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~伝統と革新の神秘ワールド~英国式占星術星座別「2017年の運勢」付き! [Astrology]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2017年1月5日 No.965

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~伝統と革新の神秘ワールド~英国式占星術星座別「2017年の運勢」付き!

~伝統と革新の神秘ワールド~

英国式占星術 星座別「2017年の運勢」付き!

精神分析学や心理療法、さらには人工知能の技術とも関わりながら学問として独自の発展を続ける英国式占星術。
その歴史を紐解くかたわら、2017年の展望を星座ごとにお送りする。

●サバイバー●取材・執筆/ホーリー・グレイル、本誌編集部

セント・ジョンズ・ウッド生まれの魔法学校

人は未来を予想したり夢見たりすることはできても、実際に知り得ることはない。知ることのできないものを知りたいと思うのが人情というもの。とはいえ、どれほど科学やテクノロジーが進んでも、未来を予知することはできないようになっている。聖書の世界では、人類は思い上がってしまったがゆえに異なる言語を話し始めるようになったとされているが(後述)、未来予知の能力を授からなかったのも、なんらかの意味があるのだろう。
しかし、「知りたい」という気持ちを抑えることができないのも事実。知ることはできくなくても、より具体的に予想しようと様々な試みがなされてきた。星の動きから、未来を推し測ろうとする占星術もそのひとつだ。中でも英国式占星術の発達ぶりは特筆に値する。
今や欧米諸国、日本でもてはやされているほか、新興国でも高水準の評価と人気を得ている、その英国式占星術だが、実は『ハリー・ポッター』に登場する魔法魔術学校のような研究組織の活動によって支えられていることはあまり知られていない。その端緒は神智学運動との関わりが深かったアラン・レオとチャールズ・カーターというふたりの英国人によって開かれた。
神智学運動というのは、ロシアの霊媒師ヘレナ・ブラヴァツキー夫人を中心に設立された秘教的カルト団体である神智学協会によって啓発された、宗教、芸術、文学、哲学など多岐に渡るムーブメントのこと。19世紀末から20世紀初頭にかけて、アメリカ、ヨーロッパ、さらにインドで多くの支持を得た。
当時ロンドンのセント・ジョンズ・ウッドに本部を置いていた神智学協会に出入りしていたのがレオである。レオは、1915年、協会内部に占星術専門の支部「Astrological Lodge of the Theosophical Society」を組織する。そのわずか2年後の1917年、レオは他界してしまうのだが、親しみを込めてロッジと呼ばれるこの組織は、後に英国の主要な占星術研究教育機関を生み出す母胎となる。
占星術に試験制度を導入し専門学校化しようとしていたレオの夢を叶えたのが、その後継者であるカーターだった。このカーター、本職は法廷弁護士という異色の存在。1948年、カーターは占星術の専門教育機関である「Faculty of Astrological Studies」を設立し、試験制度を施行する。
カーターの占星術は出来事に焦点を当てる従来の運勢判断とは異なり、心理学的な解釈を加える、当時にしては斬新なスタイルであった。
ここからは多くの優秀な占星術師が誕生し、1970年代以降の英国式占星術は、精神分析学や心理療法の研究所、ルネサンス学で有名なウォーバーグ研究所、スイスの人工知能の技術とも関わりながら学際的な独自の発展を遂げていく。
今日の英国占星術の国際社会における位置づけの高さをレオが見たなら、おそらく満面の笑みを浮かべることだろう。

アーサー王伝説に秘められた謎も占星術がらみ!?

ウィリアム・リリー誕生時の出生天球図(ホロスコープ)。
リリーの監修による手書き
(オックスフォード大アシュモリアン博物館蔵)。
英国史には、占星術との関わりを抜きにしては考えられない側面がある。ここで、中世から近代にかけての英国式占星術の歴史を簡略に紹介しよう。
ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハのアーサー王伝説『パーシヴァル』では占星術の知識が隠喩として語られている。エッシェンバッハは中世ドイツの詩人で、12世紀終盤に活動した人物だ。
古のギリシャやローマの占星術は中世の暗黒時代に教会権力によって一旦は封印されたものの、12世紀にイスラムやインド、またケルト民族のドルイド教を経て英国に伝えられた。アーサー王伝説はこうした時代背景を反映している。
そもそも占星術の起源は紀元前20世紀から16世紀のバビロニア(現イラク)にまで遡る。聖書に記されているバベルの塔()は、実はバビロニア人の天体観測所だったという。バビロニア人は「天体の現象は地上の出来事と関係する」という「科学的仮説」に基づき、観察という「科学的方法」によって未来予測が可能だと信じていた。バビロニアの占星術は、紀元前6世紀にはバビロン捕囚を機にユダヤとペルシャに伝わり、さらにペルシャからエジプトとインドへ流れていく。
バビロニアで基礎を築いた占星術は、やがてギリシャ、ローマへと伝播。紀元後2~3世紀のエジプトの都市アレキサンドリアで完成する。ドロテウス、プトレマイオスらが体系化して現在の出生天球図(ホロスコープ)の骨格が仕上がった。古代ローマ帝国滅亡後は、12世紀にアラビア語やペルシャ語の文献がヨーロッパに伝わるまで、イスラム圏で発展を続けるのである。
※バベルの塔…旧約聖書の「創世記」11章に登場。人類は天に届くような塔を造ろうとし、神の怒りをかう。人々は突然異なる言葉を話し始め、意思疎通ができなくなって塔の建築は失敗したとされている。

星が決めていた国家の政策

エリザベス1世の寵愛を受けたジョン・ディー
(John Dee 1527年7月13日~1608年または1609年)。
歴史学者によっては近代初期とも解釈されるルネサンス期に、占星術は黄金時代を迎える。
エリザベス女王の時代は、まだ一般人を占う占星術は発達しておらず、国家の出来事を占って政策を決定する政治占星術が王朝内で密かに実践されていた。
さらに、ヨーロッパの宮廷は占星術師を雇用し、スパイとして国外に派遣することも頻繁に行われていた。例えば、エリザベス1世の宮廷占星術師であったジョン・ディーも秘密諜報員であり、大陸に渡りスパイ活動を行っていた。ちなみに、ディーの秘密文書は「007」と署名されており、これはユダヤ教の神秘思想カバラに由来する。
ディーは、宮廷に入る以前からエドワード6世から恩給を受けていたケンブリッジ大学の数学者。最初からエリザベス1世のお抱えだったわけではなく、エリザベスの腹違いの姉、メアリーがイングランド女王として即位(メアリー1世)した際、同女王からの依頼でスペイン王太子フェリペとの結婚の相性を占っている。
情報は全て妹エリザベスに筒抜けだったとされ、ディーは1555年に反逆罪で投獄される。
しかし、1558年、メアリー1世は死去。エリザベスが君主として即位すると、まず最初にしたことは、ディーに戴冠式の日取りを占ってもらうことだった。以来、ディーとエリザベス1世は親密な関係を築き、結婚占いの相談役となった。
結局、エリザベスは一度も結婚することなく生涯を終え、跡継ぎがなかったため、スコットランド王(ジェームズ6世)が、イングランド王を兼ねるという時代を迎えることになるのだが、エリザベス1世の治世にイングランドが大きな力をつけたことは事実。すべてがディーの占いのおかげとは言わないが、多少の貢献はあったと見るのが自然だろう。
また、ディーはエリザベスに対して様々な政治的助言も行った。大英帝国という概念や、大英図書館を既に構想している。

占星術の役割は魂のケア

ロンドン大火を予言した、ウィリアム・リリー
(William Lilly 1602年5月1日または11日~1681年6月9日)。
17世紀の科学革命以降、欧州大陸では近代化が進むにつれ、占星術は迷信として葬られる一方で、熱心な天文ファンが新たな科学的宇宙論を展開する。英国内でも似た傾向は見られたものの、欧州大陸と大きく異なった点は、占星術は葬られることなく、むしろ商産業化して、印刷技術の発達とともに広く一般化していったことだ。
個人鑑定を行う英国式占星術は、ウィリアム・リリーによって大きく進展した。
リリーはディーよりもさらに政治色が濃く、1649年に共和国評議会に占星術師として雇われている。それ以前から既に政治家の顧客が多く、イングランド内戦の時には、チャールズ1世とオリバー・クロムウェル双方の相談役になっている。そのため1651年には政治犯として投獄され、62年にはチャールズ2世により幽閉される憂き目にもあった。
66年のロンドン大火を48年に予言したことは有名で、リリーは事件との関連性を疑われて尋問にかけられた。しかし、罪には問われず、81年に80年という長い一生を終えている。
この後も英国占星術は絶え間なく変化をとげていくが、20世紀になって、一気に近代化が進んだことは9頁で述べた通りである。
現代人は魂と引き換えに科学技術と自由意志を獲得して、もはやディーやリリーの時代のように運命に翻弄されるようなことはなくなったといわれている。しかし、古代ギリシャ人が、運命とは魂と直結しているダイモン(神霊)だと考えていたように、どれほど科学や技術が進歩しようとも、やはり我々には知り得ない、コントロールしきれないものが存在することは否めない。
哲学者イアンブリコスは、「魂は今生での目的を成就するのに最も相応しい時間に、その時の星の布置を選んで生まれてくる」と言っている。時代がどのように移ろうとも、英国式占星術のコンサルテーションでは魂のケアを最大限に配慮する。これからもそれに変わりはなく、英国式占星術はさらなる進化を遂げていくことだろう。
あなたの今年の展望は?2017年の運勢

2017年の運勢

あなたの今年の展望は?星座別に2017年の運勢をホーリー・グレイルが占います。

ホーリー・グレイル プロフィール

占星術のチャートリーディングとバッチフラワー療法を組み合わせたコンサルテーションを行っている。 1964年生まれ、水瓶座。神話学博士。

牡羊座

牡羊座

3月21日~4月20日
ラテン語Ariesアリエス/英語Ariesエアリーズ

夏がオトシどころ、飛ばし過ぎに注意

今年の牡羊座の運勢の大きなポイントを挙げるとすると次の3つ。まず最初に、この宮を航行している天王星が、天秤座を航行している木星と緊張度の高い、180度の衝の座相を作る点。10月の初めまでは、気持ちばかりが昂揚して現実がついてこないという事態を避けるため、意識の拡大を創造性や長期的な展望に結びつける努力が必要です。気球に乗ってどこまでも高く飛びすぎて着陸地点を見失う…そんなことにならないように注意。
次に、3月から4月にかけて金星がこの宮で逆行します。その前後、つまり2月から5月中旬にかけては対人関係や財政面での変化が起こりやすく、価値観が変動しやすい時期。自己発見の機会として捉え、人格的な成長に結びつけましょう。
3番目は、7月から8月にかけて主護星の火星が夏の太陽と合し、さらに吉角を作る時。生命力がアップし、何事もマックスの状態で果敢に挑むことができます。夏を今年1年間のピークと定めて、計画を立てると良いでしょう。
牡牛座

牡牛座

4月21日~5月20日
ラテン語Taurusタウルス/英語Taurusトーラス

曇りのち晴れ、執着を手放し幸運をゲット

今年は前半と後半とでは運勢が大きく切り替わるでしょう。前半は、はっきりとしないモヤモヤとした状態が続きます。新旧交代の時期で、対人関係や財政面などで諸々の欲求を満たすうえで見直しが起こり、停滞感だけでなく倦怠感すら感じるかもしれません。この時期の出会いや投資は一時的なもので永続性に欠けるので、短期的なゴールを設定して、自己発見の機会や新たな価値観の創造と捉えるのが賢明です。
その後、6月に主護星の金星がこの宮に入ると、まるで眠りから覚めたようにリフレッシュして本来の自分の感性が甦ります。幸運な対人関係や快適で美しい生活が見つかるでしょう。7月後半から8月にかけては、勝敗を決めるストレス度の強いイベントがあり、取捨選択で迷うかもしれません。
これを無事乗り切れば、9月後半から、運勢は高水準で推移していき、長期的に取り組んできたことの結果も出て、海外での今後の発展や拡張に関して良い指針となるでしょう。
双子座

双子座

5月21日~6月21日
ラテン語Geminiゲミニ/英語Geminiジェミナイ

飛躍と発展の年、ゴールに達して苦難からの解放も実現

双子座は、昨年から土星の影響を少なからず受けています。これまでの努力が実り達成感を得る人もいれば、現実に直面しチャレンジを乗り越えようともがいている人もいます。表れ方は様々ですが、気分が憂鬱になる傾向があります。これはそこから何かを学んで次のステップに活かしていくための試練と捉えましょう。
今年は木星からの吉角も受けるので、飛躍のチャンスもあります。長期的な目標が形になり、経済的にも潤うでしょう。双子座の主護星は伝令の神マーキュリーが司る水星。水星がこの宮を通過する6月は、誕生月とも重なり、活気に溢れてビジネスも好調で有益なイベントがあるでしょう。
その一方で、水星が逆行する4月、8月、12月は、小休止を入れて内省的に過ごしながら、次の展開の準備を進める時期。8月下旬から9月にかけては、建設的な努力が必要な時期で、取捨選択に迷うような案件が発生しやすく緊張の強まる時期です。瞑想や針灸はストレス管理に効果的。
蟹 座

蟹 座

6月22日~7月22日
ラテン語Cancerカンケル/英語Cancerキャンサー

ジェットコースターのような年、安全ベルトの着用を

アットホームな気持ちでいられる平和な環境が大切なこの星座ですが、昨今の世界情勢ではそのような居場所を見つけることは大変難しくなっています。今年も変動の波が押し寄せ、チャレンジが続くと思われますが、魚座を航行する海王星と小惑星キロンから吉角を受けており、精神的な喜びも多い時期です。内省的な探求により、アットホームで落ち着ける気持ちを回復することができるでしょう。
軍神マーズが司る火星がこの宮を通過する6月と7月は焦りや苛立ちが強くなりストレスを感じる一方で、6月下旬から7月初めにかけては誕生日とも重なり、有意義な出来事や重要な動きが多い時です。思い切ってなにかを始めるのにも良い時期。8月は美神ヴィーナスが司る金星がこの宮に入り、美しい英国の夏を存分に満喫できるでしょう。ロマンチックな出会いやハッピーなイベントにも遭遇します。
10月からは吉神ジュピターの加護を受け、4年に1度の幸運期が到来します。
獅子座

獅子座

7月23日~8月23日
ラテン語Leoレオ/英語Leoリオ

今年も好調、ピークは夏

多くの星から吉角を受け今年も好調な運勢が続きます。長期的な目標に向けて継続して努力を重ねてきたことが形になる時で、持続的発展のために工夫や刷新を試みる時です。
今年は、誕生月もある夏に多くのことが集中します。単なるエキサイティングなホリデーでは終わらない、夏の決戦の場となりそうですが、勝利を収めるでしょう。今年の夏は、カラフルでドラマチックな展開になりそうです。一方で、8月21日にアメリカ大陸で観測される皆既日食はこの宮で起こるため、その近辺の誕生日の人たちは昨年から来年に向けて大きな変化が起こりやすくなっています。充分な警戒と、何が起きても動じない覚悟と意志力が必要です。老王の失墜とならぬよう心当たりのある方は注意しましょう。
9月にはラブ・ロマンスもありそうです。夏の嵐が過ぎ去った後にホッと一息つける楽しい秋の始まりとなるでしょう。10月から11月にかけては新たなゴールへ向けて一歩前進するチャレンジが浮上。
乙女座

乙女座

8月24日~9月23日
ラテン語Virgoウィルゴ/英語Virgoヴァーゴ

日々是精進、ストレスを感じたら深呼吸

乙女座の主護星は水星、それと穀物の大地母神の名がついた準惑星セレスもこの星座を支配します。水星とセレスの動きから今年1年を占ってみましょう。年初から水星の吉角を受け、好調なスタートを切るでしょう。2月初めまでは順調なペースで進み、その後もセレスからの吉角を受けるので、5月半ば過ぎまでは努力の甲斐あって心地よい春を迎えることができるでしょう。
その後6月の夏至までは、結果を出す時期に入りストレス度も増しますが、この時期も水星とセレスからの援助を受け、奉仕に見合った報酬を得るでしょう。しかし8月から9月にかけては、水星がこの宮で逆行するので、反省の時期に入り、思うように物事が進行しません。夏休みをしっかり取って、心身を休め今後の展開について模索すると良いでしょう。
年間を通じて、うつ状態から悲観的になったり、心配や不安から心身の不調を感じることがあるかも。気分を明るく保つ工夫や健康法の実践が必要。
天秤座

天秤座

9月24日~10月23日
ラテン語Libraリブラ/英語Libraリーブラ

チャレンジの年、冷静な判断をこころがけて

今年、最も大きな影響力のある星の動きとして、主護星である金星の逆行を挙げることができます。2月から5月にかけては、一時的に対人関係が不安定になったり、金融取引に関して変動も起こりやすくなります。この時期に趣味や好みの変化が表れたら、内面的な価値観の移ろいと考えて、新たな自己発見の機会としましょう。永続性には欠けるので、大きな決断を下す時期ではありません。
拡大と発展を促す木星がこの宮を航行しているので大きなチャンスにも巡り会いますが、手を広げすぎると収拾がつかなくなり、大転換の危機的状況にもなりかねません。バランスを取るのが難しいと感じたら、平衡状態を保つようにセルフケアを心がけましょう。
10月中旬から11月初めは金星がこの宮に入り、ようやく本来の自分らしさを取り戻すことができるでしょう。その後も12月初めまでは火星がこの宮を航行するので、新たな目標に向かって積極的に行動を起こすと良いでしょう。
蠍 座

蠍 座

10月24日~11月22日
ラテン語Scorpiusスコルピウス/英語Scorpioスコーピオ

12年に1度の好機到来、存分に活用を

伝統的な占星術では蠍座の主護星は火星。今年は年明けから火星の吉角を受け、幸先の良いスタートを切ります。1月中は寒さも吹き飛ぶ勢いで前進できるでしょう。2月は今年最初のチャレンジの時期となり、これを乗り切れば4月半ば過ぎから5月半ば過ぎにかけて良い結果が出てきます。
7月から8月にかけては主護星が夏の太陽と合し、最も運勢が盛んな時期で何事にも意欲的に取り組めます。ストレスや夏バテが原因でせっかくのチャンスを逃さないように、日頃からよく鍛えておきましょう。この時期の注意点は無意味な競争や争いに巻き込まれやすいこと。また疲労から事故や怪我も起こりやすいので、レジャーやスポーツは無理せずに楽しみましょう。
10月には拡大と発展を促す吉星ジュピターがこの宮に入り、12年に1度のビッグチャンスの到来です。来年の展開に向けて新たな動きが出てくるでしょう。12月には主護星がこの宮に入り、パワー全開となります。
射手座

射手座

11月23日~12月21日
ラテン語Sagittariusサギッタリウス/英語Sagittariusサジテイリアス

ゴールは近い、極端を避け中庸を

今年は何事も極端な方向に向かう傾向が出てきます。リスクの大きな選択を楽観視して行い、結果を侮ると取り返しのつかないことになるので注意。一方で、この宮を航行する土星の知恵を借りて冷静な判断ができれば、リスクをおかさずに力量内で大きな成果を積み上げることができるでしょう。
長期的な目標を達成して、さらなる成長のための基礎作りに励む時です。新たに組織を再編成したり、イノベーションへ向けた長期的な企画をスタートすると良いでしょう。7月半ば過ぎから9月初めにかけては、火星の力を借りて勢いが出ます。特に、7月下旬から8月初めにかけては活動的になり、多彩なイベントに思い切ってチャレンジできる時です。ホリデーの冒険旅行や秋以降の展開に向け、新分野の開拓に全力投球できるでしょう。
一方で、心理的な問題を抱えやすい年なので、不安や恐怖、混乱を素直に自覚して自分の弱点や短所に振り回されないようにしながら、長所を伸ばしましょう。
山羊座

山羊座

12月22日~1月20日
ラテン語Capricornusカプリコルヌス/英語Capricornカプリコーン

引き続き変動運、しかし努力が酬われる日は近い!

今年は政治、経済、文化の面で一方の極端な点からもう一方の極端な点へ振り子のように揺れ動く傾向があり、この星座は最も強く影響を受けます。責任感が強く、重要な社会的役割を担うことが多い山羊座の人たちは、積極的に不正やリスク回避のために働きかけるか、消極的に責任を引き受けて犠牲者となる道を選ぶかの選択を迫られるでしょう。
特に3月から4月にかけては、対人関係や財政面での変動が起こりやすく、今年1年の運勢を大きく左右する分かれ道にもなりかねません。大きな変化や拡張を試みると目論見が外れやすい年ですが、抑制を効かせながら堅実的に努力を積み重ねると予想以上の成果が出る時です。
6月から7月にかけては、潜在的にあった目標が明らかになり始め、迷いも出てくる時期です。一方で、幸運な出会いや楽しいイベントも増え、明るい結果へと導かれるでしょう。8月と9月は、バランスを回復する調整期間で、情報や知識を集めて下準備を進めることを心がけましょう。
水瓶座

水瓶座

1月21日~2月19日
ラテン語Aquariusアクアリウス/英語Aquariusアクエリアス

緊張感の強い発展と飛躍の年、夏が正念場

これまで長期的にやってきたことの結果が出て、到達点が明らかになります。偶然のチャンスや突然の閃きが重なって、さらなるブレイクスルーもありえます。また、テクノロジーや人道的なグループを組織化して、単なる思いつきから始めたことが飛躍的な進化を遂げる時です。革新的なアイディアによって結ばれたネットワークに関わると、今後の展開の礎となる実績や基盤ができるでしょう。
7月中旬から9月初めにかけては、行方を阻む問題やライバル争いの起こりやすい時ですが、一方で積極的にイベントを起こしてリーダーシップを発揮できる時です。正面衝突は避け、忍耐強く可能性を最大限に引き出す粘りが必要です。ストレス度もアップするので夏バテには注意。
9月下旬から11月初めまでは、落ち着いた美しい秋を満喫できそうです。美的な感性も増し、芸術性が要求される分野に関わる人たちには、頭の中で思い描いたアイディアやデザインをスムーズに実現できるでしょう。
魚 座

魚 座

2月20日~3月20日
ラテン語Piscesピスケス/英語Piscesパイシーズ

時に大波、秋以降は拡大発展の好機到来

年明けから愛情と幸運の女神ヴィーナスの加護を受け、1月中は幸先の良いスタートを切ることができます。時に心が乱れ冬の嵐のように揺れることもありますが、ハッピーなイベントもあり気分転換となるでしょう。しかし2月26日に南米からアフリカで金環日食が起こり、誕生日がこの日付と前後する人たちは、今年は変動運となるでしょう。
5月半ば過ぎから6月半ば過ぎまでは今年最初のチャレンジに遭遇します。この結果の善し悪しは、8月から10月初めに表れ、その時期は軌道修正も可能です。このため8月半ばから9月初めは秋以降の展開を試行錯誤する重要な時期となります。有益なメッセージや情報をキャッチしましょう。
年間を通じて心理的な問題を抱えやすいのですが、不安や恐怖、混乱を癒すサポート手段を見つけると幾分か楽に過ごせるでしょう。朗報もあります。10月から約1年、ジュピターの加護を受けるので、4年に1度の拡大発展の好機に入り、海外運も上昇します。

黒い瞳の伯爵夫人 クーデンホーフ光子の決意 [Mitsuko Coudenhove-Kalergi]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2017年2月2日 No.969

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黒い瞳の伯爵夫人 クーデンホーフ光子の決意

黒い瞳の伯爵夫人

クーデンホーフ光子の決意

今からおよそ100年前。
ウィーン社交界で人々の注目を集めた、美しい日本女性がいた。
「黒い瞳の伯爵夫人」とも呼ばれたクーデンホーフ光子を今号では取り上げる。
写真2点はいずれも光子が暮らしたころのウィーンの街角の風景。

【参考文献】
木村毅『クーデンホーフ光子伝』(鹿島出版会、1976年)
シュミット村木眞寿美(編訳)『クーデンホーフ光子の手記』(河出書房新社、2010年)
鹿島守之助(訳)『クーデンホーフ・カレルギー回想録』(鹿島研究所出版会、1964年)
鹿島守之助(訳)『母の思い出 伯爵令嬢オルガ・クーデンホーフ・カレルギー手記』(鹿島研究所出版会、1963年)他

●サバイバー●取材・執筆/根岸 理子

日本のシンデレラ

クーデンホーフ光子―この優雅で美しい響きの名前に聞き覚えのある読者も多いのではないだろうか。光子は、外国人と結ばれ片仮名の苗字を名乗ることに非常に勇気の必要だった明治時代に、オーストリア貴族と結婚した日本女性である。のちに夫となるハインリッヒ・クーデンホーフ(Heinrich Coudenhove-Kalergi)伯爵との出会いは、おとぎ話のように美しく伝説化されている。
そのストーリーは次のようなものだ。
オーストリア・ハンガリー代理公使として日本に駐在していたハインリッヒが冬のある日、乗馬を楽しんでいたところ、愛馬が凍てついた道で足を滑らせ、転倒してしまった。道に放り出された「異人」を人々は遠巻きに眺めるだけであったが、近くの店から飛び出してきて躊躇することなく彼を介抱した美少女がいた。それが、光子であった―というのが、もっともよく語られている二人の馴れ初めである。ただこれは、残念ながらかなり脚色された話のようだ。
実際に二人がどのように出会ったのか、確かなところは今となっては知るよしもない。しかし、ハインリッヒが光子を見初めたことから始まった関係であったらしい。貴族でもある外交官と結婚した町娘は、まさに「日本のシンデレラ」と呼ばれるにふさわしいが、王子―ハインリッヒ―との結婚で、光子の人生が「めでたし、めでたし」と締めくくられたわけではない。本稿では、その後、彼女が歩んだ苦難の道をも紹介することにしたい。

電撃結婚

光子―本名・青山みつ(戸籍名は「みつ」だが、のち自ら光子と称したので以降すべて光子と表記する)は、1874年7月7日(16日とも)、東京牛込に生を受けた。
父の青山喜八は骨董商を営んでおり、その店は、オーストリア・ハンガリー公使館からほど近い場所にあった。そうした縁で、二人は結ばれたのであろう。光子は近所でも評判の美少女であった。少女時代の写真をみても、長身でスラッとしており、白鳥のように優美な首が印象的な女性だ。洋装の方が似合いそうな顔立ちで、ハインリッヒが一目ぼれしたとしても納得がいく。
一方のハインリッヒも長身で精悍な顔つきのなかなかの美男子だった。彼は1859年、オーストリアの伯爵フランツ・クーデンホーフとスラヴ貴族であったマリーの長男として、ウィーンで産声をあげた。オーストリア・ハンガリー代理公使として日本に赴任したのは、1892年のこと。ハインリッヒは33歳となっていた。
来日してまもなく18歳の光子と知り合い、文字通り「電撃的に」結ばれたとされている。 しかし実際には、この結婚話はハインリッヒと光子の父親との間で取り決められたというのが真相に近いようだ。光子の実家には、ハインリッヒの立場にふさわしい金額が納められたと見られるが、親の決めた相手と結婚することはその時代の女性にとってはむしろ当然の義務。少なくとも、結婚式での写真を見る限り光子の表情は明るく、その運命を前向きに受け止めていたと感じられる。
光子はハインリッヒとともに市ヶ谷の洋館に住み、翌年には第一子ヨハネス(1893年生まれ)が誕生。さらにリヒャルト(1894年生まれ)と続けて子供に恵まれる。親元にも近く、東京で暮らした新婚時代は、光子にとって忘れがたい、幸せな日々だったようである。

日本からの旅立ち

ハインリッヒと光子の結婚式の写真。
光子の顔にはまだあどけなさが残る。
そうした幸福な日々についに変化が訪れる。
1896年、ハインリッヒに本国への帰還命令が下されたのだった。その時には、光子も大きな不安を感じたに違いない。そんな彼女に、ハインリッヒはアジアでの勤務を希望することを約束した。折々には日本に帰ることができると信じての旅立ちであったのである。光子夫妻には、日本女性二人が、乳母として同行した。
外国人外交官と正式に婚姻を結んだ日本女性とあって、旅立ちの前に、光子は皇后(のちの昭憲皇太后)に拝謁を許され、特別にお言葉を賜った。「どんな場合にも日本人としての誇りを忘れないように」という内容のその言葉を、光子は終生大事にして生きたといえる。
光子は、ハインリッヒの領地ボヘミアのロンスペルク城へ向かうため、神戸から始まった船旅について、子供たちに書き残している(シュミット村木眞寿美が『クーデンホーフ光子の手記』として翻訳している)。寄航した国々の印象は鮮やかで、初めて触れた異文化への驚きが生き生きと語られている。新しい世界に目を開かれていく光子の興奮した様子が伝わってくるような文章だ。母国を離れた心細さを味わいながらも、ハインリッヒと密に過ごしたこの旅も、のちの光子を支える大事な思い出となるのだが、光子がそれを予知できようはずもなかった。

外国人妻としての日々の始まり

ハインリッヒと光子が一家で暮らした
ロンスペルク城。
©Mejdlowiki
1896年3月、ついに欧州に到達。日本人である自分をハインリッヒの親族はどのように迎えるのか、光子は不安でいっぱいだったはずだ。ここでまことしやかに伝えられているのが、すること為すことすべて―言葉から食事のマナー、衣服の着こなし、立ち居振る舞いなど―に対して周囲からチクリチクリと当てこすられ、光子がひどく「いじめられた」という話である。
光子自身は、そのようなことは語っておらず、皆、彼女を温かく受け入れてくれたとしている。とはいえ、、実際、周りと馴染み分かり合うには、それなりの時間がかかったと考えるほうが自然だろう。東洋人、しかも平民の娘である光子への偏見は相当強かったのではなかろうか。
そのような新しい生活では、ハインリッヒの気遣いは不可欠だった。ハインリッヒに守られる中で少しずつ新しい環境に慣れていった光子は、やがて、彼の親族の住居に呼ばれたり、知人・友人の夜会に招かれたりと、伯爵夫人らしい華やかな日々を送るようになっていく。まさにシンデレラの世界であるのだが、一つだけ異なっていたのは、シンデレラは自らの国で幸せになったが、光子は母国とのつながりを失いつつあったということである。
当初は、ヨハネスとリヒャルトの乳母の日本女性たちがいたので、光子も日本語で会話する機会が多かった。
しかし、領地管理人が不正を行なっていたことが発覚したため、ハインリッヒは外交官を辞し、領地を自ら管理することを選択したのである。かくして、アジア駐在の話は夢と消え、夫妻はロンスペルクに身を落ち着けることになった。
日本に家族がある乳母たちを、ずっと引き留めておくわけにもいかず、光子は彼女たちを帰国させた。ついに、ロンスペルクで唯一の日本人となってしまったのである。子供たちは、壁に向かって自分たちには分からない日本語で、長い独り言をつぶやく光子の姿を目撃している。そこで語られた光子の言葉は、どのようなものであったことか。
ホームシックというのは、体験した者でなければわからない。その身が在るべき場所にないような、それまで長く生きてきた場所に引かれるような、強烈な感覚。母国語で語り合う相手がいない生活の中で、光子はどのようにその感情・感覚を乗り越えたのか。ロンスペルクの住人たちは、時折、ただ一人馬で駆けるほっそりした光子の姿を見かけたという。光子は周囲にぶつけることのできない想いを、乗馬で紛らわしていたのではない。しかし、落馬で怪我を負ったことで、彼女はこのささやかな慰めさえ失ってしまうのである。
「帰省」という形で一時的にでも日本に戻ることができていれば、光子の心も癒されたかもしれない。しかし、度重なる妊娠・出産により、そうした計画もかなわなかったのだった。

「八番目の子供」

日本で誕生したヨハネス、リヒャルトに加えて、ハインリッヒ・光子夫妻は子宝に恵まれた。三男ゲロルフ(1896年生まれ)、長女エリーザベト(98年生まれ)、次女オルガ(1900年生まれ)、三女イーダ・フリーデリーケ(01年生まれ)、四男カール(03年生まれ)と、ほぼ2年ごとに「おめでた」が続いた。子供たちが背の順にずらりと並んでいる微笑ましい写真が残っているが、彼らを見つめる光子の表情は柔らかく優しい。
しかし、若い光子は、一家の主婦、そして七人の子供たちの母親というよりも、「八番目の子供」として女学生のような生活をしていたようである。ドイツ語、英語、フランス語などの語学に加えて、算数、歴史、地理、ヨーロッパ風の礼儀作法など、学ぶことは山ほどあった。真面目な光子は、そうした勉強に全力で取り組んだ。
ところが、七人目の子供、カールが生まれた後、光子は肺を患ってしまう。ハインリッヒは何とか回復させようと、光子を南チロルへ連れて行き、子供たちも呼び寄せた。新鮮な空気と暖かい気候のおかげで、病気からも無事全快、一安心した光子であったが、気付かぬうちに、夫との永遠の別れの日がゆっくりと近づいていたのである。妻や子供たちについては、あれこれ心配するが、自身の健康には無頓着なハインリッヒであった。

二人のマリー

ハインリッヒは光子と出会う前に、愛する二人の女性との死別を経験している。奇しくも二人とも「マリー」という名前であった。
一人目のマリーは、自らの母親。ギリシャ系スラヴ貴族出身で、美しく優しい母・マリーをハインリッヒは心から敬愛してやまなかった。だがしかし、母は36歳という若さで病(猩紅熱といわれている)により世を去ってしまう。その時、ハインリッヒはまだ17歳であった。
母親の旧姓は「カレルギー」であり、1903年にハインリッヒが苗字を「クーデンホーフ=カレルギー」としたのは、母の存在の「証し」を残したかったからと考えられる。
彼が常に身に着けていた金のロケットの中には母の遺髪が入っており、「お母さん、私のことを忘れないでください」という言葉が刻まれていたという。ハインリッヒだけでなく、妻を熱愛していた父も、最愛の女性を失ったショックから立ち直ることは生涯できなかったようであり、マリーの早すぎる旅立ちは、その後、クーデンホーフ家に暗い影を落としたのだった。
二人目のマリーは、ハインリッヒがウィーンで軍務に服していた20歳の時出会ったフランスからの音楽留学生であった。若い二人はたちまち恋に落ち、マリーはほどなく子供を身ごもった。二人は結婚を望んだが、ハインリッヒの父が強く反対し、彼をドナウ河畔の城で謹慎させてしまう。
若すぎるということと、マリーが平民の出自だったことから結婚を認めなかったようだが、この恋は悲劇的な結末を迎える。マリーが、ハインリッヒが閉じ込められていた城の庭でピストル自殺を遂げたのである。愛してやまない女性の亡骸を目にした時のハインリッヒのショックと悲しみは、いかばかりであっただろう。
恐らくは、日本で光子が出会った時のハインリッヒは、愛する者を失う苦しみを立て続けに経験し、胸に埋められない穴を抱えた状態で、いまだ立ち直れていなかった。しかし、光子は、ハインリッヒは大きな明るい声で笑い、誰からも好かれ尊敬される人だったと繰り返し語っている。彼女との結婚により、ハインリッヒはその胸の空洞を埋めることができた、ということなのかもしれない。

学者肌の語学の天才

ハインリッヒが一目ぼれしたのも
うなずける美貌の光子(撮影年などは不明)。
語学に堪能(18ヵ国語を自由に使いこなせたという)で、諸宗教についても通じていた学者肌のハインリッヒ。それにもかかわらず、聡明だったはずの光子と学問上の話をすることはほとんどなかったとされている。
「女学者」「女物知り」タイプの女性、そして「ブルーストッキング」(教養ある上流階級婦人タイプ)の女性たちを、ハインリッヒは嫌ったという。光子は自分が無知で受身だったので、愛されたというようなことを語っている。しかし、実際のところは、光子は非常に頭の良い、知的な女性だった。
ハインリッヒにその気さえあれば、共に刺激を与え、成長できる関係になっていた二人だったのではあるまいか。二人がそうした関係を築けていれば、ハインリッヒの早すぎる旅立ちの後、光子はもう少し楽であったのではないかと思わずにはいられない。
ただその美しさをめで、守り、子供のように扱うのではなく、光子を「共に生きる同志」と見るべきだったのではないだろうか。そうしていれば、光子はハインリッヒの考えをより深く知ることもできていたはずで、あまりにも急に訪れた「悲劇」に対して、もう少し備えることもできていたと断言したい。

早すぎる別れ

ハインリッヒとの永遠の別れの日は、光子が全く予期しない形で訪れた。
1906年5月14日早朝。
早起きのハインリッヒは、いつもと変わらず5時に起き、日課の散歩に出かけた。だが途中で胸の痛みを覚えて城に戻り、召使を呼んだ。蒼白な顔をしてソファーに横たわっている主人の姿に驚いた召使が、光子を呼びに行こうとするのを押しとどめると、ハインリッヒは肌身離さず身に着けていた金のロケットに唇を押し当て、そのまま息を引き取ったのである。
まだ46歳という若さであった。光子も子供たちもこの突然すぎる別れにどれほどショックを受け、悲しみに打ちひしがれたことだろう。
几帳面なハインリッヒは、20年にわたって毎日かかさず日記をつけており、それは数十冊にも及んでいた。忠実な執事と光子は、自分が死んだ場合にはそれらを焼却するようにというハインリッヒの言葉に従い、深い悲しみの中、庭で日記を燃やした。そこにはどのような言葉が綴られていたのであろうか。日記はハインリッヒにとって自らとの対話のようなものであったと推測できるが、それを、妻との、光子との対話とすることはできなかったのかと悔やまれる。
光子と最後の言葉を交わすことなく、逝ってしまったハインリッヒ。光子は、3歳から13歳までの七人もの子供を抱えて、文字通りただ一人、異国に取り残されてしまったのである。光子はまだ32歳だった。

肩にのしかかる重圧

ハインリッヒの遺言状には、光子を包括相続人とし、七人の子供たちの後見人ともすると指定してあった。日本人であり、また、それまで自らもハインリッヒの娘であるかのような生活をしていた光子に、財産管理などできるかと、クーデンホーフ一族の誰もが危ぶんだが、光子は覚悟を決めた。
「家長」という新しい責務を引き受けることにしたのである。母国日本に帰ることを選ばず、子供たちを立派なオーストリア人―ヨーロッパ人―として育てる決意をしたのだった。
きゃしゃな光子の肩にのしかかる、過酷なほどの重圧。これは、優しく忍耐強かった光子の性格を一変させてしまったようである。その美しい顔から微笑みが消え、子供たちや使用人は、専制的にふるまう光子を恐れるようになる。のちにカトリック有数の作家となった三女のイーダ・フリーデリーケは、当時の光子は癇癪を起こすと雌獅子のように恐ろしく、子供たちは彼女が眉を寄せるだけで震え上がったと語っている。
この時、もし光子に心から信頼できる身内や友人がいれば、事態は異なっていたかもしれない。一人で考え、一人で決めなければならない状況が、彼女をそこまで追い込んだのである。孤立無援の光子は、なぜ彼女を一人残してそのように早く去ってしまったのかと、天にいるハインリッヒに向かって、繰り返し問いかけたことだろう。

ウィーンでの日々

パリのゲラン本店にある、香水「Mitsouko」のボトル。
ゲランは、「ミツコ」の名を当時流行した小説から
とったとしているが、美しい光子のことを
聞き及んでいた可能性は高いと思われる。
©Miyako Hashimoto
光子はやがて領地の一部を売り、ウィーンに移り住むことに踏み切る。
シェーンブルン宮殿にほど近い場所に住居を定め、息子たちはテレジアヌムに、娘たちはサクレ・クール学院に入れた。「黒い瞳の伯爵夫人」として光子がウィーン社交界で注目を浴びたといわれているのは、この時代のことである。光子が「サロンの女王」と言われるほど社交にいそしんだかどうかは定かではないが、輝くばかりの美青年に成長したヨハネスとリヒャルトにエスコートされる日々は、ハインリッヒが生きていた時とはまた異なった幸せを、つかのまながら彼女に感じさせてくれたに違いない。
貴族の子弟が通う名門校・テレジアヌムの、金ボタンのついたコートを着て、腰にはサーベルまで下げた美形の息子たちと連れ立って歩くと、光子の胸は誇りでふくらんだ。彼らの姉と間違われるほど、若々しく美しいこの頃の光子であった。

巣立っていく子供たち

1930年、ベルリンで開催された
パン・ヨーロッパ会議に参加した、
イーダ・ローラン(当時49歳、写真右)。
左は小説家トーマス・マン。
©German Federal Archives
その自慢の息子たちの巣立ちの日は、思いがけなく早くやってきた。
芝居好きの光子は、ある日、ウィーン社交界で話題になっていたイーダ・ローラン(Ida Roland 1881~1951)という女優の舞台を観に行くことにし、ヨハネスとリヒャルトを伴って出かけた。
すっかり感動した光子は、イーダと交流を持つようになり、ある時、光子とヨハネスは非公式の晩餐会に招待されたが、ヨハネスは所用で応じることができなかった。一人での出席をためらう光子に、通常は社交にあまり熱心ではないリヒャルトが、自分が代わりに行っても構わないかと尋ねた。イーダの舞台に心奪われたのは光子だけではなかったのである。
晩餐会では、イーダとリヒャルトは隣り合って座ることになり、いつもは寡黙なリヒャルトが彼女と楽しげに話し込んでいる姿は、光子を驚かせた。
それから数日後、ウィーンのフォルクス・テアターで開かれた仮装舞踏会に光子と共に参加したリヒャルトは、「彼だけのために来た」というイーダと夢心地で踊った。以来二人は離れられない関係となったのである。
光子が事態に気付いた時には、二人はすでに結婚する決意を固めていた。20歳にもならない、まだ学生であるリヒャルトと、離婚歴もあり、娘までいる30歳を過ぎた女優との結婚。
光子だけでなく、クーデンホーフ一族の長老で、当時ボヘミアの知事であったマックス・クーデンホーフも猛反対する。しかし、そのような周囲の反対に従うようなリヒャルトではなかった。イーダとの愛を選んだリヒャルトは、一族と絶縁状態になった。恋人にも等しかった最愛の息子を、光子は生きながらにして失ってしまったのである。
光子の予想を超える恋愛・結婚をしたのは、長男のヨハネスも同じであった。ヨハネスの妻となったのは、元はサーカスの馬術師であったリリーという女性。光子は彼女とも良い関係を築くことができず、結果として思い出深いロンスペルクの城を明け渡すことになってしまった。
すべて良かれと思ってやったことだったが、光子の厳しさを嫌い、大事に育ててきた子供たちが次々に去っていくという悲しい思いを経験する。やがて卒中により半身不随となった光子の傍を最後まで離れなかったのは、次女のオルガだけだった。

EUの生みの親!?
リヒャルト

リヒャルト 光子の次男、リヒャルト・ニクラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギー(Richard Nikolaus Eijiro Coudenhove-Kalergi 1894~1972)は、欧州統合運動のきっかけとなったパン・ヨーロッパ(Pan-Europe)思想を提唱したことで名高い。そのため、光子は「パン・ヨーロッパの母」とも称されることとなった。つまり、リヒャルトは、現在のEU設立の先駆者といえる。
光子は日本生まれの長男ヨハネス(リヒャルトと同じく「光太郎」という日本名を持つ)とリヒャルトを特別扱いしていたという。女優イーダ・ローランとの結婚により、一時は光子やクーデンホーフ一族と絶縁状態になったリヒャルトだが、イーダのヒモのような状態になるだろうという周囲の予想に反して、ウィーン大学で立派に哲学博士号を取得した時は、さすがの光子も喜んだといわれる。しかし、晴れがましい博士号授与式には、イーダとの同席を拒んで光子は出席しなかった。
映画「カサブランカ」に出てくる反ナチスの指導者ビクターのモデルともささやかれているが、様々な「伝説・逸話」に彩られているクーデンホーフ一族の例にならって、これも事実とは言い切れないようだ。
リヒャルトのパン・ヨーロッパ思想には、父母の国際結婚や、父・ハインリッヒの諸国諸宗教への関心と理解が影響を与えていると思われるが、母・光子の人生は、異なる言語・文化・習慣を持つ者が一つになる事の難しさをも伝えているようである。

果てぬ望郷の想い

光子が他界したことを伝える告知。
「Mitsu」と「Aoyama」の文字が見える。
「私は、いつも仮装舞踏会に出ているような気がしている」
光子は、そのオルガに語っている。22歳になるかならないかで、母国にすぐに戻れる、少なくとも帰省はできると信じて異国にわたった光子。子供たちは立派なヨーロッパ人に育てることはできたが、自身は借り着をまとっているような気持ちから逃れられなかった。自分の弱点は決して人に見せてはならないとも、光子はオルガに語っている。町娘から異国の伯爵夫人になったシンデレラは、常に気を張って生きていたのである。
晩年の光子の楽しみは、ウィーンの日本大使館を訪ね、日本語を話し、日本の新聞を読んだり、レコードを聴いたりすることであったという。どれほど日本に帰りたかったことだろう。しかし一方、自分が愛した母国が、決して同じままではないことも悟っていた光子であった。
また、結婚問題で疎遠になった愛息リヒャルトが、パン・ヨーロッパ思想の提唱者として著名になったことを光子は喜んだが(コラム参照)、それは息子個人についての喜びの域を出ておらず、彼がテニス選手になったとしても、光子は同様に喜んだであろうと、リヒャルト自身は冷静に分析している。
1941年8月27日、光子永眠。
折りしも、ついに帰ることのできなかった懐かしい母国・日本は悲惨な戦争に突入しようとしていた。それを見ずに済んだことは救いだったといえる。
ロンスペルクの夫の墓近くに埋葬されることを望んでいたものの、それはかなわず、光子はウィーンのヒーツィングにあるクーデンホーフ家の墓に葬られ、今も静かに眠っている。
夫ハインリッヒは、光子に別れも告げずに旅立ったが、「君は本当に良くやってくれた。ありがとう」と、天で彼女を迎えてくれたと願いたい。光子が67年の生涯で最もほしかったのは、何よりもハインリッヒからのねぎらいの言葉だったという気がしてならないのである。

これだけは知っておきたい ハーグ条約 基本のキホン

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2015年7月2日 No.888

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Hague Convention

これだけは知っておきたい

ハーグ条約 基本のキホン

国際結婚をしている人に限らず、 海外に居住する我々日本人にとって、 気になる条約が昨年4月、日本において発効した。 「国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約」(以下ハーグ条約)だ。今号では、ハーグ条約の概要と疑問などを 編集部なりにまとめた基礎知識とともに、 条約締結後の日本の状況などをお届けしたい。
取材協力:外務省(在英国日本国大使館 領事班)

●サバイバー●取材・執筆・写真/ネイサン弘子・本誌編集部

「国際結婚」という言葉に華やかな響きを感じる人は少なくないかもしれない。異なる文化背景を持つ者同士が、異なるからこそ惹かれ合う反面、異なるからこそ越えられない相互理解の壁が立ちはだかることもある。言葉の壁や文化、価値観の違い、母国から離れて外国で家庭を持ち暮らす苦悩や淋しさなど、憧れていたものと違う現実もあることだろう。
そんな時、気軽に「少しの間、実家に帰らせていただきます」とはいかないのが国際結婚生活の難しい所。困難を乗り越えていく夫婦がいる一方、残念ながら結婚が破綻する夫婦もいる。厚生労働省の発表によると、国際結婚をした日本人の離婚率は4割と高い。そしていざ離婚となった時に、子どものいる家庭の場合、一番に考慮しなければならないのが、その子どもの存在だ。
世界的なグローバル化の流れにより、国際結婚・離婚が増加したことで、1970年代頃から一方の親による国境を越えた子の連れ去りが国際問題として注目されはじめ、世界共通のルールを制定する必要性があると世界的に認識されるようになった。そこで1976年、国際私法に関する統一を目的とする国際機関「ハーグ国際私法会議」(HCCH)は、この問題について検討することを決定。1980年10月25日、一方の親によって外国へ連れ去られた子どもを元の居住国へ返還することを原則とした条約を作成した。オランダのデン・ハーグ(下記参照)で作られたことから通称ハーグ条約(Hague Convention=英語では「ヘイグ・コンヴェンション」)と呼ばれている。
国境を越えた子どもの連れ去りなどにより、もう片方の親や親族に会えなくなるばかりでなく、子どもにとってそれまで慣れ親しんだ生活が突然急変することを余儀なくされることは、子どもの利益に反し悪影響を与える可能性がある。本条約では、そのよう事態から子どもを守るため、原則として元の居住国に子を迅速に返還するための国際協力の仕組みについて定めている。どちらの親が子どもの世話をすべきかの判断は、子がそれまで生活を送っていた国の司法の場において、子の生活環境の関連情報や両親双方の主張を十分に考慮した上で、子どもの監護について判断を行うのが望ましいと考えられているため、まずは子どもを前居住地に戻した上で、必要であれば現地での裁判を促すという形をとる。
また、国境を越えて所在する親と子どもが面会交流できない状況を改善することは、連れ去りなどの防止や、子どもの利益につながると考えられるため、本条約は国境を越えた面会交流実現への協力についても定めている。

日本の加盟までの長い道のり

ではなぜ、条約作成から24年も経過した今になって日本が本条約を締結するに至ったのだろうか。その理由として、ハーグ条約は欧米諸国を中心に作成されたものであるという点がまず挙げられる。

欧米諸国と非欧米国間の国際結婚の場合、多くのカップルの居住地が欧米国となっており、大抵の案件が、非欧米国に連れ去った子どもを、欧米国に引き渡すという内容であった。そこで、連れて来た子どもが他国へ返還させられることは、自国民の利益にかなわないと考えられており、当初は日本を含め、欧米以外の国はほとんど条約に加盟しなかった。
しかし、その後も増え続ける国際離婚に伴い、加盟国は増加。日本においても1970年に年間5000件程度だった国際結婚は、1980年代後半から急増、2005年には4万件を超えた。日本と欧米諸国の間でも、特に日本人女性が、結婚生活の破綻後に父親の同意を得ることなく子どもを日本に連れ去り、面会させないという事案が相次いで発生。英国においては、2008年に外国へ子どもが連れ去られた事例は336件で、東アジアにおいては日本人が関わる事例が多いことが報告されている。
その結果、残された親が長年に渡り日本に居住する子どもと連絡すら取れないという事態が発生し、欧米の加盟国から、日本の加盟を強く求める声は日増しに高まっていった。一方で、外国人の親により、日本から子どもが連れ去られる事案も発生。
さらに、本条約は、連れ去られた国と連れ去った国両方が条約締結している場合のみ効力を発する条約。そのため、外国で離婚し暮らしている日本人が、日本が条約未締結であることを理由に、連れ去りの意思がないにもかかわらず、連れ去るのではないかと疑われて、子どもと共に日本へ一時帰国することができないケースも起こっていた。
こうした状況の中、日本政府は2011年1月に、ハーグ条約の締結の検討を開始。関係省庁が会議を開催した結果、締結には意義があるとの結論に達し、条約締結に向けた準備を進めることを閣議了解した。そして2013年6月、「国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約の実施に関する法律(ハーグ条約実施法)」が成立。自国の法整備を整えた上で、14年4月1日、日本においてハーグ条約が発効したのだ。  条約を結ぶことで、日本から子どもを連れ去られた時に、相手国が条約加盟国であれば、これまで当事者が自力で行ってきた、相手国から子どもを連れ戻す手続きや、親子面会交流の確保のための手続きを、政府機関を通じて進めることが可能になる。そして、日本が条約を締結したことが周知されることで、外国と日本双方への子どもの連れ去りを未然に防止する効果が期待できる。さらには、外国で離婚し、暮らしている一部の日本人が悩んでいた、子どもを連れての一時帰国がなかなか許してもらえないという問題の改善が見込めるのだ。
ハーグ条約への日本の加盟を、やみくもに、「難しそう」「大変なことになった」などと思い込まず、まずは理解を深めていくことから始めてはどうだろうか。何よりも大切なのは子どもの幸せだと考える人に、道は開けると信じたい。

こんな事例も…

「連れ去られた娘、引き渡して」

米国人男性が異例の申し立て
日本人母は死去、祖母が後見人


当時婚姻関係にあった日本人女性に娘を連れ去られたとする米国人男性(47)が6月1日、娘の養育権と身柄引き渡しを求める申立書を東京家裁に送付したことが分かった。女性は離婚後に死去、娘は女性方の祖母が後見人として日本で養育している。専門家によると、国際結婚した親が養育権を求める申し立てで、子どもの親権者が不存在のケースは異例。子どもの連れ去りに厳しい米国との国際問題に発展する可能性もある。

男性の日本側弁護士によると、男性が日本人女性と結婚後、数年で娘が誕生。日本国内で暮らしていた時期に女性が男性に無断で娘を連れて国内の実家に戻った。平成18年に離婚が成立し、女性が娘の親権者になったが、翌年に自殺。娘は親権者を失い、女性方の祖母が娘の後見人となって日本で育てている。
男性は「隣人が電話で『引っ越すのか』と聞いてきた。すぐに帰宅したが、妻が娘を連れていなくなっていた」と連れ去りの状況を話す。男性は米国でも娘の養育権などを求めて提訴したが、「米国に司法権がない」として認められなかった。連れ去り後、21年までに2回しか娘と会っていないという。
男性は「唯一の親が知らない間に、祖母が娘の後見人となった決定は無効」として、娘の養育権と身柄の引き渡しを求める審判を求めた。男性の日本側弁護士は「民法は監護者を決めるときは子どもの利益を最優先すると定め、『子の不当な連れ去りが不利に働く』とする法相の国会答弁もある。父親との交流を妨害する祖母の行為は未成年である娘の養育に重大な害悪を及ぼす」と主張している。
家族法に詳しい早稲田大学法学学術院の棚村政行教授は「国際結婚で子を連れ去った片親が死亡し、親権を失った方の親が養育権を求める審判は非常に珍しい。離婚しても子どもに会うのは親の当然の権利とする米国と日本の文化の違いが際立つことになるだろう」と話す。
日本では昨年4月、国境を越える子の連れ去りの扱いを決めたハーグ条約が発効されたが、今回のケースは国境を越えておらず、発効前の連れ去りで対象にならない。ただ、関係者は「米国政府は日本人が思っている以上に子どもの連れ去り問題を重要視している。申し立てを受け、日本への風当たりが強くなるかもしれない」と国際問題に発展する可能性を指摘する。
祖母は産経新聞の取材に対し「コメントはない」とした。
(産経新聞より)

ハーグ条約 Q&A

Q1 もう片方の親に無断で子どもを日本に連れて帰った。これって犯罪?
A1 ハーグ条約は子どもの連れ去りを刑事的に罰する条約ではない。ただし、国によっては、他の親権者の同意なく子を国外へ連れ出すことが誘拐罪等に問われ、逮捕されることもある。英国においては、親が他方の親の同意を得ないで子どもを国境を越えて一方的に連れて去ると、たとえ実の親でも刑法違反となり、英国に再渡航した際に逮捕される場合もある。日本では、国内であっても、親が子どもを連れ去った場合、誘拐や略取に該当する行為があれば、未成年者略取誘拐の犯罪とされることもある。

Q2 子どもの返還要請が出されたら、必ず返還しなければいけない?
A2 ハーグ条約では、原則として子どもを元の居住国に返還することになっているが、返還することで、子どもに重大な危険がある場合などは返還を拒否することもできる。

ハーグ条約の返還拒否事由一覧
●連れ去りから1年以上経過した後に裁判所への申立てがされ、かつ子どもが新たな環境に適応している場合。
●申請者が連れ去り時に現実に監護の権利を行使していなかった場合。
●申請者が事前の同意または事後の承諾をしていた場合。
●返還により子どもが心身に害悪を受け、または他の耐え難い状態に置かれることとなる重大な危険がある場合。
●子どもが返還を拒み、かつ該当する子どもが、その意見を考慮するに足る充分な年齢・成熟度に達している場合。
●返還の要請を受けた国における人権及び基本的事由の保護に関する基本原則により返還が認められない場合。

Q3 DV被害者に対する配慮はある?
A3 A2にある、「返還により子どもが心身に害悪を受け、または他の耐え難い状態に置かれることとなる重大な危険がある場合」にあたれば返還拒否となる。子どもの返還を求める親が、子どもに対し暴力を振るうおそれがあったり、もう一方の親に対して、子どもに悪影響を与えるような暴力を振るうおそれがあったりする場合は、これに該当する可能性がある。だが、子どもに対して、重大な危険が認められない場合は、返還が命じられる。

DVの事実があることをどうやって証明するか―。
●まず記録することが大切。日記、あるいは覚え書きなど、配偶者などにより暴力をふるわれた日時、その程度など、できるだけ具体的に書き残して置くこと(日本語で十分)。あとで、思わぬ形で役に立つ日がくるかもしれないという。
●第三者に通報・相談する(客観的な証明となる)。
①配偶者などに暴力をふるわれている場合は警察に通報する、あるいは相談することを考えるべき。警察がたとえ出動する事態にならずとも、通報・相談したという事実は記録として残るので、法廷で物的証拠として提出することが可能。
②日本大使館領事班に相談する(電話では、記録として公的に残らない。実際に出向く必要あり)。必要に応じて支援団体を紹介してもらうなど、次のステップに移ることになるが、支援団体はそれぞれ弁護士を抱えているのが一般的。法的な相談にのってもらうことも可能(Q8参照)。

Q4 英国で離婚した場合、親権はどうなる?
A4 あくまでも英国においての話になるが、両親が婚姻している場合、未成年の子に対する親権は両親に帰属し、両親が離婚した場合にも基本的には父母の親権は存続し、共同親権となる。

Q5 条約の対象となる「子ども」とは何歳?
A5 16歳未満。子どもが連れ去られた後に16歳に達した場合でも、ハーグ条約の対象外となり、返還命令を出すことはできなくなる。


Q6 ハーグ条約は国際結婚にしか適用されない?
A6 親と子どもの国籍に関係なく、子どもが国境を越えた形で不法に連れ去られていれば、日本人同士であっても条約は適用される。

Q7 費用はかかるの?

©parentdish
A7 連れ去られた子どもの返還援助を申請した場合、子どもの所在地を調査するための調査費用などはかからない。その後、当事者同士の話合いが困難な場合、外務省が委託契約している「裁判外紛争解決手続(ADR)機関」を利用して協議を行うことができる。この場合、ADR機関の利用手数料は外務省が負担する(上限額以上は利用者が負担)。ADR機関の利用による協議で決着がつかず、裁判になった場合の弁護士費用などは申請者が負担する必要があるが、経済的な困難を抱えた人は、弁護士費用等の貸付制度を利用できる。

Q8 子どもを連れて日本へ帰りたい、子どもを外国へ連れ去られた…困った時はどこに相談すればいい?
A8 条約締結国はハーグ条約を管轄する政府内機関を中央当局として指定しており、日本では外務省が担当。これをうけ、日本大使館領事班では海外に住む日本人に対して様々な支援を行っており、DVや家族問題、国際離婚に関する問題についても相談を受け付けている。支援団体、弁護士情報も提供してくれるので、英国在住の方はまずは下記にご相談を。どうぞ、独りで思いつめたりしないでいただきたい。
Tel: 020-7465-6565
※音声案内で日本語を選択→その他の照会→ハーグ条約に関する相談であることを告げる


キーワードのおさらい

「国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約(ハーグ条約)」
The Hague Convention on the Civil Aspects of International Child Abduction


ハーグ国際私法会議 (HCCH)
Hague Conference on Private International Law

国際私法に関する規則の統一を目的とする政府間国際機関。オランダ・ハーグに事務局を有する。日本はヨーロッパ諸国以外では初めての国として1904年から同会議に参加している。

残された親
left behind parent(LBP)


連れ去った親
taking parent(TP)


親権(監護権)
parental responsibility(child custodyとも言う)


中央当局
Central Authority

ハーグ条約に対応する各国の機関

子どもの奪取及び面会交流ユニット
The International Child Abduction and Contact Unit(ICACU)

英国法務省管轄の中央当局

裁判外紛争解決手続(ADR)機関
Alternative Dispute Resolution

裁判によらず、中立的な第三者が当事者間に介入して紛争を解決する方法。当事者間による交渉と、裁判の中間に位置する。

ハーグ条約発効後の日本における状況

2014年4月1日に日本においてハーグ条約が発効してから1年が経過し、初年度の処理件数は100件を越えた。この数字は、条約締結後の初年度の件数としては世界的にも一、二を争うレベルだという。この1年の申請状況と実績をみてみよう。
※数字は平成27(2015)年5月14日現在のもの。外務省領事局ハーグ条約室提供。

申請の受付状況
外務省が受け付けた申請件数:123件

▼外国から日本に連れ去られた子どもに関する申請:
返還援助申請:27件
面会交流援助申請:58件

日本に連れ去られた子どもの外国への返還が6件実現
● 任意の返還:フ ランス、ドイツ、ベルギー
● ADR(裁判外紛争解決手続機関)を利用した協議を経ての返還:カナダ
● 裁判による返還:スリランカ
● 調停による返還:スペイン

▼日本から外国に連れ去られた子どもに関する申請
返還援助申請:20件
面会交流援助申請:18件

外国のハーグ条約締結国へ連れ去られた子どもの日本への返還が5件実現
● 任意の返還:アメリカ
● 裁判による返還:スイス、スペイン、フランス
● 裁判所における和解による返還:ドイツ

ハーグという街

ハーグ条約の名称の元になっているオランダの都市ハーグは、北海沿岸に位置するオランダの都市だ。正式名称は「デン・ハーグ(Den Haag)」で、オランダ語では「デン・ハーハ」と発音される。同国第3の都市でありながら、国会、各国大使館、王室の宮殿が置かれ、事実上の首都といわれている。
また、ハーグ条約が作成されたハーグ国際私法会議事務局をはじめとする150もの国際機関が存在する国際司法都市となっている。そのため、ハーグは多くの建造物と歴史地区が佇む、荘厳な雰囲気漂う『平和と司法の街』とも呼ばれる。


ハーグが司法都市となったきっかけは、1899年と1907年の2回にわたって開かれた万国平和会議にさかのぼる。この会議では紛争の平和的解決と軍備制限、戦時国際上の諸問題を取り扱った。その後、世界平和という理念に基づき建設された平和宮殿(Het Vredespaleis)=写真右=が1913年に完成。ハーグは平和と司法の国際都市として発展していった。平和宮殿には、国際司法裁判所、国際紛争の平和的処理を目的とした常設仲裁裁判所、平和図書館などの組織・施設が入っており、ガイドツアーでは、宮殿の内部や庭園を見学することができる。
この他にも、王室の宮殿であるハウステンボス宮殿(オランダ語で『森の中の家』という意味)、世界的にも有名なオランダ人画家、フェルメールの「真珠の首飾りの少女」を所蔵するマウリッツハウス美術館、オランダで最も人気があるというビーチ、スヘフェニンゲン(Scheveningen)など、見所の多い街だ。
オランダの代名詞と言えばアムステルダムだが、オランダ人が「デン・ハーグを見ないことにはオランダを見たとは言えない」と語るオランダを代表する街のひとつであるハーグを、是非訪れてみてはいかがだろうか?

女性参政権100年 サフラジェットの決意

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参政権を求めて活動するサフラジェットたち。街頭で女性らが次々と連行され、激しく抵抗する姿は多くの人に衝撃を与えた。
■ 現代女性が当然のように享受する参政権は、女性らが熱望した夢だった―。「Votes for Women(女性に参政権を)」のスローガンを掲げて闘った活動家らの闘争を、その中でも過激派と呼ばれた「サフラジェット(suffragette)」のメンバーだった女性の生涯を通して見ていこう。

●サバイバー●取材・執筆/名越美千代・本誌編集部

命を投げ出した女性

レース翌日の「デイリー・ミラー」紙では、表紙を使ってレース当日の事件の瞬間を伝えた。写真左端にデイヴィソンと、その隣に馬、旗手が横たわっている。
1913年6月4日、 それは一瞬の出来事だった。
イングランド南東部サリーにあるエプソム競馬場は、名門競馬レースのダービーを楽しむ人々で朝から賑わっていた。この年のダービーには、時の英国王ジョージ5世が所有する馬が出走しており、王は王妃メアリーと共にゴールを一望する特別席から観戦していた。
午後3時をまわった頃、いよいよジョージ5世注目のレースがスタート。競走馬がゴール前の最後の直線コースへ入るコーナーに差し掛かった、まさにその時――。ひとりの女性が防護柵をくぐり抜けてコースに飛び出し、全力で疾走する王の馬の前へ、その手綱に手を伸ばすように身を投げ出したのだ。そして次の瞬間、女性はあっけなく蹴り倒され、馬も転倒、騎手も投げ飛ばされてしまった。すべてはあっという間の出来事で、観戦していた人々も何が起こったのかわからないまま、その場に凍りついたことであろう。
この女性の名はエミリー・デイヴィソン(Emily Davison=当時40歳)。英国の女性参政権獲得を過激な手段を使って世の中に訴えていた政治団体、WSPU(Women's Social and Political Union=女性社会政治連合)の活動で知られた人物である。デイヴィソンはすぐに近くの病院に運び込まれたものの、頭蓋骨の骨折がひどく、治療の甲斐もむなしく意識を取り戻さないままに6月8日に帰らぬ人となった。王の馬の前に飛び出したそのとき、その手にWSPUのシンボルカラーである紫・白・緑の3色をあしらった旗をぎゅっと握り締めていた。
レース中の競走馬の前に飛び出すなど、自殺行為に等しいことは容易に想像がつくはず。デイヴィソンがこんな行動に出たのはいったいなぜなのか。その理由を探るべく、女性参政権獲得への闘いの歴史をたどってみたい。

遅れを取っていた英国

英国で女性の参政権が法律によって初めて認められたのは今から100年前の1918年。しかし、この時はまだ、「ある一定以上の財産を持つ30歳以上の女性のみ」と条件がつけられていた。完全に男女平等の参政権が21歳以上のすべての女性に認められるようになったのは、それから10年後の1928年。他国の国政選挙における女性参政権の獲得年次を見るとニュージーランド(1893年)やオーストラリア(1902年)などと比べて、少々遅れを取っていたことがわかる。
しかしながら、英国において女性の政治参加が伝統的に否定されていたわけではない。女性にも「ある程度の財産を持っていること」などの条件つきで選挙への投票が認められていた時代の記録が残っている。おそらく、家族単位のビジネスが中心で職場と家の区別も明確でなかった時代には、女性も家事のかたわらで夫や兄弟に混じって働く主要な働き手であり、さまざまな場面での発言力もあったと考えられる。
男女のあり方と社会の構造に大きな影響を及ぼす転機となったのは、18世紀半ばから19世紀にかけて起こった産業革命だろう。一連の産業の変革が進んだ19世紀には工場や店、オフィスなど家庭の外へ通勤する男性が増加。妻や娘、妹といった女性たちには家庭を守ることが期待されるようになり、男女の役割がはっきりと線引きされるに至った。やがて男性たちは政治や社会問題も外の世界で話し合って決めてしまうようになり、家庭に取り残された女性が発言できる場は自然と失われていった。1832年に制定された「Great Reform Act 1832」法ではついに選挙権が男性にのみ与えられることが明記されてしまい、ここから英国での女性の参政権獲得への半世紀を超える苦難の道が始まったのだった。
英国で女性の参政権を求める動きが特に強まったのは1866年頃。1867年には国政選挙への投票権を男性と同様に女性にも与えようという議題が国会で話し合われている。だが、残念ながら結果は196票対73票の大差で却下。それから条件付きで女性参政権が認められる1918年まで、実に50年以上の月日が費やされることになる。

穏健派と過激派

英国の女性参政権運動において大きな役割を果たした団体には、デイヴィソンが所属していた過激派団体のWSPUと、もうひとつ、穏健派のNUWSS(National Union of Women's Suffrage Societies=女性参政権協会全国連合)があったことがよく知られている。
先に始まったのはNUWSSで、1897年にミリセント・フォーセット(Millicent Fawcett)という女性が代表として活動を先導した。フォーセットは裕福な家の出身で、夫は国会議員。自身も女性の大学進学に尽力し、ケンブリッジ大学のニューナム・カレッジの設立に貢献した人物でもある。NUWSSは財産を持つ中流層の女性に参政権を与えることを目指し、その活動も国会議員へのロビー活動、チラシの配布や署名活動、静かなデモ行進や集会など、平和で穏健なものであった。フォーセットの考えは、女性にも政治に参加するだけの能力があることを証明して権利を勝ち取ること。そのためには、 知的で法に従った活動によって政府に訴えかけるべきというものだった。実際のところ、1900年までにはNUWSSの地道な活動と主張は国会の多くの議員に支援されるようになっていたのだが、正式に国会で認められるまでには至らず、活動家たちの苛立ちと不満は募るばかりであった。

演説を行うエメリン・パンクハースト。
1903年、いつまでも煮え切らない状況にしびれを切らした急進派の活動家らによって発足したのがWSPUだ。団体を牽引したのはマンチェスターで活動していたエメリン・パンクハースト(Emmeline Pankhurst)。パンクハーストもフォーセットと同様に裕福な家の出身だが、パンクハーストは教育を受けた中流層の女性だけでなく、劣悪な環境に苦しむ労働者層の女性も活動に取り込むことで、より活発な組織を目指した。世間の注目を集めるためには過激な手段も辞さない方針で、掲げたモットーは「Deeds not words(言葉より実行を)」。郵便ポストに発火物を投げ込んで中の郵便物もろとも燃やす、高級デパートや大手新聞社の窓ガラスに投石する、政府高官の家に放火するなど、世間からテロリストと非難されても仕方がない過激な活動を次々に展開していった。
こうした方針に批判的な大衆紙「デイリー・メール」はWSPUの闘争的な女性たちを、通常の女性参政権主義者の呼称である「Suffragist(サフラジスト)」をもじった「suffragette(サフラジェット)」と揶揄するようになった。ところが当のメンバーたちは逆にその名前に誇りを感じ、活動をさらにエスカレートさせていった。
パンクハーストの娘が1905年に逮捕、投獄されたのを皮切りにメンバーが続々と逮捕されるようになる。その数は1000人以上におよび、それぞれが逮捕されては投獄され、出所してはまた問題を起こして逮捕されるという、警察とのイタチごっこが続いた。
刑務所でのサフラジェットらは、単なる犯罪者とみなされることに反発し、自分たちが信念を持った政治犯であることを示すため、刑務所での食事を拒否するハンガー・ストライキを決行した。それに対して警察は、投獄中の「殉死」でサフラジェットが英雄視されることを恐れ、食事拒否で衰弱した囚人の喉にホースを突っ込んで無理やりに食事を流し込むという強硬策で対抗。こうした政府の対応は女性らの心をさらに頑なにし、サフラジェットは暴力の連鎖の泥沼に深くはまりこんでいくこととなった。

運動を支えた男たち

女性の活動家が目立つ女性参政権運動だが、その裏には男性支持者の応援もあった。
女性に参政権など認めないと主張する議員が国会の多数を占めていたものの、収監中のサフラジェットの扱いの酷さについて大臣たちに訴えたり、WSPUの会合に参加したりする議員もいたという。
例えば、ジョージ・ランズベリー議員(1859~1940年)は女性参政権を世間に訴えるために一旦議員を辞職して選挙に再出馬。残念ながら結果は落選だったが、その後も運動の援助を続けた。1913年には、サフラジェットによる放火を支援するWSPUのデモ行進で応援演説を行った罪で投獄もされている。
また、政治家フレデリック・ペシック=ローレンス(1871~1961年)は妻と共にWSPUの機関紙「Votes for Women」の編集に携わって支援。彼も過激な活動に手を貸したとして逮捕されたこともあるが、暴力的な活動には否定的でもあったとされる。

女性参政権、世界の流れ

女性参政権運動は18世紀から始まり、その後、社会主義運動や労働運動の高まりで動きが活発となった。世界で最初に女性に参政権が認められた国はニュージーランド(1893年)で、その後、オーストラリア、ロシア領フィンランドなどが続く。
英国は1918年に30歳以上の財産を持つ女性に参政権が認められたが、男性と同様に21歳以上のすべての女性に認められるようになったのは1928年。大正デモクラシーの時代から女性参政権が叫ばれていた日本も第二次世界大戦後の1945年にやっと実現している。

世界の主な国の女性参政権獲得年

1893年 ニュージーランド
1902年 オーストラリア
1906年 ロシア領フィンランド
1913年 ノルウェー
1915年 デンマーク、アイスランド
1917年 ロシア、カナダ
1918年 ドイツ、ポーランド、英国
1920年 米国
米国では州によって異なり、この年、すべての州で認められ、憲法も正式に書き換えられた。
1931年 スペイン、ポルトガル
1945年 フランス、日本
1991年 スイス

勤勉な教師から過激派活動家へ

「Votes for Women(女性に参政権を)」を主張してジョージ5世所有の馬の前に飛び出して亡くなったデイヴィソンも、郵便ポストへの放火など公共の場を荒らした罪で何度も逮捕され、刑務所には9回も収監されている。ハンガー・ストライキの数も7度に及び、ホースで強制的に食事を流し込まれた回数は49回を数えた。
1909年に当時の大蔵大臣の車に石を投げつけた罪で1ヵ月の重労働の刑を宣告された際には、独房に誰も入れないように封鎖してからハンガー・ストライキを強行。怒った看守が、ドアを開けさせるために大量の水を独房へと流し込むという策がとられた。
それにしても、このような激しい活動を行っていたデイヴィソンとはどんな経歴の持ち主だったのだろうか。

エミリー・デイヴィソン(1910年頃)。
エミリー・ワイルディング・デイヴィソンは1872年10月11日にロンドン南東にあるブラックヒースで、妻に先立たれた商人と後妻の間に生まれた。後妻が産んだ4人の子の中では3番目で、前妻の子も合わせると全部で13人兄妹の大家族。13歳からケンジントンにあった学校で学んだあと、1891年に奨学金を得て名門のロイヤル・ホロウェイ大学に進学しており、実家の暮し向きはそれなりに良かったと想像される。
しかしながら、2年後に父親が亡くなってからは状況が一変。残された母親ひとりでは学費がまかなえず、デイヴィソンは退学に追い込まれてしまった。それでもその後は住み込みの家庭教師をしながら夜学で勉強を続け、大学資金を蓄えたのちにオックスフォード大学のセント・ヒュー・カレッジに入学して、最後の試験では主席レベルの成績を収めた。これだけの苦学の日々を乗り越えたデイヴィソンだが、当時のオックスフォード大学は女性の学位取得を認めていなかったため、正式な卒業資格は得られなかった。それでも、学校の教師や家庭教師をしながらさらに学業を続け、1908年にはロンドン大学で学位を取得している。
勤勉で真面目な女教師だったデイヴィソンがWSPUに加入したのは1906年。自身の苦学の経験からも、女性が置かれていた立場に強い憤りがあったのだろう。3年後には教師の職を捨てて、 WSPUの活動に全力を注ぐようになった。
1909年、デイヴィソンはハーバート・ヘンリー・アスキス首相に訴えるデモ行進で警察と衝突し、警官への傷害罪で逮捕され、初めて投獄される。1ヵ月の懲役を終えたのち、デイヴィソンはWSPUの機関紙「Votes for Women」に「(この経験で)これまでに感じたことがないほどに、仕事へのやりがいと、生きる興味が得られた」と書いている。そして、女性参政権を勝ち取るという究極の目標のためには闘争的な行動も必要だと考えるエメリン・パンクハーストの方針に賛同した彼女の行動はどんどん大胆で無鉄砲になっていく。他のWSPUの仲間と同様に、投石や郵便ポストへの放火などを繰り返して、逮捕と投獄生活の日々を送ることとなるのだった。

時代の犠牲者たち

「Prisoners Temporary Discharge for Health Act 1913」法では、ハンガー・ストライキで衰弱した収監者は釈放され、再び問題を起こせばすぐに逮捕されることが決められた。しかし、これでは逮捕と投獄が繰り返されることから、この法は「Cat and Mouse」(イタチごっこの意)の通称で呼ばれた。© Women's Social and Political Union, 1914
サフラジェットの女性たちがこれほどまでに極端な道へと進まざるを得なかったのは、ヴィクトリア朝時代に女性が置かれていた状況が非常に息苦しいものだったからであろう。
19世紀の末、産業革命により英国が経済的に成長していたのとは裏腹に、女性の立場や地位は非常に低いものだった。参政権がないばかりか、苦情を訴えたり、財産を所有したりすることも許されていなかった。未婚女性の立場も弱いが、結婚したところで何も変わらなかった。外で働き、社会の将来を決める政治的な事柄にも責任を持つのは男の役割。女性が政治に口出しをする必要はなく、女性の能力は子どもを産んで家庭を守ることに活かされるべきだ、という考え方が根強かった。夫婦はひとつのまとまりとみなされて、女性の権利は結婚前からの財産を含めたすべてが夫である男性の手に委ねられた。妻は夫の所有物であり、従って妻が生み出すものもすべてが夫のもの。女性自身の体や産んだ子どものほか、外で働いて得た給料ですら夫に所有権があるとされたのだ。男性が経済的に安定し、社会的立場を確立する一方で、女性は経済的にも性的にも権利のない立場にあり、夫婦の離婚においても法律は夫に有利なように作られていた。たとえ肉体的苦痛を与えられようとも、男性の支配から逃れることはほぼ不可能だった。

サフラジェットを揶揄するポストカードも出回った。
その上、生活の苦しい労働者層の女性は家事のかたわら工場などで働いたが、その賃金は男性の半分以下。産前産後の保証もなく、出産後、動けるようになればすぐに仕事に戻らざるを得ないという過酷な状況だったという。
とにかく、現代では理解できない女性に不利な法律が当時は数多く存在していたが、フェミニズムの思想が教育を受けた中流層の女性らに広がったことで、自分たちが置かれた理不尽な状況に女性たちも気づき、次第に声を上げはじめるようになった。そうして生まれた女性参政権運動の波ではあったが、活動の成果は思うように上がらなかった。
前へなかなか進んでくれない現実に疲れ果てた女性らが、世間があっと驚くような激しい行動に出なければ誰も自分たちの声に耳を傾けてくれないと思い込んでしまったのも無理はなかったのかもしれない。それまで辛抱強く勉学と勤労の日々を送ってきたデイヴィソンも、政府や警察との激しい衝突をきっかけに心の中で抑えてきたものが大きく弾けてしまったのだろう。

ブラック・フライデー

刑務所で食事を拒否するハンガー・ストライキを行う人に対し、所内ではホースを使って強引に食事が流し込まれた。© The Suffragette, ©1911
1910年 、女性参政権運動に大きな影響を与える事件が起こった。女性参政権活動家と政府との折衷案として財産を持つ女性限定で選挙権を与えるという議題を議会で話し合うことが提案されたものの、最終的に当時のアスキス首相が却下して、すべてが白紙に戻ってしまったのだ。これに対してWSPUは11月18日の金曜日に300人のメンバーで首相に直談判の抗議に向かったが、警察の激しい反撃に遭い、参加者の多くが逮捕されてしまった(ゆえにこの事件はブラック・フライデーと呼ばれている)。デイヴィソンはこの日は逮捕されなかったものの、サフラジェットの同志に対する警察の仕打ちに怒り狂い、翌日、裁判所の刑事部に石を投げつけ、懲役1ヵ月の判決を受けた。実際にこのブラック・フライデー事件では、非武装の女性に対する警察の対応があまりにも暴力的であったため、メディアですらサフラジェットを擁護し、政府を強く批判したという。しかしながら、この暴力にまみれた事件をきっかけに、国会議員は女性参政権運動と距離を置くようになり、結果として運動自体をも後退させることとなった。

死の真相は…?

デイヴィソンは帰りの列車の切符を持っていたことから、「死ぬつもりはなかった」と見られているが、真実はわかっていない。
この事件後もさらなる過激な活動を続けたデイヴィソンがジョージ5世の馬の前に身を投げるのは、それから2年半後のことである。あの日のデイヴィソンの行動があらかじめ死を覚悟していたものだったかどうかはわかっていない。彼女は自分の計画を事前に誰とも相談しておらず、計画についてのメモ書きなどもみつからなかった。遺品の中には帰りの列車の切符や翌週の予定を書いた手帳なども残されていたため、警察はデイヴィソンの死は自殺ではないと結論づけた。
自殺説をはじめ、世間の関心をWSPUの活動に向けるために王の馬にWSPUの旗を掲げようとしたのが失敗に終わったのだとか、単純にコースを横切って注目を集めるだけの計画だったが後続の馬がまだ残っていることに気づかずに飛び出してしまったのだとか、さまざまな憶測はある。しかし真実は謎のままだ。
WSPUはデイヴィソンを女性参政権運動の殉死者として扱った。ロンドンへ戻ったデイヴィソンの遺体は、5000人の女性たちと数百人の男性支持者に付き添われてロンドン市内の教会まで運ばれ、そこで簡素な葬儀が行われた。その後、イングランド北部の教会墓地へ運ばれ、埋葬された。墓石には、WSPUのモットーであった「Deeds not words」の文字が刻まれた。

活動の果てに

こうして、世間に衝撃を与えたデイヴィソンの死であったが、残念ながら、1914年の第一次世界大戦の勃発によって、英国の女性参政権運動はしばらくの間、棚上げとなった。穏健派のNUWSSは政府への地道な働きかけを続けていたが、WSPUのリーダー、エメリン・パンクハーストはWSPUの過激活動の中断を宣言。その代わりに戦場への女性派遣などで政府に全面的に協力し、政府との良い関係を築き上げた。
そして第一次世界大戦が終了した1918年、英国でようやく一部の女性の参政権を認める法律が国会を通過。女性参政権活動はついに、その大きな目的のひとつのゴールへ到達することができたのだった。
女性参政権認定までの経緯を考察すると、第一次世界大戦前のサフラジェットの過激な活動やデイヴィソンの命がけの行動は女性参政権獲得に大きな意味をなさなかった、いやむしろ、邪魔になったのではないかとする意見も多い。暴力に訴えた活動方針が共感を得て、称えられることは難しいと言えるだろう。
事実、英国での女性参政権100年を記念してロンドンの国会議事堂前にあるパーラメント・スクエアに今年建てられる初の女性像は、WSPUのエメリン・パンクハーストではなく、地道な運動を続けていたNUWSSのミリセント・フォーセットのものである。
それでも、サフラジェットの苦闘が無意味であったというのは少し酷だろう。女性の権利獲得のために人生を投げ打ち、人々に後ろ指を指されながら闘った『悲しきヒロイン』らの活動が、少しずつ男女平等への道を塞ぐ重い石を動かしたことは否定できない。
フォーセットの像はまだ一般に公開されていないが、フォーセットがデイヴィソンの死に際して行ったスピーチの中から取られた「Courage calls to courage everywhere(勇気はいたるところで勇気を呼ぶ)」という言葉が書かれたサインボードが像の手に抱えられているという。現代では当たり前のものとして存在する女性参政権が、多くの女性の尽力と犠牲によって得られた大切なものだということが伝わる像となることを願う。
女性参政権100年

特別展「Votes for Women」

収監されたサフラジェットの名前は旗に記され、メンバー同士で称え励ましあった。© Museum of London
英国で初めて女性の参政権が認められてから今年で100年。ロンドン博物館(Museum of London)では50年以上にわたる英国の女性参政権獲得までの厳しい道のりを紹介するエキシビション「Votes for Women」を開催する。
特にサフラジェットに関する展示が充実し、投獄されたサフラジェットの獄中生活をとらえた写真や、 闘う勇気の証として刑務所から持ち帰られた堅い黒パン、収監中に家族と交わした手紙、獄中でのハンガー・ストライキに耐えた証としてWSPUから贈られたメダルなど、自己を犠牲にして女性の権利獲得のために闘ったサフラジェットらの苦悩を示す品々が紹介される。また、郵便ポストを燃やすために使われた発火装置入りの潰れた箱からも闘争の激しさを垣間見ることができるだろう。
展示会場ではサフラジェットのメンバーの中でこれまであまり名が知られてこなかった女性らの紹介や、当時の過激な闘争手段と現代の政治的活動との類似性を考察する映像などの上映も予定されている。

Votes for Women 2月2日~3月27日

Museum of London
150 London Wall, EC2Y 5HN
入場無料
www.museumoflondon.org.uk/museum-london

週刊ジャーニー No.1020(2018年2月1日)掲載

これだけは知っておきたい ハーグ条約 基本のキホン

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2015年7月2日 No.888

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Hague Convention

これだけは知っておきたい

ハーグ条約 基本のキホン

国際結婚をしている人に限らず、 海外に居住する我々日本人にとって、 気になる条約が昨年4月、日本において発効した。 「国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約」(以下ハーグ条約)だ。今号では、ハーグ条約の概要と疑問などを 編集部なりにまとめた基礎知識とともに、 条約締結後の日本の状況などをお届けしたい。
取材協力:外務省(在英国日本国大使館 領事班)

●サバイバー●取材・執筆・写真/ネイサン弘子・本誌編集部

「国際結婚」という言葉に華やかな響きを感じる人は少なくないかもしれない。異なる文化背景を持つ者同士が、異なるからこそ惹かれ合う反面、異なるからこそ越えられない相互理解の壁が立ちはだかることもある。言葉の壁や文化、価値観の違い、母国から離れて外国で家庭を持ち暮らす苦悩や淋しさなど、憧れていたものと違う現実もあることだろう。
そんな時、気軽に「少しの間、実家に帰らせていただきます」とはいかないのが国際結婚生活の難しい所。困難を乗り越えていく夫婦がいる一方、残念ながら結婚が破綻する夫婦もいる。厚生労働省の発表によると、国際結婚をした日本人の離婚率は4割と高い。そしていざ離婚となった時に、子どものいる家庭の場合、一番に考慮しなければならないのが、その子どもの存在だ。
世界的なグローバル化の流れにより、国際結婚・離婚が増加したことで、1970年代頃から一方の親による国境を越えた子の連れ去りが国際問題として注目されはじめ、世界共通のルールを制定する必要性があると世界的に認識されるようになった。そこで1976年、国際私法に関する統一を目的とする国際機関「ハーグ国際私法会議」(HCCH)は、この問題について検討することを決定。1980年10月25日、一方の親によって外国へ連れ去られた子どもを元の居住国へ返還することを原則とした条約を作成した。オランダのデン・ハーグ(下記参照)で作られたことから通称ハーグ条約(Hague Convention=英語では「ヘイグ・コンヴェンション」)と呼ばれている。
国境を越えた子どもの連れ去りなどにより、もう片方の親や親族に会えなくなるばかりでなく、子どもにとってそれまで慣れ親しんだ生活が突然急変することを余儀なくされることは、子どもの利益に反し悪影響を与える可能性がある。本条約では、そのよう事態から子どもを守るため、原則として元の居住国に子を迅速に返還するための国際協力の仕組みについて定めている。どちらの親が子どもの世話をすべきかの判断は、子がそれまで生活を送っていた国の司法の場において、子の生活環境の関連情報や両親双方の主張を十分に考慮した上で、子どもの監護について判断を行うのが望ましいと考えられているため、まずは子どもを前居住地に戻した上で、必要であれば現地での裁判を促すという形をとる。
また、国境を越えて所在する親と子どもが面会交流できない状況を改善することは、連れ去りなどの防止や、子どもの利益につながると考えられるため、本条約は国境を越えた面会交流実現への協力についても定めている。

日本の加盟までの長い道のり

ではなぜ、条約作成から24年も経過した今になって日本が本条約を締結するに至ったのだろうか。その理由として、ハーグ条約は欧米諸国を中心に作成されたものであるという点がまず挙げられる。

欧米諸国と非欧米国間の国際結婚の場合、多くのカップルの居住地が欧米国となっており、大抵の案件が、非欧米国に連れ去った子どもを、欧米国に引き渡すという内容であった。そこで、連れて来た子どもが他国へ返還させられることは、自国民の利益にかなわないと考えられており、当初は日本を含め、欧米以外の国はほとんど条約に加盟しなかった。
しかし、その後も増え続ける国際離婚に伴い、加盟国は増加。日本においても1970年に年間5000件程度だった国際結婚は、1980年代後半から急増、2005年には4万件を超えた。日本と欧米諸国の間でも、特に日本人女性が、結婚生活の破綻後に父親の同意を得ることなく子どもを日本に連れ去り、面会させないという事案が相次いで発生。英国においては、2008年に外国へ子どもが連れ去られた事例は336件で、東アジアにおいては日本人が関わる事例が多いことが報告されている。
その結果、残された親が長年に渡り日本に居住する子どもと連絡すら取れないという事態が発生し、欧米の加盟国から、日本の加盟を強く求める声は日増しに高まっていった。一方で、外国人の親により、日本から子どもが連れ去られる事案も発生。
さらに、本条約は、連れ去られた国と連れ去った国両方が条約締結している場合のみ効力を発する条約。そのため、外国で離婚し暮らしている日本人が、日本が条約未締結であることを理由に、連れ去りの意思がないにもかかわらず、連れ去るのではないかと疑われて、子どもと共に日本へ一時帰国することができないケースも起こっていた。
こうした状況の中、日本政府は2011年1月に、ハーグ条約の締結の検討を開始。関係省庁が会議を開催した結果、締結には意義があるとの結論に達し、条約締結に向けた準備を進めることを閣議了解した。そして2013年6月、「国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約の実施に関する法律(ハーグ条約実施法)」が成立。自国の法整備を整えた上で、14年4月1日、日本においてハーグ条約が発効したのだ。  条約を結ぶことで、日本から子どもを連れ去られた時に、相手国が条約加盟国であれば、これまで当事者が自力で行ってきた、相手国から子どもを連れ戻す手続きや、親子面会交流の確保のための手続きを、政府機関を通じて進めることが可能になる。そして、日本が条約を締結したことが周知されることで、外国と日本双方への子どもの連れ去りを未然に防止する効果が期待できる。さらには、外国で離婚し、暮らしている一部の日本人が悩んでいた、子どもを連れての一時帰国がなかなか許してもらえないという問題の改善が見込めるのだ。
ハーグ条約への日本の加盟を、やみくもに、「難しそう」「大変なことになった」などと思い込まず、まずは理解を深めていくことから始めてはどうだろうか。何よりも大切なのは子どもの幸せだと考える人に、道は開けると信じたい。

こんな事例も…

「連れ去られた娘、引き渡して」

米国人男性が異例の申し立て
日本人母は死去、祖母が後見人


当時婚姻関係にあった日本人女性に娘を連れ去られたとする米国人男性(47)が6月1日、娘の養育権と身柄引き渡しを求める申立書を東京家裁に送付したことが分かった。女性は離婚後に死去、娘は女性方の祖母が後見人として日本で養育している。専門家によると、国際結婚した親が養育権を求める申し立てで、子どもの親権者が不存在のケースは異例。子どもの連れ去りに厳しい米国との国際問題に発展する可能性もある。

男性の日本側弁護士によると、男性が日本人女性と結婚後、数年で娘が誕生。日本国内で暮らしていた時期に女性が男性に無断で娘を連れて国内の実家に戻った。平成18年に離婚が成立し、女性が娘の親権者になったが、翌年に自殺。娘は親権者を失い、女性方の祖母が娘の後見人となって日本で育てている。
男性は「隣人が電話で『引っ越すのか』と聞いてきた。すぐに帰宅したが、妻が娘を連れていなくなっていた」と連れ去りの状況を話す。男性は米国でも娘の養育権などを求めて提訴したが、「米国に司法権がない」として認められなかった。連れ去り後、21年までに2回しか娘と会っていないという。
男性は「唯一の親が知らない間に、祖母が娘の後見人となった決定は無効」として、娘の養育権と身柄の引き渡しを求める審判を求めた。男性の日本側弁護士は「民法は監護者を決めるときは子どもの利益を最優先すると定め、『子の不当な連れ去りが不利に働く』とする法相の国会答弁もある。父親との交流を妨害する祖母の行為は未成年である娘の養育に重大な害悪を及ぼす」と主張している。
家族法に詳しい早稲田大学法学学術院の棚村政行教授は「国際結婚で子を連れ去った片親が死亡し、親権を失った方の親が養育権を求める審判は非常に珍しい。離婚しても子どもに会うのは親の当然の権利とする米国と日本の文化の違いが際立つことになるだろう」と話す。
日本では昨年4月、国境を越える子の連れ去りの扱いを決めたハーグ条約が発効されたが、今回のケースは国境を越えておらず、発効前の連れ去りで対象にならない。ただ、関係者は「米国政府は日本人が思っている以上に子どもの連れ去り問題を重要視している。申し立てを受け、日本への風当たりが強くなるかもしれない」と国際問題に発展する可能性を指摘する。
祖母は産経新聞の取材に対し「コメントはない」とした。
(産経新聞より)

ハーグ条約 Q&A

Q1 もう片方の親に無断で子どもを日本に連れて帰った。これって犯罪?
A1 ハーグ条約は子どもの連れ去りを刑事的に罰する条約ではない。ただし、国によっては、他の親権者の同意なく子を国外へ連れ出すことが誘拐罪等に問われ、逮捕されることもある。英国においては、親が他方の親の同意を得ないで子どもを国境を越えて一方的に連れて去ると、たとえ実の親でも刑法違反となり、英国に再渡航した際に逮捕される場合もある。日本では、国内であっても、親が子どもを連れ去った場合、誘拐や略取に該当する行為があれば、未成年者略取誘拐の犯罪とされることもある。

Q2 子どもの返還要請が出されたら、必ず返還しなければいけない?
A2 ハーグ条約では、原則として子どもを元の居住国に返還することになっているが、返還することで、子どもに重大な危険がある場合などは返還を拒否することもできる。

ハーグ条約の返還拒否事由一覧
●連れ去りから1年以上経過した後に裁判所への申立てがされ、かつ子どもが新たな環境に適応している場合。
●申請者が連れ去り時に現実に監護の権利を行使していなかった場合。
●申請者が事前の同意または事後の承諾をしていた場合。
●返還により子どもが心身に害悪を受け、または他の耐え難い状態に置かれることとなる重大な危険がある場合。
●子どもが返還を拒み、かつ該当する子どもが、その意見を考慮するに足る充分な年齢・成熟度に達している場合。
●返還の要請を受けた国における人権及び基本的事由の保護に関する基本原則により返還が認められない場合。

Q3 DV被害者に対する配慮はある?
A3 A2にある、「返還により子どもが心身に害悪を受け、または他の耐え難い状態に置かれることとなる重大な危険がある場合」にあたれば返還拒否となる。子どもの返還を求める親が、子どもに対し暴力を振るうおそれがあったり、もう一方の親に対して、子どもに悪影響を与えるような暴力を振るうおそれがあったりする場合は、これに該当する可能性がある。だが、子どもに対して、重大な危険が認められない場合は、返還が命じられる。

DVの事実があることをどうやって証明するか―。
●まず記録することが大切。日記、あるいは覚え書きなど、配偶者などにより暴力をふるわれた日時、その程度など、できるだけ具体的に書き残して置くこと(日本語で十分)。あとで、思わぬ形で役に立つ日がくるかもしれないという。
●第三者に通報・相談する(客観的な証明となる)。
①配偶者などに暴力をふるわれている場合は警察に通報する、あるいは相談することを考えるべき。警察がたとえ出動する事態にならずとも、通報・相談したという事実は記録として残るので、法廷で物的証拠として提出することが可能。
②日本大使館領事班に相談する(電話では、記録として公的に残らない。実際に出向く必要あり)。必要に応じて支援団体を紹介してもらうなど、次のステップに移ることになるが、支援団体はそれぞれ弁護士を抱えているのが一般的。法的な相談にのってもらうことも可能(Q8参照)。

Q4 英国で離婚した場合、親権はどうなる?
A4 あくまでも英国においての話になるが、両親が婚姻している場合、未成年の子に対する親権は両親に帰属し、両親が離婚した場合にも基本的には父母の親権は存続し、共同親権となる。

Q5 条約の対象となる「子ども」とは何歳?
A5 16歳未満。子どもが連れ去られた後に16歳に達した場合でも、ハーグ条約の対象外となり、返還命令を出すことはできなくなる。


Q6 ハーグ条約は国際結婚にしか適用されない?
A6 親と子どもの国籍に関係なく、子どもが国境を越えた形で不法に連れ去られていれば、日本人同士であっても条約は適用される。

Q7 費用はかかるの?

©parentdish
A7 連れ去られた子どもの返還援助を申請した場合、子どもの所在地を調査するための調査費用などはかからない。その後、当事者同士の話合いが困難な場合、外務省が委託契約している「裁判外紛争解決手続(ADR)機関」を利用して協議を行うことができる。この場合、ADR機関の利用手数料は外務省が負担する(上限額以上は利用者が負担)。ADR機関の利用による協議で決着がつかず、裁判になった場合の弁護士費用などは申請者が負担する必要があるが、経済的な困難を抱えた人は、弁護士費用等の貸付制度を利用できる。

Q8 子どもを連れて日本へ帰りたい、子どもを外国へ連れ去られた…困った時はどこに相談すればいい?
A8 条約締結国はハーグ条約を管轄する政府内機関を中央当局として指定しており、日本では外務省が担当。これをうけ、日本大使館領事班では海外に住む日本人に対して様々な支援を行っており、DVや家族問題、国際離婚に関する問題についても相談を受け付けている。支援団体、弁護士情報も提供してくれるので、英国在住の方はまずは下記にご相談を。どうぞ、独りで思いつめたりしないでいただきたい。
Tel: 020-7465-6565
※音声案内で日本語を選択→その他の照会→ハーグ条約に関する相談であることを告げる


キーワードのおさらい

「国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約(ハーグ条約)」
The Hague Convention on the Civil Aspects of International Child Abduction


ハーグ国際私法会議 (HCCH)
Hague Conference on Private International Law

国際私法に関する規則の統一を目的とする政府間国際機関。オランダ・ハーグに事務局を有する。日本はヨーロッパ諸国以外では初めての国として1904年から同会議に参加している。

残された親
left behind parent(LBP)


連れ去った親
taking parent(TP)


親権(監護権)
parental responsibility(child custodyとも言う)


中央当局
Central Authority

ハーグ条約に対応する各国の機関

子どもの奪取及び面会交流ユニット
The International Child Abduction and Contact Unit(ICACU)

英国法務省管轄の中央当局

裁判外紛争解決手続(ADR)機関
Alternative Dispute Resolution

裁判によらず、中立的な第三者が当事者間に介入して紛争を解決する方法。当事者間による交渉と、裁判の中間に位置する。

ハーグ条約発効後の日本における状況

2014年4月1日に日本においてハーグ条約が発効してから1年が経過し、初年度の処理件数は100件を越えた。この数字は、条約締結後の初年度の件数としては世界的にも一、二を争うレベルだという。この1年の申請状況と実績をみてみよう。
※数字は平成27(2015)年5月14日現在のもの。外務省領事局ハーグ条約室提供。

申請の受付状況
外務省が受け付けた申請件数:123件

▼外国から日本に連れ去られた子どもに関する申請:
返還援助申請:27件
面会交流援助申請:58件

日本に連れ去られた子どもの外国への返還が6件実現
● 任意の返還:フ ランス、ドイツ、ベルギー
● ADR(裁判外紛争解決手続機関)を利用した協議を経ての返還:カナダ
● 裁判による返還:スリランカ
● 調停による返還:スペイン

▼日本から外国に連れ去られた子どもに関する申請
返還援助申請:20件
面会交流援助申請:18件

外国のハーグ条約締結国へ連れ去られた子どもの日本への返還が5件実現
● 任意の返還:アメリカ
● 裁判による返還:スイス、スペイン、フランス
● 裁判所における和解による返還:ドイツ

ハーグという街

ハーグ条約の名称の元になっているオランダの都市ハーグは、北海沿岸に位置するオランダの都市だ。正式名称は「デン・ハーグ(Den Haag)」で、オランダ語では「デン・ハーハ」と発音される。同国第3の都市でありながら、国会、各国大使館、王室の宮殿が置かれ、事実上の首都といわれている。
また、ハーグ条約が作成されたハーグ国際私法会議事務局をはじめとする150もの国際機関が存在する国際司法都市となっている。そのため、ハーグは多くの建造物と歴史地区が佇む、荘厳な雰囲気漂う『平和と司法の街』とも呼ばれる。


ハーグが司法都市となったきっかけは、1899年と1907年の2回にわたって開かれた万国平和会議にさかのぼる。この会議では紛争の平和的解決と軍備制限、戦時国際上の諸問題を取り扱った。その後、世界平和という理念に基づき建設された平和宮殿(Het Vredespaleis)=写真右=が1913年に完成。ハーグは平和と司法の国際都市として発展していった。平和宮殿には、国際司法裁判所、国際紛争の平和的処理を目的とした常設仲裁裁判所、平和図書館などの組織・施設が入っており、ガイドツアーでは、宮殿の内部や庭園を見学することができる。
この他にも、王室の宮殿であるハウステンボス宮殿(オランダ語で『森の中の家』という意味)、世界的にも有名なオランダ人画家、フェルメールの「真珠の首飾りの少女」を所蔵するマウリッツハウス美術館、オランダで最も人気があるというビーチ、スヘフェニンゲン(Scheveningen)など、見所の多い街だ。
オランダの代名詞と言えばアムステルダムだが、オランダ人が「デン・ハーグを見ないことにはオランダを見たとは言えない」と語るオランダを代表する街のひとつであるハーグを、是非訪れてみてはいかがだろうか?

歴史が育んだ全31件、総まとめ! 英国の世界遺産

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ポントカサステ水路橋

写真左:ブレナヴォンの産業景観(アイアンワークス)/同右:グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁(コンウィ城)

写真左:オークニー諸島 © VisitBritain/同右:ジャイアンツ・コーズウェイ

●サバイバー●取材・執筆・写真/本誌編集部

教育と文化、そして平和のための科学の発展を推進する目的で1945年にロンドンで創設されたユネスコ(UNESCO)が活動の一環として行う世界遺産の登録・保護。現在、参加国は195ヵ国におよび、文化遺産として832件、自然遺産として206件、複合遺産(文化と自然の両方を満たしている物件)として35件の計1073件が登録されている。
そのうち英国に存在するのは文化遺産26件、自然遺産4件、複合遺産1件の計31件。エジプトのピラミッドやペルーのマチュ・ピチュ遺跡に比べると少々地味な印象は否めないものの、リストに並ぶひとつひとつを改めて見てみると、英国の魅力が浮かび上がってくる。
今回は、全31件の世界遺産を「秘境・絶景」「史跡・宮殿・名建築」「街並み」「産業革命」「ロンドン日帰り」の5つに分けてまとめた。次の休みには、車、あるいは公共交通を駆使して出かけてみてはいかがだろうか?

秘境・絶景

人間の営みと自然の調和[2017年登録]

イングランドの湖水地方
The English Lake District map⑩

© VisitBritain
氷河期に形成された渓谷や湖が点在し、手付かずの自然が広がる湖水地方は、いわずと知れた英国の観光名所。それゆえに、2017年文化遺産登録された際に、「まだだったの?」と思った人も多いに違いない。自然と人間の営みによって育まれた風景や、芸術や文学との結びつきが高く評価される。観光の拠点はウィンダミア(Windermere)の町が便利。
www.lakedistrict.gov.uk

1億8500万年の歴史を刻む[2001年登録]

ドーセットと東デヴォンの海岸
Dorset and East Devon Coast map㉖

© Saffron Blaze
東デヴォンからドーセットまで、約150キロにわたる風光明媚な海岸線。恐竜が生きた中生代の地層が刻まれ、ジュラシック・コーストの名で呼ばれる。化石発掘体験、波が浸食してできた「ダードル・ドア(Durdle Door)」=写真=は観光の目玉。
https://jurassiccoast.org

新石器時代の遺跡の宝庫[1999年登録]

オークニー諸島の新石器時代遺跡中心地
Heart of Neolithic Orkney map①

© W. McKelvie
スコットランド沖に浮かび、70もの島々からなるオークニー諸島。人口は約21,000人。本島にある新石器時代の遺跡群が文化遺産に指定される。なかでも紀元前2500~2000年に建てられたと推定されるリング・オブ・ブロッガー(環状列石)=写真=は同諸島を代表する遺跡。直径104メートルの円に沿って27の立石が鎮座し、実際に触れることができる。特に日没時の幻想的な光景で、観光客を魅了している。エディンバラ他から州都にあるカークウォール(Kirkwall)空港へ飛行機が就航。
www.visitorkney.com

巨人の土手道[1986年登録]

ジャイアンツ・コーズウェイとコーズウェイ海岸
Giant's Causeway and Causeway Coast map⑥

六角形の石が海岸線にぎっしりと並ぶこの奇景は、ご当地アイルランドの巨人伝説をもとに、「巨人が作った土手道」の名で呼ばれる。だが、実際は6000年前の火山活動によって形成された石柱が地上に現れたもの。その数およそ4万本! 約8キロにわたって続いている。ナショナル・トラストのウェブサイトでは、散策の拠点となるビジター・センターからのウォーキング・ルートが紹介されているので要チェック。
www.nationaltrust.org.uk/giants-causeway

英国唯一の複合遺産[1986年登録]

セント・キルダ島
St Kilda map②

© Eileen Henderson
厳しい自然環境のなか、2000年以上にわたって人々が暮らしたとされるスコットランドの群島。1930年に最後の島民36人が去って以来、無人となった。5つの島からなり、新石器時代から近代までの生活跡が見られ、全域が自然遺産および文化遺産として登録される。スコットランドのスカイ島他から船でのデイ・トリップなどで上陸可。
www.kilda.org.uk
遠く離れた、英領4つの世界遺産

© John Cummings
英国が誇る世界遺産は本土や周辺諸島だけにとどまらない。特有の生態系を誇るとして自然遺産に登録されるのが、南大西洋に浮かぶ海洋生態系の火山島「ゴフ島とインアクセシブル島(Gough and Inaccessible Islands)」㉛および、南太平洋に位置する無人の珊瑚島「ヘンダーソン島(Henderson Island)」㉚。希少な鳥類のほか島固有の生物が生息する(いずれも絶海の孤島と呼ばれ、観光地化していない)。
一方、カリブ海の「バミューダ島の古都セント・ジョージと関連要塞群(Historic Town of St George and Related Fortifications, Bermuda)」㉙は、植民地時代の町並みが残り、文化遺産として登録される。
さらに、イベリア半島に位置する英領ジブラルタルで2016年に文化遺産に登録されたのは、「ゴーハムの洞窟群(Gorham's Cave Complex)」㉘。岬をなす石灰岩でできた「ジブラルタルの岩」には200あまりの洞窟があり、中でもゴーラム=写真=他4つの洞窟からは、10万年以上前にこの地で暮らしていたネアンデルタール人の生活跡が発見されている。洞窟内へはツアーでのみ入ることが可能だが、人数・日程が限られているので注意。

史跡・宮殿 名建築

ローマ帝国最北ライン[1987年登録]

ローマ帝国の国境線(ハドリアヌスの長城)
Frontiers of the Roman Empire (Hadrian’s Wall) map⑦

紀元2世紀、当時英国を支配していたローマ帝国のハドリアヌス皇帝が、北方部族の侵入を防ぐために建設した、長さ約120キロの城壁跡。現存するローマ時代の遺跡としては英国最大。場所によっては高さ6メートルにも達したとされる。観光拠点の町はカーライル、またはニューカッスル。バスでの観光も可能。
http://hadrianswallcountry.co.uk

要塞建築の範例[1986年登録]

グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁
Castles and Town Walls of King Edward in Gwynedd map⑬

© Wales Tourist Board
13世紀後半にウェールズを征服したイングランド王エドワード1世によって建てられた堅牢な4つの城塞。英国の城塞の中でも最も保存状態がよいとされるコンウィ城、48年の歳月と多額の資金を費やして完成したカナーヴォン城=写真=のほか、ボーリマス城、ハーレフ城が名を連ねる。北ウェールズのグウィネズに分布するので、車での移動が便利。
www.visitwales.com

キリスト教、北の聖地[1986年登録]

ダラム城と大聖堂
Durham Castle and Cathedral map⑧

北イングランドのキリスト教の聖地として知られるダラムの町で、川と緑に囲まれた小高い丘の上にたたずむダラム城と、すぐ横に建つ、大聖堂=写真。国内最大規模のノルマン様式建築の大聖堂は、精巧かつ壮麗なつくりで一見の価値あり。どちらも一般見学が可能だが、ダラム城は大学として利用されているため、ガイドツアーでの内部見学となる。
www.thisisdurham.com

チャーチルの生家[1987年登録]

ブレナム宮殿
Blenheim Palace map⑰

スペイン継承戦争の最中にジョン・チャーチル公爵がフランスを破った功績を讃えてアン女王から下賜された、オックスフォードシャーにある宮殿。チャーチル元首相の生家としても知られ、バロック様式の宮殿内では絢爛豪華な貴族の暮らしを垣間見ることができる。広大な敷地の庭も必見!
www.blenheimpalace.com

巨大かつ美しき廃墟[1986年登録]

ファウンテンズ修道院遺跡群を含むスタッドリー王立公園
Studley Royal Park including the Ruins of Fountains Abbey map⑨

© Mike Peel
リーズ近郊の町リポンにある、12世紀に創設されたシトー派の修道院跡。16世紀にヘンリー8世により閉鎖されたが、18世紀に入って庭園へと変化した。自然を背景にたたずむ廃墟には、神秘的な雰囲気が漂う。
www.nationaltrust.org.uk

鋼の恐竜!?[2015年登録]

フォース橋
The Forth Bridge map③

スコットランドのフォース湾にかかる、まるで恐竜を思わせる巨大な鉄道橋。英全土に鉄道網が張り巡らされた19世紀末、10年の歳月をかけて完成。建設には日本人技師・渡邊嘉一が関わっている。エディンバラからアクセスが良く、列車に乗って渡ることも可能。
www.theforthbridges.org

街並み

都市開発により危険遺産に…[2004年登録]

海商都市リヴァプール
Liverpool – Maritime Mercantile City map⑫

17世紀以降、国際交易によって発展した一方、奴隷貿易の中心港として負の歴史も持つ。時代を象徴する建造物・倉庫群などの街並みが文化遺産に登録されたが、都市開発によって景観が損なわれつつあることから、2012年には危険遺産に指定された。
www.visitliverpool.com

旧新の調和で美観を保つ都市[1995年登録]

エディンバラの旧市街・新市街
Old and New Towns of Edinburgh map④

中世の面影が色濃く残る旧市街と、18世紀以降に造られた新古典主義様式の新市街の美しいコントラストで観光客をとりこにするスコットランドの首都。エディンバラ城からホリルードハウス宮殿までの1本道は「ロイヤル・マイル」と呼ばれ、歴史的建造物やカフェ、ショップが立ち並ぶ。
http://edinburgh.org

ローマ時代の温泉の街[1987年登録]

バース市街
City of Bath map㉕

ローマ時代に温泉街として繁栄し、18世紀には上流階級の人々が集う保養所として親しまれてきた街。ジョージアン様式の建物が数多く残り、美しい街並みを生み出している。古代ローマ人によって造られた「ローマン・バス」は、観光の目玉となっている。
www.visitbath.co.uk

産業革命

ユートピア都市共同体[2001年登録]

ニュー・ラナーク
New Lanark map⑤

© mrpbps
19世紀初頭、産業革命による悲惨な労働環境を目の当たりにした社会主義者ロバート・オーエンがニュー・ラナーク紡績工場を買収して、作り上げた産業ヴィレッジ。住環境・教育の改善、ヘルスケア制度が整えられ、産業地域の模範となった。ビジター・センターを中心に、工場跡や、再現された労働者の住宅などを歩いて見て回ることができる。エディンバラ他から車で1時間。
www.newlanark.org

大量生産技術が生まれた地[2001年登録]

ダーウェント峡谷の工場群
Derwent Valley Mills map⑭

© Robert Powell
産業革命初期に造られた綿紡績工場群。18世紀の発明家リチャード・アークライトが手がけた水力紡績機の導入によって大量生産を可能とし、近代工業産業の幕が開けた。イングランド中部ダービーから北に伸びるダーウェント峡谷沿いに工場などが点在する。広範囲にわたるが公共交通でも移動可。
www.derwentvalleymills.org

産業革命期のモデル・ヴィレッジ[2001年登録]

ソルテア
Saltaire map⑪

上のニュー・ラナーク同様、労働者らに快適な住宅や教育を提供することを目指した、産業革命期のモデル・ヴィレッジ。ウェスト・ヨークシャーに位置し、毛織物工業で材を成したタイタス・ソルトの総合都市設計によって作られた。村の中心として活躍した工場「ソルツ・ミル」は一旦閉鎖された後、ギャラリーやショップが並ぶ複合施設として息を吹き返した。少々地味な町ながらも、英国史における産業革命期の名所として名を残す。
www.saltairevillage.info

炭鉱の歴史を後世に伝える[2000年登録]

ブレナヴォンの産業景観
Blaenavon Industrial Landscape map⑱

18世紀末から製鉄業で栄え、19世紀には石炭、鉄の産地として、産業革命を支えたウェールズのブレナヴォン。最後の鉱山が1980年に閉山したが、採石場などが残り、炭鉱の歴史を後世に伝える。その光景は、どこか『天空の城ラピュタ』の世界。見どころはビッグ・ピット国立博物館とブレナヴォン・アイアンワークス。観光は車が便利。
www.visitblaenavon.co.uk

英国で最も長くて高い水道橋[2009年登録]

ポントカサステ水路橋と運河
Pontcysyllte Aqueduct and Canal map⑮

ウェールズの町レクサムで、蒸気機関車が走るよりも以前の1805年に完成した水道橋。産業革命期に天然資源を運ぶために設計され、高さ38メートルの橋に運河が流れる。長さ307メートルは英国で最も長い水道橋で、産業革命における建築物の傑作とされる。ぜひナローボートまたは徒歩で渡ってみたい。
www.pontcysyllte-aqueduct.co.uk

産業革命、発祥の地[1986年登録]

アイアンブリッジ渓谷
Ironbridge Gorge map⑯

英中西部シュロップシャーにある渓谷。天然資源の豊富さ、コークスを用いた製鉄法、水運の良さにより、産業革命の中心地のひとつとなった。本来の名はセヴァーン渓谷だが、世界初の鉄橋=写真=にちなみ、この名で文化遺産に登録される。1781年に開通した橋は、今も歩いて渡ることが可能。周辺には博物館、地下トンネルなど観光アトラクションあり。
www.ironbridge.org.uk

自然と産業の融合[2006年登録]

コーンウォールと西デヴォンの鉱山景観
Cornwall and West Devon Mining Landscape map㉗

© N p holmes
銅・スズの採掘と、工場や港湾など副次的な産業が一体となって発展した地域。一時は世界で供給される銅の3分の2を産出するまでに成長した。地下坑道やエンジンハウス跡が10エリアに点在。写真は、海沿いに佇み独特の景観を生み出している旧スズ採掘所「Wheal Coates」。現在ナショナル・トラストが管理する。
www.cornish-mining.org.uk

ロンドン日帰り

キリスト教の一大巡礼地[1988年登録]

カンタベリー大聖堂、セント・オーガスティン修道院跡とセント・マーティン教会
Canterbury Cathedral, St Augustine's Abbey, and St Martin's Church map㉓

6世紀にキリスト教布教の拠点となったカンタベリーで、重要な教会建築として文化遺産に登録される3つの建造物。写真右は英国国教会の総本山カンタベリー大聖堂。下は、6世紀に建てられた修道院。ヘンリー8世によって解体され、現在は廃墟となっている。
www.canterbury.co.uk


先史時代の謎に迫る![1986年登録]

ストーンヘンジ、エーヴベリーと関連する遺跡群
Stonehenge, Avebury and Associated Sites map㉔

巨大な石はどのようにして、なぜ建てられたのか? そんな謎と異様な光景で、考古学者からヒッピーまで、幅広いファン層を持つ遺跡ストーンヘンジ。紀元前3000年~1500年に建造された、高さ4~5メートルほどの巨石が円を描くようにして並ぶ。ストーンヘンジから北へ車で40分の場所にあるエーヴベリーにも同様のストーンサークルが残り、合わせて文化遺産に登録される。
www.stonehengeandaveburywhs.org

ロンドンを象徴する建造物[1987年登録]

ウェストミンスター宮殿とウェストミンスター寺院、セント・マーガレット教会
Palace of Westminster and Westminster Abbey including Saint Margaret’s Church map㉒

国会議事堂として使われる、ロンドンの代表的建造物ウェストミンスター宮殿ももちろん世界遺産リスト入り。王室行事が行われるウェストミンスター寺院、さらに寺院の敷地内にあるセント・マーガレット教会とともに文化遺産に登録される。
www.parliament.uk
www.westminster-abbey.org

血塗られた歴史を肌で感じる!?[1988年登録]

ロンドン塔
Tower of London map㉑

要塞、王宮、軍事施設、監獄…。時代の流れとともに役割を変え現在に姿を留めるロンドン塔。血塗られたその歴史から、心霊スポットとしても有名。
www.hrp.org.uk/tower-of-london

世界最大規模の植物園[2003年登録]

キュー王立植物園
Royal Botanic Gardens, Kew map⑳

広大な敷地に4万種類以上の植物が生育されるほか、植物標本が850万点以上所蔵される。
www.kew.org

大英帝国の発展に貢献[1997年登録]

海事都市グリニッジ
Maritime Greenwich map⑲

世界の海を支配した大英帝国の発展を支えた町グリニッジ。旧王立海軍学校や国立海事博物館のほか、グリニッジ標準時の基準となる天文台、経度0を示すグリニッジ子午線がある。ヘンリー8世、エリザベス1世が誕生したのもグリニッジで、王室ともゆかりが深い。天文台のある丘からはロンドンの街を見渡せる。
www.visitgreenwich.org.uk

週刊ジャーニー No.1029(2018年4月5日)掲載

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