ての加盟国は憲法上の要件に従って離脱を決定でき、離脱に向けた手続きは、当該国が欧州理事会(EUの最高協議機関)に離脱を通告することでスタート。欧州理事会への通告後、離脱する国はEUと脱退協定締結のための交渉を開始。脱退協定が発効する日から、EU法は離脱国に適用されなくなるが、それまでは加盟国としての権利・義務がある。ただ、離脱国とEUの交渉が難航し、脱退協定が締結できなかった場合、離脱通告から2年でEU法が適用されなくなる(全ての加盟国が同意すれば、この期間は延長できる)。
英国はまもなく脱退通告を行うと見られている。

3 EEA(European Economic Area「欧州経済領域」)とは?

EEAは、EUの28ヵ国にアイスランド、リヒテンシュタイン、ノルウェーを加えたもの。なお、現在のEU加盟国は次のとおり(カッコ内の数字は、欧州の共同体への加盟年を示す)。
オーストリア(1995)/ベルギー(1958)/ブルガリア(2007)/クロアチア(2013)/キプロス(2004)/チェコ共和国(2004)/デンマーク(1973)/エストニア(2004)/フィンランド(1995)/フランス(1958)/ドイツ(1958)/ギリシャ(1981)/ハンガリー(2004)/アイルランド(1973)/イタリア(1958)/ラトヴィア(2004)/リトアニア(2004)/ルクセンブルク(1958)/マルタ(2004)/オランダ(1958)/ポーランド(2004)/ポルトガル(1986)/ルーマニア(2007)/スロバキア(2004)/スロベニア(2004)/スペイン(1986)/スウェーデン(1995)/英国 (1973)

ロンドンで空前のブーム!Matcha(抹茶) 特集

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2017年4月6日 No.978

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空前のブームに迫る!Matcha {抹茶}

ロンドンで空前のブーム!

Matcha(抹茶) 特集

最近、ロンドンのあちこちで見かけるようになった「Matcha」の文字。日本で当たり前のように親しまれる抹茶が、いま英国でスーパーフードとして脚光を浴びている。そこで、抹茶のチカラに改めて注目してみるとともに、そのブームに迫ってみたい。

●サバイバー●取材・執筆/名越 美千代、本誌編集部

世界各地で美容や健康への意識が高まり、オーガニックや体に良い食べ物へのこだわりを持つことは現代のトレンドだ。アサイー、ココナツオイル、チアシード…。加速する健康ブームに合わせて、スーパーフードと呼ばれる、栄養豊富で体を癒す成分が突出して含まれるとされる食品が、次々に注目されてきた。そして、一昨年あたりからスーパーフードとして新たにブレークしたのが、日本が誇る伝統飲料、抹茶である。
2015年頃からニューヨークで抹茶を提供する「Matcha Bar」が瞬く間に増えたのを皮切りに、世界中で抹茶愛好者は大増殖。ロンドンでも、ひと昔前なら日本食材店でしか手に入らなかったものが、 今では健康食品店や大手スーパー、百貨店など、どこのお茶コーナーにも様々な欧米ブランドの緑茶や抹茶関連商品が並んでいる。
街角でも大手のコーヒーチェーン店はもちろん、それ以外にも抹茶ドリンクを扱うカフェが見受けられるようになった。「Matcha」という単語は、「tofu」や「edamame」のごとく、英語にすっかり浸透したようだ。それどころか、いまや、抹茶とのコラボレーションは、日本人の常識を超えるところまで進化している。
ここまで欧米で抹茶が受け入れられたのはなぜだろう。
中国などのアジアの人々はともかく、コーヒーや紅茶のような茶色がかった抽出飲料に慣れている欧米人には、抹茶の鮮やかすぎるほどの緑色も、粉を溶かしたような舌触りも、どちらかというとためらいを覚える飲み物だったに違いない。それでも、文化の違いによる味覚の壁を越えて抹茶が受け入れられたのは、あらゆる可能性を秘めた抹茶パワーに身も心も疲れ果てた現代人が引き寄せられたからだろう。
抹茶はスーパーフードの効能の定番である抗酸化作用や、免疫力向上作用に優れているとされる。豊富に含まれるカテキン、ビタミン、テアニンなどの成分によって、アンチエイジングや美肌、爪や髪の艶出し、ダイエットなどの美容面、ガンや糖尿病予防、代謝促進、睡眠改善、血圧やコレステロール値の降下作用といった健康面への働きかけのほか、ストレス解消やリラックス効果などまで期待できるという。日本に馴染みのない人にもちょっと異文化に手を出してみようと思わせるに十分なほど、魅力的なラインアップである。
実は欧米では、抹茶よりもカテキンを多く含む煎茶もダイエット飲料として人気がある。ただ、同じ緑色の日本発の飲み物だからか、抹茶と混同されている感も否めない。メディアでは、健康オタクなセレブとして知られる女優のグウィネス・パルトロウが抹茶ラテ片手に微笑む写真をインスタグラムに投稿し、人気モデルのミランダ・カーも緑茶を使ったフェイシャル・トリートメントを「美しさの秘密」として紹介。とにもかくにも、「グリーンティーは体に良い」という認識が日本国外で確立されたのは間違いないだろう。もともと和食にはローカロリー食のイメージがあることや、日本の伝統文化へのあこがれ、茶道の作法のエキゾチック感なども抹茶人気を後押ししたという面があるかもしれない。だが、抹茶に関していうと、海外での人気のキーワードはやはり、美容・健康である。
緑茶の本家である日本でも、抹茶を使ったお菓子やドリンクは日本の女子がこよなく愛する定番だが、こちらは健康志向というよりも、抹茶が持つ高級感と風味、ほかの食材との相性の良さが人気の主な理由だろう。本来、抹茶は伝統的な様式にのっとって供される飲み物であり、抹茶入りというだけで特別感がある。加えて、濃厚な味と、苦みと甘さのバランスを持っており、和洋問わず、料理やお菓子にアクセントをつけてくれる。欧米におけるカカオに通じるところがあるかもしれない。
今回は、何気なく抹茶を口にする日本人でも意外と気にかけてこなかったような、抹茶についての豆知識をお届けする。紅茶の国、英国で、抹茶文化がどのように受け入れられているかもご紹介したい。 

抹茶をもっと知る7つの豆知識

抹茶と煎茶、違いは何?

抹茶はチャノキ(学名:Camellia sinensis)というツバキ科の常緑樹の葉を蒸してから乾燥させ、砕いて葉脈などの不純物を取り除いたのちに、臼で挽いて粉末状にしたもの。煎茶も、同じチャノキの葉が使われるが、こちらは蒸したのちに揉んで、よりをかけながら乾燥させて、針状に大きさや形が整えられる。
どちらも緑茶に分類されるが、両者の根本的な違いは形状ではなく、茶葉が育つときに浴びる日光の量にある。煎茶用の茶葉には新芽が出てから茶摘みの段階まで太陽の光をいっぱいに浴びさせるのに対して、抹茶用の茶葉には茶摘み前の一定期間、覆いをかぶせ、直射日光が当たらないようにして育てる。
日光をたくさん浴びた煎茶用の茶葉では光合成が起こり、木の根で作られたのちに葉まで運ばれたテアニンが渋み成分のカテキンに変化して、程よい渋みと爽やかな香りのお茶ができる。逆に、日光が遮ぎられて光合成が抑制された抹茶用の茶葉は、渋みの元でもあるカテキンの量は増えないが、旨み成分となるテアニンなどのアミノ酸が多く残ることとなり、まろやかで深いコクと旨みを兼ね備えたお茶になるというわけだ。

抹茶も紅茶も実は同じ茶葉?

実は、18世紀には西洋の植物学者は緑茶と紅茶が同じ木の葉を使っているということを知らず、それぞれの材料となる木には別々の学名をつけていた。「Camellia sinensis」という同じツバキ科の木としてまとめられたのは19世紀後半になってからとされる。
同じ原材料にもかかわらず、緑茶、ウーロン茶、紅茶と、見た目も味もかなり異なる理由は、製造過程で発酵させる度合いの違いにある。茶葉は発酵が進むと成分のカテキンが酸化し、色が赤くなっていく。薄い茶色のウーロン茶は半発酵茶、かなり黒くなる紅茶は完全発酵茶に分類される。一方、緑茶は、 摘んだお茶の葉をすぐに蒸して酸化酵素の働きを止めることで成分変化を最小限にとどめており、葉の緑色も残すことができる。ゆえに、 緑茶は不発酵茶と呼ばれる。
発酵の度合いの違いにより、紅茶はミネラルが豊富でアミノ酸が少なく、香りや渋みが引き立つ、コクがある味となるが、緑茶は甘みを加えるアミノ酸が残ることで、渋みが抑えられた味となるのだ。
発酵の度合いイメージ

抹茶の美味しさの秘密はテアニン!

抹茶は苦いという印象を持つ人も多いだろうが、煎茶と飲み比べてみれば、実はほのかに甘いということがわかるだろう。抹茶の独特の旨みや甘みに関与している成分が、テアニン(Theanine)というアミノ酸の一種だ。テアニンの含有量が多い抹茶ほど質の高い抹茶といえる。旨み自体を生み出すだけでなく、お茶に含まれるカフェインやカテキンの苦みや渋みを抑える働きもあるのではないかといわれている。テアニンを含む代表的な植物はチャノキで、 テアニンという名前もこの成分が発見された当時にチャノキの学名だった「Thea sinensis」に因んで命名された。
テアニンは茶葉の部分ではなく根で作られ、木の生育によって茎を通って葉に移動する。そこで日光を浴びるとカテキンへと変化するが、日光が遮られればテアニンのまま残るので、緑茶の中でも、茶畑を覆って作られるタイプの抹茶や玉露に多く含まれることになる。抹茶だけをみても、まだ日光が弱い時期に収穫される一番茶のほうが、暑くなってから摘み取られる二番茶よりもテアニンが多いのだという。
このテアニン、ストレスの多い現代社会で注目されている成分でもある。脳に働きかけて脳のα波の出現を活発化させてリラックス効果をもたらす、また、脳の興奮を抑えて神経を沈静化し、その結果、睡眠改善を促すとされる。学習能力や集中力を向上させたり、女性の月経前症候群や更年期障害の症状を和らげたりするのにも有効とする説もあるそうだ。こうした効果を謳ったテアニン入りのサプリメントも発売されている。

どうして抹茶は高い…。製法にヒントあり!

抹茶ができるまでの工程ではふたつの特殊な手間がかけられている。
まずは、 茶藁(わら)や葦簀(よしず)、化学繊維などの遮光資材によって茶畑全体を覆う手間。「覆下栽培」と呼ばれるこの栽培法では、新芽が出た段階から少なくとも20日以上、茶葉に強い日差しが当たらないようにすることで 、茶葉に旨みや甘みを蓄えさせる。また、茶葉の鮮やかな緑色も保たれる。摘み取った生の茶葉を蒸して乾燥させ、細かく砕いてから葉脈や茎など不要なものを取り除けば、抹茶の原材料となる茶葉、碾茶(てんちゃ)の完成だ。
この碾茶を石臼などで挽いて粉末状にして抹茶にするのだが、この作業にもまた手間がかかる。せっかくの茶の香りや味が粉末化の工程で発生する熱によって損なわれないよう、技術と工夫が必要。茶道用の高級抹茶の場合、1台の茶臼で1時間に40グラムほどしか製造できないとされ、希少価値が高い。
抹茶といっても、値段はピンキリ。これは、覆下栽培にどれだけの手間をかけるか=碾茶の出来の良し悪し、そして、挽き方=熟練の職人による手作業か、機械による大量生産粉砕か、また、最初に収穫した一番茶か、2回目に収穫した二番茶かといった要素が反映される。
ただ、抹茶の定義も実は曖昧。公益社団法人「日本茶業中央会」の定義では、抹茶とは「覆下栽培した茶葉を揉まずに乾燥した茶葉、碾茶を茶臼で挽いて微粉状に製造したもの」とされるのだが、実際にはこの定義からずれたものが「加工用抹茶」や「食品用抹茶」として流通していることも、価格差に関係している。

そもそもカテキンって何?

健康に良いとされるポリフェノールのフラバノール類に分類される「カテキン」は、緑茶にも多く含まれる成分。お茶特有の渋味を生み出しているのもカテキンだ。カテキンにもいくつかの種類があるのだが、日常生活の中で緑茶がかかせない日本では、お茶に含まれるカテキンが特に詳しく研究されてきた。その結果、効果・効能として挙げられているのは、食中毒を防止する抗菌・殺菌作用、風邪のウィルスが細胞に取り付くのを妨げる抗ウィルス作用、ガンや動脈硬化を引き起こす活性酸素を処理する活性酸素除去作用、悪玉コレステロールを抑制するコレステロール低減作用、肝臓の酵素を増やして活性化させることで脂質代謝を活発にする体脂肪低減作用、アレルギー症状を引き起こすヒスタミンの放出を抑制する抗アレルギー作用などなど。また、虫歯予防、口臭予防、認知症予防、高血圧抑制、老化防止効果など、まさに良いことづくしだ。
カテキンは高い温度で抽出されやすいので90度以上の高温で一気に入れると、より多くのカテキンを含んだお茶を淹れることができるという。また、初摘みの一番茶が収穫される頃はまだ日光も弱いため、時期的に太陽光をふんだんに浴びた二番茶、三番茶のほうがカテキンを多く含むといわれている。

抹茶と煎茶、どっちが体に良い?

現代の日本人が日常に飲んでいる緑茶の代表はやはり、煎茶だろう。そして、抹茶が健康に良いという印象が強いとはいえ、実際にスーパーフード的な効能を持つカテキンを多く含んでいるのは煎茶。そのカテキン含有量は抹茶の倍ともいわれている。ただし、普通にお茶を淹れた場合にはそのお茶に含まれる栄養分の7割は茶殻と一緒に捨てていることになるそうで、それならば、そのまま水に溶かしてすべてを無駄なく飲むことができる抹茶に軍配が上がるかもしれない。
そこで、抹茶と並んで注目されるのが粉末緑茶だ。見た目は抹茶に似ていても、材料となる茶葉は碾茶ではなく、カテキンが豊富な煎茶。粉を水や湯に溶かすだけなので、お手軽で、急須も不要、茶殻も出ない。無駄なく摂り入れることができる。抹茶のように料理やお菓子作りにも使えるし、抹茶よりも安いのでコスパも良い。抹茶のようなまろやかさや味わいには欠け、苦みも出るものの、健康ドリンクという点では抹茶に対抗できるといえるかもしれない。

濃茶と薄茶って何?

茶道のお手前で使われる抹茶には、濃茶(こいちゃ)と薄茶(うすちゃ)がある。この違いは文字通り、抹茶の濃さ。濃茶では一杯当たり茶匙3杯ほどの抹茶に少なめのお湯を使う。仕上がりがとろりとするため、濃茶を「練る」ともいう。 一方、薄茶では濃茶の半分くらいの量を使い、さらりとした口当たりに仕上げる。こちらは、薄茶を「点てる」という。
お茶席においては、薄茶は比較的気軽なお手前とされ、茶道初心者が最初に習うのも、一般的なお茶席で供されるのも、薄茶。対して、濃茶は格式が高いものとされ、習うのも上級者になってから。ちなみに、濃茶は2、3人で回し飲みするため、大人数の茶会には向かないとされる。
お茶席で使われる抹茶の製法はどちらも同じ。ただし、濃茶は濃度が高いため、質の良し悪しが顕著に現れる。 そのため、渋みや苦みが少なくまろやかな甘みで、上品な香りを持つ上級品が使われる。濃茶用の抹茶を薄茶として飲むことはできるが、逆は難しいようだ。

英王室御用達の老舗

フォートナム&メイソンで聞いてみた

フォートナム&メイソンイメージ ■観光客にも英国に住む人々にも安定した高い人気を誇るロンドン・ピカデリーの高級食材店、フォートナム&メイソン(以下F&M)。グランドフロアでは豊富な種類のお茶を販売中だ。アール・グレイ、ロイヤル・ブレンド、ブレックファスト・ブレンドなどの定番56種類のお茶に加え、希少なレア・ティー68種類。緑茶の取り扱いも22種にのぼる。まさにお茶のエキスパートと呼べるF&Mで、最近の英国抹茶事情を尋ねた。
F&Mではいつから抹茶の取り扱いを始めましたか。売れ行きはいかがですか。
抹茶は2016年の販売開始以来、よく売れています。昨年からなので、前年比は出せませんが、毎月、売り上げは順調に伸びています。
抹茶は現地在住のお客様と観光客では、どちらに人気ですか。
どちらにも好評をいただいています。ロンドンでの抹茶人気はかつてないほどの高まりを見せています。毎週、F&Mへ食料の買い出しにいらっしゃる当地のお客様は健康を気遣う方が多く、抹茶を定期的に買っていかれます。旅行者にもおみやげとして好評です。
抹茶が購入される理由はなんでしょう。

フォートナム&メイソン抹茶イメージ

▲グランドフロアに並ぶ抹茶。
茶筅とお茶碗も取扱中。
最近の売れ行きが好調なのは、緑茶、特に抹茶は健康に良いと人々が認識しているからかもしれません。最近はなににつけても健康志向が高くなっていて、お客様は体に良いとされる高品質の製品を求めています。 F&Mには310年の歴史に裏打ちされた素晴らしい専門知識があります。抹茶を取り扱うにあたり、他のお茶と同様に正統派の味と質を考え、こだわり抜いて茶葉を選びました。F&Mで販売する抹茶には最高品質の等級であるセレモニアル・グレード(Ceremonial Grade)が与えられています。
抹茶を飲んだお客様からの反応はいかがですか。
抹茶の好みははっきりと分かれます! 好きか、嫌いか、ですね。変わった風味の味わいですし、飲んだ感覚も他のお茶とは異なります。抽出させたものではなく、茶葉を粉末状にしたものを飲むわけですから。抹茶のはっきりとした緑色も、興味をもたれる方と、色を見て敬遠される方とに分かれます。
F&Mでは抹茶の楽しみ方をどのように提案していますか。
F&Mで扱っている抹茶は高品質のものなので、日本の伝統的な飲み方をお勧めしています。けれども、慣れていない人にとっては、抹茶は非常に強い味で、渋みもあるため、F&M内のレストランでは、飲みやすくなるように、牛乳やハチミツも一緒に提供しています。抹茶は魚料理にとても良く合うともお勧めしていますよ!

Fortnum & Mason
181 Piccadilly, St James’s, London, W1A 1ER
www.fortnumandmason.com

ロンドンでも大人気!

抹茶を使った気になるお店

抹茶ロールのしっとり感が病みつきに
Japanese Patisserie WA Cafe

Japanese Patisserie WA Cafeイメージ

抹茶ロールケーキは、ホールサイズでの注文も、
72時間前まで受け付けている。
店内では、抹茶や各種日本茶の茶葉や
ティーバッグも購入可能。
2014年末に西ロンドンのイーリング・ブロードウェイにオープンして以来、人気を集めてきたこの店は、「WA(=和)」の店名が示す通り、日本らしさにこだわったカフェ。ショーケースには「まるで日本みたい!」と思わずつぶやきたくなるようなケーキに、日本風のパンが並んでいる。スイーツ部門とパン部門はそれぞれ、日本人シェフが担当する。
抹茶を使ったスイーツでは、抹茶ロールが人気。 抹茶入り生クリームとホームメイドの餡を、抹茶を練り込んだきめ細かなスポンジで包んでいる。使用する抹茶は京都・宇治のもの。ケーキ用の抹茶は、ドリンク用に使っている抹茶と同様に、クオリティの高いものに限っているとのこと。また、抹茶の味に馴染みのない現地の人にも受け入れられやすいよう、苦みが少なくて柔らかい、質のよい抹茶を選んでいるという。
また、パンのコーナーには緑茶を使ったクロワッサンとクリームチーズ入りのあんパンなどが並ぶ。うっすらと緑色でサクサクのクロワッサンは、クロワッサンの本場から来たフランス人の常連客にすら「ハマった」と言わしめたのだそう。
またドリンク・メニューでは、ほんのり甘い豆乳を使った抹茶ラテ(温・冷)やストレートのアイス抹茶のほか、煎茶や玄米茶といった日本茶も提供している。
ケーキやパンは電話注文による取り置きもできるそうなので、売り切れでがっかりしたくない人は事前に予約しておくのも良いだろう。カフェスペースもあり。

Japanese Patisserie WA Cafe
32 Haven Green, Ealing, W5 2NX
電話:020-8991-7855
www.wacafe.co.uk
月~金:午前8時~午後6時
土:午前8時30分~午後6時
日、祝日:午前9時30分~午後6時

抹茶ドリンクが充実!
Tombo Poké & Matcha Bar

Tombo Poké & Matcha Barイメージ

【下段写真右】
抹茶とマンゴーを合わせたジュース。
色のコンビネーションが面白い!
抹茶ドリンクやスイーツを扱う店が増えたといっても、日本人の舌を満足させてくれるお店はまだまだ少ないが、こちらの抹茶は期待を裏切らないおいしさだ。
お茶好きのオーナーは8年前、良質な日本のお茶がロンドンで買えるようにとお茶を扱う会社をロンドンで立ち上げた。ヨーロッパに流通しているお茶はドイツ経由で輸入されるものが多いそうだが、同店では、まろやかでコクのある深蒸し茶の産地として知られる静岡県掛川市から直接輸入。ロンドンのカフェやレストランにも卸しているという。
日本の伝統文化としての抹茶も大切にする「Tombo」では、温かい抹茶はトレーニングを受けた従業員が茶筅(ちゃせん)で点てる。一方で、海外らしい抹茶の楽しみ方も提案。マキアート風に仕上げた「マッチアート(Matchiato)」、抹茶とジュースを組み合わせた抹茶ジュースなど、店頭のメニューは見た目も楽しく、どれにしようか悩むほどだ。抹茶ドリンクの定番、抹茶ラテには、バニラやシナモン風味があるなど、一味変わった選択肢がある。
抹茶スイーツも充実。抹茶アイスクリームを使ったサンデーには、チョコやオレオなどが添えられた洋風の「London」と、白玉、あずき、柚子の皮などを添えた和風の「Tokio」。ケーキでは抹茶ガトーや抹茶ロールなど種類も豊富で、サウス・ケンジントンにある「Tombo1号店」で作られる。お茶もスイーツも日本の良さをわかってもらえるようなものに、というのがメニュー作りにおけるコンセプトのひとつだという。
ちなみに、抹茶ドリンクと合わせて提供されている「Poké」は、ロンドンで近年注目を集めているハワイ風ちらし丼。ベジタリアン向けのポケには、抹茶と味噌を合わせた意外な組み合わせのドレッシングが添えられ、こちらも絶品だ。

Tombo Poké & Matcha Bar
28 D'Arblay Street, Soho, W1F 8EW
電話:020-7734-1333
www.tombopoke.com
月~土:午前11時30分~午後9時
日:午前11時30分~午後8時
※メニューは異なるが、サウス・ケンジントン店でも抹茶ドリンクやスイーツを提供。

ロンドンではめずらしい抹茶のミルクレープ
KOVA Patisserie

KOVA Patisserieイメージ 2016年11月にソーホーのど真ん中にオープンしたケーキ屋。狭いながらも店内にはカフェスペースもある。日本を意識した手作りのケーキと、オーガニックを謳った日本茶や抹茶ドリンクがセールスポイントだ。
この店で最も特徴的なスイーツは、日本のドトールコーヒーなどで知られるミルクレープ。 15〜20枚ほどのクレープをクリームや果物を間に入れながら何層にも重ね、ケーキのような形に整えたものだ。日本発祥ともいわれる定番スイーツだが、ロンドンではまだめずらしいかも。
「KOVA」のミルクレープのラインアップは、チョコ味、バニラ味、果物入り、そして、抹茶クリームを挟みこんだ上からさらに抹茶をふりかけた抹茶ミルクレープ。加えて、抹茶ティラミスや、抹茶ロールなどもある。使われている抹茶には少し苦みが感じられるので、お茶の渋みを好む人には良いかもしれない。

KOVA Patisserie
Unit 5, 9 – 12 St Anne’s Court, Soho, W1F 0BB
www.kovapatisserie.com
月~木:昼12時~午後8時
金・土:昼12時~午後9時30分
日:昼12時~午後6時

初めてでも安心、快適 ♪ <難易度別>この夏は英国でキャンプ![Camping]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2017年5月4日 No.982

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初めてでも安心、快適 <難易度別>この夏は英国でキャンプ!

初めてでも安心、快適

<難易度別>この夏は英国でキャンプ!

■休暇旅行(ホリデー)が大好きなことで知られる英国人。不況が長引いている上、欧州でテロ騒動が頻発している昨今、英国で人気を集めているのが、国内でのキャンプ・ホリデーだ。キャンプ場で読書をしたり、周辺を散歩したり、知らない子ども同士で遊んだり、まるで我が家がキャンプ場に移動したかのように、のんびり楽しく過ごすのが「英国風」。従来のサバイバルなキャンプやアウトドアが苦手なインドア派にも挑戦しやすい。今回は、そんな英国風キャンプの楽しみ方を紹介しよう。

●サバイバー●取材・執筆・写真/名取 由恵・本誌編集部

「キャンプ」というと、何を思い出すだろうか。子供の頃の飯盒炊飯? それとも、河原でのバーベキューや川遊び、魚釣りといったアウトドアなアクティビティ?
筆者が初めて体験したキャンプは、25年前の英国での野外音楽フェスティバルだった。テントを設営したのも、寝袋で寝たのも初めて。電気もガスもお湯もなし、水ですら最低限しか使えない環境のなかで、日頃自分たちがどれほど恵まれた生活をしていたのか、そのありがたみが身に染みたのを覚えている。
そもそも、キャンプとは何か? キャンプとは自宅を離れ、テントやキャンピング・カーといった一時的なシェルターを使って過ごすこと。日本語では「野外で一時的に生活する」という意味の野営、露営、宿営などと呼ばれる。
はるか昔、人類の多くは狩猟採集をしながら移動生活や遊牧生活を送っていた。ローマ帝国はイタリア半島を離れ、遠い場所まで遠征して帝国の領地を広げていったが、遠征地では木の棒を立て、布や皮を張るテントを使っていたという。また、北米の原住民やモンゴルの遊牧民は、ティピーやユルトなど、移動式のテントで生活する習慣があった。このように、人間と野外生活の関係は深い。時を経るにつれ、次第に人間は定住型の生活を送るようになり、さらに近代化が進められると、多くの人々は都市部で暮らすようになった。
しかし、19世紀後半になると、野外生活から様々なことを学ぼうとする動きが世界的に起こる。1861年、米国コネティカット州で教育者のフレデリック・ウィリアム・ガンが子どもたちを集めて学校主催のキャンプを行ったことが、現代流キャンプの始まりとされる。日本でも明治期に西洋諸国の制度を取り入れるなかで、教育活動の一環としてキャンプが推奨されるようになった。
一方、英国ではどうだったか。英国の近代キャンプの父といわれるのが、トーマス・ハイラム・ホールディング(1844~ 1930年)だ。ホールディングは9歳のとき、両親とともに米国の平原を幌馬車で旅しており、大人になってからアイルランドで仲間とキャンプをしながらサイクリング旅行を敢行。その様子を綴った著書『Cycle and Camp in Connemara』を1908年に出版している。また1901年には、ホールディングを中心にして、英国初のキャンプ団体「Association of Cycle Campers」が結成された。同団体は、後に非営利団体「The Camping and Caravanning Club」(中級者向け:キャンピングカーで、快適に過ごす参照)に発展している。相次ぐ世界大戦により、キャンプは一時停滞したものの、戦後には再び人気が復活。イングランド観光局「Visit England」が2015年に行った調査によれば、同年上半期におよそ450万人の英国人が平均3・7泊のキャンプ・ホリデーを楽しんだという。これは前年の同時期と比較すると8%も増加しており、キャンプの人気が今もなお衰えていないことが明らかになっている。
さて、このように英国で根強い人気を誇るキャンプだが、その人気の秘密は何だろうか。
まずは、海外でホテルに宿泊する旅行と比べて、割安・手軽ということが挙げられるだろう。飛行機やホテルをあらかじめ予約する必要もなく、キャンプ場のスペースさえ空いていれば、すぐにでも出かけることができる。長期の休みが取れない場合は、週末だけ近所のキャンプ場でプチ・ホリデーを楽しむことも可能だ。
また近年、欧州ではテロ事件が相次いで発生しており、欧州方面の旅行を避けて、英国内に留まる人が増えているのも、理由のひとつだとされている。
しかしながら、キャンプ人気の一番の理由は、何よりもキャンプ自体の面白さではないだろうか。キャンプの魅力は、大自然のなかでゆっくりリラックスして過ごせること。清浄な空気や緑に囲まれた環境で身体を動かし、家族や友人と一緒に楽しく過ごしながら、非日常のなかで自分を見つめ直していく。何かとストレスの多い現代社会で、キャンプの良さが見直され、注目を集めているのは、自然のリズムと同調することにより、忘れていた何かを思い出し、本来持っている自分らしさを取り戻すことができるからなのかもしれない。
ぜひ今年の夏は、英国でキャンプを体験してみてはいかがだろうか。

キャンプの王道、テントで過ごす

ャンプといえば、テントと寝袋。一度はテントで王道のキャンプを体験してみたい。英国には各地にキャンプ場があり、場所によって設備も異なるが、多くのキャンプ場は、テントを張るピッチ(芝生)に電源や水道が引かれており、共同で使用するトイレ・シャワー・炊事場・コインランドリーが完備されている。食べ物や生活用品を販売するる売店、カフェ、レストランのほか、フィッシュ&チップス、ピザなどのテイクアウェイを注文できるところもある。子ども用のプレイグラウンド、プール、テニスコートがあるファミリー・フレンドリーな場所も多い。ほとんどのキャンプ場で、テントの側に車を駐車できるようになっているので、荷物を運ぶ心配もない。
一方、森のなかにぽつぽつとテントが点在するようなキャンプ場もある。わざわざ電気も水道もない不便な場所でキャンプし、夜空を眺めたり、野生の生き物や植物を観察したりして、文字通りのサバイバル生活を楽しめる。ここまで到達できたら、あなたも立派なキャンプ上級者!
テントで過ごすメリットとデメリット

キャンプ場の探し方

英国には3,000ヵ所を超えるキャンプ場があるといわれている。その膨大な数のなかから、どのキャンプ場を選べばよいのだろうか?

1 英国のどこに行くか、大まかなエリアを検討する。

人気のある場所は、①天候が温暖な場所 ②海の近く ③自然に囲まれたところ。ロンドンからだと、イングランド南東部のサセックスやケント、南部のドーセットやハンプシャー、南西部のデヴォン、東部のサフォークやノーフォーク辺りが行きやすい。広大な自然が広がり、野生のポニーが生息する、ハンプシャーのニュー・フォレストデヴォンのダートムーア周辺は人気スポット。思い切って、ウェールズやスコットランドのキャンプ場にチャレンジするのもいいだろう。

2 インターネットで、キャンプ場を検索する。

おすすめ検索サイトは「www.ukcampsite.co.uk」。行きたいエリアを選択し、トイレ・シャワーなどの設備、子どもの遊び場の有無、大人用か、子ども・ペットもOKか、公共交通機関で行けるかといった必要条件を絞り込み、料金を考慮に入れながら、候補地を比較。他のキャンパーたちのレビューも参考にしよう。キャンプ場の多くは、ピッチのタイプ、利用者数、付属物の有無によって料金を設定。キャンプ初心者なら、最初は天候が比較的穏やかな地域で、設備が充実しているキャンプ場を選ぶのが無難だろう。価格は1人1泊20ポンド程度~が目安。

テントの選び方

テントはサイズ、定員数、耐水圧、重量を考慮して選ぼう。キャンプの目的によってテントの種類も変わる。例えば、公共交通機関を利用する場合やバックパッカーなら軽量テント。野外フェスティバルでは組み立てが必要ないポップアップ・テント。家族連れや1週間以上のキャンプなら、しっかりとした素材のテントが良い。
また、初めてテントを建てる場合は、事前に自宅の庭などでテントの建て方と用具が揃っているかをチェックすること。アウトドア・ショップのサイトは「www.gooutdoors.co.uk」「www.cotswoldoutdoor.com」「www.blacks.co.uk」「www.millets.co.uk」など。

携帯必需品

テント
ハンマー(テントの設営用)
寝袋(封筒型〈square〉=写真右=とマミー型〈mummy〉=同右下=の2種類がある。英国の夜は夏でもかなり気温が下がることがあるので、耐久温度をしっかり確認すること)
スリーピングマット/エアマットレス(ウレタン状のマット、もしくはポンプで空気を入れるエアマットレスを寝袋の下に敷く。これがないと背中に小石や枝が当たったり、地面からの冷気を直に感じたりして寒い)
懐中電灯/ランタン
雨具(傘よりもレインコートが便利)
ゴミ袋
ウェットティッシュ

キャンピング・カーで、快適に過ごす

の座席やソファを倒してベッドにすることで、車のなかで寝泊まりできる仕様になっているのがキャンピング・カー(英語では「camper van」「motorhome」など)。また、自家用車の後ろにつける牽引式のトレイラーは「キャラバン(caravan)」と呼ぶ。キャンピング・カーも様々なタイプがあり、車内に流し台、コンロ、冷蔵庫などの調理設備、トイレ・シャワーが設置されているものもある。
キャンプ場は、キャンピング・カーが使用可能な場所を選ぼう。生活排水・トイレの処理場(waste water disposal point / chemical waste disposal point)があるところが便利だ。事前に、キャンピング・カーの使い方、給水や排水のシステム、カセットトイレやポータブルトイレの処理方法、ガスや電気の使用方法を確認しておく必要がある。
キャンピング・カーで過ごすメリットとデメリット

車の選び方

頻繁に出かける予定があるならキャンピング・カーを購入するのもよいが、年1回出かける程度なら、レンタルするのが現実的だろう。

1 「camper van」と「caravan」のどちらのタイプにするかを決める。

車のなかで寝泊まりする人数によって、車のサイズが決まる。大型車になると、普通自動車免許だけでは運転できず 、運転のスキルも必要になるのでご注意を。とくに「caravan」タイプは、急カーブや後進の際の運転が難しいとされる。その反面、「caravan」は牽引する車と切り離して、トレイラー部分だけをキャンプ場に残しておくことができるので、周辺に出かける際は車だけで身軽に行動できる。

2 ウェブサイトを利用しよう!

キャンピング・カー及びキャンプ関連の非営利団体「The Camping and Caravanning Club」のウェブサイトを利用しよう(www.campingandcaravanningclub.co.uk)。キャンプ場を運営するほか、キャンプに関する様々な情報・アドバイスを提供しており、キャンプ場の検索、キャンピング・カーのレンタルなどもできる。

グランピングで、贅沢に過ごす

が降っても、お風呂に入れなくても、衣服が濡れたままでも「耐え忍ぶ」というイメージがあるキャンプ。ここがインドア派にとってキャンプの壁が高い理由だが、そんなインドア派でも手軽にキャンプを楽しめるのがグランピングだ。
グランピングとは、グラマラス(glamorous)とキャンピング(camping)をかけた造語で、英国では2005年頃から登場したといわれる。キャンプ場にテントやキャンプ道具など必要なものがあらかじめ用意されているので、快適にラクにキャンプを楽しむことができる。ネイティヴ・アメリカンの移動式テントである「ティピー(Tipi)」=写真上、遊牧民が使う「ユルト(Yurt)」、木の板で造られた「ポッド(Pods)」などに、ベッドや暖房などの家具が設置されており、リネン・タオル類も用意されている。高級レストランの食事やホテル並みのサービスを提供し、ホットタブやスパ、ビューティサロンが併設されているところもある。グランピングの場所を検索するなら「Cool Camping」(https://coolcamping.com/campsites/glamping)のウェブサイトがおすすめ。
グランピングで過ごすメリットとデメリット

家族連れにおすすめ!センターパークで過ごす

リデー・パークと呼ばれる大規模なキャンプ場では、テントやキャンピング・カー以外に、コテージやロッジ=写真左上、バンガロー、アパートメントに宿泊できる。「テントもキャンピング・カーもグランピングもハードルが高い。だけど自然のなかで家族と一緒に楽しくホリデーを過ごしたい!」という人は、このような施設を利用することも可能。
なかでも家族連れにおすすめな場所が、「センターパーク(Center Parcs)」(www.centerparcs.co.uk)だ。オランダ生まれのホリデー施設で、英国内にはロンドン近郊のベッドフォードシャーのウォーバン・フォレスト、英南西部ウィルトシャーのロングリート・フォレストほか5ヵ所ある。どこも森に囲まれた自然たっぷりの環境。センターパークの良いところは、子ども用のアクティビティがたくさん用意されていること。巨大温水プールのほか、サイクリング、アーチェリー、テニス、ミニゴルフ、サッカー、幼児向けの工作教室、料理教室など盛り沢山! 子どもを預けることもできるので、大人だけでジムやスパに行ったり、カフェやレストランでゆっくり過ごしたりすることもできる。
仲の良い友達家族と一緒に出かけて、ロッジやアパートメントをシェアして割安に済ませるのもいいかも。費用は決して安いとは言えないが、家族全員たっぷり遊べるので充実度は高いだろう。

体験レポート

英国でのキャンプはここが楽しい!

【ケース①】
F子さんの場合
キャンプ地:コーンウォール
キャンプ・スタイル:テント
人数:家族4人
日程:6月5日~9日
キャンプ歴:7年
コーンウォールへ4泊5日のキャンプに行ってきました。
コーンウォールは、何度行っても好きな場所です。残念ながら、天気は最悪の予報。英国でのキャンプで辛いのは、やっぱり雨。雨が多い国なので、降らないわけがない。普段は滞在期間の半分ぐらいの雨は覚悟しているのですが、キャンプ期間中、全部雨マークなのは、やっぱりガックリ。英国人の夫に「英国だから雨は当たり前!」とあきれられてしまいました。とりあえず、テントを建てるときと、片づけるときだけ、天気が何とかなっていることを祈るばかり…。
ロンドンから出発して、車で約5時間ほど走ってコーンウォールに到着。今回は、セント・マイケルズ・マウント(写真上)、ランハイドロック・ハウス、エデン・プロジェクト、そしてセント・アイヴス、パドストウの町を見てまわりました。
途中、晴れた日もありましたが、やっぱり予報どおり雨。雨が降るとテントのなかはすごい音になります。大雨だと耳栓がないと寝られません。キャンプ場で気になる音は、雨と人の話し声かな。あと、テントのなかはそれなりに快適なのですが、雨が降っているとトイレやシャワーのブロックに行くのが本当につらい。レインコートを着ても、雨風に打たれながら帰って来ると足は濡れるし、テントのなかも湿気でジトッとした感じ。だんだん不機嫌になる私ですが、息子たちは楽しそうにボードゲームをしていました。
「雨の多い英国でキャンプするのは嫌だ! ママはやっぱりホテルが好き!」と言ったら、夫と息子たちは「僕らは雨でもテントが好きだよ。濡れるのもキャンプの醍醐味のひとつ」という反応でした。
今回のキャンプで学んだことは、雨の日はできるだけ手を抜いて、レストランで食べるということ。雨風のなか、無理して料理するより、少しでもドライで暖かい場所でご飯を食べる方が幸せを感じられるから。
出発の日は雨が上がって、無事にテントをたたみ、荷造りして帰りました。たくさん文句も言いましたが、終わってみたら、良いホリデーになりました。ホリデーは何であれ、楽しい。雨であれ、嵐であれ…。その瞬間には、いつも楽しいことを発見できるような気がします。

Carlyon Bay Camping Park
www.carlyonbay.net
1泊2人分の基本料金:£15~38

【ケース②】
T子さんの場合
キャンプ地:ドーセット
キャンプ・スタイル:キャンピング・カー
人数:家族3人
日程:8月3日~7日
キャンプ歴:3年
昨年8月初旬、、ドーセットのウェアラムにあるキャンプ場で、4泊5日のキャンプを体験しました。
今回はキャンピング・カーを利用。家族みんなで使えるように、義両親と共同で購入しました。このキャンピング・カーは2人用なので、車の隣りにテントも建て、寝るときはテントを使うようにしました。本当は4人用のキャンピング・カーを買いたかったのですが、小型の車の方が何かと小回りも効くし、道幅の狭いカントリーロードを運転するときも心配しなくて済むので、結果的には正解でした。
ウェアラムのキャンプ場を選んだのは、敷地内に屋外プールがあるため。気温は20度くらいだったものの、英国人は平気で泳ぎます。子どもも毎日泳いでいました。プールのほかにも、子ども用のプレイエリアがあり、売店では毎朝焼きたてのパンが買えます。シャワーはたっぷりお湯がでて、トイレも清潔でした。
キャンプ場の裏手にあるウェアラム・フォレストを散策したり、プールの町で海水浴をしたり、ダードルドア(最初の写真)とラルワース・コヴまで出かけたり、キャンプ場を拠点にいろいろな所に行きました。
滞在中は、ほぼ毎日自炊でした。近所のスーパーまで出かけて買い出しをします。1日目の夜はバーベキューもしました。野外で炊事して食べる食事は、ことさら美味しく感じられます。キャンプ場のなかでは、子どもだけで夜遅くまで自由に遊びまわれるのがいいですね。子どもも大人も大満足のホリデーでした。

Wareham Forest Tourist Park
www.warehamforest.co.uk
1泊2人分の基本料金 :£15.30~43.30


【イングランドの国民的スポーツ】クリケット観戦に行こう![Cricket]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2017年6月1日 No.986

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【イングランドの国民的スポーツ】クリケット観戦に行こう!

イングランドの国民的スポーツ

クリケット観戦に行こう!

美しい芝生でプレーが行われ、途中にはティータイムまであり優雅な雰囲気漂う英国発祥のスポーツ、クリケット(cricket)。別名「紳士のスポーツ」とも呼ばれる。その存在に憧れを感じつつも、時には数日間に及ぶなど試合がとにかく長く、「ルールが複雑でよくわからない」…と敬遠してしまいがちなスポーツでもある。そこで、せっかく英国にいるならばクリケット観戦を楽しんでみたい! という人のために、試合を理解するためのヒントと観戦レポートをお届けする。

●サバイバー●取材・執筆・写真/ホートン秋穂・本誌編集部

春~秋は、とにかく試合が目白押し!

どの試合を観る?

春から秋にかけて、英国では週末ともなるとあちらこちらでクリケットに興じる人の姿を目にすることができる。球技としての競技人口はサッカーに次ぐ世界第2位であり、4年に1度のワールドカップでは10万人規模のスタジアムで人々が熱狂し、世界で10億人以上がテレビ観戦するという。イングランド代表戦から国内のカウンティ(州別対抗)リーグ、女子や16歳以下のジュニアリーグ、地元の草野球レベルのチームリーグなど幅広いレベルで試合が行われる。これだけ多岐にわたると、何を見ればよいのか初心者には見当もつかないかもしれない。まずは競技会の種類を抑えておこう。

国際戦

「ジ・アッシューズ」に代表される イングランド・ナショナルチームの試合
ICC(インターナショナル・クリケット・カウンシル)には現在約30ヵ国が加盟し、各種試合が行われている。その中でも、厳しい条件をクリアしたテスト・カントリーと呼ばれる10ヵ国のみで繰り広げられるのが伝統的なテストマッチ(国際試合)。そもそもテストマッチとはイングランド対オーストラリアの定期戦の呼び名だったため、特に時期を区切ったり、10ヵ国間で優勝を決めたりすることはない。2ヵ国間で行われ、各国チームは他の9ヵ国それぞれを相手に、1つずつある「タイトル」を競う。最大5日間かけて催され、クリケットの試合の中では最も伝統と格式がある競技会とされる。
また1975年からは4年に1度ワールドカップが開催されている。テスト・カントリー10ヵ国に加え、予選を通過した国が優勝を競う、1日試合形式のワン・デイ・インターナショナル(以下、ODI/試合形式については、下記参照)の最高峰といえる大会だ。
テストマッチの中でも、「ジ・アッシューズ(The Ashes)」と呼ばれるイングランド対オーストラリアの試合は、最古の歴史と伝統を誇り、最も盛り上がる試合のひとつである。しかし、チケットは入手困難を極める。次戦は今年11月に開幕するが、オーストラリアで開催予定なので生で観戦するのは難しい。そこで今年のおすすめは、イングランド対南アフリカのテストマッチ(7月6日~)、もしくはODI、T20(下記参照)の観戦だ。格上の南アフリカを相手にイングランドがどう戦うか、レベルの高い試合が期待できる。ただし、こちらもチケットは人気なので予約は早めに済ませたい。テストマッチよりはODI、T20の方が取りやすい。
またロンドンには、2大グラウンド「ローズ(Lord’s Cricket Ground)」=タイトル写真=と「ジ・オーヴァル(The Oval)」があり、クリケットの聖地とされるローズよりも、ジ・オーヴァルの方が収容人数も多いのでチケットは取りやすい。だが、由緒ある雰囲気の下で試合を楽しみたいなら断然、ローズを推したい。

テストマッチ・世界ランキング
(男子 2017年5月現在 ICC発表)
1位 インド、2位 南アフリカ、3位 オーストラリア、 4位 イングランド、5位 ニュージーランド、6位 パキスタン、7位 スリランカ、8位 西インド諸島、9位 バングラデシュ、10位 ジンバブエ

クリケットの聖地

ローズの舞台裏ツアーに参加しよう!

200年以上の歴史を誇るローズ・クリケット・グラウンドでは毎日、一般見学ツアー(100分)が催行されている。ピッチを眺める観覧席に加え、MCCのメンバーや選手だけしか入れない瀟洒で優雅な佇まいのクラブハウス、選手の汗の匂いがかすかに感じられるロッカールームにも案内される。建物の歴史に関する説明だけでなく、ユーモアたっぷりに語られるクリケットこぼれ話に耳を傾ける充実の内容だ。
特に圧巻は「ロング・ルーム」と呼ばれる広間=写真右。大きな窓からは目に眩しい緑の芝生のグラウンドが広がり、思わずため息がもれる美しさ。壁にはクリケットにまつわる18世紀~21世紀にかけての絵画が多く飾られ、さながら美術館を訪れるような感覚で楽しめる。MCCは1998年まで女性の入会を認めていなかったので、このロング・ルームに入れる女性はただ一人、英女王だけだったという。
敷地内にはクリケット博物館もあるので、ツアーの開始前に見学するのもおすすめ。ツアーではその中でも特に有名な「ジ・アッシューズ」のコーナーの丁寧な説明が行われる。香水瓶をトロフィーに見立てたとされるテラコッタ製の優勝杯=同左=の実物は10センチほどのサイズで想像以上に小さくてびっくり。オリジナルのトロフィーがこの博物館のガラスケースを出ることはなく、実際に試合で選手が掲げるのは精巧にできたレプリカなのだとか。レプリカは敷地内のショップで販売されているので、お土産におひとついかが?
Lord's Cricket Ground
St John's Wood, London NW8 8QN
ツアー料金: 大人20ポンド 子供(5~15歳)12ポンド
※ツアーは、試合当日・試合準備日など特定日を除いて毎日開催される。
www.lords.org/lords/things-to-do/tours-of-lords/

国内線

気軽かつ本格的なファーストクラス・カウンティ・チームの試合
国際試合の場合、人気の試合になるとチケット代は最低100ポンド以上というものも珍しくない。もっと気軽に懐にも優しく、レベルの高い試合を見たい場合は全18チームからなる国内ファーストクラス・カウンティ・チームの試合がおすすめ。チケット代も席を選ばなければ20ポンド程度とお手頃だ。テストマッチに相当する国内最高峰で4デイマッチのリーグ戦、カウンティ・チャンピオンシップ、もしくは1日試合形式のワンデイ・カップがある(ともに2部制)。
カウンティ・チームでの活躍をもとにイングランド代表選手が選ばれるので、未来のスターをいち早く発掘する気分で観戦するもよし、自分の地元チームを応援するもよし、だ。ちなみにこのカウンティは現在の行政区分ではなく、18世紀にカウンティ対抗で試合が行われた当時の歴史的区分が適用されている。現在のロンドンはミドルセックスとサリーに区分される。ローズはミドルセックスの、ジ・オーヴァルがサリーのホームグラウンドとなっている。また一説によると、注目の一戦はヨークシャーとランカシャーの戦い。15世紀の薔薇戦争にちなみ、その名もローゼズ・マッチ(Roses Match)と呼ばれている。歴史的な因縁がクリケットにも持ち込まれるとは、いかにも英国らしい。

ファーストクラス・カウンティ・チーム(2017年)…[1部] Surrey, Hampshire, Yorkshire, Essex,Lancashire, Middlesex, Somerset, Warwickshire/[2部]Nottinghamshire, Kent, Gloucestershire, Worcestershire, Northamptonshire, Glamorgan, Sussex, Derbyshire, Leicestershire, Durham

草の根レベル

地元密着型マイナー・カウンティ・チームの試合
公式戦扱いにはならない、アマチュアの試合としてマイナー・カウンティの試合がある(現在、20のカウンティが登録中)。たとえば筆者の住むハートフォードシャーのクラブはこのマイナー・カウンティに位置づけられる。ハートフォードシャー内だけで約127のアマチュア・クラブがあり、1つのクラブでもレベルや年齢別に複数のチームが存在する。このアマチュア・クラブ内からハートフォードシャーの代表選手が選ばれ、他のマイナー・カウンティ代表チームと対戦する。
こちらも3日間行われる試合と1日完結型の試合がある。ジュニア・チームの試合にはファーストクラス・カウンティ・チームのスカウトマンも訪れ、将来のスターが発掘されるケースもあるという。例えば現イングランド代表のスティーブン・フィン(下記参照)は、ハートフォードシャー出身の選手。地元の小さなクラブのジュニア・チームでプレーしていたところをミドルセックスにスカウトされ、16歳という史上最年少で公式戦デビューを飾った。
観戦はもちろん無料。観覧席もない簡素なグラウンドが多いせいか、ピクニック・チェアやラグ持参で観戦する人も少なくない。草野球を見る感覚で気軽に観戦できるのがアマチュア・リーグの最大の魅力といえる。

格式重視

名門クラブ MCCの試合ほか

黄色と赤のストライプが特長的なジャケットや帽子は、
MCCのメンバーの証。写真はローズにあるショップ
(購入は会員のみ)。
英国のクリケットを語るときに外せないのがメリルボン・クリケット・クラブ(MCC)の存在。ローズはミドルセックスのホームグラウンドであるのと同時にMCCのホームでもある。MCCは1787年に設立された現存する最古のクラブで1万8000人の会員を有する。会員になるにはウェイティングリストで29年待ちという超名門。MCCが定めたルールは世界中でクリケットの公式競技規則として採択され、今日もクリケット競技の規則を管理・裁定する最も権威ある機関としての役割を果たしている。
ローズを舞台にこのMCCがプレーするクリケットの試合やオックスフォード大対ケンブリッジ大の試合、2大名門パブリックスクールのイートン校対ハーロウ校の試合は古き良き英国の伝統試合をその目で見たいという人におすすめ。

試合形式をチェック!

近年では短時間で決着をつける形式のものが登場。多様化の兆しが見られ、人気を集めている。

テストマッチ/カウンティマッチ

伝統的な国別・カウンティ別対抗戦の試合形式。球数無制限の2イニング制を採用。カウンティマッチは最大4日間、テストマッチは最大5日間で勝敗が決まる
スピード感を例えると?…チェス

ワンデイ・インターナショナル(ODI)

50オーバー(300球)限定1イニング制で行われる国別対抗戦。試合時間はおよそ5~6時間程度となる。ワールドカップもこの形式で行われる
スピード感を例えると?…ゴルフ

トゥエンティ・トゥエンティ(Twenty20)

2003年に登場した短時間で終わる試合形式。20オーバー(120球)限定1イニング制を採用、1試合2時間半程度で終了する スピード感を例えると?
スピード感を例えると?…テニスまたはサッカー

シックス・ア・サイド(6-a-side)

6人制クリケット。5オーバー(30球)限定1イニング制で、1試合50分程度で終了する。公式の試合ではあまり見られないスタイル
スピード感を例えると?…テニスまたはサッカー

ここだけ押さえればおそらく(!?)わかる!

初心者向け 観戦のヒント

イニング  10人アウトで攻守交替

試合は1チーム11人の2チームで行う。先攻チームが10人アウトになると1回表終わり。後攻チームも同じく10人アウトになると1回裏が終了。この「回」を【イニング】という。テストマッチなど正統な試合は1試合2イニングからなる。
守備は投手 【ボウラー】と捕手 【ウィケット・キーパー】以外の9人の野手【フィールダー】であたるが、各ポジションは、戦略に合わせて自由に配置でき、いつでも変更できる。
通常、後攻チームが逆転した時点またはイニングが終了した時点で得点が多いチームが勝利、同じ得点であれば引き分けとなる。ただし、テストマッチやカウンティマッチの場合、一方のチームが得点上でどれだけリードしていても、試合期間中に2イニングを終了させることができなければ、つまりアウトが取れずに試合時間が終了すれば、「引き分け」になってしまう。どこまで得点をリードし、いかに早く相手をアウトにするか、得点で負けていてもどうすれば粘って引き分けに持ち込めるか、時間、天気(雨天で試合が中断し、そのまま試合終了となる場合もある)、選手のコンディションなどを考慮した総合的な頭脳プレーが求められる。これはキャプテンに負うところが大きい。
数日間に及ぶクリケットの試合がチェスの試合に例えられるのはまさにこうした戦術上の駆け引きがあるからといえる。
クリケットのポジション説明

ラン  2人の打者が走って、場所が交替できたら1点

常に2人の打者 【バッツマン】 がピッチに入り攻撃を行う。1人がアウトになると、次の打者と交代する。バッツマンはアウトになるまでグラウンドに立ち続けるが、アウトになると同一イニングで再び打席に立つことはできない。
打撃後やウィケット・キーパーがボールをそらしたときなどに2人のバッツマンがバットを持ってお互いのバッターボックス【クリース】めがけて走る。これを【ラン】と呼び、守備側の返球で【ウィケット】(上図参照)を倒されるよりも早く、2人ともバットか体の一部がクリースを越えるごとに1点 (往復で2点)が入る。どちらかがアウトになると得点にならない。ボールを打っても、返球までに場所を交替するのは間に合わないと判断したら走らなくてもよい。声を掛け合うなど、2人の打者のあうんの呼吸が求められる。
バッツマンはウィケットを倒されなければ、空振りを何回してもアウトにならない。野球のようなファウルゾーンがなく360度どこへでも打撃可能。
また野球にあるデッドボールというものがなく、身体にボールが当たっても「痛いだけ」で試合には何の影響も与えない。ただしバッツマンが足で投球がウィケットに当たるのを防いだとされる場合にアウトにされるレッグ・ビフォー・ウィケット【LBW】というものもある(LBWには細かい条件があり、審判が判断)。

バウンダリー  越えたら4点もしくは6点

クリケット場の中央には両端がバッターボックスになっている長方形の場所【ピッチ】があり、このピッチのまわりで野手【フィールダー】が守備にあたる。それをさらに大きく楕円状に取り囲む形でロープが置いてある。これが【バウンダリー】でバッツマンが打ったボールが地面を転がりながら、あるいはワンバウンド以上で越えた場合、自動的に4点【4ラン】の得点となる。野球のホームランのようにノーバウンドで越えると6点【6ラン】の得点となる。このバウンダリーを越えない場合はバッツマンらが懸命に走って得点を稼ぐことになる。

アウト  フライを捕るか、ウィケットに命中させて倒すか

クリケットのユニークな特徴は、打撃だけが「攻撃」ではない、という点である。ウィケットのベイル(下図参照) が落ちるとアウトになるので、ボウラーはウィケットを狙って投球。バッツマンはアウトをとらせないために、ウィケットを守るためにボールを打ち返す。守備側はとにかく打撃チームのバッツマンを早くアウトにし、得点を少なく抑えなければならない。
以下①~⑤が代表的なアウト。1イニングの攻撃は10人アウトになると終了。
①ボウルド (bowled)
ボウラーの投球でウィケットが直接倒された場合
②コート (caught)
バッツマンの打ったボールがノーバウンドで捕球された場合
③ランアウト (run out)
バッツマンが走っている間にボールがウィケットに戻り(送球により、または捕球したフィールダーがボールを持った手で触れて)、ウィケットが倒された場合
④スタンプト (stumped)
反則投球でない投球に対しポッピング・クリース※(打者線)の外でボールを空振り、または見逃し、そのままランを試みぬまま、ウィケット・キーパーが捕球したボールをグラブごとウィケットにあて、ウィケットが倒された場合に宣告されるアウト。スピンのかかったボールを打ちに前に出てミスショットした際によく見られる。※ポッピング・クリース(下図参照):バッツマンが打撃するときにはこの線をまたがないとアウトになってしまう。ノンストライカーにとっては野球で言うところの塁の役割になり、この線の中にバットか身体の一部を入れていないとアウトになる
⑤LBW (Leg Before Wicket)
バッツマンが足を使って、投球がウィケットに当たるのを防いだとされる場合
クリケットの説明

オーバー  6球投げたらひと区切り

通常、1チームにはボウラーが4人ほどいる(最低2人)。1人のボウラーは必ず、6球続けて投げなければならない。この6球を投げる間に何人アウトにしようと得点が何点入ろうと関係なく6球投げ切る。6球(これを1オーバーと数える)が終わると、別の投手がもう一方のクリース側から投げる。1オーバーごとにウィケット・キーパーは場所を変えることになる(ウィケット・キーパーは各チームに1人のみ)。
また投手によって速球専門【ファスト・ボウラー】、変化球専門【スピナー】とさまざまに異なるので野手たちもキャプテンの指示に従い、守備位置を変える必要がある。さらに1オーバーごとに2人の打者はピッチの中央で短い作戦会議を開くので、全員が位置変えしているような印象を受ける。

試合の流れを知る、観戦レポート

実録!観戦に出掛けた!

では「実際にクリケットの試合を見に行こう」ということで、筆者と編集部Cさんとでローズで行われたカウンティ・チャンピオンシップ、ミドルセックス対エセックスの全4日間の試合の3日目を観戦することになった。しかしこのふたりではクリケットのド素人なので少し心もとないため、幼い頃からクリケットに親しみ、40代後半になっても地元ハートフォードシャーで毎週末クリケットの試合に明け暮れる英国人のN氏に案内役となってもらった。
まず、チケットを買うところからN氏の指南を仰ぐことになった。何日もあるクリケットの試合、何日目を買えばいいのか、どこの席を買えばいいのかがわからない。N氏曰く、個人的には試合の勝敗が決まりそうな2日か3日目がおすすめで、座席も人によって好みがあるけれども一般的にはボウラーの後方にあたる席が人気とのこと。理由は、変化球や速球など投手によって異なるボールの動きが見えるポジションだからということらしい(実際、ボールが速すぎて筆者にはよくわからなかった…。観戦を重ねるうちにきっと見えてくるようになるのだろう)。
試合開始は午前11時だが、10時頃に到着したため、選手が試合前の調整を行う練習グラウンドにまず足を向ける。意外だったのは、選手がウォーミングアップでフットサルを行っていたことだ。練習場の出入り口では選手のサインをもらうために熱心なファンがじっとお目当ての選手が出てくるのを待つ。中には選手名鑑に付箋をいっぱいつけたサインコレクターと思しき年季の入った男性ファンも存在。サインには気軽に応じる選手が多かったのも印象に残った。

ウォーミング・アップ後の選手から
サインをもらう熱心なファンの姿が見られた。
そして午前11時に試合開始。とはいっても、前日からの続きなので試合に出かける前には途中経過を頭に入れておくことが肝要だ。前日までの試合状況がわかるスコアシートは場内にあるスタンドにて1ポンドで販売している。バッツマンの打順や誰が何点得点したかが記されているので手元に持っていると便利。
すでに1日目と2日目で先攻のミドルセックスが1イニング目半ばで507点という大量の得点を達成。戦略的にエセックスにこのイニングで追い抜かれることはないだろうと判断し、7人がアウトを取られた段階で自ら「ディクレア(declare)=これ以上、攻撃の必要なし」をして攻撃を終了したため、エセックスの攻撃が始まり4番目の打者がピッチに立ったところで3日目は幕を開けた。
駆け引きのポイント

ミドルセックスはカウンティ・チームの中でも強豪のチームであるのに対し、エセックスは今年2部リーグから1部リーグに昇格したばかりの格下の相手。N氏によれば、「ミドルセックスは早く相手をアウトにして、2イニング目に持ち込みたいところ。一方、エセックスは得点で追いつくというよりも『アウトを取らせず、時間的に粘って引き分けにもっていきたい』」とのこと。これがこの試合の見どころとなる両者の駆け引きなのだよ、とN氏は説明してくれた。
実際、その言葉を裏付けるようにミドルセックスの野手は「攻め」の守りが目についた。ボウラーが投球すると同時にぐっと打者に近寄り、少しでもボールがチップしてフライになればそれをキャッチするぞ、という勢いで守るのだ。ボウラーや打者の特徴によって守備のフォーメーションは変わるらしく、その指示はキャプテンが声を出して行う。

野球のように頻繁にアウトが取れるわけではないので、
いざアウトが取れると、選手らは大きな声をあげて称え合う。
試合が盛り上がっているのかいないのかは、なかなか打者もアウトにならないし、得点もゆっくりとしか入らないので、正直わかりづらい。時折、ボウラーがウィケットを狙って投球して外れたときやフライをキャッチしそこねたときなどに客席から漏れるため息などによって、「あ、今は見どころだったのだ」ということに気づく。得点を期待して観戦というよりは、いつどんな風にアウトになるかということを人々は待ちわびているような印象をもった。
観覧席に座る人々も日本の野球と違い応援団もおらず、誰がどちらのファンかということはまったくわからない。本や新聞を片手にのんびりピクニック気分で観戦する人が多いのもクリケットの特徴かもしれない。

観客席はリラックスした雰囲気。
上の近未来的な建物はメディア・センター
ランチ休憩は午後1時から40分間で、午後のティータイムは午後3時40分から20分間。場内には軽食やアルコールなどの飲み物が買えるスタンドも複数ある。
筆者らはエセックスが10アウトを取られ、イニングが変わるタイミングでスタジアムを後にしたが、後日のニュースを見たところ、翌最終日は途中で雨天中止となり試合終了。点数だけではミドルセックスの圧勝に見えるが、2イニング目で10アウトを取ってイニングを終了させることができなかったので、結局は引き分けになり、エセックスにはラッキーな結果となった。
N氏の話を聞きながら、戦略が少し見えるようになると、細かいところまでは理解できないものの、頭脳戦としてのクリケットの醍醐味に触れることができ、多くの観客を惹きつける理由がよくわかった。また、好天の下、屋外で気持ちよく風に吹かれながらのクリケット観戦は不思議と心地よい時間となった。

イングランド・クリケット界イケメンをチェック!

Alastair Cook(32)

前イングランド・ナショナルチーム・キャプテン(2012年~2017年2月)、エセックス所属のバッツマン。吸い込まれるような黒い瞳をもち、そのソフトで甘いマスクに女性らが心をときめかせる。
Steven Finn(28)

ミドルセックス所属の速球専門ボウラー。ナショナルチームでも活躍中。2メートルの長身イケメン。爽やかな笑顔と力強い投球に思わず胸キュン。
Stuart Broad(30)

ナショナルチームに所属するボウラー。金髪、青い目のクラシックな美男子。ハリポタ映画のドラコ・マルフォイに似ていることからマルフォイというあだ名で呼ばれることも。
Chris Jordan(28)

バルバドス出身でナショナルチームのオールラウンダーとして活躍。インドのプロリーグにも所属している。引き締まった精悍な黒い肌と真っ白な歯のこぼれんばかりの笑顔にグッとくる女性も多いはず。
James Anderson(34)

ランカシャー所属のボウラー、ナショナルチームにも所属。少年のような茶目っ気のある笑顔と野性的な顔立ちが魅力のハンサム・ボーイ。

【激突 スペイン VS イングランド】無敵艦隊、壊滅への道(前編) [Battle of Armada]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2017年6月29日 No.990

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激突 スペインVSイングランド 無敵艦隊、壊滅への道(前編)

激突 スペインVSイングランド

無敵艦隊、壊滅への道(前編)

エリザベス1世が即位した16世紀中頃のイングランドとは、まだ弱小国のひとつでしかなかった。
その一方で、世界最強国家スペインとは、巧みな外交によって辛うじて友好関係を保っていた。
しかし、いつしか両国の間には不気味な暗雲がたちこめ始める。
王位継承問題や宗教紛争、さらには経済摩擦。両国君主は最後まで戦争回避の道を模索する。
残念ながら全てのオプションは尽き、戦争はもはや不可避となった。
超大国スペインと弱小国イングランド。
その激突までの道のり、そして激突の瞬間を、前編と後編でつぶさに見てみることにしたい。

●サバイバー●取材・執筆/手島 功

世界を分け合ったスペインとポルトガル

1529年春、日本列島はスペインとポルトガルによって東西に分断され、両国による日本進出優先権もローマ教皇によって承認された。二国間で交わされた『サラゴサ条約』によるものだ。
スペインに先駆けてイスラム勢力を駆逐し、いわゆるレコンキスタ(国土回復運動)を終えていたポルトガルは、東方の豊かな香辛料を求め、インドへの航路開拓を模索していた。それ以前にもアジア産の香辛料はヨーロッパに届いていたが、インドから内陸を運ばれてくる胡椒やクローブといった人気の香辛料は、間に商人が入る度に利益が上乗せされ、ポルトガルに届く頃には胡椒1グラムが銀1グラム相当にまで、末端価格が跳ね上がっていた。しかもそれが、ライバルであるヴェネチア商人やイスラム商人たちの懐を肥やしている訳である。後に航海王として歴史に名を残すこととなるエンリケ王子は、自分たちだけで直接、産地から香辛料を手に入れるためには、インドへの航路を拓く以外ないとの思いに至り、次々と冒険者たちをアフリカの先へと送り込んだ。
1488年、バルテロメウ・ディアズがまずは喜望峰に到達。その10年後にはバスコ・ダ・ガマがインドにたどり着き、遂に喜望峰経由のインド航路の開発に成功、仲買人を排除した香辛料貿易でポルトガルは莫大な利益を上げていく。
一方、1492年にレコンキスタを終えたスペインも、ポルトガルの後塵を拝しながらも外洋に船団を送り出し、やがて両者は世界各地で激しい衝突を始める。
度重なる利権争いによる激突の末、1494年に両国間で話し合いが持たれ、大西洋の真ん中あたりに一本の線を引き、この線より東をポルトガル領とし、この線より西の開発優先権をスペインに与える、ということで当面の決着をみた。これがトルデシリャス条約と呼ばれるものであり、これをローマ教皇も承認した。下記の図を見ると、南米大陸中、なぜ現在もブラジルだけがポルトガル語圏で、その他はスペイン語圏となったのかが理解できる。

サラゴサ条約によって、地球はスペイン領とポルトガル領に二分された。
迷惑な話だが、この後、遅れをとって世界に進出するフランスやオランダ、そしてイングランドにとり、
誠にやっかいな条約として立ちはだかることとなる。
1522年、そのトルデシリャス条約に矛盾を生じさせる事態が発生する。マゼラン一行の生き残りが世界周航を遂げて帰国したのである。それまで、何となく「地球は丸い」のではないかと思われてきたものが、彼らが地球を一周して帰ってきたことで、地球の丸さは確実となった。
地球が球体である以上、スペインがどこまでも西に進み、ポルトガルがどこまでも東に進むと、当然のことながら、どこかで両者は再びぶつかり合うこととなる。
二国による二度目の話し合いが持たれ、その結果、東にもう一本の線が引かれることとなった。東南アジアにはヨーロッパで人気のクローブやナツメグといった香辛料を産するモルッカ諸島(現インドネシア領)があり、当然ながらこれの奪い合いとなった。結局、ポルトガルがスペインに賠償金を支払う形でこれを獲得。これによってポルトガルは、アジア貿易での利権をとりあえず確保した。東側の境界線とは、そのような都合でモルッカ諸島のわずか東側、ちょうどニューギニアを縦半分に割る辺りにサクッと引かれた。その子午線上を北にツツッと指でなぞって行くと、やがてそこには日本列島が現れ、その指は三陸沖をかすめて北海道の真ん中を抜けていく。のちにまた両国が優先権を求めて激突することになる日本だが、当時はまだ日本の正確な地図はヨーロッパにはなかったため、このような大雑把な結果となった。これが冒頭で述べた『サラゴサ条約』であり、これも正式にローマ教皇の承認を得た。
ポルトガルとスペインが勝手に線引きをし、それをローマ教皇が承認したというだけの話で、当然ながら時の室町幕府がそれを知る由もない。
二つの条約の末、得をしたのはポルトガルとスペイン、どちらであったか。条約締結時の事情だけで言えば当時、金のなる木であった香辛料を抑えたポルトガルであった。しかし後にスペインは、中南米や北米の一部に加え、ブラジル以外の南米大陸を好き放題に蹂躙した末に、豊富な銀や金を蔵するポトシ銀山などを発見し、スペインに巨万の富をもたらした。さらにスペインは1580年にそのポルトガルすらも併合。当時、世界地図を二分していた勢力が一かたまりとなり、スペインはまさに「太陽の没することのない帝国」へと突き進んでいく。

血まみれメアリー

チューダー朝の2代目国王となったヘンリー8世=左上=と、
その長女メアリー・チューダー(後のメアリー1世)=左下。
そしてスコットランド王ジェームズ4世に嫁いだ
ヘンリー8世の実姉マーガレット・チューダー=右上=と、
その孫メアリー・スチュアート=右下。
エリザベスはやがて、この腹違いの姉といとこの子供、
『2人のメアリー』と激しく対立していく。
16世紀の初め頃、スペインの人口は800万程度。フランスは1500万ほどであった。一方のイングランドはウェールズを併せてもわずかに300万人前後で、この当時のイングランドとは名実共に弱小国であった。
弱小国の宿命として当時のイングランドはスペインやフランスといった大国に飲み込まれないよう、どちらともつかず離れず、微妙な関係を保っていた。しかし、チューダー朝の初代国王となったヘンリー7世は、北方で対立するスコットランドがフランスに接近して脅威が増していたため、若干スペイン寄りへと舵を切っていく。まずはアラゴン(カスティーリャと合併してスペインを形成した一国家)の王女キャサリンを、長男アーサーの妃として迎えた。この時アーサー15歳、妻は16歳であった。翌年、アーサー病死。スペインとの関係を重視したヘンリー7世は、わずか17歳にして未亡人となったキャサリンと、次男坊を再婚させることにした。この次男坊こそが後のヘンリー8世である。
ヘンリー8世即位と同じ年、地味ながらも英国史にとって重要なもう一つの政略結婚の話が整っていた。ヘンリー8世の実姉であるマーガレット・チューダーが、スコットランド王、ジェームズ4世の元に嫁いだのである。後にこの家(スチュアート家)から誕生する一人の女性がスペインとイングランドの間に、修復不能な深い溝を刻み込んでいくこととなる。

メアリー1世(1516~58)
庶子の座へと転落させられたどころか、
エリザベスの母、アン・ブーリンによって
「エリザベスの世話役」という屈辱的な仕事まで与えられた。
当然、エリザベスとは不仲で、彼女が自身亡き後の後継者を
エリザベスと認めたのは、その死の前日であったと言われる。
まもなくキャサリンはヘンリー8世の子を身ごもった。生まれたのは女の子だった。後のメアリー1世である。
女性の君主が全く認められていない訳ではないものの、チューダー朝に取って代わろうとする内外の勢力に付け入る隙を与えず盤石な体制を固めるため、どうしても男子が欲しいヘンリー8世。あれこれと模索する中、フランス帰りで才色兼備と謳われたアン・ブーリンと出会って恋に落ち、この女性に王子を産ませたいと思うようになる。ところがローマ教皇は離婚を認めていない。ヘンリー8世はもともと熱心なカトリック教徒であったため、そのあたりの事情は重々承知していた。そのため「離婚が駄目なら」とウルトラC級の屁理屈をひねくり出した。それは「そもそもキャサリンは兄の妻であり、その兄嫁との婚姻自体、無効であった」というもので、当然ながらローマ教皇の猛烈な反対にあった。それにもかかわらずヘンリー8世は半ば強引にアン・ブーリンと結婚し、子までもうけてしまった。この子が後のエリザベス1世である。その翌年、自ら英国国教会の長となり、ローマ・カトリックから離脱。その4年後の1538年、ローマ・カトリック教会もヘンリー8世を破門した。
結婚を無効とされたことにより、キャサリンとの間に生まれたメアリーは婚外子、つまり庶子となり、王女、および王位継承権第1位の資格を剥奪され、不遇な日々を送ることとなる。

フェリペ2世(1527~98)
「書類王」とも言われ、ほとんどの時間を
スペイン・マドリッド郊外の
エスコリアル宮殿内の執務室で過ごした。
この絶対的な王は、みなぎる自信のためか、
報告は好きでも、他人の意見を必要としなかった。
エリザベスの周囲には、
脇を固める参謀たちの姿が数多見受けられるが、
どの資料を読んでも、
フェリペ2世の周囲にはもの言う側近の気配が
感じられない。
エリザベスを溺愛しつつも、やっぱり王子が欲しいヘンリー8世。謀反の罪などの名目でアン・ブーリンの首をはね、やがてジェーン・シーモアと再婚、この3番目の妻がやっと男児を生むことになる。これが5歳でヘンリー8世の跡を継いで即位することになるエドワード6世であった。しかし、エドワード6世はわずか15歳でこの世を去る。エドワード6世急逝により、思いがけず王位が転がり込んできた長女のメアリー。即位してメアリー1世となった。
メアリー1世はすぐさま、自分を庶子の身に貶めた英国国教会を棄て、イングランドを再びカトリック教国に戻そうと動き始めた。メアリー1世がヘンリー8世の嫡子としての正当な後継者であることを世間に認めさせるためには、彼女にとっての邪教、英国国教を棄て何がなんでもカトリック教へ回帰しなくては筋が通らないのである。
さらにメアリーは周到であった。母の出身地であるスペインの次期国王、フェリペ王子との縁組を勝手に整え、スペインの後ろ盾を得た上で、敬虔なカトリック教国イングランド再建への道を画策した。
フェリペ王子の父であり、神聖ローマ帝国のカール5世はこれを大いに歓迎した。ローマ・カトリックに反旗を翻した誠にけしからん邪教の国イングランドが、再びカトリック教を頂いた上に、向こうから『女王の配偶者』の席を用意して、おいで、おいでと手招きをしているのである。
自らをカトリック教会の守護者と自負するフェリペ王子自身にとってもメアリー1世との婚姻はハプスブルク家の十八番(おはこ)でもある婚姻による版図拡大のまたとないチャンスであった。それと同時に、道を外れたイングランド国民を正しい道(カトリック教)へと回帰させることで、北部ヨーロッパの宗教紛争も下火になるかもしれぬ。そういう意味では決して悪くない縁組であった。
一方のイングランド。このままでは大国スペインに飲み込まれてしまうのではないかと危惧する声が高まり、一部では反乱が起きるほどであったが、メアリーは構わずフェリペとの結婚を強行した。
その2年後の1556年にはカール5世の退位に伴い、フェリペ王子がフェリペ2世として即位。そしてここに、イングランド女王メアリー1世と、スペイン国王フェリペ2世という極めて政治的なカップルが誕生したのである。
イングランドをカトリック教国へと引き戻したメアリー1世は母親と自分を不遇の目に遭わせた英国国教会を憎み、これを弾圧しただけでなく、女こどもを含む300人ほどの新教徒たちを火刑に処した。そのため、彼女は後に新教徒たちから『ブラッディ・メアリー(血まみれメアリー)』という有難くない称号をもらい、さらにはその称号はトマトジュースとウォッカベースのカクテルに姿を変え、今も我々の喉にチリチリとした刺激を与え続けているのである。
もしもメアリー1世とフェリペ2世の間に子供が生まれていれば、英国は今もカトリック教国であった可能性も否定できない。しかし、歴史は2人の間に子を授けることはなかった。メアリー1世は子ども欲しさのあまり想像妊娠までするほどであった。しかし、結婚からわずか4年後の1558年、メアリー1世永眠。卵巣腫瘍だったと言われている。
そしていよいよ、エリザベスに王位がまわってきた。

燃え広がる宗教紛争

メアリー1世の逝去によりイングランド併呑の望みを絶たれたフェリペ2世ではあったが、世界に領土を広げた巨大国家スペインを統治する立場にあった彼は、多忙な日々を送っていた。
フェリペ2世は父、カール5世から広大な領土を譲り受けていたが、同時に莫大な借金も引き受けていた。植民地経営というのは大層、金が掛かるものである。『太陽の没することのない帝国』も内情は火の車であった。
財政難に頭を痛めるフェリペ2世にとって、さらなる頭痛の種があった。宗教紛争の拡大である。
発端は1517年、ドイツでルターが「九十五か条の論題」を提出したことに始まる。敬虔なカトリック信者であり神学者であったルターが、贖宥状(かつては免罪符と訳されていたもの)の濫発や教会の腐敗に危機感を覚えて書いた意見書であった。ところがそれはルターの思惑を飛び越えて、やがて新教(プロテスタント)という新しい考えにカタチを変え、北部フランス、ジュネーブ、ネーデルランドやイングランド、スコットランドなどに飛び火していった。
元々敬虔なカトリック信者であったヘンリー8世は、当初はルターを否定し、ローマ教皇より『信仰の擁護者』と称えられるほどだったものの、十数年後にはキャサリンと離婚してアンと結婚したいという全く個人的かつ、不純な動機でローマ教会から離脱、破門されて反カトリック側にまわった。

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16世紀 チューダー朝とスチュアート朝の複雑な相関関係
16世紀 チューダー朝とスチュアート朝の複雑な相関関係
カトリック教会の守護者を自認するフェリペ2世としては何としてでもこの邪教どもの拡大を阻止しなければならないのである。
そもそもなぜスペインはかくも頑なにカトリック教を護ろうとしたのか。
その理由の一つは、レコンキスタにある。レコンキスタを完成させるにあたり、ローマ・カトリックに改宗しないムーア人やユダヤ人を徹底的に国外に追放した。つまりレコンキスタとは、スペインの十字軍的気風の中で完成に漕ぎ着けたものであった。
もう一つの理由として、スペインがアラゴンとカスティーリャの両国がくっついて成立した国であるというところにある。政治、経済、文化が異なる二国を結びつける唯一の原理、いわば接着剤の役割を果たしたのがカトリック教であった。そのためスペインは圧倒的にカトリック教国でなければならず、それを乱す者は悪であり、徹底的な弾圧が行われたのである。
そして1568年、スペイン領ネーデルランドにおいて大規模な反乱が発生する。ネーデルランドは低地帯という意味であり、フェリペ2世がカール5世から受け継いだ領土で、この当時は現在のベルギー、ルクセンブルク、オランダのベネルクス三国のあたりを意味していた。
ネーデルランド生まれのカール5世の時代には、比較的緩やかな治世が敷かれ、自由を謳歌していたネーデルランドであったが、フェリペ2世の登場によって一変。民衆には重税が課され、恐怖政治に加え新教徒弾圧が始まる。民衆が反発するとスペインは直ちに本国から1万の軍を派遣し弾圧は激化していく。カトリック系住民の多かった南部ネーデルランドはやがて脱落。新教徒たちは拠点をアントワープからネーデルランド北部(以降、南部ネーデルランドと区別するためオランダと呼ぶ)のアムステルダムへと移し、スペイン軍に激しく抵抗を重ねていった。
それにしてもオランダ反乱軍の抵抗は予想以上に活発だった。世界最強と恐れられたスペインの正規軍と、ほぼ互角に渡り合っているのである。
ある日、現地から届けられた報告書に目を通したフェリペ2世の顔から一瞬にして血の気が引いていった。オランダの反乱軍に援軍を送り、これを陰で支えている者がいるとの報告であった。エリザベスである。
つい先ほどまでイングランドは、メアリー1世とフェリペ2世の婚姻によってスペインと親戚関係にあり、友好国のはずであった。そのイングランドが、かつての義理の妹エリザベスが、スペイン領土内の内乱に対して密かに兵を出し、こともあろうか反乱軍側に加担しているというのだ。これは一体どういうことなのか。
この時エリザベスは、父ヘンリー8世が始めた英国国教会へと戻そうとしていた。しかし国内にはカトリック教徒もまだまだ多い。従って無用な摩擦を避けたいエリザベスは中道路線を敷き、できる限り緩やかな形でそれを遂行しようとしていた。
しかし、海峡を隔てたオランダではスペインによって新教が激しく弾圧されている。仮にこれが制圧されるようなことがあれば、自称十字軍はやがて海を越えてイングランドにまで侵攻して来る恐れがある。エリザベスにとって、これを対岸の火事とする訳にはいかなかったのである。
フェリペ2世とエリザベスの間に生じた摩擦は、ここに来てきな臭い煙を立ち上らせていた。

もう一人のメアリー

メアリー・スチュアート(1542~87)
スコットランド女王の座に満足していれば、首と体が分離する、
などという屈辱的な最期を迎えずに済んだはずであった。
しかし、彼女が訴え続けたイングランドの王位継承権とは、
全くナンセンスなものであったのだろうか。
エリザベス没後、メアリーが残した一粒種のジェームズ6世が、
ジェームズ1世となってイングランド王をも継承した。
このことからも、彼女の訴えが、
決して突飛で無謀なものでなかったことが分かる。
ただ、やり方が拙劣に過ぎ、人望も無さ過ぎた。
メアリー1世が死の床にあった頃、フェリペ2世の瞳は妻であるメアリー1世を飛び越えて、スコットランドにいるもう一人のメアリーに向けられていた。
メアリー1世が死ねば、イングランドの王位継承権は我が手から水がこぼれ落ちていくようにたちどころに消えていく。ところがどうだ、スコットランドのメアリー・スチュアート。ヘンリー8世の実姉マーガレット直系の孫だ。父、ジェームズ5世がイングランドとの戦いで敗死したため、生後6日にしてスコットランド女王の座についていた。チューダー家の血を引く立派なイングランド王位継承者である。
フェリペ2世の理屈では、エリザベスはローマ教皇もお認めにならぬ、いわば不倫相手との間にできた娘、つまり庶子である。庶子に王位継承権はない。しかし、スコットランドの女王、メアリーは血統書つきの王位継承者なのである。おまけにカトリック教徒でもある。フェリペ2世は、メアリー1世亡きあとの次の妃としてスコットランドのメアリーに照準を合わせた。
ところがある日、まさに突然、フェリペ2世の構想は夢想に終わる。メアリーがわずか15歳にして、スコットランド女王の座はそのままに、フランスの王太子の元に嫁いでしまったのである。これでメアリーとの婚姻話は事実上消滅した。
それから少ししてメアリー1世が亡くなりエリザベスが女王となると、フランスに嫁いだメアリーはフェリペ2世と全く同じ理由でエリザベスの即位に異議を唱え、我こそが正当なイングランド王位継承者である、と鼻息も荒く主張を始めることとなる。
つい数ヵ月前までスコットランドのメアリーを狙っていたフェリペ2世は考えた。もしもメアリーの主張が通るようなことがあって、メアリーがイングランド王とスコットランド王を兼ねるような事態となれば、ブリテン島全体が自動的に宿敵フランスの同盟国となってしまう。それはスペインにとって、極めてマズイ展開であった。
そこで再びフェリペ2世は考えた。とりあえずここはエリザベス支持派のふりをして歩み寄ることにしよう、と。政略結婚のスペシャリストはさらに考えた。それではエリザベスが私の妻となるのはどうだ。この6つほど年下の独身女王が英国国教なる邪教を棄てて改心し、カトリックに改宗するのであれば夫婦となってやるのも悪くはない。そして今度こそ子を作り、やがてスペインに取り込んでいけばいいのだ。
エリザベスはフェリペ2世のこの申し出に対しイエスともノーとも言わず、のらりくらりの腹芸に徹し、これを巧みに時間稼ぎに利用した。
フランスに嫁いでから数年の後、メアリーが突然スコットランドに帰ってきた。夫であり、フランス国王となっていたフランソワ2世がわずか16歳で病死したのである。この時代、人がやたらと死ぬ。こんなに次々と人が死に、急展開を続けるストーリーは、むしろわざとらし過ぎて三文小説家でも避けて通りがちだが、この時代、冗談のように登場人物が次から次へと死ぬ。シェイクスピアもこのあたりに生まれる人だが、話のネタには困らない時代だったのかもしれない。
ここから先は短期間のうちに登場人物が死に過ぎて、小説なら編集者にボツにされそうな展開なのだが、間違いなく英国史の一遍である。駆け足で行くので、しばし我慢してお付き合いいただきたい。

ダーンリー卿(1545~67)
祖父は違えど、祖母は同じマーガレット・チューダー。
従ってメアリー・スチュアートとダーンリー卿は
従姉弟(いとこ)同士の関係であった。
周囲の反対を押し切って夫婦になった2人だったが、
蜜月は長く続かず、
やがてダーンリー卿(ヘンリー・スチュアート)は
他殺体で発見されることとなる。
20歳そこそこで未亡人となったメアリーは、早速お気に入りの貴族、ダーンリー卿と再婚を済ませる。このダーンリー卿という人物もメアリー同様、ヘンリー8世の実姉マーガレットの孫にあたる人物(ジェームズ4世の死去により再婚した先の家系。祖母は同じだが祖父が異なる)で、つまりダーンリー卿自身もまた、イングランド王位継承者の一人であった。この、チューダー家直系の血を引く2人の婚姻は、王位継承権の点からエリザベスにとって大変な脅威となった。
ところがエリザベスにとって幸いなことに、傲慢で嫉妬深いダーンリー卿の性格が災いし、2人はすぐに不仲となった。そしてメアリーはイケメンのイタリア人秘書と昵懇の仲となる。嫉妬したダーンリー卿は配下の者に命じ、このイタリア人をメアリーの目前で殺害させた。これによって2人の不和は決定的となる。ところがこの時、メアリーはそのお腹にダーンリー卿の子を宿していた。これがエリザベスの死後、ジェームズ1世となる人物である。
ジェームズ出産後、母親となって少しは大人しくなるのかと思えば、今度はボスウェル伯と親密になる。ある日、夫であるダーンリー卿が何者かの手によって爆殺される。その直後、ボスウェル伯はメアリーにプロポーズし、半ば強引に妻とした。
ダーンリー卿を殺害したのは誰か。

メアリー・スチュアートの愛人、イタリア人秘書のダヴィッド・リッチオは、
スコットランドのホリルード宮殿にて、メアリーの目の前で殺害された。男の嫉妬も怖い…。
誰もが1組のカップルの顔を思い浮かべるが、決定的な証拠がない。しかも女の方は曲がりなりにもスコットランド女王である。審議は困難を極めた。ただその『奔放』などという生易しい言葉ではもはや済まされない滅茶苦茶さに、メアリーは遂に旧教(カトリック)側の支持者すらも失っていた。そしてメアリーは捕らえられ、王位を剥奪された上で幽閉された。危険を察したボスウェル伯も国外へと逃げ落ちた。
ある日、幽閉先を脱出したメアリーはイングランドとの国境を越え、親戚にあたるとは言えつい数年前には側室の子で庶子だから王位継承は認めない! と牙をむいた、まさにその相手のエリザベスに庇護を求めるのである。
オランダ派兵などでただでさえ多忙なエリザベス。亡命者メアリーの扱いには手を焼いたが、とりあえずメアリーを緩やかな軟禁状態とし、それ以降、約20年にも渡って、この聡明なれど感情の抑制力に欠ける危険な女をイングランドで抱えていくことになる。そして事実、このメアリーこそが後に国を揺るがす大問題を起こし、エリザベスを窮地に追いやっていく。

海賊たちとの経済戦争

フェリペ2世にとって、英国国教とカトリック教の間を行ったり来たりするイングランドは、実に危険な存在であった。下手に介入してイングランド国民の反発を買えば、むしろイングランドの新教化は加速するであろう。かといって寛容過ぎてもまた新教化を許してしまう。どうしたものかと思案を巡らせるフェリペ2世であった。そのフェリペ2世をさらに悩ませる知らせが、遠くカリブ海の方から続々と届いてくる。
16世紀の初め頃から南米への進出を始めたスペインは、現地人たちを殺戮、あるいは奴隷として酷使していた。一方でカトリック教に改宗した現地人は奴隷として使ってはならぬとの通達が本国から届いていたため、労働力が不足しがちであった。その労働力の穴を補う名目でアフリカから大量に黒人が売られていく。
スペインの植民地に黒人奴隷を連れて行けば連れて行っただけ高く売れる。さらにカリブ海には金銀財宝を満載して本国に向かうスペイン船が往来している。
獲物を倒した獅子の上空には、ハゲタカが舞うものだ。南米という打ち出の小槌を手にしたスペインに、群がって利益を上げようとする連中が現れるのもある意味必然であった。
アフリカからの奴隷を南米各地のスペイン商人たちに売りつけた後、奴隷を降ろして軽くなった船でスペイン戦を襲い、金銀財宝類を根こそぎ奪い去る輩どもが出現した。ジョン・ホーキンズやフランシス・ドレークなどに代表されるイングランドの海賊たちであった。
彼らの名誉のために正確に表現すれば、彼らは私掠船(Privateer)の船長たちだ。私掠船とは国からの許可を受けた上で海賊行為、または私的な戦争を行う者たちの総称で、戦利品の一部を国家に献上する仕組みである。相手国側から抗議があった場合、国はその者どもを見捨てればよい。つまり国にしてみれば許可を出すだけで、彼らが海賊行為に成功して無事に戻ってくれば利益を得られ、失敗して全員が海の底に沈んでも痛くも痒くもない。相手国が訴えてきたら、「我、関知せず」とシラを切ればよいのである。国家にとって実に都合がよいシステムであった。また、私掠船も私的軍隊という体裁をとっていたので捕虜となった場合は海賊ではなく、軍人としての処遇を要求することが認められていた。
このような組織が当時は正式に認められており、イングランドのみならず、オランダやフランスも公然とこれをやっていた。先に述べたトルデシリャスとサラゴサ条約によって、世界地図から締め出しを食わされた海洋新興国が編み出した苦肉の策であった。

フランシス・ドレーク(1543?~96)
まだ若い頃、ホーキンズの遠征船に同行させて
もらって行った中南米の港で、
友好国であったはずのスペインからだまし討ちにあい、
大勢の味方を殺された上、
命からがらイングランドに逃げ帰った。
この日から死の間際まで、
スペイン人に対する憎悪が消えることはなかったという。
スペイン人から『エル・ドラケ(悪魔)』と恐れられるほどの存在となっていたドレーク。駐英スペイン大使からさんざん抗議を受けていたエリザベスであったが「あら、それはいけませんね、きつく叱っておきましょう」と、例によってのらりくらり作戦でかわす日々が続いていた。
1581年。ドレークは南米南端のホーン岬(ドレーク海峡)を回り、スペイン領の沿岸地帯を次々と襲って莫大な財宝を得ただけに留まらず、そのまま太平洋を横断し、先述のモルッカ諸島にも立ち寄って香辛料を満載した後、インド洋、喜望峰沖をひた走り、マゼラン隊に次ぐ世界周航を成し遂げ無事にプリマスに帰港した。
ドレークが持ち帰った戦利品は60万ポンド相当と言われ、ドレークはその半分をエリザベスに献上し、残りを自分を含め生き残った船員たちに等しく配分した。
駐英スペイン大使は、本来友好国であるイングランドの海賊が我が国の植民地や輸送船を襲撃した上、国家財産を奪うとは何事か、ただちにドレークらを捕らえてその首を差し出せと大変な剣幕で迫った。
後日、エリザベスはドレークを召喚した。
旗艦ゴールデン・ハインド号の甲板上で女王を迎えたドレーク。エリザベスは剣を抜き、ひざまずくドレークに向かい少々ドスのきいた声で囁いた。「スペイン王がそなたの首を早く寄越せと言っているのですよ」と。そして今度はその剣をドレークの肩にそっと置き、威厳を持った声で言い放った。

エリザベス1世(1533~1603)
現女王のエリザベス2世と並び称されることが多い
エリザベス1世だが、
当時はまだスコットランドやアイルランドが統合されておらず、
いわゆるグレート・ブリテン誕生前夜。
人口も、イングランドとウェールズを合わせても
300万人前後という小さな国家の元首に過ぎなかった。
「さあ、立ちなさい。サー・フランシス・ドレーク」
それはナイト叙勲の儀式であった。
ドレークが女王にもたらした30万ポンドとは、フェリペ2世を激怒させてでもナイトの称号を与えて良いほどに莫大なものであった。それはイングランドの国庫歳入の半分に相当した。もっと分りやすい例で言えば、数年後に勃発する無敵艦隊との海戦にかかった戦費の合計が33万ポンドだったということからも、それがいかに巨額であったかが推測される。嫌味な見方をすれば、イングランドはスペインから分捕って来た金でスペインと戦ったことになる。
エリザベスはこの時期、弱小国でありながら世界最大の大国相手に、宗教問題ではフェリペ2世を刺激せぬようにゆるやかに英国国教会への回帰を進めつつ、裏ではオランダ反乱軍に援軍を送り王位継承問題に於いても回答を引き延ばしつつ、ドレークらを利用してスペインの植民地や船舶を襲撃してはその金銀財宝を掠め取り、国庫を潤しては知らん顔を決め込むという危険な外交を行っていた訳である。フェリペ2世と笑顔でワルツを舞いながら、その背後にはしっかりとナイフを握り締めているかのような凄みすら感じさせる。

切られた最後のカード

わざわざゴールデン・ハインドまでやってきて、
ドレークにナイトの叙勲をするエリザベス。
サーとなったドレークは、この後、無敵艦隊がやって来るまでの間、
プリマス市の市長を務め、市政やインフラ整備などに精を出す。
スペイン国内では1585年あたりから一部強硬派が大鉄槌を下すべく、イングランド上陸作戦の構想を具体的に練り始めていた。
財政難もあって、フェリペ2世はまだ乗り気ではなかったと言われるが1587年、ついにフェリペ2世も、その重い腰を上げなくてはならない最後のカードが切られてしまう。
イングランドに亡命し、エリザベスの庇護の元、軟禁状態に置かれていたあのメアリーが、再びイングランドの王位を主張し始めたのである。しかも、その王位奪取の計画はエリザベス暗殺計画とセットになっていた。
エリザベスの暗殺計画はメアリーだけに限らず、イングランド国内の旧教の過激派にもあればスコットランドの旧教派にも、そして何よりスペインによるものもあったとされる。そのため女王の周囲にはインテリジェンス、つまり諜報活動のネットワークが蜘蛛の巣状にビッシリと張り巡らされていた。
ある日、女王暗殺を目論む組織とメアリーとの間で交わされた書簡がこの蜘蛛の巣にかかった。これらの書簡は全てスパイによって開封され、目を通された上で先方に届けられていた。そしてある日、女王暗殺計画の決定的な証拠を握られた組織は一網打尽に捕らえられ、全員が処刑された。
カトリック教徒であり、元スコットランド女王であり、現スコットランド王ジェームズ6世の母であり、ヘンリー8世の姉マーガレットの孫であり、その点から確かに王位継承者の一人であるメアリーの処遇を、誰もが息を呑んで見守ることとなった。
カトリック教の、正統かつ有力な王位継承者であるメアリーを処刑すれば、今度こそフェリペ2世も黙ってはいまい。しかしエリザベスにも、メアリーの処刑を急がねばならない理由があった。スコットランドの旧教派がメアリー奪還の動きに出ることも考えられたし、スペイン軍がメアリー救出を理由に侵攻してくる可能性もあった。
裁判でメアリーは最後まで無罪を主張した。しかし、彼女を有罪と断定するだけの有力な証拠は揃いすぎていた。
メアリーの極刑が決まった。
議会はメアリーの即時処刑を望んだが、強気だったエリザベスもここにきて迷いに迷った。しかしメアリーが脱獄したとか、スペイン軍が上陸したとか、不穏な噂が出始め国内には不安と不信感が黒い霧のように広まりつつあった。エリザベスは遂に観念し、処刑許可状に署名した。
こうして、生涯にわたってエリザベスの頭痛の種であり続けたメアリーは断頭台の露と消えた。
確かにメアリーには、イングランドの王位を求めるだけの資格があった。ダーンリー卿との間に生まれた子がエリザベスの後継者となり、エリザベスの死後、イングランド王位を継承してジェームズ1世となることがそれを自ずと証明している。しかし、メアリーの行動は過激に過ぎ、遂に支持者を失った。スコットランド女王の座だけで満足していればあるいは幸せな人生を送ることができたのかもしれない。それでもメアリーは最後までイングランド王位の座にこだわり続け、散っていった。
そしていよいよ、無敵艦隊がやってくる。

後編に続く…

【激突 スペイン VS イングランド】無敵艦隊、壊滅への道(後編) [Battle of Armada]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2017年7月06日 No.991

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激突 スペインVSイングランド 無敵艦隊、壊滅への道(後編)

激突 スペインVSイングランド

無敵艦隊、壊滅への道(後編)

イングランドをカトリック教国へと回帰させたメアリー1世が逝去。
これを継いで女王となったエリザベスは、再びイングランドを父ヘンリー8世が創設した英国国教会の国へと戻そうと画策する。
同時にエリザベスはスペイン領オランダで激化する宗教戦争で密かに新教徒側に援軍を送り、さらに西インド諸島ではドレークらを海洋に放ちスペイン船を襲わせては金銀財宝を奪わせて国庫を潤わせていた。
そしてある日、エリザベス暗殺を企てたスコットランドの元女王メアリーをエリザベスは処刑。
カトリック教徒であるメアリーのイングランド王位継承を支持していたスペインのフェリペ2世はこれに激怒。
イングランドに大鉄槌を下すため、ついに大艦隊出動の命を下した。

●サバイバー●取材・執筆/手島 功

1588年7月19日。イングランド本土最南端、コーンウォールのリザード岬沖に130隻で編成された堂々たる無敵艦隊(アルマダ)が姿を現した。
メアリー・スチュアート処刑後も、エリザベス、フェリペ2世ともに直接対決には消極的であった。そのため、何とかオランダ(当時は北部ネーデルランド)に於ける和平の道を模索したりもしたが、それもままならぬうちに時だけは容赦なく流れ、遂に艦隊は決戦の場へと辿り着いてしまったのである。
この前年、「攻撃は最大の防御である。迎え撃つよりスペイン本土に攻め込むべし」と激しく迫るフランシス・ドレークに根負けし、エリザベスは『暗黙の了解』という形で敵地攻撃の許可を与えた。ドレークらはスペイン南西部のカディスという港町を襲撃し、イングランド侵攻に向けて集結していたスペイン艦船に大打撃を与え、悠々と帰国した。この攻撃で無敵艦隊の出撃は一年遅れたと言われる。
ドレーク襲撃の知らせに驚き憤慨したフェリペ2世であったが、その後はまるで離婚届を処理する役人のように淡々と襲撃模様の仔細に耳を傾け、無敵艦隊改革の号令を発した。少なくともフェリペ2世はドレークの襲撃から2つのことを学んでいた。

レパントの海戦(1571年)
地中海の覇権を争って、教皇・スペイン・ヴェネチアの連合軍と
オスマン帝国海軍がギリシャのコリント湾口で激突。
オスマン帝国は戦艦300隻の9割を失い、
3万人近い死者を出して大敗した。
この時の主力艦は両軍ともに大勢でオールを漕ぐガレー船であった。
まず着目したのはドレークらが操っていたガレオン船という新タイプの帆船の快速性だ。この時まで無敵艦隊の主力となっていたのは「ガレー船」という、大勢の奴隷や囚人がオールをヨイセ、ヨイセと漕いで進む太古の時代と同じスタイルのものであった。ガレー船を敵船に激突させて接舷しては兵士が敵船に乗り込み、チャンバラの末に雌雄を決するやり方である。わずか17年前の1571年、オスマン帝国海軍を粉砕して地中海の覇権を奪い返したレパントの海戦でもスペイン軍とオスマン帝国両軍はこの手漕ぎの船とチャンバラで戦った。
ところがドレークらが操るガレオン船は人力の推進力を持たず、巨大な帆布にいっぱいの風を受け、迎撃に漕ぎ出したガレー船の間を高速でスルスルとすり抜けていった。まるで旧式艦隊をあざ笑うかのように。フェリペ2世は、ガレー船が既に時代遅れになっていることを悟った。スペインが縄張りとしてきた地中海は外洋と比較して遥かに穏やかである。ところがイングランド周辺の北方の海は天候も不順で荒れやすく、さらに潮流も激しいことで知られており、ガレー船ではまともに戦えまい。フェリペ2世はガレオン船導入を急がせた。
そしてもう一点。大砲だ。それまでのスペイン海軍の戦い方とは先述の如く白兵戦が主であり、大砲はせいぜい相手の動きを止める程度の役割としか考えられていなかった。ところがドレークの艦隊は船体両舷にズラリと大砲を並べ、それをドッカンドッカンとぶっ放しては停泊中の艦船を粉砕して去っていったのである。
フェリペ2世は領内にあるガレオン船のみならず大型商船をも掻き集め、これに大砲を多数搭載させ、比較的短期間のうちにガレオン船主体の新艦隊整備に成功した。
王位継承問題、オランダの宗教戦争、経済摩擦など、要因は複数あったものの今回のイングランド侵攻、表面上の理由は宗教紛争である。イングランドの正当な王位継承者であるカトリックのメアリー・スチュアートを処刑したエリザベス。邪悪な手段を弄してイングランド王位を簒奪した忌まわしい女、エリザベス。この女を、そして英国国教とかいう邪教を信仰する連中をこらしめ、この世で唯一正しいローマ・カトリックに帰依させる、それがこの遠征の大テーマなのである。
ローマ教皇から正式に『十字軍』として承認された無敵艦隊。兵士や船員たちは万が一、邪教徒の汚れた砲弾を食らった場合に備え、告白と永遠の祝福の儀式を受けていた。艦隊には聖職者、修道士、異端審問官なども多数乗船していた。彼らは乗組員たちの心のケアをするだけでなく、イングランドが降伏した時、哀れな邪教徒たちを改宗させる任務も負っていたのである。

呪われた艦隊

第7代メディナ・シドニア公
(1550~1615)

シドニア公(アロンソ・ペレス・デ・グスマン)の
最高司令長官への抜擢には誰もが驚き、
首をかしげた。
その中で最も驚き、
困惑したのがシドニア公本人であった。
シドニア公はこの職から逃れるため、
考えられる限りの手を尽くしたが、
遂に逃がれることはできなかった。
無敵艦隊を率いる最高司令長官は、艦隊派遣の立案者とされ、「スペイン海軍の父」とも謳われた実戦経験豊富なサンタ・クルス公であった。ところが出発の直前、過労とストレスが原因で急死した。神の祝福を受けながら後に『呪われた艦隊』と揶揄されるに至るのには、こういった不運な事情もある。
フェリペ2世が指名した新しい最高司令長官はメディナ・シドニア公爵という人物であった。ところがシドニア公には海戦どころか、陸戦の経験もほとんどない。そのため「なぜ私なのでしょうか、私には実戦の経験もない上に船酔いが激しく、とても任務が遂行できるとは思えません。どうか別の方にこの名誉をお授けください」とフェリペ2世に宛てて嘆願書を出し、何とかこの恐ろしい大役から逃れようと試みた。フェリペ2世はこれを黙殺した。
シドニア公が選ばれた理由はたった一つ。彼が大貴族であり社会的地位が圧倒的に高かったからである。スペイン軍には貴族出身の者が多かった。金も土地も持たない名ばかり貴族も多かったが貴族は貴族、士官のほとんどが貴族であった。世はまだ封建の時代である。貴族たちの上に立つ者は絶対的に地位の高い貴族でなければならなかった。
一頭のオオカミに率いられた100頭のヒツジの群れは、一頭のヒツジに率いられた百頭のオオカミの群れに勝る―後にそう言って自画自賛するのはナポレオンだ。
戦争などしたこともなく船酔いまでするお人よしのヒツジが、世界最強と恐れられたオオカミたちを率いていく。オオカミたちもたまったものではなかった。
実はフェリペ2世にとって最高司令長官などある意味誰でも良かった。というのも戦争の作戦司令室は常にフェリペ2世の頭の中に存在するのであり、無敵艦隊は彼が立案した戦争のシナリオを忠実に実行するだけで良かったのである。

フェリペ2世の描いたシナリオ

フェリペ2世の頭の中にあった作戦とはこうだ。
わが艦隊は英海峡に入ってのち常に風上の位置を維持し偏西風を受けて東進。敵は距離をおいて大砲を打ち込んで来るであろうが極力雑魚には関わらず、パルマ公が待つダンケルクへ直進。そこでパルマ公率いる3万の精鋭部隊と合流し、イングランド東岸のマーゲート付近に上陸。一気にロンドンまで攻めあげこれを陥落する。
見事な『絵に描いた餅』であった。
このシナリオ通りに事が運べば、なるほど無敵艦隊が運んでいる兵士約1万8000に、パルマ公の精鋭部隊3万(実際は戦死や病死のため1万8000程度に減っていた)が加わり、5万に近い大軍勢がイングランドに上陸することになる。ろくに王室正規軍も持たず慌てて市民を徴兵して作り上げた即席イングランド軍など、まさに赤子の手をひねるがごとし、の作戦であった。
しかし、フェリペ2世の台本には大きな欠陥が少なくとも3つあった。1つはイングランドの艦隊が決して雑魚程度ではなかったこと。2つ目はオランダの反乱軍と交戦中のパルマ公部隊が、上陸作戦に参加できないという不測の事態が発生することへの想像力の欠如。そして3点目に、このプランAに狂いが生じた場合の代替案、すなわちプランBが全く用意されていなかったことだった。

チャールズ・ハワード・エッフィンガム卿
(1536~1624)

エリザベス1世のいとこ。
ハワード卿は海軍最高職の座にありながら、
身分の低い船員にすらへりくだった態度をとり、
戦後政府から船員たちに
十分な給料が出ないことを知るとそれを嘆き、
自分の財産を切り崩してまで給料を支払ったと言われる。
一方、迎え撃つ側のイングランド。
当初の作戦は、コーンウォール沖から英海峡に侵入してくる敵艦隊を海峡の中間地点あたりで迎撃。これと騎馬戦のように対峙し、敵よりも長い射程距離を持つイングランド軍の大砲で攻撃しこれを逐次粉砕していく、ということでほぼ一致していた。
これにたった一人、猛然と異論を唱えた者がいた。艦隊副長官に任命されていたドレークである。彼は、それでは偏西風を後ろから受ける敵艦隊が常に風上に立ち、我が軍は猛スピードで東進してくる敵に対し、正面から風を受けながらこれを阻止し続けなければならない。やがて押されてジリジリと後退を余儀なくされるは必至。そうこうしているうちにポーツマスやワイト島あたりに好き放題に上陸されてしまうだろうという、実に現実的なものであった。
ドレークの考えはむしろ逆であった。
ジョン・ホーキンズの指揮のもとに改良が施された我が軍の艦船の方が、敵艦よりも高速である。従ってわが軍は英海峡に入ってきた敵艦隊の背後にまわり込み、常に風上のポジションを確保、東進する敵艦隊に後方からカウンター攻撃を仕掛けるのがよかろうというものであった。そのため艦隊の一部をプリマス港に派遣するよう直訴する。
イングランド軍最高司令長官はチャールズ・ハワード・エッフィンガム卿。高貴な身分で統率力にも優れ、それでいて偉ぶったところがなく、一兵卒の健康にまで気を使う人格者として知られていた。合理的なハワード卿はドレークに絶対的な信頼を寄せていた。その申し出を了解するのみならず艦隊の約半分をドーバー海峡守備隊として残し自らもプリマスに入港、ドレークとともに敵艦隊を待つことにしたのである。

敵艦、見ゆ

ウィリアム・アダムズ
(1565~1620)

幕府から所領を与えられ、名字帯刀を
許されて旗本となった初めての西洋人。
三浦按針(名字は所領を与えられた三浦半島から。
按針は航海士の意)を名乗ったアダムズだが、
家康の死後は冷遇された。
晩年はオランダやイングランドの商館があった
長崎県平戸に居を移し、
帰国することなく平戸で人生の幕を閉じた。
アダムズの墓はその後キリスト教弾圧時に
破壊されたが1954年、
平戸市内の高台にある公園内に建て直された。
リザード岬沖に現れた無敵艦隊は兵士約1万9000、船員、漕ぎ手、その他非戦闘員の総数約1万1000、総勢約3万人を130隻の艦船に満載し、英海峡を東に進んでいた。急ごしらえで改造された無敵艦隊は主にキャノン砲と呼ばれ、ボーリングの球サイズの大玉を発射する大砲を積載していた。破壊力はあるものの有効射程距離は二百五十メートル程度であった。
迎え撃つイングランド軍は大小、さまざまな寄せ集めの武装船163隻。兵士約1500、船員約1万4400の総勢約1万6000と、無敵艦隊の約半分の人員であった。
イングランド側はカルバリン砲という中玉砲を多く搭載していた。砲弾はメロン程度の大きさで、破壊力ではキャノン砲に劣るが、有効射程距離は350メートル程度と有利であった。
イングランド側はこの戦いを砲戦と位置づけていたが、中世騎士の気風が残るこの当時のスペイン兵たちは白兵戦こそが武人の誉れであり、大砲などという飛び道具は邪道であるとこれを軽んじていた。ただし大砲を重視していたフェリペ2世の命により、搭載してきた砲弾の数は12万発強と少なくはなかった。それに引き換えイングランド側が用意したのはその約半分、それも補充はいつも小出しであった。理由は簡単だ。エリザベスが戦費を惜しんだためである。砲弾だけでなくイングランドの庭先での戦争にも関わらず、食料も慢性的に不足していた。エリザベスは、即位以来『倹約家』として知られたが、国家存亡を賭けた戦いの中において砲弾や兵士の食料すらも惜しむのは倹約家の域を超えた『超ド級のケチ』であり、この性癖は後にも遂に変わることはなかった。
この限られた砲弾と食料を沿岸からせっせと艦隊に運ぶ輸送船団の中に24歳という一人の若い船長がいた。彼はこの戦争が終わってちょうど10年の後、一獲千金を目指してオランダ船に乗り込み、関ヶ原合戦の半年前という緊迫した日本の、現大分県臼杵の海岸に漂着する。カトリック教宣教師たちとは全く異なる世界観を持つこの男に興味を持った徳川家康はこの男を寵愛し、外交顧問に抜擢。帰郷を望む男に対し家康は三浦半島に所領まで与え旗本の一人として厚遇した。男の名をウィリアム・アダムズという。日本名、三浦按針。1620年、故国に思いを馳せながら平戸にて56年の生涯を閉じることになるのだが、もちろん自分がそのような数奇な人生を歩むことになるなど、この時は露ほども知らない。

無敵艦隊は、輸送船を取り囲むように
半月型のフォーメーションを組んで侵略。
イングランド側にしてみると
攻略しづらい陣形だったが、
一旦戦闘が始まると、
艦と艦の間が狭いため、
スペイン側は味方同士の衝突が頻発した。
無敵艦隊は半月型の陣形を取り英海峡へと侵入してきた。シドニア公の旗艦サン・マルティン号を中心に主力艦隊を前列に置き、その後ろに輸送船団、それを護るようにさらに後列に四つの艦隊を配置していた。
そして無敵艦隊がリザード岬沖にその姿を現した日の2日後、ついに本格的な戦闘が始まった。
まずはプリマス沖で、そしてその翌日にはポートランド沖でドレークらは後方からカウンター攻撃を仕掛け、双方距離を置いての激しい砲撃戦が展開された。しかしどちらも砲弾は容易に当たらない。被害はいずれも最小限で、無敵艦隊はほぼ陣形を変えずに東進を続けていた。
ドーセットを超えたあたりで、左前方にワイト島が見えてくる。シドニア公はオランダのパルマ公に「軍勢の準備、よろしきや?」との伝令を送り続けていたが、「港を反乱軍に包囲されており、困難」との回答が届くだけであった。
ここに来てフェリペ2世の描いたシナリオは、彼が描かなかった部分のシナリオによって乱され始めた。スペイン軍の上陸作戦の詳細はおおむねイングランド側に分析されていた。フェリペ2世は当然パルマ公部隊が乗船時に敵から妨害を受ける、と想定して手を打っておくべきであった。フェリペ2世はこれを怠った。
無敵艦隊とはパルマ公部隊の護送船団であって彼らの準備が整っていないとなると艦隊は無防備な洋上で敵の攻撃にさらされながら、部隊の準備が整うのをひたすら待ち続けねばならない。そのためシドニア公は、ワイト島上陸を模索し始めた。というのもワイト島を過ぎてしまうとそこから東の海岸は浅瀬が続き、大艦隊を収容できるだけの水深を持つ港がなくなってしまうのである。
無敵艦隊はワイト島に向けて舵を切った。しかしそれはイングランド軍にとっては想定内の行動であり、ドレークらは身体を張って無敵艦隊の前面に展開し、激しい砲撃戦の末、これを阻止した。
こうしてワイト島に上陸してパルマ公部隊の準備を待つというオプションは消えた。
結局、無敵艦隊は7月28日、フランス領カレーの沖合いに投錨。イングランド軍から丸見えの危険な海域でパルマ公からの朗報を待つこととなった。
翌日、カレー沖に追い込んだ敵を粉砕すべく、砲弾を満載した無傷のドーバー海峡守備隊がドレークらに合流してきた。
シドニア公らは当時定番となっていた火船攻撃を警戒し、艦隊の外側を囲むように小型船やボートを配置していた。そして夜陰、予想通りドレークらの放った火船が艦隊目がけてまっしぐらに突進してきた。

イングランド軍による火船攻撃。
スペイン軍はパニック状態となり、
錨を繋いだロープをぶった切って逃走した。
のちに1ヵ月も続く『呪われた航海』では、
錨を失ったことで航海がより困難なものとなる。
予想し、警戒していたにも関わらず無敵艦隊は未曾有の大パニックに陥った。というのも彼らが想定していたのは小型ボートにタールや木材、火薬などを積み込んで送り込んでくる程度の常識的な火船攻撃であった。ところがドレークらがここで犠牲としたのは、90から200トンまでの中型船であり、その後の戦力低下を考えると常識外れの作戦であった。これに可燃物を満載させた上、大砲に火薬と砲弾を詰めた8隻を、ダンゴになって停泊する無敵艦隊に向けて一気に送り込んだのである。この夜、月が満ちている。文学的な意味合いとは別に満月はイングランドの火船攻撃に大いなる幸運をもたらした。大潮である。大潮に加速された火船は紅蓮の炎を上げて夜空を焦がし轟々と不気味な音をたてて艦隊に突進、大砲も巨大な音を立てて咆哮し続けた。次から次へと迫って来る巨大な火の塊に度肝を抜かれたスペイン兵らは「抜錨せよ」の命令を無視して錨と、各艦を繋いでいたロープをぶった切って逃走した。そのため各艦同士が激しく衝突し、艦隊に甚大な損傷を与えることとなる。
夜が明けて、目の前に広がる光景にドレークらは思わず息を呑んだ。前日まで堂々たる威容を誇っていた敵艦隊が惨憺たる姿となってバラバラに浮かんで、あるいは座礁しているのである。ドレークらの期待を遥かに超えた成果が、闇の中で勝手に挙がっていた。
ついに無敵艦隊が誇る三日月形の陣形は崩れ去った。
この日、西からの風が一層強い。
イングランド軍は徹底的に風上側を維持し、大規模な砲撃を加えながらスペイン艦船を東に押しやる作業に没頭した。もちろんスペイン側もこのままではフランドル地方の浅瀬で座礁する危険性に気づいている。そのため、逆風の中必死に抵抗し、反撃を試みていた。これが無敵艦隊とイングランド軍の、事実上最後で最大の局地戦となるグラヴリーヌの戦いである。

グラヴリーヌの戦い。
これまで、単縦陣の艦隊運動を守ってきたイングランド軍であったが、
最後は両軍入り乱れての大混戦となった。
海戦の素人であり続けたシドニア公ではあるが、それでも彼は誇り高きスペイン帝国の大貴族である。彼は砲弾飛び交う戦場を果敢に駆け回り、集中攻撃を受ける僚艦を助けたり、沈没に瀕した艦船から兵士たちを救出するなど、漁船団の大親分のような忙しい時間を過ごしていた。
やがて激しい砲撃戦の中で、ドレークたちはあることに気がついた。無敵艦隊からの砲撃が散発的となってきたのである。ドレークは結論を導き出し、確信した。
「敵の砲弾は尽きつつある…」
ドレークは躊躇せず敵艦の懐奥深くへと突っ込んでいく。それを見た他の艦もドレークに続いた。もはや敵兵の表情まで読み取れるほどの接近戦となり、火縄銃による銃撃戦も始まった。大砲はぶっ放せば面白いように命中する。弾切れとなったスペイン側にとってこれはもはや集団リンチであった。
西風にフランドルの海岸線まで押され、座礁するスペイン艦も多かった。そこもまた地獄であった。駆けつけたオランダ兵は降伏したスペイン人を捕らえ、その場で喉を掻き切り死体を海岸線に打ち棄てた。戦場は、もはや殺戮の場と化していた。
「もう何もかもおしまいだ」
シドニア公はつぶやいた。最高司令長官が部下に聞こえるように吐いてよい台詞ではなかった。しかし目の前で繰り広げられている現実は、艦隊の壊滅と自らの死を覚悟するのに十分な状況に過ぎる。
ところがここで海の神がこの『呪われた』艦隊に、たった一度だけ微笑んだ。突然、風向きが変わったのである。
この風を利用して無敵艦隊が取りうる道は2つあった。
一つはこのまま東からの風に乗って敵を押し返し、パルマ公部隊の到着を期待する。もう一つは、このまま戦場を離脱し、スペインに帰るというものであった。シドニア公は決断した。
「故郷に、帰ろう…」
英海峡における、スペイン無敵艦隊の進路

英海峡における、スペイン無敵艦隊の進路

無敵艦隊壊滅

スペイン無敵艦隊の航路

スペイン無敵艦隊の航路

およそ8時間に渡る激闘の末、北へ敗走し始めた無敵艦隊をイングランド軍も追撃した。しかし、エジンバラ沖を過ぎたあたりで、もはや敵艦隊に戦闘の意志なしと判断し追撃は終了した。ドレークたちの艦も砲弾はほぼ空となり食料も底が見えていたのである。
送りオオカミ達の追撃から辛くも逃れた無敵艦隊であったが彼らが進むその先には、ドレークたちよりも恐ろしい悪魔が艦隊を丸ごと飲み込もうとその巨大な口を開けて待ち構えていた。わずかに残っていた水も食料もほとんどが腐敗し、船内には食中毒やチフス、赤痢、壊血病が蔓延、それに飢餓が加わり船員たちはバタバタと倒れた。
さらに艦隊は嵐に翻弄され、スコットランド沿岸やアイルランド西海岸の岩礁などに激突して沈没する船が続出した。多くの陸兵が溺死。辛うじて海岸に辿り着いた者も警戒中のイングランド兵に捕らえられ、ほとんどがその場で縛り首となった。世界最強と恐れられた陸兵たちの多くは敵と一度も剣を交えることなく病死や溺死、あわよくば縛り首、といった悲惨な最期を遂げざるを得なかった。
数字に関しては諸説あるが、グラヴリーヌの戦いにおけるスペイン側の戦死者は約600、重傷者は800前後、沈没した艦船はわずかに2隻でその他、座礁あるいは行方不明となったものが十数隻と壊滅と呼ぶにはほど遠い状況であった。無敵艦隊が真の意味で壊滅するのはこの戦いの後、およそ1ヵ月に及ぶ『呪われた航海』によるものである。残りの艦船の多くはスコットランドかアイルランド沿岸で沈没、座礁あるいは行方不明となり、この航海だけをとっても8000人前後が命を落としたと言われる。
最終的にスペインまで逃げ帰ることができたのは、出発時の約半分に相当する67隻とする資料が多い。やっとの思いで祖国に逃げ帰った後も力尽きて命を落とす者が続出。この年の終わりまで生き伸びた者は1万人程度と、出発時の3分の1にまで減っていた。生還者の中には精も根も尽き果ててボロ雑巾のようになったシドニア公もいた。彼は同国人の軽蔑を一身に浴びながら故郷セビリヤへと帰っていった。たった一人、シドニア公を咎めるどころか、公の健康をその後も気遣い続けた人物がいた。フェリペ2世である。彼はこの敗北を驚くほど冷静に受け止め、責任を負う覚悟をし、生存者たちにできる限りの救いの手を差し伸べたと言われる。
一方のイングランド。無敵艦隊敗走後も警戒を解かず、しばらく洋上に留まったため、赤痢やチフス、そして飢餓から命を落とす兵を多数出すことになった。ただ少なくともこの戦闘においての戦死者は100人に満たず、重傷者400程度、喪失艦船は火船攻撃で犠牲とした8隻のみであった。一体、無敵艦隊がぶっ放し続けた約12万発の砲弾はどこへ消えたのであろうか。
こうして無敵艦隊は自滅した。戦場の指導者たちはフェリペ2世の作戦に縛られ続け、過去の栄光に浸る余り、すでに海戦のスタイルが様変わりしていることを受け入れられず、イングランド上陸作戦最大の要となるパルマ公部隊合流作戦の危うさに何の危惧も抱いていなかったなど、艦隊壊滅の要因は少なくない。ただ、これら大失策の責任は、自身も感じていたようにフェリペ2世が負うべきものであった。全てを現場監督たちに丸投げしたエリザベスが偉大であったかどうかの評価は避けるが、フェリペ二世は『机上の大将』でありながら戦争行為に口を挟みすぎた。無敵艦隊というオオカミの群れを率いていたのは実はシドニア公ではなく、宮殿の執務室にいるフェリペ2世というヒツジだったのである。

太陽没して、現れた者

確かに、この戦争においてスペインはイングランドに大敗を喫した。しかし、喪失した艦船や兵士の数から言えば、スペインという大国をそのまま衰退に追いやるほど大きな損失ではない。事実、英西戦争はこの後もしばらく続くこととなる。
次に仕掛けたのはイングランド軍であった。無敵艦隊壊滅の翌年、ドレークは140隻からなる大艦隊を率いてリスボンを目指した。ところが期待していたポルトガルの義勇軍が決起せず、約2ヵ月の遠征でほとんど戦果を得ることなく帰還した。それどころか、まるで前年のワンサイドゲームの代償を払うかのように、イングランド軍は1万の兵の約半分を病気や飢餓という下らない理由で失った。
時の大蔵卿ウィリアム・セシルが約5000人分の給与の支払いがなくなったと喜び、顰蹙を買った。イングランドも極度の財政難に陥っていたのである。

エリザベス1世
(1533~1603)

通称「アルマダ・ポートレート」と呼ばれる、
無敵艦隊に対する勝利を記念して制作された肖像画。
背景には無敵艦隊が描かれている。
エリザベスの右手は地球儀の上に置かれ、
いずれ世界をその手中に収めるという決意が表されている。
大敗北から海軍強化の必要性を学んだフェリペ2世はすぐさま改革に着手し、以降3度のイングランド遠征を試みたがいずれも嵐にあって失敗に終わった。追い討ちをかけるようにフランスで起こったユグノー(新教徒)戦争が激化。こちらも王位継承問題から始まった戦争で、スペインは旧教同盟としてこれに軍事介入するも孤立して失敗。一方、無敵艦隊壊滅に勢いづいたオランダは、英仏と協力してスペイン勢力を押し返していった。ヨーロッパを忙しく転戦したパルマ公もこの最中に戦死した。
各地で同時多発的に起こった宗教紛争への介入にことごとく失敗したスペインの財政は危機的状況にあった。広大な土地を持つものの、新大陸の銀山程度しか頼れる収入がなくいつしか『太陽の没することのない帝国』は大借金帝国へと、転落の道を歩んでいく。
1598年、数々の戦争を宮殿の執務室で指揮し続けたフェリペ2世死去。その5年後、宿敵エリザベスもまたこの世を去る。
エリザベスからイングランド王位を継承したのは皮肉にもメアリー・スチュアートの一粒種ジェームズ6世(イングランド王としてはジェームズ1世)であった。理想主義者であり平和主義者でもあった「友愛」の人、ジェームズはフェリペ3世と和平を結び、英西戦争はスペインとイングランド、両国を財政的に疲弊させただけで終結した。
この隙をついて台頭して来るのがオランダだ。オランダは東インド会社を中心に海外で勢力を拡大し、以降約五十年に渡り海洋王国として君臨する。イングランドの東インド会社がインドに拠点を移して綿花と出会い、産業革命を経てやがて七つの海を制する大英帝国に成り上がっていくにはまだこの先、200年も待たなくてはならないのである。(了)

【参考文献】
マイケル・ルイス著『アルマダの戦い』新評論
青木道彦著『エリザベス1世』講談社現代新書
杉浦昭典著『海賊キャプテン・ドレーク』講談社学術文庫
小林幸雄著『イングランド海軍の歴史』原書房
永積昭著『オランダ東インド会社』講談社学術文庫
浅田實著『東インド会社』講談社現代新書
ジャイルズ・ミルトン著『さむらいウィリアム』原書房
白石一郎著『航海者』文春文庫 他

前編に戻る…

次世代への大いなる遺産 リスティッド・ビルディングの使命 [Listed Building]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2017年8月3日 No.995

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次世代への大いなる遺産 リスティッド・ビルディングの使命

次世代への大いなる遺産

リスティッド・ビルディングの使命

リスティッド・ビルディングとは、「歴史や建築の観点から後世に残すべきものを守る義務と責任が、我々にはある」という国民の共通意識のもとに作られた制度だ。
政府主導の法律が原点とはいえ、国民の理解が得られなければ今日まで守り続けられることもなかったはず。
日本に比べていろいろと緩いように思われる英国だが、同制度については強い意気込みが感じられる。
リスティッド・ビルディングについて知ることで、英国文化の真髄を垣間みることができるかもしれない。

289-305 Regent Street W1、3 Cavendish Place W1、313-319 Regent Street W1と3つの住所を持つ建築物。グレードⅡ。メインの写真は、2011年に建て替え工事中の同建物を西側から撮影したもの。外壁を保持しつつ、内側を建て替える作業が進められているのがよくわかる。下の写真は、東側(リージェント・ストリート側)からのもの。左側が工事中、右側が現在のもの。外壁は漂白されたようだが、造りはそのまま。工費は余計にかかるだろうが、街並みを保つためには必要な『経費』と考えていいだろう。

●サバイバー●取材・執筆/名越 美千代・本誌編集部

失って初めて分かる大切なもの

英国で、後世に残す価値や意義のある建造物を指定、保護するリスティッド・ビルディング(Listed Building、以下LB)の概念が生まれたのは、第二次世界大戦がきっかけだ。自国の歴史に誇りを持つ英国らしく、先史時代の歴史的遺跡を指定して保護する法律は1882年から存在したのだが、戦後になり、この考えはさらに発展。英国の歴史、風景の一部であるカントリーハウスや産業遺産である工場跡などにも幅広い視点から価値を見出して、保護すべきものとして指定する動きが生まれた。
英国では、1940年から41年にかけて、ロンドンをはじめ多数の都市がドイツ軍による激しい空襲を受けた。焼け落ち、破壊された区域を見て、人々は、 ストーンヘンジや城などの遺跡のほかにも、後世に伝承すべき大切なものがあると思い知ったはずだ。
都市や街を修復して産業を再編成するためには、まず包括的な計画が必要とされた。そこで作られた法律が『Town and Country Planning Act 1944』と『同1947』だった。これは、地方自治体がまず都市計画を作り、土地や建物の所有者はそれを遵守して、改築や修復、取り壊しなど手を加える際には地方自治体に計画を申請して、許可を取るように義務付けるもの。現在もこの考え方を基盤とした法律が引き継がれている。
空襲で損傷を受けた歴史的建造物については、どれを残して、どれを取り壊し、どのような優先順位で修復していくかということを考えていく必要に迫られ、政府は保護・保存すべき建築物救済リストも作り始めた。このリストが、のちのLBの前身となり、保護を指定するにあたってのグレード評価やそのために必要な条件もこの頃から導入されるようになった。振り返ってみれば、戦争で失ったものも大きかったが、得たものも大きかったといえるのかもしれない。

資金難との果てしなき戦い

東ロンドンのホワイトチャペルそばで、
外壁だけがスックと建っているのを目撃。
街並みの保全はラクじゃない!
歴史的名所や自然景勝地の保護を目的とした活動団体としては、ナショナル・トラスト(National Trust)が有名だ。こちらは、1895年に個人の有志らが設立したチャリティ団体であり、英国人の愛国心を上手にくすぐる戦略で多くの寄付を得て、大成功を収めている。設立にあたって、『ピーター・ラビット』シリーズで名高い、絵本作家、ビアトリクス・ポターが深くかかわったことも、人々の関心を集めるのに役立ったという点では大きかった。
一方、 政府主導で同様の活動を行う場合、予算の多くは限りある国庫予算から捻出しなければならない。つまり、使われるのは納税者のお金ということになる。
当然ながら、国にとっては過去の資産を守ることよりも、福祉や教育といった現状の問題に取り組むことが優先であるだろう。大邸宅をひとつ管理するにしても、膨大な維持費が必要だ。当時の政府では、国庫への負担(納税者からの反発)を不安視するあまり、国の管理は古い記念碑くらいに限って、歴史的遺物や文化財の保護・保存はナショナル・トラストに任せたほうがよいとする見解でまとまっていたという。
しかしながら、政府内にも気骨ある人々がいたと見える。政府は試行錯誤しながらも、保護・保存が必要とされる歴史的スポットの登録数を地道に増やしていく。1970年にはイングランドだけで300ヵ所を数え、その地を訪れる人の数も増えていった。ここから、ナショナル・トラストのように、入場料や年間会員費、併設したミュージアムやショップからの収入などで運用資金を調達できる仕組みが整えられていくことになる。
とはいえ、戦後の混乱の中から始まった保護・保存の動きのスピードは、このあたりまでは比較的ゆっくりとしたものだった。そこへ、保護・保存の活動をもっと積極的に進める必要を政府に思い知らせる事件が起こる。

「後悔、先に立たず」の教訓

それは1980年8月末のできごとだった。バンクホリデー明けの火曜日に保護指定を受けるはずだった建物が、その直前の連休中にすっかり、取り壊されてしまったのだ。
この建物は西ロンドンにあったファイアストーン・タイヤの元工場。タイヤ工場自体は前年に閉鎖され、開発業者が買い取っていたのだが、建物が1920~30年代にアールデコの旗手として知られた建築デザイン会社によるものだったために、保存を求める声が上がっていた。
しかし、保護・保存指定を受けてしまうとおいそれとは再開発ができなくなることを恐れた開発業者が、LB指定直前にあわてて元工場へブルドーザーを送り込むという暴挙に出たことで、全ては手遅れとなった。
LB指定を承認するはずだった 当時の環境大臣は、これを知って怒り心頭だったに違いない。すぐに、1970年代にリスト化されていたイングランドの保護・保存登録対象建築物を見直すように要請。また、保護・保存指定を迅速に進めるため、専門家の育成にも力を入れた。こうして、より強固に、そしてより現実的に機能する、LBの地盤作りが改めて開始された。
1983年、サッチャー政権のもと、国家遺産を守るための法律、『1983 National Heritage Act 』に基づき、『the Historic Buildings and Monuments Commission』という団体が作られ、LBとして登録された歴史的資産はすべて、ここへ管理が任されることになった。この団体は後日、『イングリッシュ・ヘリテージ(English Heritage)』に改称される。
LB指定とするかどうかの判断を専門家が効率よく行えるようにするため、対象物のタイプ、建てられた年代、携わった建築家、歴史、内装、外装、その他の情報などをこと細かく記録していくためのマニュアルも作成された。
小さな標識や墓石も条件にさえあえば、登録できるようになり、また、映画館や空港など比較的近年のものでも、築30年以上であれば対象とされるようにもなった。こうして対象物となる範囲も広げられていき、LB指定数も見る見るうちに増えていった(2016年時点で37万6470件。イングリッシュ・ヘリテージ調べ)。

英国人の誇りの表れ

2015年に『イングリッシュ・ヘリテージ』は、政府からの援助は継続されるものの慈善団体として独立することとなり、ここからさらに担当別に2つの団体に分かれた。
特殊な歴史的遺物の管理は『イングリッシュ・ヘリテージ』という名前を引き継いだ団体へ。そして、幅広い分野から後世に残すべき国内の資産を選んでLBとして登録し、管理を担うのは、新たに設立された団体『ヒストリック・イングランド(Historic England)』へと、それぞれの受け持ちが明確に決められ、今に至っている。
過去の資産を後世に残す作業は、平和で、気持ちに余裕のある豊かな社会でなければできないことで、実利主義で目先の利益にとらわれていても不可能だ。豊かになったはずの現代でも、根底の問題は変わらない。
ここ数年の間に政府は、社会保障や社会整備に予算を回すために、LB関連の予算を削る傾向にあり、それがLBを審査する専門家の数にも影響を及ぼしている。LB指定によって、歴史的資産の管理や修復の費用を所有者に任せることができるのがこのシステムの利点だが、LB所有を推奨するために政府が認めていたLB修復にかかるVAT(付加価値税)の免除制度も、2012年に廃止されてしまい、LBに登録された不動産物件の購入を考える人々の判断に影響を与えている。
社会状況によって、文化的活動が消極的にならざるを得ないこともある。 しかし、自分が暮らし働く、この国の建物や街並みに誇りを持って大切にしていこうという、英国人の気概の表れとも思えるLB制度は、これからも大切に受け継がれていって欲しいと強く願わずにはいられない。

「オープンハウス・ロンドン」で、
非公開のリスティッド・ビルディング に出かけよう!

グレードⅠに指定されている、
首相官邸(ダウニング街10番地)。
© Sergeant Tom Robinson RLC/MOD

「オープンハウス・ロンドン(Open House London)」は、普段なら関係者にしか立ち入りが許されない建物に入ることができる、年に1度の機会だ。対象とされる750軒余りの建物すべてがリスティッド・ビルディングとは限らないものの、ロンドン市内の歴史的建築物のほか、個人宅、政府や教育機関の建物など、興味深い場所が揃う。ガイドツアー利用で建物の魅力をより深く味わうことも可能だ。
入場は無料だが、建築物によっては事前予約が必要(首相官邸など、人気の高い場所については抽選制)。効率良く回るためには、8月中旬に発行されるガイドブック『オープンハウス・ロンドン・ガイド(7ポンド)』の購入がお勧め。なお、抽選に関する詳細はまもなく発表される予定だが、締め切りまでの期間が短いので、ウェブサイトで頻繁にご確認を。

期間:9月16&17日
※ガイドブックの申し込みは「オープンハウス・ロンドン」のウェブサイト(www.openhouselondon.org.uk)から「Get the guide」をクリック。事前予約の詳細もガイドブックに記載されている。

リスティッド・ビルディング なんでもQ&A

リスティッド・ビルディング なんでもQ&A

北部イングランド、カンブリアにある「Long Meg Stone Circle」。ストーンヘンジなどとは違い、誰がいつ傷つけたり盗んだりしてもおかしくない環境にあり、「Heritage at Risk」(危険にさらされている歴史的建造物)の指定を受けている。

Q1

LB、勝手に手を加えるのは犯罪?

所有者であっても、LBに 許可なく手を加えることは法的に許されない。所有者には、変更計画を事前に申請する義務があり、承認を得ずに取り壊しや改装などを行ったことが発覚すれば、罰金を科されるか、または、刑罰処分を受けることもあり得るという。ただ、LB所有者の多くはこの制度の意義をよく理解しており、LBの保護・保存へ貢献することに喜びも感じている。政府からLB維持のための補助金が出ることもあるので、LB関連の規制が無視されることはめったにないとされている。
しかしながら、それでも、法の目をごまかそうとする輩も存在している。例えば、19世紀前半に賛美歌の作詞作曲で知られた女流作曲家が住んでいた由緒正しいマナーハウスを、開発業者が無許可のまま、モダンに改装してしまった悪質な例も報道されている。ジョージアン様式の邸宅は、寄木細工の床や窓の木枠が取り外され、ジャクジー風呂まで設置されてしまっていた。このあきれた開発業者に対して裁判所は、罰金と法定費用の一部を合わせた30万ポンドを支払うよう、また、これが払えない場合は20ヵ月の懲役を言い渡したことが報じられた。
Q2

持ち主でなくても申請できる?

LB指定への申請は誰でもできる。ただ、 申請申込書では、なぜ、どのような背景からその物件がLBに指定されるべきなのか、理由を明確にしなければならない。ヒストリック・イングランドが根拠を認めれば、そこから文化・メディア・スポーツ省(Department for Digital, Culture, Media & Sports)に推薦され、最終的にはここで判断されてLB指定に至るという流れになっている。
また、ヒストリック・イングランドは、一般からの推薦だけに頼らず、LB候補物件を独自のプログラムでも探す活動を行っている。
Q3

LBリストから外されてしまうケースもある?

北イングランド、ホールトンにある
「Daresbury Hall」。
火災で大きなダメージを受け、
修復が必要となっているLBの例。
© Historic England
もはや、歴史的にも建築的にも特別な意味を有さないと判断されたLBは保護指定から外されることもある。例えば、火事で燃えてしまったり、LBの指定の根拠となっていた事柄が既に意味をなさなくなっていたり――。こうした場合がこれに当てはまるだろう。
ただし、火事になっても燃え方によっては、そこから元どおりに戻すように指示されることもある。元の形に修復することを要求されるので、使う資材にもこだわらなければならない。普通の家の再建よりもはるかに費用がかかることは間違いないだろう。
LBリストから外す場合もやはり、ヒストリック・イングランドへの申請が必要だ。ここでの承認後、文化・メディア・スポーツ省へ回り、大臣によって承認がなされるという、指定承認時の過程と同じ流れとなる。
Q4

LBに指定されると、不動産売買に不利? 有利?

そもそも、LBが多いエリアは概して雰囲気も良く、他の物件も値段が高めになっていることが多い。LB購入自体は前向きなことだと言えるだろう。不動産業者がLB物件を売り出すときの常套句は『character(個性)』であり、独創性を重んじる英国人のハートに響く。LB指定を受けた家に住むことは誇りであり、ロマンなのだ。「少しくらい改築コストがかかっても、後世に価値のある家を残すという大きな役割を果たすこともできる」と、LB物件をあえて購入する人も少なくはないようだ。
ただし、いざという時の改装コストを甘くみてはいけない。使用資材や修復作業のやり方まで細かい指定を受ける可能性がある。レンガひとつとっても、その辺の店で手に入るレンガではなくアンティークのレンガを探すように指示されるかもしれないし、特殊な技術を持つ職人に頼まなければいけなくなるかもしれない。実際に、改修費用がLB購入時に考えていたよりもはるかに高くついたというケースは多いようだ。住宅保険も、エキストラ分を考慮して準備しておかなければ、いざという時に被害額がカバーできないこともあり得る。
そして、落とし穴はもう一つ。 前の住民がうっかり(または故意に)やってしまった無許可の改築が残っていた場合だ。たとえ誰が『やらかした』ものだろうが、LB指定時の状態で保存する義務は、現在の所有者が負う。知らなかったでは済まされないため、無許可の改築跡がみつかると修復を指示されて、思わぬ出費に泣く羽目になることもあるとのこと。
ちょっとしたことにも制約が多く、許可をもらうまでには時間もかかる。ドアをひとつ付けるためだけに3ヵ月以上待つことさえあるとされている。LBの管理は時間とコストがかかるということを十分に理解した上で、購入することが望ましい。
Q5

LBの登録は有料?

LB指定による物件の保護を希望する場合、ヒストリック・イングランドのウェブサイトから個人で申請を行うなら無料。ただし、複雑な申請内容を自分で記入するのが難しいこともあり、その場合は、 ヒストリック・イングランドが提供する有料のヘルプ・サービスを利用することもできる。
また、 早く承認しなければ打ち壊される恐れがあるといった 一刻を争うような理由がない限り、通常は申請から承認を得るまでには数ヵ月かかる。LB指定を急ぐケースのためには、有料の優先申し込みサービスも提供されている。
Q6

こんなものでもLB?

北西イングランド、ランカシャーの
「Carnforth」保全地区内の建造物は
損壊が進んでおり、懸念が寄せられている。
写真は石炭の積出し作業場の建物で
1930年代、イタリア人戦争捕虜が建設に従事。
リスティッド・『ビルディング』というものの、対象物は必ずしも建物である必要はない。 線路やゲート、桟橋、戦場跡、壁、墓石、郵便ポストや電話ボックスなど、建物以外の意外なものも、LBの中に見受けられる。
また、LBは誰もが保護・保存指定に納得するような美しいものばかりでもない。例えば、1995年にグレードⅡ指定を受けたビル『センター・ポイント』。ロンドンのオックスフォード・ストリートの東の端にそびえ立つこの建物は1966年の建設当時から、蜂の巣のような粗野な風貌が大不評だっただけに、LB指定が承認されたニュースも世間では賛否両論で受け入れられた。
Q7

イングランド以外はⅠ、Ⅱとは分類しない?

イングランドにおけるLB は、次の3等級に分けられる。
・グレードⅠ:最高に重要な建造物で、LB全体のわずか2.5パーセント
・グレードⅡ*:注目すべき重要な建造物で、LB全体の5.8パーセント
・グレードⅡ:その他の保護すべき建造物にあたり、LB全体の約92パーセントを占める

一方、イングランド以外の地域ではグレードの表記は異なる。北アイルランドでは、A級、B+級、B級、スコットランドではA級、B級、C級という表示になる。
Q8

城はぜーんぶ、LB?

グレードⅠに指定されたばかりの
「Humber Bridge」(1981年完成)。
グレードⅠの価値があるのかという
疑いの声も聞かれている。
英国のお城や宮殿はそもそも古くて貴重なものなので、LB指定を受けているものがほとんど、しかも多くがグレードⅠだという。
古ければ古いほど、LB指定は承認されやすいようだ。例えば、1700年以前の建築物はすべて、また1700年から1840年までの建築物もほぼ全部が、LB指定を受けている。
一方で、1945年以降の建築物の選定については注意深く行われている模様。ヒストリック・イングランドには、築30年未満の物件は登録対象として考慮しないという『30年ルール』もあるという。
唯一の例外は、ロンドンのシティにある「No.1 Poultry」というビル。1997年に完成したこのビルは、ポストモダニズムの建築家として知られるジェームズ・スターリングが晩年にデザインしたものであり、ロンドンのポストモダニズム建築の傑作として認められていることから、2016年にグレードⅡとして登録された。イングランドで指定を受けたLBとしては最も建築年度が新しいものだという。

リスティッド・ビルディング観察法

リスティッド・ビルディング観察法

マップ検索で拡大していき、ロンドン中心部を見たところ。濃紺の三角形がLBを示すが、その数のあまりの多さに驚いてしまう。ロンドンはまさにLBだらけ!! この図の中で、自分で気になる部分をさらに拡大していくと、それぞれのLBの所在地や登録理由などを確認することができる。政府の担当部署の仕事ぶりに(公務員として、当然とはいえ)思わず感心。英国人の歴史的建造物に対する情熱の深さを感じさせる。
まずは、ヒストリック・イングランドのホームページから「Search」へ進む。
https://historicengland.org.uk/sitesearch
キーワードや、知りたいLBの「リスト・エントリー・ナンバー」がわかっていれば、この「Search」画面から探せる。
自宅や勤務先の周辺、そのほか興味のある通りなどにどんなLBがあるかを知りたい時は、この下の「The List」をクリックすれば、次画面から、ポスト・コードやアドレスを使ってマップ検索ができる。

または、ホームページのトップ右上のMENUから「Listing」→「Search the List」に進むと、すぐにマップ検索ができる。
https://historicengland.org.uk/listing/the-list
「Search using a Map」の「Explore」ボタンをクリックすると、英国の地図が現れる。どんどん拡大して、自分が探したいエリアを絞り込んでいくと…
マップ上に点在する濃紺の三角印がLBを示す。気になる三角印をクリックすると、まずは名前やグレードなどが表示される窓が開く。さらに「View List Entry」をクリックすれば、所在地や登録年度、そのLBの歴史や保護指定に至った理由など、詳しい情報がわかるようになっている。

上の画像は、「センター・ポイント」に
関する詳細を記したページのトップ。
1995年11月24日にLBにグレードⅡとして
登録されたことから始まり、
外観、内装などことこまかに記されている。
一般的にいって、広く知られたLBほど、
この情報が多い。
例えば、オックスフォード・ストリートの東端にそびえたつ、「センター・ポイントCentre Point」=写真下=を探してみると、結果はこの通り。

パブ・チャンピオン
The Champion Public House

12-13 Wells Street, Fitzrovia, London W1T 3PA
リスト・エントリー・ナンバー:1267696

ヒストリック・イングランドのウェブ・サーチで、なんとジャーニー編集部隣のパブ『チャンピオン』=写真=も1970年にLBのグレードⅡの指定を受けていたことが判明した!
ウェブ検索できた詳細によると、この建物は1860年から1870年にかけて建てられたもの。 外壁に使われている黄色味がかったゴールト(Gault)レンガ(当時の建物によく使われていたらしい)、漆喰、クラシックな装飾、バー部分の張り出し、内部の壁柱や、大きな鉄製の飾りランプなどが、LB指定のポイントとして細かく挙げられている。今度飲みにいくときは、細部までもっと気をつけて見てみないと!(さっそく飲みにいかねば!?)

デンマーク・ストリート6番地
No 6 Denmark Street

Denmark Street, London WC2H 8LX
リスト・エントリー・ナンバー:1271976

ロンドン中心部でいうと、バッキンガム宮殿やタワー・ブリッジ、国会議事堂など、グレードⅠに指定されている国宝級の建造物が目白押し。また、グレードⅡの指定を受けている建造物も数多くあることがよく分かったが、果たして「グレードⅡ*」というのはどういった建造物なのか。探してみると、ソーホーにあるデンマーク・ストリート6番地がそれであることを発見。17世紀に建てられた個人向けテラストハウスで、今も残っている希少な例だという。

スコットランドで学んだ 『日本土木史の父』渡邊嘉一の志

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『日本土木史の父』渡邊嘉一
127年前、スコットランドの首都エディンバラ近郊の湾にフォース・ブリッジと呼ばれる鉄橋が完成した。
過酷な建設現場で現場監督を務めたひとりの日本人技術者がいる。
スコットランドで学び後に『日本土木史の父』と称されたこの人物について今号ではお届けすることにしたい。

●サバイバー●取材・執筆・写真/本誌編集部

町を興奮で包んだ竣工式

1890年3月4日、スコットランド。
エディンバラから約10マイル(16キロ)離れたサウス・クイーンズフェリーという小さな町は、早春の嵐とも呼ぶべき強風に見舞われていた。いや、早春というには早すぎたかもしれない。スコットランドの厳しい冬が終わるのはまだまだ先のことだと思い知らされるような日だった。
しかし、町は熱い興奮に包まれていた。
新しく完成した鉄橋の竣工式が、ヴィクトリア女王の長男である皇太子(後のエドワード7世)を迎えて華々しく行われようとしていたからだ。
鉄道橋は、フォース湾にかかることから、フォース・ブリッジと名づけられていた。
皇太子に用意されたのは、黄金のメッキを施されたリベット(鋲=びょう)。もちろん形式的なことだが、これをしめれば、すべての工事が完了するという手はずになっていた。
ところが、皇太子が、リベットをまわす機械を作動させるキーを片手でまわそうとした1回目は失敗に終わる。そばにいた担当者があわてて、キーを少しまわしたあと、皇太子が再び挑戦。今度は両手でまわしたおかげで、無事にリベットがしまった。ふきつける風の中で皇太子はこう声を張り上げた。
「ここに、フォース・ブリッジが公式に完成したことを宣言する」
このニュースが日本に届くまで、どれだけかかったか記録は残っていない。しかし、この鉄橋完成の報を待ちわびていた1人の日本人がいたことだけは確かだ。
「ようやくこの日がきた―」
スコットランドの冷たい雨と風の日を思い出しながら、喜びをかみしめたであろうこの人物、名前を渡邊嘉一(わたなべ・かいち=以下、渡邊)という。
のちに『日本土木史の父』と称されるに至る渡邊は、スコットランドと深いつながりがある。
その生い立ちの概要を記してみることにしたい。

グラスゴー大学卒業で得たビッグ・チャンス

『The Briggers: The Story of the Men Who Built the Forth Bridge』
フォース・ブリッジ建設に携わった人(Briggers)のうち、実際には何人が犠牲になったのかを調査し直したいという強い思いに突き動かされたと執筆の動機を話す、エルスペス・ウィリスの力作。それまで57名だと考えられていたが、73名も亡くなっていることが判明した。写真も豊富。「渡邊嘉一」の名前は、9頁と127頁に登場(索引にもあり)。
渡邊は、長野の出身である。1858( 安政5)年2 月8日、上伊那郡朝日村字平出(ひらいで)にて、宇治橋瀬八の非嫡出子(正確には、後妻の子)として生を受ける。子供の時から、宇治橋の家督をあてにしてはいけない、安定した仕事につけるようまずは勉強しなさいと繰り返し聞かされていたことだろう。長野の開知学校を経て上京したのも、非嫡出子としては自然な流れだったと思われる。
工部大学校(現在の東京大学工学部)予備校を経て、同大学校土木科に入学、奨学金を得て勉学に励み、83(明治15)年、25歳の時に同大を首席で卒業した。
明治維新が成り、すさまじい勢いで近代化を進めつつあった日本の新首都、東京には各地から秀才が集まってきていたが、頭の良さと実務家としての器量を兼ね備えた学生として目立つ存在だったと想像できる。
工部大学校の校長を務めたのを皮切りに、学習院院長兼華族女学校校長など、技術・教育関係の重要な役職を歴任した大鳥圭介(おおとり・けいすけ、1833~1911)にその才を認められ、大学卒業を控えた82年、大鳥の仲介で、海軍機関総督横須賀造船所長、渡邊忻三(きんぞう)の長女の婿養子となった。「渡邊嘉一」の誕生である。
渡邊は工部大学校卒業後、工部省に技師として入り、鉄道局での勤務を開始する。渡邊がみずから鉄道に携わる道を選んだのかどうか定かではないが、近代化に取り組む日本にとって、鉄道網を発達させることは火急の課題。やりがいのある仕事として、渡邊が大いに燃えたと考えて差し支えないだろう。
ここで鉄道局勤務を選んだことが、渡邊を英国に向かわせることになったのではないだろうか。
84年、工部省を辞してスコットランドのグラスゴー大学に留学、ここでも土木工学を専攻し、86年に理学士の学位を取得して卒業した。1451年発足のグラスゴー大学は、オックスフォード大(創立1249年)、ケンブリッジ大 (同84年)、セント・アンドリューズ大(同1411年)に次ぎ、英国で4番目に古い名門大学。経済学者のアダム・スミスや、蒸気機関の発明などで知られるジェームズ・ワットをはじめ、各界の著名人を輩出したことでも名高い。
明治時代、日本からも才能ある若者が幾人もグラスゴー大に留学したが、いずれも、日本を背負って立つ気概にあふれた者ばかり。渡邊も間違いなくその1人であり、寸暇を惜しんで必死に勉強したと推測できる。しかも負けん気が強く、粘り強い性格だったのではなかろうか。というのも、英語を母国語とする学生たちをさしおいて、優れた工学部学生に贈られる、「ウォーカー」賞を受賞したのである。
ひとつの幸運(受賞は努力の賜物でもあったが)は次の幸運を呼ぶ。まもなく渡邊は貴重なチャンスを与えられることになる。
ジョン・ファウラーとベンジャミン・ベイカーという、当時の英建設業界で次々に大規模プロジェクトを引き受けていた2人が経営する事務所に技師として迎えられたのだった。ファウラーとベイカーはそれぞれ、ヴィクトリア朝時代を代表する技師で、「Sir」の称号を得るほどの大御所。ロンドンの地下鉄建設においても大きな役割を果たした。1886年といえば、日本が開国してからまだ30年ほど。英国では知らない人が大多数であったであろう、東洋の小さな島国からやってきた20代なかばの若輩の渡邊が、彼らのもとで働く機会に恵まれたというのは、まさに特筆に値することだった。
しかも、ファウラーとベイカーは、彼ら自身も大きな賭けともいえるプロジェクトに取り組んでいる最中だった。
成功すれば名声はより高まり、仕事の依頼はいっそう増えることは疑うべくもなかったが、失敗すれば建設業界から追放されたも同然。それまで築いてきたものはすべて失うことになる。
ファウラーとベイカーが果敢に挑んでいた、その難プロジェクトとは、フォース・ブリッジの建設だった。

フォース・ブリッジ Forth Bridge


■「カンティレバー式二重ワーレン型トラス橋」と呼ばれる形式。
■フォース湾の両岸(ノース・クイーンズフェリーとサウス・クイーンズフェリー)沖と中央の岩礁に、高さ 105 メートルの3基の大鋼塔が築かれている。
■大鋼塔を含む、ひし形部分を3人の人間に例えてみると…
①各人が両腕を差し出す。腕の長さを207メートル(足すと414メートル)とする。
②両端は、両岸の陸地上に設けた橋脚の上に置くことが可能ながら、両岸と岩礁の間は500メートル余ずつあり、互いの腕が届かない、約100メートルの空間が残る。
③その空間を結ぶためにスパン107メートルのトラス(橋桁)を吊り架ける。

参考:三浦基弘著『株式会社東京石川島造船所 第三代社長 渡邊嘉一:日本とスコットランドの架け橋』/エルスペス・ウィルス著『The Briggers: The Story of the Men Who Built the Forth Bridge』

世紀のプロジェクトに参加した明治人

(左)ジョン・ファウラーSir John Fowler(1817~98):北イングランドのシェフィールド出身。
(右)ベンジャミン・ベーカーSir Benjamin Baker(1840~1907):南イングランドのサマセット出身。
フォース湾(the Firth of Forth)は、スコットランドの首都エディンバラのすぐ北にある入り江。地形的には氷河にえぐられてできたフィヨルドのひとつとされるが、細長い切り込みが、エディンバラから、ハイランド地方への入り口であるスターリング(Stirling)のそばまで、西へ約50キロ(30マイル)近くも続いており、通行人泣かせの造りとなっていた。
フォース湾を船(フェリー)で渡る方法は早くから確立されていたが、風や潮の流れにさからうと、数時間もかかることが珍しくなかった。また、産業革命でより速く、より大量の物資を運ぶことが求められるようになったのだった。19世紀初頭にトンネル設置の案が出されたが、十分な出資が得られず計画は消滅。やがて、鉄道の発達により、必要なのは鉄橋だと流れが変わっていく。
1873年、4つの鉄道会社が共同出資した「フォース・ブリッジ・カンパニー」が設立され、いよいよ鉄橋建設への動きが本格化する。しかし、79年、人々の記憶に長く焼き付けられることになる悲劇が起こってしまう。
77年に6年の工期を経て完成した、スコットランド最長のテイ川にかかるテイ鉄橋(Tay Bridge)が強風にあおられて崩落。折り悪しく鉄橋を渡っていた列車がテイ川に落下、75名の乗客が犠牲になるという大惨事となった。

1887年の建設途中、フォース・ブリッジの仕組み(カンティレバーの構造)について関係者に分かりやすく説明する試みが王立科学研究所で行われた際、ヒューマン・モデル=写真上=が用いられた(中央が渡邊、左右の人物の詳細は不明)。東洋人を真ん中にすえ、東洋起源とされるカンティレバーへの謝意を表現したとされている。この写真は、2007年にバンク・オブ・スコットランドが発行した20ポンド札の裏面の右上隅にあしらわれている。
このテイ鉄橋をデザインした、トーマス・バウチ(Sir Thomas Bouch)は、ファウラーやベイカー同様、「Sir」の称号を与えられた、当時の英国の建設業界にあって大物のひとりだったが、この大事故により全てをなくし、失意のうちに10ヵ月後に他界した。
フォース・ブリッジも、最初はバウチのデザインを採用していたのだが、テイ鉄橋の悲劇によりバウチ案を却下せざるを得ず、新たなデザインを模索。そこで依頼を受けたのが、ファウラーとベイカーで、彼らは「カンティレバー式」を選択した。カンティレバー式は、インドやパキスタン、中国などに起源が求められる橋とされ、チベットには1620年にかけられ、その後300年も使われた橋があったことが分かっている。
渡邊がファウラーとベイカーの工務所に入ったころ、フォース・ブリッジの建設は、始まってからすでに4年がたっていた。
渡邊が与えられた仕事とは、フォース・ブリッジの建設工事監督係だった。さらに工事監督のかたわら,同ブリッジ前後の鉄道線路約12マイルの実地測量と設計主務も務めた。
勤勉な明治人が英語と格闘して、学業で良い成績をおさめるというなら、まだ想像しやすいが、実際に英国人(ここでは、正確にいうとスコットランド人)と働くには、当然のことながら英語でコミュニケーションをはからねばならない。
土木工学の専門で渡邊を含む日本土木史の研究家でもある、三浦基弘氏によると、渡邊の趣味の一つは義太夫で、忙しい仕事の合間をぬってよく鑑賞したが、娘たちは一緒に行くのを嫌がっていた。鑑賞中、渡邊が周りを気にせず感涙にむせび、「一顰(びん)一笑」する姿が恥ずかしかったからだという(しかし、観賞後には豪華な食事をご馳走してもらえるので、それを楽しみに娘たちはついて行っていたと話している)。
ひとまえで感情を素直に出したり、ましてや日本男児が涙を見せたりするのは恥ずべきことだというのが通念だった時代だけに、渡邊は日本人離れしていたといえるのではないだろうか。この性格が生来のものだったのか、それともグラスゴー留学以降に培われたものか、定かではないが、工事監督を務めるにあたり、非常に役立ったはずだ。後に、日本で大組織のトップを歴任するが、人としての魅力にあふれ、人望を得る才能があったゆえといえ、それはすでにこのスコットランド時代に証明されていたのだ。

130年間、現役を続ける頼もしき鉄橋

35歳ごろの渡邊嘉一(写真提供:三浦基弘)。
フォース・ブリッジの工事は、変わりやすいスコットランドの天気との戦いでもあった。
北海からふきつける風は冷たく、時には暴力的ともいえる荒々しさで工事を妨害した。晴れていても、その何分後かにはかきくもって雨が降り始めることは日常茶飯事。そのような天気の中、働く人々の「health and safety」など、二の次だったヴィクトリア朝時代だけに、命綱もつけず、また、工事用ヘルメットなどもかぶらず、暑い日(あったかどうか疑問だが)も寒い日も工事人たちは作業を続けた。
組み立てが進み、工事現場の高さがあがるにつれ、危険も増した。落下して亡くなる者、上から落ちてくる工具やリベット(鋲)が運悪く頭を直撃し、命を落とす者もいた。

戦後の日本のクラシック音楽界を牽引した人物のひとりで、指揮者として世界的に活躍した朝比奈隆(あさひな・たかし、1908~2001)。
大阪フィルハーモニー交響楽団(大阪フィル)を設立、その音楽総監督を務めた。また、生涯現役で93歳で亡くなる2ヵ月前まで指揮台に立った。この朝比奈の実父が渡邊嘉一だったという。渡邊と愛人とのあいだに生まれた子供を、渡邊の部下である鉄道院技師、朝比奈林之助が養子として引き取って育てた。
1882年にスタートした8年にわたる工事で、最終的に落命したのは73名とされている。もっとも多かったのは落下事故で犠牲になったのは38名。最年少の犠牲者は、落ちてきたリベットを拾う役目の「リベット・キャッチャー(リベット・ボーイ)」と呼ばれる仕事についていた13歳の少年だったという。
171名が殉職した日本の「黒四ダム(くろよんダム)」こと黒部ダムの犠牲者数と比較するのは不適切かもしれないが、難工事であったことは否めぬ事実であろう。
渡邊は、工事が完了する2年前にスコットランドを離れた。完成まで携わりたいとの思いもあったかもしれないが、祖国、日本が渡邊の知識と技術、そして経験をより必要としていた。
88年、29歳の折に米国経由で帰国した渡邊は、日本土木株式会社に入社、技師部長として鉄道建設を指揮する。そのかたわら、複数の鉄道会社でも鉄道建設に関わり、また、京阪電気鉄道、東京電気鉄道、京王電気軌道、朝鮮中央鉄道といった鉄道会社の経営においても手腕を発揮する。
さらに、活動の場は鉄道業界に留まらず、関西瓦斯社長、東京月島鉄工所社長、東洋電機製造社長、東京石川島造船所(現・IHI)社長などを歴任。関与した会社は38社(鉄道関連は19社)にのぼったという。
また、1899年には、工学博士の学位を取得したほか、土木学会設立に参画。帝國鐵道協会会長なども務めたが病には勝てず、1932(昭和7)年12月4日、胃がんのため逝去した。74年の中身の濃い生涯だった。
渡邊がスコットランドの地を離れてから129年を経た、2017年8月30日。
フォース湾に新たな橋が完成した。

建設途中のフォース・ブリッジ。3基を同時進行で造っていったことが分かる。
「クイーンズフェリー・クロッシングQueensferry Crossing」と名づけられたこの橋は、長さ2700メートルの斜張橋(しゃちょうきょう=cable-stayed bridge)だ。1964年に完成し、近年、構造的な問題が発見されたフォース・ロード・ブリッジ(Forth Road Bridge)から自動車専用橋としての役割を引き継ぐ。
まもなく、自転車とバス、歩行者専用となるフォース・ロード・ブリッジのかたわらで、現役を続けるフォース・ブリッジの姿は今も力強く、そして美しい。
若き日の渡邊が、日本の近代化に尽力するという志を、この橋の建設現場でさらに強くしたであろうことに思いを馳せながら眺めていると、厚い雲のすきまから、オレンジ色の夕陽が突然顔を出した。その光の中で、赤いフォース・ブリッジがひときわ鮮やかに輝いていた。(文中・敬称略)

参考文献:
『「橋」と「トンネル」に秘められた日本のドボク』三浦基弘(監修)/造事務所 (編集)/(じっぴコンパクト新書) 実業之日本社
『橋の文化誌』三浦基弘・岡本義喬著/雄山閣出版
『The Briggers: The Story of the Men Who Built the Forth Bridge Paperback』Elspeth Wills/Birlinn Ltd

フォース・ブリッジを眺めに行きたい! Travel Information

※2017年9月4日現在

●オープンしたばかりのクィーンズフェリー・クロッシング見学をかね、フォース・ブリッジの南の起点であるサウス・クィーンズフェリー(単に「クィーンズフェリー」と呼ばれることもある)まで足をのばしてみてはいかがだろう。

●電車で移動する場合、エディンバラからサウス・クィーンズフェリーの町にあるダルメニー駅(Dalmeny)まで、平日は1時間に3本程度(週末は1時間に2本程度)、所要時間15分。エディンバラからなら十分日帰りで訪れることができる。なお、サウス・クィーンズフェリーという名の駅はないので注意。

●サウス・クィーンズフェリーは小さな町。ホテルは少ない。エディンバラに宿泊し、日帰りで訪れるほうが容易だと思う人も少なくないだろう。しかし、サウス・クィーンズフェリーに宿泊して、ボート・クルーズやウォーキング・ツアーなど、様々なアクティビティをできる限り楽しむのもお薦めだ。

●フォース・ブリッジを眺め、建設当時に思いを馳せる―この橋を『堪能する』7つの手段を(独断で)選んでみたので参考にしていただきたい。

①海沿いを歩く

意識的にフォース・ブリッジの姿を追いつつ、High Street、Newhalls Roadをそぞろ歩きする。ちなみに、Newhalls Roadには、ヴィクトリア女王時代の赤いポストが残っている。そのポストとフォース・ブリッジを同時に写真に入れ込んで撮影したのがこの1枚。


②海の上から眺める

Hawes Pier(ホウズ・ピアー)という埠頭(フォース・ブリッジ関連の書籍、お土産が購入できる小さなショップあり)から、ボート・クルーズが出ている(主催会社は2つ)。今回は、「Forth Boat Tours」のツアーを利用。所要90分。通常はホウズ・ピアーから出発するのだが、ちょうど取材日と、大型客船の接岸が重なってしまい、出発は町の西はずれにあるPort Edgar Marinaからだった(もう1社のほうは、大型客船の接岸時はツアーを運休)。
なお、フォース湾はアザラシ(seals)の保護エリアとなっている。夏から秋のはじめにかけて、ボート・クルーズのルート沿いでも、その姿が見られる=写真左。また、フォース湾の中に浮かぶ小さな島、インチコム・アイランドInchcolm Island(今は使われていない修道院のほか、宿泊施設もあり)におりたつボート・ツアーもある。
Forth Boat Tours
運行期間…2月~10月末
料金…大人14ポンド
www.forthtours.com
Tel: 0131-331-3030

③ウォーキング・ツアーに参加する

「Forth Bridges Tours」のウォーキング・ツアーは、キルト(スコットランドの民族衣装)が良く似合う、マーク・テイラー(Mark Taylor)氏=写真=の案内によるもので、約90分の「ロイヤル・ツアー」(サウス・クィーンズフェリーの歴史が中心、大人10ポンド)など各種あり。集合場所は、後述するHawes Inn(ホウズ・イン)のすぐそばにある、「Caledonia Scotia Kilts」。
Forth Bridges Tours
www.forthbridgestours.com

④地元の博物館から眺める

「Queensferry Museum」は小規模な地元の博物館だが、フォース・ブリッジの資料も展示されている。この博物館の「出窓」からは、フォース・ブリッジの美しい姿が満喫できる。
Queensferry Museum
53 High Street, South Queensferry, EH30 9HP
開館時間
月&木~土 10:00-13:00 / 14:15-17:00
日 12:00-17:00(火・水は休館)
料金…無料
www.edinburghmuseums.org.uk/Venues/Queensferry-Museum
Tel: 0131-331-5545

⑤列車で渡る

ダルメニー駅から、対岸にあるノース・クィーンズフェリー駅まで列車で移動すれば、実際にフォース・ブリッジを渡ることができる。所要3分! なお、せっかくノース・クィーンズフェリーに向かうのなら、スコットランドの国立水族館「ディープ・シー・ワールド」を見学したい。「動く歩道」でトンネル型の巨大な水槽の下から魚を観察することができる「アンダーウォーター・サファリ」は必見。なお、駅から水族館までの道はきわめて急勾配。徒歩で行く場合、のぼりおりはラクではないことを申し上げておきたい…。
Deep Sea World
Battery Quarry
North Queensferry
KY11 1JR
開館時間…通年オープン
料金…大人15ポンド、ファミリー・チケットなどもあり
Tel: 01383-411-880
www.deepseaworld.com

⑥グラスを傾けながら眺める

フォース・ブリッジの南の起点近くにある、Hawes Inn(ホウズ・イン)は、パブ兼ホテル(しばしば満室)。食事もリーズナブルでお薦め! 同橋の建設期間中は、このインでシフト交代の手続きが行われていたという。インで飲み、酔っ払ったまま作業に出る者もいたようだが、泥酔状態での作業が原因で死去した作業員は確認されていないとのこと。地元のエールなどを片手に、当時に思いを馳せたい。なお、このインで、スコットランドの人気小説家だったロバート・ルイス・スティーヴンソン(Robert Louis Stevenson、1850~94)は『誘拐されて(Kidnapped)』(1886)の一部を書いたという。
The Hawes Inn
7 Newhalls Road
South Queensferry
EH30 9TA
www.vintageinn.co.uk
Tel: 0131-331-1990

⑦宿から眺める

今回、取材班が宿泊したのがこのホテル。サウス・クィーンズフェリーの中心部から徒歩20分、また、駅からもほぼ同距離離れているものの、スタイリッシュな内装の客室では快適に過ごせる。北東向きに窓がある部屋からはフォース・ブリッジを望むことができるので、予約時にリクエストしてみるといいだろう。
Dakota Edinburgh
11 Ferrymuir Retail Park
South Queensferry
EH30 9QZ
www.dakotahotels.co.uk
Tel: 0131-319-3690

週刊ジャーニー No.1000(2017年9月7日)掲載

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