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英国で考えてみる臓器移植ドナーってな~に?

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英国で考えてみる臓器移植ドナーってな~に?
映画やテレビドラマ、あるいは小説などでしばしばテーマとして取り上げられる臓器移植(organ transplant)。
先日、ノーベル文学賞に輝いたカズオ・イシグロ氏の話題作『わたしを離さないで』も臓器移植がテーマだった。
自力では回復が見込めない患者にとって最終手段といえる治療法だが、臓器を提供する「ドナー(donor)」の存在なしには成立しない。
今号では、臓器移植ドナーに関する基本の基本についてお届けすることにしたい。

●サバイバー●取材・執筆/名越 美千代・本誌編集部
All images, unless stated otherwise, kindly supplied courtesy and copyright of NHSBT

臓器移植と臓器提供

時事ニュースのみならず、映画やTVドラマなどのフィクションの世界でも、臓器移植という言葉を見聞きする時代となった。臓器移植とは、重い病気や事故などで体の一部の機能が低下して、移植によってしか治療ができない患者のために、亡くなった人の体から臓器の提供(organ donation)を受けて行う医療だ(生存している人から臓器移植を受ける生体移植=下記Q&A内Q6参照=もある)。
臓器を受け取る側はレシピエント(recipient)、提供する側はドナー(donor)と呼ばれる(臓器のドナー登録はNHSが担当)。もう亡くなっているとはいえ、人間の体の一部を提供するわけであり、人々の善意によってしか成り立たない医療と言えるだろう。
なお、死後に自分の体を誰かの役に立てたいと考える時の選択肢には、臓器提供とは別に献体(body donation)がある。献体は、医学の教育や発展のための解剖対象として遺体が提供されるもので、臓器提供とは条件も登録機関も異なる。例えば、英国では臓器提供後の遺体は献体として受け入れられないことが多く、献体を受け付ける団体を総合的に管理しているのは「Human Tissue Authority(人体組織局)」となっている。
今回の特集では、献体ではなく、英国における移植のための臓器提供について、NHSの情報ページをもとに基本的な事柄を紹介することを、先にお断りしておきたい。

世界的に不足している臓器

英国における臓器移植の症例数の推移

※過去5年の比較(生体移植は除く/資料はNHS提供)

※心臓と膵臓はこの図の中では非表示
移植のための臓器は世界的に不足している。
日本の場合、脳死時の臓器移植がまだまだ活発ではなく、海外へ臓器移植の可能性を求める患者も少なからずいるために諸外国からひんしゅくを買うこともあるようだ。臓器提供に関する制約を緩めることで国内での臓器移植数を増やそうと、日本では2010年に臓器移植法が改正され、15歳未満の子どもも含め、本人の臓器提供に関する意思が不明な場合でも家族の承諾のみで脳死下の臓器提供が行えるようになった。
英国でも移植のための臓器については、恒常的な不足が続いている。臓器移植を待ち望んでいる患者の数は現在6500人以上を数え、昨年は子ども14人を含む457人が、適合する臓器が見つからないままに亡くなったとされる。
移植臓器の不足問題を解消するため、テリーザ・メイ首相は今秋の保守党党大会で 、臓器提供拒否の意思表示を登録していない限り、死後に臓器ドナーとなることを承認しているとみなすという、臓器提供の可能性を広げる制度の導入を検討することを明言した(下記Q&A内Q10参照)。
メイ首相の進退問題やブレグジットなどの他の大きな議題の陰に隠れてはいるものの、メイ首相が打ち出したこの方針に移植の日を待ちわびる患者は希望の光を見出したことだろう。

臓器提供が求められる理由

NHSの臓器提供ウェブサイトでは、 (1)人の命を救える臓器は足りず、臓器提供登録者がさらに必要とされている、 (2)ドナー一人の臓器は最大9人に役立てることができる、(3)活かせるはずの臓器が無駄にされる一方で、臓器提供が受けられずに失われる命がある、(4)持病があっても、使える臓器はある(例えば、失明者の視力回復)、(5) あなたが最後に誰かの人生を助けたということが、残された遺族に誇りを与える―という5つの理由を掲げて、ドナー登録への協力を広く訴えている。
また、「家族の誰かが臓器移植を必要としていたら、あなたは臓器提供を受け入れますか? 『イエス』と答える場合、あなたも誰かの命を救うために臓器を提供できるのでは?』と、互恵的な見地からも呼びかけている。

臓器提供の承認や拒否に正解はない

まだまだ数は足りないとはいえ、過去5年間で臓器提供登録者は 490万人も増え、国民の約36パーセントに当たる2360万6千人に達したと報告されている。
おかげで、移植手術数も過去5年間で20パーセントも増加。これには、有名人によるドナー登録への呼びかけや、亡くなった家族の臓器を提供した一般の人々の美談をメディアが精力的に報じていることも一役買っていると思われる。運転免許証などの申請時にドナー登録の意思も合わせて尋ねる仕組みにして、一人でも多く、ドナー登録について知ってもらおうとする動きもある。
ただ、遺体に対する考え方はひとそれぞれ、大きく異なる。キツネ好きを自認する英女優のジョアンナ・ラムリーさんは、今年5月に臓器提供の意思を公表した際に「使える臓器を摘出した後の残りはキツネの餌にしていい」と付け加えて、人々を驚かせた。ここまでこだわりのない人は珍しいだろう。
一般的には遺体は厳かなものとして捉えられているし、脳死を死と捉えられない人も、自分の肉体にメスが入れられることに拒否反応を示す人もいるだろう。臓器移植制度や医者・病院をそもそも信用できないという人もいるかもしれない。臓器提供の承認は本当に納得いかない限り、できないことだ。
この特集は決して、臓器提供のドナー登録を、すべての人に無条件に推奨することを目的としたものではない。ドナーの数がまだまだ不足している現状、本人がドナー登録をしていても遺族の反対で覆ることも多いため、生前に家族と話し合っておくことがとても大切であることなど、一般的な情報を知ってもらいたいと考えたのが出発点だ。臓器移植や臓器提供について考える、ちょっとしたきっかけとなればと思う。

臓器移植ドナーについての基礎的Q&A

Q1 年齢制限は?赤ちゃんでもドナーになれる?

愛してやまない我が子が、生後まもなく息を引き取った…そのような時に、臓器提供に合意できるか。親にとって、きわめて難しい選択となることは言うまでもない。※写真はイメージ。
A 臓器提供に年齢の下限はないが、16歳または18歳未満の子ども(居住地によって制限年齢は異なる)では、両親の同意が必要だ。大人から子どもへの移植は可能だが、心臓や肺など、臓器の種類によっては子どもに対しては子どもサイズの臓器しか移植できないこともあり、それゆえに移植手術の待ち時間は子どものほうが大人よりも長くなりがちだという。
逆に、子どもから大人への移植も可能だ。英国では2015年に、生後74分で亡くなった赤ちゃんの腎臓を成人女性に移植した例がある。ヘーゼルナッツほどの大きさだった腎臓は移植後に急速に成長し、2年後には成人の腎臓の大きさになったと報告されている。
高齢者の場合は 臓器によっては年齢制限が設けられているものもある。例えば、角膜は80歳未満、心臓弁や腱は60歳未満などという具合だ。骨や皮膚組織には年齢制限はない。移植しても大丈夫かどうか、ケース・バイ・ケースで専門医が判断するので、とりあえずの登録が求められている。
2012年には、83歳の男性が存命中に腎臓のひとつを見知らぬ人に提供した(生体移植)ケースが報じられている。この時の取材で男性は「私の腎臓は40代並みに機能していると医者に褒められた」と話していたという。

Q2 不健康だとダメ?

A 持病の種類と程度にもよるが、どの臓器が使えて、どの臓器がダメかということを専門家が病歴から最終的に判断する。移植が不可能という病気は少ないと言われている(絶対に臓器提供ができないとされるのはクロイツフェルト・ヤコブ病)。
HIVや肝炎のように感染する可能性の高いものについてはしっかりと検査が行われ、例えばHIV患者間の臓器移植が検討されることもある。また、ガン患者からの臓器提供も安全に行える可能性が高いとされ、これも医者が、臓器を必要としている人の緊急性とガン患者の臓器を使うことのリスクとのバランスを考慮して判断するという。

Q3 臓器提供の承認や拒否はあとから取り消せる?

A 登録済みの臓器提供の承認や拒否の変更はNHSのウェブサイトや電話で簡単にできる。

Q4 人種や宗教は関係する?

A NHSのウェブサイトでは、主な宗教の中で臓器移植が教義に反するものはないとした上で、それぞれで所属する宗教団体に相談することを勧めている。
人種によって体質や患いやすい病気が異なることから、様々な人種の登録が求められている。特に黒人やインド系、その他の民族的少数派の臓器提供が不足しているため、こうした 人々の移植への待ち時間は白人の患者よりも平均で1年長いという。また、血液や組織という点でも、同じ人種同士の方が適合しやすいとされる。

Q5 できるだけ多くの臓器を使って欲しい場合、どの臓器が対象になる?

移植用の臓器が不足していることを訴える看護師たち。
A 臓器提供承認の登録の際には「すべての臓器を提供する」、または「臓器の一部を提供する」のどちらかを選択できる。臓器の一部の提供を希望する場合、選択肢は、腎臓、心臓、肝臓、小腸、角膜、肺、膵臓、組織(心臓弁、皮膚、骨、腱など)の8項目となっている(下記コラム参照)。
ひとりのドナーから最多の移植が行われたのは、2012年に脳動脈瘤で亡くなった13歳の少女の例で、 子ども5人を含む8人の患者に対して臓器移植が行われた。この移植では、心臓、膵臓、小腸はそれぞれ3人に、腎臓は2人に、両肺は1人に、そして肝臓は2人に切り分けられている。通常は平均で、ひとりの提供あたり2.6人分の移植が行われている計算になるという。

Q6 存命中にできることはある?

A 生きている人から健康上支障がない臓器を摘出して必要とする患者に移植することは生体移植(living organ transplant)と呼ばれる。提供者の健康と安全確保が第一で、第二に、提供相手に適しているものでなければならない。
生存中に臓器提供できるものは、腎臓と肝臓。また、手術や出産時に剥がれ落ちる骨や羊膜なども提供できる。登録の詳細はこちらのページの「How To Make A Donation」から問い合わせができる。
https://www.organdonation.nhs.uk/faq/living-organ-donation

Q7 臓器提供が登録済みなら家族の承認は不要?

誰しも、いつかは最期の日がくる。臓器提供を希望するなら、日頃から家族にその旨をしっかりと伝えておくことが必要だ。 ※写真はイメージ。
A 病院は亡くなった人の臓器提供の登録の有無をNHSのデータで確認するので、本人がドナーカードを持ち歩く必要はない。
ただし、病院は遺族にも同意を求めるし、遺族が強く反対すれば強制はできない。遺族の1割は、失った家族の臓器の提供を拒否するとされ、ドナーを希望した故人の意思に反する結果になることもあるという。悲しみに沈んでいる家族には冷静な決断を下すことは難しい。普段から、家族や友人に自分の意思をはっきりと伝え、よく理解してもらっておくことが大切だ。

Q8 臓器提供でお金はもらえる?

臓器提供は、あくまで善意に基づくものであることが前提。※写真はイメージ。
A 英国では臓器提供にまつわる金銭のやりとりは一切、法律で禁止されている。
臓器提供者のモチベーション作りのため、2011年に「 提供者の葬儀代を NHSが負担してはどうか」という案が出されたが、一般的に1500~5000ポンドほどかかるとされる葬儀代を浮かせようと、家族が病人や高齢者に圧力をかけるのではないかという心配や、臓器提供はあくまで他者を助けたいとの善意の気持ちからなされるべきだという考えから、実現は見送られている。

Q9 臓器摘出後は、きれいに縫合してもらえる?

A NHSのサイトによれば、遺体は専門担当者の管理のもと尊厳をもって大切に扱われ、臓器摘出後の傷口も、一般手術と同様にきれいに縫合されるとのこと。あとから棺を開けて家族や友人に顔を見てもらっても、まったくわからないので、葬儀の際も問題はないと説明されている。

Q10 未登録者はドナー希望扱いになるオプト・アウト(opt-out)方式とは?

子どもとも、臓器提供について話す機会を持ちたいもの。※写真はイメージ。
A 臓器提供に 同意(イン)か、拒否(アウト)か、どちらの選択(オプト)を基準にした登録制度とするかが、臓器移植の将来の鍵を握っている。
ひと昔前までは、脳死時の臓器提供に同意する人が積極的にドナー登録を行う『オプト・イン』方式が主流だった。 臓器移植を待ち望む側からすれば登録者まかせの受け身の制度で、しかも、未登録者の脳死では本人の意思を確認できず、臓器移植の可能性をみすみす逃してしまう。
これでは慢性的な臓器不足を解消できないとして考えられたのが、『オプト・アウト』方式。臓器提供拒否の意思表示がない限りは臓器提供に同意したものと自動的にみなすという点が『オプト・イン』方式との大きな違いだ。ゆえに、 臓器提供を望まない人は、拒否の意思をあらかじめ登録しておかなければならない。
どちらの方式にも賛否両論があるのだが、『オプト・アウト』方式なら、生前に臓器提供について行動を起こしていなかった人が死亡した場合でも臓器を活用する道が開けることから、提供臓器数の増加が期待されている。
英国ではウェールズが2015年から既にオプト・アウト方式を取り入れており(ただし、遺族の反対があれば撤回できるという緩やかな方式)、スコットランドやイングランドも近い将来、ウェールズに続く見込みと推測される。

英国でのドナー登録は?

NHS(英国国民医療制度)の臓器提供ウェブサイト(NHS Organ Donation)から、臓器提供の意思の有無を数分で登録できる。最初の画面で「臓器提供に同意」を選択すると、名前や住所といった個人情報の登録画面に進む。ここでは、「すべての臓器を提供する」、または「臓器の一部を提供する」のどちらかが選択できる(臓器の一部の提供を希望する場合、選択肢は、腎臓、心臓、肝臓、小腸、角膜、肺、膵臓、組織の8項目)。登録完了後、登録カード(NHS Organ Donor Card)が郵送されるが、自分でダウンロードすることも可能だ。臓器提供を拒否したい人も、その意思を登録することができる。
いざという時、病院は登録データから同意の確認をするが、家族にも念のため同意を求める。NHSでは、臓器提供について普段から家族と話し合い、自分の意思を家族にもきちんと伝えておくようにアドバイスしている。
また、同意や拒否の意思を含め、 登録内容はすべて同ウェブサイトで後から変更することができる。
臓器提供の登録はNHSのウェブサイトから。
https://www.organdonation.nhs.uk

週刊ジャーニー No.1008(2017年11月2日)掲載


走って、歩いて、楽しめる! 英国の珍マラソン

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 本場・英国で乗馬デビュー!!
新年を迎え、今年の抱負を大きく掲げた人も多いのではないだろうか。
でも「いやまだ…」という人にぜひおすすめしたいのがマラソン!
え? 走るのなんてつまらない!? そんな声にも頷ける。
そこで、今回は一風変わった、おもしろマラソンを紹介する。

●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部

英国では年間を通して、本格的な市民マラソンから、いかにも英国らしいと笑ってしまうユニークな大会まで、趣の異なる『走る』イベントが各種催されている。その中から、42.195キロのフルマラソンにこだわらず、5キロ、10キロの短めのレースを中心に、一風変わった、面白いマラソン大会を集めてみた。 
改めてみてみると、英国にはチャリティー目的の走者が多いことがよくわかる。たとえば毎年4月に行われるロンドン・マラソンは、世界で最も大きいチャリティー・マラソンとしての地位を確実にしており、4万人の出場者のうち4分の3がチャリティー・ランナーと言われている。大会によってチャリティーの仕組みは異なり、収益の一部が特定の団体に寄付される大会もあるが、自分が走ることで家族や友人などのサポーターに寄付を呼びかけて目標額を達成する形が広く採用されている。言ってみれば自分の「趣味」で走ることに対し寄付を集めるというのは、日本人には馴染みがないかもしれない。だがチャリティー文化が根付く英国では一般的に行われていて、日本との違いを感じることができる。
チャリティーなどの大義名分がなくても、単に「楽しい」だけの大会ももちろんある。「走ることの何が楽しいのか」。それは走ってみた人にしかわからないのかもしれないが、騙されたと思って出場してみれば、今年は新境地に到達できるかもしれない!?
参加にあたっては、事前の準備が大事。参加申込み(人気イベントはすぐに定員になることもある)はもちろん、練習も必須。運動不足の人がぶっつけ本番で短めのレースを走って「意外と大丈夫だったよ」という話も耳にする一方、練習しようと思ったら200メートルで息が上がって、足が動かなくなったというのもよくある話。昔取った杵柄が使い物にならないことも、過信することによって健康に悪影響が及ぶこともある。参加を決めたら計画的に体を慣らして、気持ちよく汗を流していただきたい。
3月

ウォーリーの世界が現実に!
Where’s Wally? Fun Run

© National Literacy Trust
英国人イラストレーターのマーティン・ハンドフォード作の大人気絵本『ウォーリーを探せ!』のキャラクター「ウォーリー」に扮して走るチャリティー・ラン。体力に合わせて距離を選べる上、歩いても問題ないので家族や友人と一緒に扮装して参加したい。寄付を集めるための目標金額が掲げられているが、必須ではないので初心者でも参加しやすい。
【開催日】2018年3月18日
【距離】1キロ(12歳未満)、5キロ、10キロ
【開催地】クラパム・コモン
【参加費】大人26ポンド(衣装付)、子供13ポンド(衣装付)
https://literacytrust.org.uk/support-us/fundraising/wheres-wally-fun-run-2018/

4月

奥様運びレースの英国版
UK Wife Carrying Race


時はさかのぼること1800年代。フィンランドのある村では、近隣に住む男が村の娘たちを背負って連れ去るという言い伝えがあった。この話を元に、1992年にフィンランドで始まった「奥様運びレース」の英国版。傾斜や障害物のあるコースを「wife」を抱えて走り抜ける。速くゴールするために数々の抱え方が考案されるなか、定評があるのはワイフを逆さ吊りに背負う「エストニアン」=写真。速さは劣るがユニークと主催者が押すのが、走者の前方で逆さ吊りにするセクシーなポーズ(主催地名にちなみ「ドーキング」と呼ばれる)。アットホームな雰囲気の中、昨年は35組が参加した。
【開催日】2018年4月8日
【距離】380メートル障害
【開催地】イングランド南東部サリー、ドーキング
【参加費】50ポンド
【優勝賞品】奥様の体重分のビール
【最下位】ドッグフード
www.trionium.com/wife

5月

誰もがスーパーヒーローになれる!
Super Hero Run


スーパーマンやバットマンなどに扮して誰もが本物のヒーローになれるチャリティー・ラン。参加費に加えて、寄付達成金額100ポンドを目指して、友人・知人から、あるいはウェブサイトを通して寄付を募る。
レース前には8歳未満の子供による200メートル走もあり。大勢で参加して、レース終了後にはピクニックをして1日を堪能したい。
【開催日】2018年5月13日
【距離】5キロ、10キロ
【開催地】リージェンツ・パーク
【参加費】25ポンド(衣装付)+寄付金達成額100ポンド
www.londonsuperherorun.co.uk

6月

人間と馬、どっちが速い?
Whole Earth Man v Horse

© Peter Barnett
「実際のところ、山を越えるのに馬と人間とどちらが良いのだろう」。
1980年6月、ふたりの男がウェールズのとあるパブでそんな会話をしているのを耳にした店のオーナーが試したことからスタートし、毎年恒例となった「人間vs馬」のレース。
平坦ならば馬の方が速いかもしれないが、障害物が多い自然界となると話は別。コースは人間の不利にならないよう毎年変更が加えられ、接戦が繰り広げられることもある。
馬に負けっぱなしだった人間だが、初開催から25年を迎えた2004年にようやく勝利、3年後の2007年にも馬を負かすことができた。
ウェールズ中部の町を舞台に、ひざの深さほど沼や川、傾斜のある22マイル(約35キロ)を人と馬が駆け抜ける。ランナーとしてはもちろん、騎手としての参加も可能。人間が馬に勝った場合には賞金が支払われ、負けた際には賞金が翌年に持ち越される。2018年の賞金は2500ポンド!
【開催日】2018年6月9日
【距離】22マイル(35キロ)
【開催地】ウェールズ中部スランウルティド・ウェルス(Llanwrtyd Wells)
【参加費】30ポンド~
www.green-events.co.uk/?mvh_main

7月

地球上で最も幸せな5キロ
The Color Run UK


米国で2011年にスタートし、ロンドン、東京など200以上の都市で開催されるカラフルなイベント。「地球上で最も幸せな5キロ」をコンセプトにしたランニング・コースで、カラフルな色のパウダーを全身に浴びながら走ったり、歩いたり、踊ったりしてゴールを目指す。2017年からは「泡ゾーン」が登場し、イベントに彩りを添える。ボランティアとしての参加も可能。
【開催日】2018年7月8日
【距離】5キロ
【開催地】ウェンブリー・パーク
【参加費】未発表
https://thecolorrun.co.uk/locations/london

9月

走る理由は「ビールが好きだから」
Beer Barrel Challenge


1998年1月の寒い夜、とあるパブで男性がお気に入りのビールを飲み干してしまう。もっと飲みたい男が店主に不満をぶつけると、店主は「3マイル離れたパブからビールを樽ごと運んできたら、樽全部を飲ませてやる」と約束する。3マイルといっても高低差は280メートル弱の急勾配。だが、男は地元民をかき集めて見事賭けに勝ち、無事にビールで喉を潤したのだった。これが元になって始まったビア樽運びレース。20年を経た今も変わらず賞品は樽いっぱいのビール。
【開催日】2018年9月8日
【距離】約3マイル(4.8キロ)
【開催地】イングランド中部ピーク・ディストリクト
【参加費】1チーム80ポンド
www.facebook.com/TGKBBC/

9月

1年で自分が最も『輝く』日
Glow in the Park


体中に光るアイテムを身につけて、光と音楽を全身に浴びながら走る、運動と夜遊びが合体したイベント。コース途中に用意された泡ゾーン、ペイント・ゾーンなどで、出場者を楽しませる。
【開催日】2018年9月29日
【距離】5キロ
【開催地】未発表(2017年はケンプトン・パーク)
【参加費】未発表(2017年は16.50ポンド~)
www.glowinthepark.co.uk

12月

誰かを救うサンタになる
London Santa Run / London Santa Dash


サンタクロースの格好で公園を駆け抜ける、英国の冬の風物詩ともいえるチャリティー・ラン。ロンドンでは主に「Santa Run」「Santa Dash」が主催されている。寄付目標額は主催者によって異なる。
【開催日】2018年12月1週目の週末
【距離】5キロ、10キロ
【開催地】ロンドン各地
www.londonsantarun.co.uk
www.gosh.org
番外編

給水はフランスの美酒&美食
Medoc Marathon

© Yves Mainguy
赤ワインの名産地、フランス・ボルドーのメドック地区で開催される、スポーツとお祭り、食文化が融合した大人気のマラソン大会。美しいぶどう畑に囲まれたコース上には20ヵ所以上の給水ポイントが設置され、そこで振る舞われるのはシャトー(ワイン醸造所)自慢のワイン! 美酒を堪能しながら完走を目指す。ゴール近くなると、牡蠣やステーキなども提供される。参加者のほとんどはド派手な仮装をして挑むことから、当日はお祭りさながら! 34回目を迎える2018年の仮装テーマは「アミューズメント・パーク」。距離は42.195キロなので、運動不足の人はしっかりと準備の上、挑みたい。参加受付は3月から!
【開催日】2018年9月8日
【距離】42.195キロ
【開催地】フランス・ボルドー、メドック
【参加費】87ユーロ~
【条件】健康診断書の提出必須
www.marathondumedoc.com

体験者に聞くメドック体験談


■ 昨年のメドック・マラソンに出場したロンドン在住のSさん(フルマラソン3回目・男)とEさん(フルマラソン2回目・女)、そして応援団として現地に足を運んだHさん。大会の心得について伺った。

お祭りとはいえ、マラソンはマラソン。準備は大変なのだろうか。「アルコールを飲みながら走る練習をする人もいるようですが、僕は大会3ヵ月前から週1、2回10キロ、月1回20キロ、直前に30キロを走って準備しました」とSさん。一方のEさんは、「毎月100キロ走ることを目標に練習していましたが、直前は忙しくて走れず、不安でした」と話す。
9000人近い参加者の中には大掛かりな仮装の人も見られ、レース前半の混雑は必至。「最初の10キロは人が多くて、自分のペースで走れなかったのがつらかった。結局、足切り時間(6時間半)ギリギリを走っていました」とEさんは話す。
通常のマラソンと違い、完走や記録だけが目標とはならない。Sさんが掲げたのは、「完走、完食、完飲」。常連参加者の中には、お気に入りのシャトーに狙いを定めて立ち寄る人もいるが、Sさんは「すべて食べること、すべて飲むこと」を目標に、見事制覇した。そう話すSさんの笑顔がまぶしい!
気になる「食」について伺ったところ、ふたりが語気を強めたのがオイスター。「オイスターが出されるシャトーに着くまでに35キロを走っていて、体内の水分や栄養素が奪われていたから、生牡蠣のミネラルが体に染み渡るんです!」とEさん。Sさんも「あんなに美味しいの食べたことない!」と強調する(うらやましい!)。
大会を楽しむ上で最も大切なことは、コスプレ。Eさんは「走りやすさを優先して中途半端な仮装になってしまいました」と後悔する。レース中や給水ポイントで、似た格好の人同士が集まって記念撮影をしたり、互いの衣装をほめあったりするなど、出場者同士の交流もあるのが大会の魅力。Sさんは「恥ずかしがらずに思い切って仮装したほうがいいですよ」とアドバイスする。

応援に行くだけでも楽しい!

ダンスユニット「ベビーメタル」をイメージした仮装で挑んだSさん。
参加したいけど、まったく自信がない…そんな筆者に「走らなくても大丈夫ですよ!」と教えてくれたのが応援団のHさん。ふたりを応援すべく、現地に乗り込み、さてどうやって応援するかと悩んでいたとき、事務局の人から自転車に乗って回れることを知らされた。「最初のシャトーの近くにあるレンタル所で自転車を借り、ランナー専用のコースと自転車専用のコースがそれぞれ記されたマップを受け取って、それを元に走りました」。時には、ランナーが去った後にシャトーにお邪魔してワインをおすそ分けしてもらったとご満悦だ。
最初の方はランナーのコースと併走していたが、途中からは道が分かれてしまい、応援できる場所が限られていたという。「ふたりがいつ通るかが分からないんですよ。すでに通り過ぎたのかもしれないし、まだかもしれない。本当に困りました。次回はGPSをつけて走らせたい(笑)」と話す。
大会を楽しむためには応援者も仮装するのがおすすめ。参加している感覚を味わえる上、世界中のランナーとの交流も深まるのだそう。体力のある友人に走ってもらい、応援として『参加』するのもひとつの方法かも!?

週刊ジャーニー No.1016(2018年1月4日)掲載

ふたりの偉大なる女王を比較! エリザベス2世とヴィクトリア女王

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2015年9月3日 No.897

プリントする 他のホリデーを読む

ふたりの偉大なる女王に敬礼!

エリザベス2世とヴィクトリア女王

まもなく訪れる、2015年9月9日。この日は、新たな記念すべき日として英国史に刻まれる可能性がきわめて高い。エリザベス2世が、在位期間でついにヴィクトリア女王の記録を破り、単独首位に立つであろう日だからだ。今号では、60年以上という在位期間を誇るふたりの女王についてお届けしたい。
QE II vs Victoria

右側写真:ヴィクトリア女王が笑みを浮かべている珍しいショット。68歳当時のもの(1887年、Charles Knight撮影)/円内の絵画:4歳当時のヴィクトリア王女(1823年、Denning Stephen Poyntz作)
左側写真:2015年5月27日、国会開会式に臨んだエリザベス2世(Stephen Lock撮影/i-Images)/円内の写真:3歳の誕生日を迎えたばかりのエリザベス王女。家族からは「リリベット」と呼ばれていた。なお、2歳当時の王女に会ったチャーチルが「幼少であるにもかかわらず、威厳を漂わせ、思慮深さを感じさせる」と感想を述べたというエピソードが残っている。

●サバイバー●取材・執筆/ 本誌編集部

女性君主は繁栄のシンボル

英王室の歴史は、『征服王』ことウィリアム1世が戴冠した瞬間から始まった。1066年のことである。39歳で即位した同王は、1087年、奇しくも9月9日に60歳でこの世を去る。在位21年。イングランド各地に要塞を兼ねた城を建設し、戦いに明け暮れた生涯だった。
以来、928年。共同統治の場合は君主が2人いたとして数えるとエリザベス2世は42人目の君主となる。
この間、わずか9日間で廃位を強いられたのち、処刑された悲劇の女王、ジェーン・グレイのような人物や、リチャード3世の陰謀で落命したとの説が根強い、在位2ヵ月半のエドワード5世もいる。ちなみに、ジェーンが即位したのは15歳、エドワード5世にいたっては12歳の時。どちらも、有力貴族たちの権力闘争の道具として利用された結果、王冠を頭にのせられてからほどなくして短い一生を終える、むごい運命をたどった。
また、1422年に生後約9ヵ月で即位したヘンリー6世のような例もある。ただ、50歳で没した同王は40歳で廃位させられたため、在位期間は39年にとどまっている(途中、半年ほど復位)。
何歳で即位し、いつまで生き永らえられるか。
それぞれの君主が玉座についたあと、長く王冠をいただき続けることができるかどうかは、運次第だったとすると、在位期間の長い君主はやはり、相当の強運の持ち主といえる。1000年に近い英王室史上、在位40年以上でその強運ぶりを示した君主はわずか6人だ。

■ヘンリー3世(在位1216~72、計56年)
マグナカルタに署名した、『失地王』ジョンの長男であり9歳で即位、65歳で逝去。
■エドワード3世(在位1327~77、計50年)
ヘンリー3世の孫にあたる。15歳で即位、64歳で逝去。
■エリザベス1世(在位1558~1603、計44年)
ヘンリー8世の次女。25歳で即位、69歳で逝去。
■ジョージ3世(在位1760~1820、計59年)
ヴィクトリア女王の祖父。22歳で即位、81歳で逝去。
■ヴィクトリア女王(在位1837~1901、計63年)
現時点(2015年9月3日)では、最長在位記録保持者。18歳で即位、81歳で逝去。
■エリザベス2世(在位1952~現在に至る)
父君、ジョージ6世が56歳(在位期間は15年)で病没したのをうけ、25歳で即位、現在89歳。

この6人のうち、半数が女王である。女性で英君主の座についたのは8人にしか過ぎないことを考えると、割合の高さは際立っている。1588年に、その頃、世界最強といわれたスペインの無敵艦隊を破る快挙を達成したエリザベス1世以来、英国(古くはイングランド)は女性君主のもとで大いに繁栄するといわれるようになった。長期にわたる同一君主による統治下で、内乱もなく、政治が安定すると、国が栄える可能性は大いに高まると考えられるとはいえ、根拠のない思い込みではなさそうだ。
事実、ヴィクトリア女王の時代に英国は「日の沈まぬ」大英帝国となった。エリザベス2世の御世が、後世でどう評価されるかはまだまだ知りようがないが、在位60年を超えるだけに、肯定的にとらえられることはまず間違いない。しかし、ヴィクトリア女王が生きた時代とくらべると、世界情勢は激変。君主ひとりの力でできることはきわめて限られている。それを考慮しても、エリザベス2世の奮闘ぶりは特筆に価すると見るのは筆者だけではなかろう。

覚悟を固めた、4男坊の娘

現在の英国は立憲君主国と呼ばれる。君主の立場は「君臨すれども統治せず。The Sovereign reigns, but does not rule.」で、大いに制約される。しかし、かつては「絶対王権」という概念があり、君主になれば絶大なる権力が与えられた。有力貴族たちがこぞって君主に、あるいはその後見人になりたがったのも自然なことだった。英国史を長い間動かしてきたのは、王座をめぐる権力闘争だったことは改めて指摘するまでもないはずだ。
しかし、近代では話が異なる。フランス王室が絶えた一方で、英王室がこうして生き残ったのは、議会による締め付けが厳しく、仏ブルボン王朝の王たちのように浪費に浪費をかさねることができなかったからこそといえるが、君主になった時の「おもしろみ」は大幅に減じられてしまった。国民への気遣いから、エリザベス2世とチャールズ皇太子は『自発的に』税金を納めるまでになっており、責務ばかり重い仕事として嫌われても無理からぬこと。
しかし、ヴィクトリア女王とエリザベス2世については、運命の歯車が容赦なくまわり、君主にならざるを得なくなった時に、それを受け入れただけでなく、60年以上にわたってみごとに責務を果たしており、その取り組みの姿勢は敬意と感謝をもって認められるべきだろう。
さて、さきほど「君主にならざるを得なくなった時」と述べたが、ここで、このふたりの女王の一番の共通点といえる、「思わぬ展開により、王位がまわってきた」経緯について、それぞれ記しておこう。

戴冠式に臨んだヴィクトリア女王の姿を描いた作品
(1870年ごろ、Franz Xaver Winterhalter作)。
ヴィクトリア女王(Alexandrina Victoria)については、まず、上の系譜をご覧いただきたい。ヴィクトリア女王の父、ケント公エドワードはジョージ3世の4男にしか過ぎなかった。ところが、ジョージ3世の跡を継ぐことになっていた長男ジョージ(後のジョージ4世)の唯一の嫡出子シャーロットが死産にともない、21歳で逝去してしまう。この時、ジョージは50歳、正妻のカロラインは49歳。また、ジョージの弟たちは、多くの愛人を持ちながらも結婚していないか、正式に結婚していても子供がいないかのどちらかで、嫡出子のいない状態だった。
次世代の嫡出子をつくらねばならない―。危機感を抱いたジョージと議会は、資金援助と引き換えにして3男ウィリアム(後のウィリアム4世)と、4男エドワードを、欧州の王室出身女性と結婚させることに成功する。しかしながら、ウィリアムの初の嫡出子エリザベスは生後4ヵ月で他界してしまった。
この時点で、ヴィクトリアは王位継承権4位。だが、次男のヨーク公フレデリックが1818年に亡くなり、父エドワードも2年後に肺炎がもとで息を引き取った。また、ウィリアム夫妻にその後、嫡出子は誕生しなかった。

在位50年を迎えたヴィクトリア女王。
30年に3男ウィリアムがウィリアム4世として即位。11歳のヴィクトリアは「暫定王位継承者」となったのだが、これだけ確率の低いことがよくも起こったものだと驚くしかない。
ウィリアム4世は、晩年、ヴィクトリアが摂政なしに即位できる18歳になるまでは、生き永らえたいと周囲に話していたとされ、その望みは見事に叶えられた。ヴィクトリアが18歳になった1837年5月24日からひと月もたたぬ同年6月20日午前2時20分、ウィリアム4世は神に召された。王位についたのが65歳と高齢だったため、在位期間が約7年と短いのはいたしかたないことだった。
同日、午前6時。カンタベリー大主教と宮内長官がヴィクトリアの住むケンジントン宮殿に赴き、ヴィクトリアに謁見した。着替える間などなく、ヴィクトリアは純白の寝衣のままだったという。ここにヴィクトリア女王が誕生したのである。
その5時間半後、ケンジントン宮殿で初めての枢密院会議が行われたが、ヴィクトリアは優雅さの中にも堂々とした風格を漂わせ、ウェリントン公爵ら、政府のなみいる重鎮たちを感服させた。11歳の時に、「将来、君主になる運命だ」と知らされ、陰で大泣きしたと伝えられているが、7年のあいだに覚悟を固め、81歳でその生涯にピリオドを打つまで、女王として君臨したのだった。

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君主としての責務に全生涯を捧げる、次男の娘

1953年6月2日、戴冠式当日のエリザベス2世
(Photo Cecil Beaton, Royal Collection Trust ©HMQEII 2015)
エリザベス2世(Elizabeth Alexandra Mary)の場合も劇的としかいいようがない。
ジョージ5世の次男、ヨーク公アルバート・フレデリック・アーサー・ジョージ王子の第一子として1926年4月21日に産声をあげたエリザベス。妹マーガレットとともに、両親からの愛情あふれる家庭で順調な成長を見せていたプリンセスの立場が永遠に変わったのは1936年のことだった。
祖父、ジョージ5世が1月20日に70歳で逝去。長男がエドワード8世として即位したものの、あろうことか、離婚歴のある米国人女性、ウォリス・シンプソン夫人との結婚を選び、同年12月11日、責務を放棄して退位する大事件が起こる。英国国教会の長である、英君主は、離婚歴のある女性との結婚が認められていないからだった。
吃音にも悩むヨーク公は「国王になりたくない」と泣いて訴えたというエピソードが残るが、歴史は待ってくれなかった。ヨーク公はジョージ6世として即位。エリザベスは王位継承権1位となり、未来の君主としてのさだめを背負う。わずか10歳の時のことだ。
それから15年を経た1952年2月6日。エリザベスは、47年に大恋愛のすえ結婚したフィリップとともに、オーストラリア/ニュージーランドへの公式訪問の前に立ち寄ったケニアで、父王が病没したことを知らされる。すでに48年にはチャールズ、50年にはアンを出産していたエリザベスは、2児の母という肩書きに、「Her Majesty Elizabeth the Second, by the Grace of God, of the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland, and of Her other Realms and Territories, Queen, Head of the Commonwealth, Defender of the Faith」(正式にはラテン語。直訳すると『神の恩寵による、グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国、ならびにその他の諸王国・諸領土の女王、英連邦元首、信仰の擁護者であるエリザベス2世陛下)を加えることとなったのである。

89歳になっても、笑顔の美しさは
変わらないエリザベス2世
(©Peter Nicholls/PA Images)。
翌53年6月2日、ウェストミンスター寺院で戴冠式に臨み、その模様は英王室史上初めてテレビで放映され、英国民約2000万人が若き女王の姿を誇りをもって眺めたのだった。
これにさきだつこと約6年。英国で「成人」とみなされる21歳の誕生日を、父ジョージ6世、母エリザベス王妃、そして妹のマーガレット王女とともに公式訪問先の南アフリカで迎えたエリザベス王女は、こう宣言した。
"I declare before you all that my whole life whether it be long or short shall be devoted to your service and the service of our great imperial family to which we all belong."
(ここで皆さん全ての前で誓います。長くとも短くとも、私はこの生涯を皆さんに、そして、私たち皆が属する英連邦に捧げることを)

1947年4月21日のことだった。
その日から、来年の4月21日で69年。この決意に変わりはなく、「devote」し続けているエリザベス2世。英君主在位の最長記録を塗り替えるはずの9月9日にについては、ヴィクトリア女王の逝去を祝うようなことはしたくない、と一切の祝賀行事を禁じているため、その日は通常どおりの公務の一日となる。
しかし、来年の90歳の公式誕生日には、バッキンガム宮殿前の大通り、ザ・マルで1万人の慈善団体関係者を招いて一大ストリート・パーティーが開かれるのをはじめ、盛大に祝賀行事が繰り広げられる予定だ。
また、あと7年となったプラチナム・ジュビリー(在位70年)もぜひ迎えてほしいと、多くの英国民が心から望んでいることだろう。英国国教会の教徒でなくとも、こう唱えずにはいられない。
God save the Queen!

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勝手に比較!ふたりの女王 華麗なる対決

性格…エリザベス2世のほうが安定感あり?
【エリザベス女王】4月21日生まれのエリザベス2世はおうし座。おうし座は穏やかで愛情深く、安全と安定を求めるが、慎重である分、機敏に動くのが苦手であることが多い。また、忍耐と根気と細心の注意をもって仕事に取り組む星座といわれる。書類や手紙に目を通し、必要な場合は署名するなど、女王としての仕事は夏のホリデー中も休みなし(休むのは12月25日のみ)。さらに年間300~400件もの公務をこなすという英君主の職務は、とにかく勤勉なエリザベス2世だからこそ63年も続けていられるのだと感心せずにはいられない。
【ヴィクトリア女王】5月24日生まれのヴィクトリア女王はふたご座。ふたご座は、頭の回転が早く、好奇心旺盛で活発・社交的。適応能力も大きいが、かなりの気分屋。また、駆け引きや舌戦を好む一方、勤勉で、いくつもの仕事を同時にこなすことのできる星座といわれる。かんしゃく持ちだったと伝えられており、夫のアルバート公のみならず、ウェリントン公など、政府の要人相手に感情を爆発させることもあったという。さらには、好き嫌いが激しく、結婚前はメルバーン子爵(一時期首相を務めた)、アルバート公死去後はバルモラル城の馬係だったジョン・ブラウン、ディズレーリ(2期首相を務めた)らを寵愛するあまり、世間の批判にさらされることもあった。

伴侶…カップル歴の長さではエリザベス2世の勝利
両者とも大恋愛のすえ結婚したので、この点では引き分け。王族・皇族関係者は政略結婚が多いというのが通念だが、その意味で、ともに幸運だったといえるだろう。

©Library and Archives
Canada/K-0000047
【エリザベス女王】エリザベス2世の夫、エディンバラ公フィリップ殿下(1921年6月10日生まれ)はヴィクトリア女王の長女の娘を母に持つ。フィリップにはこのほか、ギリシャ王ゲオルギオス1世 、 デンマーク王クリスチャン9世、ロシア皇帝ニコライ1世の血が流れている。父はギリシャ王子だったが、フィリップが1歳の時にギリシャでクーデターが起こり、フィリップ一家はギリシャを脱出。パリ、のちに英国で暮らすようになる。1947年、英国に帰化。同年、エリザベス2世と結婚。婚姻生活は67年を数え、英君主とその配偶者の婚姻年数としては文句なく第1位。日々、記録を更新中。

The Royal Collection
©2010 HMQEII
【ヴィクトリア女王】ヴィクトリア女王はザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバート(1819年8月26日~61年12月14日)と1840年に結婚。アルバート公は後に、女性君主の配偶者として「プリンス・コンソート(Prince Consort)」の称号を与えられた。結婚式でヴィクトリア女王が純白のウェディング・ドレスを着用し=写真下、これが流行。以来、結婚式で白いウェディング・ドレスを着ることが定番となった。しかし、1861年にアルバート公が腸チフスで死去。婚姻生活は21年。ヴィクトリア女王の嘆きは尋常ではなく、その後約10年、公務から身をひいた。公務に復帰してからも、喪服の着用はやめようとしなかった。

子供の数…ヴィクトリア女王の圧勝

Photo James Reid,
Royal Collection Trust
©HMQEII 2015
【エリザベス女王】エリザベス2世は、夫エディンバラ公フィリップとの間に、チャールズ皇太子、「プリンセス・ロイヤル」ことアン王女、ヨーク公アンドリュー王子、ウェセックス伯エドワード王子の3男1女をもうけた。このうち、エドワード王子以外は離婚歴ありで、エリザベス2世は子供たちの結婚生活について思い悩むことが少なくなかったはずと想像できる。
チャールズ皇太子はすでに67歳。王位を譲る必要性を説く声も聞かれるようだが、離婚歴のあるカミラ夫人と『結婚』した時点で、同皇太子は、みずから英君主になるにあたっての大きな障害をつくってしまっている(現行の法律では、英国国教会の長を兼ねる英君主は、離婚歴のある者との婚姻が認められていない)。このまま孫のウィリアム王子に王位を譲るほうが良案と、エリザベス2世が内心考えていたとしても、国民の多くは反対したりしないだろう。
【ヴィクトリア女王】ヴィクトリア女王は、夫アルバート公との間に4男5女をもうけた。夭逝した子供はおらず、第8子 のレオポルド(オールバニ公)は31歳で亡くなったものの、第7子アーサー(コンノート公)は92歳まで生き永らえるなど概して長命だった。長女ヴィクトリアはドイツ皇帝フリードリヒ3世の皇后、次女アリスはヘッセン大公ルートヴィヒ4世の妃となるなど、娘を欧州各国の君主・公爵クラスの男性に嫁がせ、在位中に孫40人、ひ孫37人が誕生するに至った。ヴィクトリア女王が「ヨーロッパの祖母」と呼ばれたのはこのため。ただ、ロシア皇帝ニコライ2世の皇妃となった、ヴィクトリア女王のお気に入りの孫娘アレグザンドラ(次女アリスの娘)は、1918年、ロシア革命の際に一家ともども殺害されるという、悲しい末路をたどった。ニコライへの嫁入りを応援したヴィクトリア女王が、1901年に他界していたことはせめてもの慰めと言えそうだ。

公式訪問国の数…エリザベス2世の圧勝
【エリザベス女王】交通手段の飛躍的な進歩により、王室外交はかつてないほど活発になっている。エリザベス2世は72ヵ国・地域を歴訪。ただ、この数字をもって単純に「エリザベス2世圧勝」とするのは不公平という気もする…。
【ヴィクトリア女王】ヴィクトリア女王が訪れたのはフランスとアイルランドのみ。1876年より英君主がインド皇帝もかねることになり、ヴィクトリア女王はその初代となったが、インド訪問は行われなかった。

公務の数…比較できず
■「公務(official engagements)」という概念がヴィクトリア女王時代には十分確立されていなかったため、比較が困難。ただ、エリザベス2世のこなす公務数が超人的であることは確か。2013年は344件、14年は393件を記録。今年はややスローダウンしたとされているものの、感服するばかり。

首相の数…両者とも10人以上で五分五分
【エリザベス女王】エリザベス2世のもとで首相となった政治家は、チャーチルからキャメロンまで現時点で13人。サッチャー元首相とはウマが合わなかったと言われているが、その葬儀にエリザベス2世が参列し、世間を驚かせた(英君主がこうした葬儀に参列するのは異例)。
【ヴィクトリア女王】ヴィクトリア女王のもとで首相となった政治家は、メルバーン子爵からソールズベリー侯爵まで10人(ただし、4度首相となったグラッドストンなど、複数回首相となった人物は「1人」と数えた)。なお、ヴィクトリア女王はグラッドストンが大嫌いだったという。

ペット…コーギー犬へのなみなみならぬ愛情でエリザベス2世に軍配
【エリザベス女王】エリザベス2世は馬に加え、イヌ好きであることでも知られる。短い脚が愛くるしい、コーギー犬2匹、およびコーギー犬とダックスフントとの交配種「Dorgis」2匹の計4匹。
【ヴィクトリア女王】ヴィクトリア女王も、犬を飼ったり、乗馬を楽しんだりするなど、動物嫌いではなかった(絵画は、ヴィクトリア女王が14歳の時のもの。足元では、愛犬のスパニエル「Dash」がたわむれている)。

趣味…乗馬とアートで勝負はつかず

© Eva Zielinska-Millar
【エリザベス女王】エリザベス2世の趣味は、なんといっても乗馬。89歳の今でも、乗馬を楽しむ。ヘアスタイルが乱れるのが嫌で、周囲の心配はよそに、ヘルメットをかぶらずスカーフで済ませることでも有名。また、競馬にも強い関心を寄せており、2013年には、同女王所有のエスティメイト(Estimate)がゴールドカップ(G1)で優勝。
【ヴィクトリア女王】ヴィクトリア女王の絵を描く才能はずば抜けていた。自画像、子供たちの姿などを描いているが、その腕前にはうなってしまう(絵画は、ヴィクトリア女王が16歳の時に描いた自画像)。

ふたりの女王が登場するおすすめDVD

The King's Speech
『英国王のスピーチ』

(2010/118分)
吃音(きつおん)に悩むジョージ6世(コリン・ファース)と、スピーチ矯正の専門家であるオーストラリア人、ライオネル・ローグ(ジェフリー・ラッシュ)の関係にスポットをあてた人間ドラマ。ジョージ6世の妻、エリザベス(故クイーン・マザー)に扮するのはヘレナ・ボナム=カーター。コリン・ファースは、この作品で念願のアカデミー賞主演男優賞を見事獲得。

The Queen
『クィーン』

(2006/104分)
1997年、ダイアナ元妃の突然の事故死に際し、対応が冷たいとして国民の猛反発を受けるエリザベス2世(ヘレン・ミレン)の苦悩と、事態収拾に奔走するトニー・ブレア首相(マイケル・シーン)の姿をえがく。この作品でアカデミー賞主演女優賞を受賞したミレンは、その前年に、テレビドラマ・シリーズ『Elizabeth I(エリザベス1世 ~愛と陰謀の王宮~)』でも主演を務めた。

The Young Victoria
『ヴィクトリア女王 世紀の愛』

(2009/102分)
ケンジントン宮殿で抑圧された日々を送っていた若きヴィクトリア(エミリー・ブラント)は弱冠18歳で即位する。まもなくアルバート公(ルパート・フレンド)と恋に落ちて結婚したものの、様々な問題が発生。それらを、ひとつずつ乗り越え、絆を深めていくふたりに焦点をあてる。おじのウィリアム4世をジム・ブロードベントが演じるなど、脇を実力派俳優が固めている。

Mrs. Brown
『Queen Victoria 至上の恋』

(1997/106分)
アルバート公亡き後、悲しみのあまり「引きこもり」のような生活を続けるヴィクトリア女王(ジュディ・デンチ)。アルバート公に仕えた馬係、ジョン・ブラウン(ビリー・コノリー)がスコットランドから呼び寄せられると、やがてブラウンを寵愛するようになり、「ブラウン夫人」と陰口をたたかれるようになってしまうが…。身分を越えて、互いを思いやるふたりの姿をつづる。

530年の眠りから覚めた リチャード3世【Richard 3】

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2015年10月1日 No.901

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530年の眠りから覚めたリチャード3世

530年の眠りから覚めた

リチャード3世

シェークスピアの戯曲『リチャード3世』の中で、醜い姿をした狡猾で冷酷な人物としてえがかれているリチャード3世。近親者を次々と手にかけて王位を簒奪した「惨忍な暴君」というイメージが定着しているが、一方で軍事的才能に恵まれた「勇敢な王」だったとも言われている。
2012年、そのリチャードの遺骨がイングランド中部レスターの駐車場で発見され、世界中に衝撃が走った。2年半の調査を終え、今年3月、レスター大聖堂に埋葬されたリチャード3世の戦いに明けくれた激動の生涯と、遺骨発掘をめぐる運命的な物語を追う。

【参考文献】
Philippa Langley and Michael Jones『The King's Grave: The Search for Richard III』、Mathew Morris and Richard Buckley『Richard III: The King Under the Car Park』、森護 著『英国王室史話・上』中公文庫ほか

●サバイバー●取材・執筆・写真/ 本誌編集部

駐車場でよみがえった王

2012年9月5日、イングランド中部の都市レスター。
連日の曇天から一転し、透き通るような青空と燦々と降り注ぐ陽射しのもと、立ち入り禁止となった市営駐車場の土壌を、数人の作業員や考古学者たちが細心の注意を払いながら黙々と掘り返していた。この駐車場は、13~16世紀にかけて「グレイフライヤーズ」という修道院が建っていたとみられている場所だ。
この修道院は『稀代の暴君』として知られるリチャード3世とのつながりを、古くから指摘されてきた。遺骨はそこに埋葬され、かの王はそのまま地中に眠っているとも、ヘンリー8世の時代に修道院が閉鎖・破壊された際に掘り起こされ、川に投げ捨てられたともいわれていたが、5世紀以上にわたり、真相をつきとめた者はいなかった。
リチャード3世ほど謎や疑惑に満ち、論議を呼ぶ国王は、英国史上いないのではないだろうか。それゆえに多くの人々が魅了され、彼の「素顔」を解き明かそうとしてきた。そして長年にわたる調査の結果、「修道院跡地でいまだに眠り続けているに違いない」と強く信じる、ある女性歴史家の働きかけによって、2009年、ついにリチャード3世の遺骨を探すための一大発掘プロジェクト「Looking for Richard(LFR)」が動き出したのだった。この日は、世紀の発掘作業がスタートしてから12日目。すでに修道院と思われる建物の土台や床に敷き詰められていたタイル、数体の遺骨などを発見していた。
作業をはじめて数時間ほど経ったころのこと。修道院内でもっとも神聖な場所であり、祭壇や聖歌隊席が並ぶ内陣跡を手作業で掘り進めていた作業員が、人骨らしきものを見つけた。現れたのは、戦闘で受けたと思われる傷だらけの頭がい骨。一瞬にして緊張が走る。修道院などに埋葬される場合、遺体は布に包まれるか、棺に納められるのが一般的であるにもかかわらず、布や棺があった形跡がない。そして何よりも埋葬地が内陣ということは、この遺骨がかなり高貴な身分の人物であることを示している。
「これはもしかして!?」
現場は騒然となった。現場責任者や発掘プロジェクトの担当者らを大急ぎで呼び寄せ、関係者が固唾をのんで見守る中、全身を覆った土を慎重に取り除いていく。やがて姿を現したのは、両手を縛られ、背骨がS字型に大きく曲がった人物の遺骨。リチャード3世の肉体的特徴と合致するものだった…。
いわくつきの王のものと思われる遺骨発見のニュースは瞬く間に広がり、世界を驚愕させた。ここまでの興奮をもって迎えられるイングランド王は、おそらく他に類をみないだろう。在位はわずか2年であったにもかかわらず、シェークスピアの戯曲によって、残忍冷酷、醜悪不遜、奸智陰険など、最大級の汚名を被せて語られてきたリチャード3世。戦場で命を散らせた最後の王でもある彼は、果たしてそれほどまでに極悪人だったのであろうか?

兄への忠誠

レスター大聖堂前の庭園に建つ、
リチャード3世像。
リチャード3世ことリチャード・プランタジネットは、エドワード3世の曾孫で第3代ヨーク公とセシリー・ネヴィルの8男として、1452年10月2日、ノーサンプトンシャーのフォザリンゲイ城で産声をあげた。この城はのちに、スコットランド女王メアリー・ステュワートが幽閉され、処刑された場所でもある(現存せず)。夫妻は8男5女の13人の子どもに恵まれたものの、うち6人は早逝。リチャードはその12番目、実質上の末っ子だった。母セシリーが友人に宛てた手紙によると、かなりの難産で逆子だったという。おそらく、この出産の際にリチャードは脊椎に強い後湾症(側湾症の一種)を患ったとみられている。
リチャードが誕生した時世は、曾祖父エドワード3世がフランスに反旗を翻したことによってはじまった英仏百年戦争の終盤であった。イングランド軍の劣勢が続き、1453年についに敗退。イングランド国内では、当時の国王ヘンリー6世への不満が噴出し、リチャードの父ヨーク公が立ち上がった。ヨーク家が白薔薇を、ランカスター家(ヘンリー6世)が赤薔薇の記章をつけていたことから「薔薇戦争」と呼ばれ、王位をめぐる壮絶な権力争いが繰り広げられることとなる。父と次兄は戦死するが、長兄エドワードと母方の従兄弟ウォリック伯が勝利をおさめ、1461年、長兄はエドワード4世として即位。リチャードには、弱冠8歳でありながらグロスター公爵位が授与された。
19歳で王となったエドワード4世にとって、年齢の離れた弟は唯一ともいえる「気を許せる存在」だったのだろう。常にリチャードを気にかけ、軍事的な才覚の片鱗をみたのか、11歳になるころには軍事会議に参加させるようになる。リチャードは兄に忠誠を誓い、めきめきと頭角を現していった。
エドワード4世の王位は安泰なものではなかった。ランカスター派の残党に目を光らせなくてはならず、また政治の実権はウォリック伯が握っていた。その鬱憤を晴らすかのように多くの女性と浮名を流し、やがて遠征先で出会った、あろうことか敵対するランカスター派の年上の未亡人エリザベス・ウッドヴィルと秘密裏に結婚してしまう。
当然ながら、ウォリック伯はこれに激怒した。フランス王女との婚姻話を進めていた彼は面目を失い、さらにウッドヴィル家の者が次々と要職に就き、宮廷内の勢力図が塗り替えられようとしていたのである。1469年、ウォリック伯は娘とエドワード4世のもう一人の弟にあたるジョージを結婚させ、彼と手を組んで反乱軍として決起。エドワード4世を王位から追い落とし、ヘンリー6世を復位させた。
ただウォリック伯はこのとき、大きなミスをひとつ犯したといえよう。リチャードを己の陣営に引き込むことができなかったのだ。目覚しい能力で軍司令官として国王軍の一端を任されていた16歳のリチャードは、ウォリック伯の甘言を退け、長兄と反撃の準備を整える。そして1471年、エドワード4世は王位に返り咲き、ウォリック伯とヘンリー6世の息子であるエドワード皇太子は戦死。幽閉されたヘンリー6世も、ロンドン塔内で殺害された。ランカスター家の直系は、ここで途絶えたのである。

ロンドン塔の2人の王子

殺害されたのか?

リチャードの逸話の中でもっとも悪印象を与えるのが、ロンドン塔に幽閉された2人の甥殺し。だが2人は実は生きており、ヘンリー・テューダーに殺され、リチャードは罪を被せられたとする説もある。王位継承を正当化したいヘンリーにとって、2人の少年の存在はリチャード以上に脅威になりかねなかったからだ。
1674年、ロンドン塔改修の際に、子供の遺骨とみられる頭蓋骨や骨片が入った木箱が発見された。エドワード5世兄弟ではないかとされ、ウェストミンスター寺院に安置された。1933年、専門家によってその遺骨が鑑定されたが、保存状態がよくなかったため、年齢や性別さえも特定できなかった。

裏切りには裏切りを

リチャードの長兄エドワード4世(左)と、
年齢の離れた従兄弟であるウォリック伯(右)。
ウォリック伯は別名「キングメーカー」とも呼ばれた。
エドワード4世の治世が長く続いていたら、歴史は変わっていたかもしれない。だが、まわりはじめた運命の輪を止める術はなかった。
1483年、ヨークシャーのミドラム城で妻子と過ごしていたリチャードのもとに、エドワード4世の急死の報が届く。まさに寝耳に水の出来事であった。リチャードはエドワード4世が復位した翌年に、ウォリック伯の娘アン(リチャードの兄であるジョージの妻の妹。ジョージは刑死、妻は病死している)と結婚し、息子を授かっていた。終始忠実であったリチャードの信用は厚く、ウォリック伯が残した広大なイングランド北部の領地を相続。強大な権力を手にしたものの、スコットランドとの国境線をしっかりと護り、領地を公平に治め、領民の評判もよかったとされている。
40歳という若さでの王の死は肺炎が直接の死因だったが、実は長年にわたる不摂生な生活でかなりの肥満体になっており、派手な女性関係によって多数の病も患っていたという。王位は12歳になるエドワード4世の長男(エドワード5世)が継ぐことになったが、それに際し、同王は遺言を残していた。その内容とは、「エドワードが戴冠するまでの国王代理、ならびに成人するまでの後見人(護国卿)としてリチャードを指名する」というもの。エドワード4世の弟に対する深い信頼がうかがえよう。ところが、これを不服としたのが実権を握っていた王妃の親族ウッドヴィル家である。一族から後見人をたてたうえで、王の死がリチャードに伝わる前に葬儀を終わらせ、エドワード5世の戴冠式を行おうとしたのだ。
しかしながら、その計画はリチャードの知るところとなった。
「これまで尽くしてきた私を裏切るのか!」
激しい怒りで手を震わせながら手紙を握りしめたリチャードは、ひとつの決断を下す。王を支える右腕になろうと研鑽を積み、奪われた王位を取り戻そうと戦った日々――兄の遺志を無にすることは気がとがめるが、これ以上ウッドヴィル一族に好き勝手させるわけにはいかない。
「私が王になる」
リチャードの行動は早かった。まずは王妃を油断させるために、エドワード5世に忠誠を誓う旨を記した文書を送った。兄王の追悼ミサをヨークで行い、喪に服すふりをしながらじっと機を待つ。やがてエドワード5世が滞在中のウェールズからロンドンへ向かったことを知ると、リチャードもヨークを発った。ノーサンプトンでの合流に成功したリチャードは、同行していたエドワード5世の側近たちを捕縛した後、エドワードの護衛として堂々とロンドンに進み、そのまま彼をロンドン塔に幽閉した。身の危険を感じた王妃は、子どもたちを連れて中立を保っているウェストミンスター寺院に逃げ込むが、王位継承権を持つ10歳の次男もロンドン塔へ送られてしまう。これが2人の息子との永遠の別れになった。
議会承認のもと、リチャードはエドワード4世が重婚していたことを明かし(事実関係は解明されていない)、エリザベス・ウッドヴィルとの婚姻無効を宣言、子どもはエドワード4世の庶子であるとして王位継承権の剥奪と自身の即位を表明した。リチャード3世の誕生である。

不安定な王位と相次ぐ死

テューダー朝を開いたヘンリー7世。
右手に持つのはランカスター家の赤薔薇。
少年王を廃し、短期間のうちに力技で就いた玉座が、平穏無事であろうはずがない。ウッドヴィル家の勢力を一掃したとはいえ、リチャードが王位を継ぐことに異を唱えていた反リチャード派はもとより、支持者のなかにも密約を交わして寝返る者が出てくる。イングランドの勢力は、主に3ヵ所に分散されていた。第1の地は政治の中心であり、国王のいるロンドン。第2の地は皇太子のいるウェールズ。第3の地は国境を守り、軍事の要であるヨーク。第3の地を引き継ぎ、名実ともに勇将として認められていたリチャードが、政権と軍事権の両方を手中に収めたことに、有力貴族たちは脅威を感じはじめたのだ。反乱の噂が絶えず、常に政情は不安定であった。
その機を逃さず、リチャード打倒に立ち上がった人物がいた。傍系ながらランカスター家の血を引くヘンリー・テューダー(のちのヘンリー7世)である。ヘンリーの母はエドワード3世の血筋の出身であったが、庶子の家系であったため、王位継承権を認められていなかった。それゆえに、エドワード4世が復位したときにも粛清の対象にならず、ヘンリーはフランスで亡命生活を送っていたのである。
さらに負は連鎖していく。1484年、生まれながらに病弱であった息子のエドワードが10歳で早逝。息子の後を追うかのように、妻アンも結核で死去してしまった。立ち込める暗雲を吹き飛ばすべく、リチャードは決意する。「ヨーク家とランカスター家の因縁の戦いに、決着をつけなくては」。家族の死が相次ぐ中、イングランドへの上陸を目論んで幾度も攻撃をしかけてくるヘンリーに、リチャードは苛立ちを隠せなくなっていたに違いない。
1485年6月、リチャードはノッティンガムに滞在し、軍装備の拡充・製造に取りかかる。これまでヘンリーの上陸を阻んできたが、あえて降着を許し、戦場で壊滅(かいめつ)しようと考えたのである。

鬼神の壮絶な最期

リチャードが戦死したボスワース平原。近くに
はボスワース・バトルフィールド・ヘリテージセンターや、
リチャードが最後に使ったという井戸がある。
運命の8月がやってくる。
ヘンリーがウェールズに降り立ったことが伝えられると、リチャードは北部から援軍を呼び寄せ、南部からの援軍はレスターで合流するよう指示する。20日の夕方、リチャード軍はレスターに集結。翌21日の朝、ヘンリーがアザーストーンに到達したとの報を受け、決戦の地へと進軍を開始する。
22日朝、ついに両軍はレスターから西へ20キロほど離れたボスワース平原で向き合った。掲げられた無数の軍旗が大きくたなびき、甲冑の触れ合う音と馬のいななき以外、物音はしない。恐ろしいほどの緊張感が辺りを包んでいた。
バン!バーン!
リチャードの軍から敵陣に放たれた銃声を合図に、戦いの火ぶたは切って落とされた。
リチャードは勝利を確信していた。戦闘準備は万全であったし、兵力も圧倒的に有利(リチャード軍約1万人、ヘンリー軍約5千人)であるうえ、歴戦を戦い抜いてきた経験と自信があったからだ。一方、ヘンリーには軍事経験がなかった。軍の全権を握っていたのはオックスフォード伯で、彼さえ仕留めれば戦いはすぐに終結するように思われた。
リチャードは中央に本軍、右翼にノーフォーク公軍、左翼にノーサンバランド伯軍という布陣を敷いていた。オックスフォード伯はまず右翼に狙いを定め、ノーフォーク公を討ち取る。リチャードはすぐさま左翼に指令を飛ばすが、ノーサンバランド伯は軍隊をその場にとどめたまま動かない。
「裏切りだ!」
リチャードは叫んだ。この背信によって本軍は中央に取り残され、オックスフォード伯軍に囲まれてしまう。絶体絶命の危機に陥ったリチャードの目に、前方からスタンリー卿の援軍(約6千人)が到着するのが映った。
「よし! これで挟み撃ちにできる」
ところが希望を抱いたのもつかの間、なんとスタンリー卿も行進をやめて止まってしまう。
「裏切りだ! おまえもか!」
リチャードは怒りで目の前が真っ赤になった。打開策はないかと周囲に目を走らせると、主戦場から離れた場所で少人数の騎士たちに守られてたたずむヘンリーの姿を捉える。「奴を討つしか方法はない」。リチャードは側近に合図を出すと、愛馬の脇腹を力いっぱい蹴り上げて一気に駆け出した。
「ついてこれる者は来い!」

19世紀に描かれたリチャード3世。
背は曲がり、左手は萎え、左足を引きずっている。
広大な領地を手に入れるため、
アン(のちの妻)を口説き落とそうとしている。
リチャードを先頭にした少数隊は敵兵を凪ぎ倒しながら、一直線にヘンリーへと向かっていく。みるみるうちに距離を詰めていく様は、鬼神のようであったろう。しかし、あと一歩というところで邪魔が入る。中立を保っていたスタンリー卿の軍が、リチャードを包囲したのである。リチャードは馬から引きずり下ろされ、襲いかかる数多の剣や斧の前に倒れた。享年32、在位期間はわずか2年だった。
遺体は丸裸にされた後、両手首を縛られた状態で馬にのせられてレスターに運ばれ、衆目にさらされた。ヘンリーがロンドンへ凱旋すると、葬儀はもちろんのこと、身体を清められることさえもなく、グレイフライヤーズ修道院の内陣に簡易的に掘られた穴に放り込まれる。こうして約30年におよぶ薔薇戦争は幕を閉じた。

リチャード3世

最後の宿泊地「Blue Boar Inn」

レスター滞在時はいつもレスター城に泊まっていたリチャードだが、なぜか出陣前の1485年8月20日は、当時のタウンホール「Blue Boar Inn」に宿泊した(図右)。城は改装中だったといわれているが定かではない。
リチャードは自身のベッドを運びこんだが、これが発端で、のちに事件が起きる。17世紀後半、大家の妻がリチャードのベッドがある部屋を掃除したときのこと。ベッドを動かすと、床下に隠し扉を発見! 開けてみると、リチャードの隠し財産と思われる中世の金貨があったという。これは大家夫妻と女中の「3人の秘密」としたが、旅の青年と恋に落ちた女中は秘密を暴露。2人で強奪を企み、大家の留守中にその妻を殺し、金貨を奪って逃走した。しかしすぐに逮捕され、青年は市内で処刑、女中は市外で火刑となった。
これはあくまで噂であり、事件の真相はわからずじまいだったが、数年後、急に金持ちになった大家がレスター市長に就任。金貨は本当に存在したと伝えられている。

創作された「極悪人」

駐車場に書かれた「R」の文字。3ヵ所のうち、
ブルドーザーでまずここから掘り返された。
© Carl Vivian, University of Leicester
「歴史は勝者によって書かれる」という言葉があるように、リチャードの評判が悪いほどヘンリーにとって都合がよかったため、「テューダー朝の敵」としてリチャードは「悪役」に仕立て上げられた。というのも、王冠を戴くにはテューダー家と王家の血は少々離れているうえ、王位継承を認められていない血筋でもあり、即位を正当化する必要があったのだ。そうして生み出されたのが、腕は萎え、足を引きずり、背中に大きなコブを背負った「醜悪な姿」を持ち、ヘンリー6世と皇太子エドワード、2人の兄と幼い甥たち、側近などを次々と殺害して王位を簒奪(さんだつ)した「極悪人」である。とくにシェークスピアによってその人物像が後世に広く伝わったが、実際は彼に限らず、当時の著述家や年代記作者のほとんどがリチャードを極端におとしめ、ヘンリーを必要以上に美化した。
リチャードが見直されはじめたのは、18世紀以降のこと。彼の名誉回復を目指す「リカーディアン(Ricardian)」と呼ばれる歴史家や歴史愛好家たちが登場。そのうちの一人が、リチャードの遺骨発掘プロジェクトを立ち上げた女性、フィリッパ・ラングリーである。
リチャードの墓の探索はこれまでも試みられてきたものの、手がかりを掴めたことはなかった。ラングリー氏は当時の地理を徹底的に検証し、現在は駐車場となっている旧小学校の裏地が、リチャードが埋葬されたというグレイフライヤーズ修道院の跡地ではないかと推測。自身が結成したリチャードの名誉挽回に励む「リチャード3世協会」のメンバーに寄付を呼びかけ、発掘資金を集めた。そして再三にわたる説得の末にレスター大学考古学部の協力を得て、発掘作業がスタートすることになる。2012年8月25日、リチャードが埋葬された日からちょうど527年を迎えた日であった。
こうして話は冒頭に戻るのであるが、この大発見には「運命」としか言いようがない、興味深いエピソードがある。ラングリー氏が駐車場をはじめて訪れたときのことだ。ふと地面にペンキで書かれた「R」の文字が目に飛び込んできた。その瞬間、まるで天啓を得たかのように「リチャード3世はこの下に眠っている!」と確信したという。彼女の強い申し出で、最初に「R」のあった付近から掘り起こされ、見事に遺骨を探し当てたのである。ちなみに、この「R」は「Reserved Parking(専用駐車区間)」を意味するものと思われるが、それにしては書かれた位置がおかしく、かつて専用駐車区間を設けていた記録もないという。

3月22日、厳かに進んだリチャード3世の葬列。
レスター大学を出発、ボスワースを経由して、
大聖堂へと向かった。
さて話を戻そう。発見された遺骨はレスター大学考古学研究所に運ばれ、リチャードの姉の家系の子孫とのDNA鑑定が行われた。その結果、2013年2月に遺骨はリチャードと断定され、「せむし」とされた体形は誇張ではなかったことが証明された(手や足は健康であった)。ただ当時の上着は生地が厚くボリュームがあったため、背骨の湾曲はそれほど目立たなかったとされている。
また彼の頭がい骨に残された戦傷は、逃げることを拒み、「栄光か死か」の二者択一の突撃をかけた壮絶な最期をうかがわせるものだった。頭部には少なくとも8ヵ所の大きな損傷がみられ、長剣で数回にわたり切りつけられた後、左頬から突き刺された長槍が頭がい骨を貫通、後頭部に矛槍が直撃し、これが致命傷になったという。さらに、地に伏したリチャードの頭頂部に短剣が突き立てられ、甲冑を剥ぎ取られた後に背と腰を長剣などで刺されている。怨恨深かったように思われるが、中世の戦場ではこうした虐殺は珍しくなかったようである。

遺骨をめぐる争い

レスター大聖堂にあるリチャード3世の墓。
すべての調査が終わると、今度は埋葬場所をめぐって論争が勃発した。「中世の君主の多くが眠るウェストミンスター寺院に」という声を押しのけて、熾烈な争いを繰り広げたのはヨークとレスターである。「縁の深いヨークのヨーク大聖堂へ」とヨークが名乗りを上げると、一部の歴史家たちも「王はヨークでの埋葬を望んでいた」と主張。またヨーク家の子孫にあたる一族もヨークを支持した。一方、リチャードの遺骨を発見した考古学者グループは「レスターにある教会にあらためて埋葬されるべき」と一歩も譲らず、ついには裁判沙汰になってしまう。結局、決め手となる遺書や文書は残されていないことから発掘地のレスターに軍配があがり、グレイフレイヤーズ修道院の向かいに建つレスター大聖堂に埋葬されることが決まった。
即位期間があまりに短く、国王としてのリチャードを評価することは難しい。内心ではどのように感じていたか知る由もないが、エドワード4世の治世を支える要であり、両者は強い絆で結ばれていたことは否定できないだろう。息子が親政を行える年齢までエドワード4世が生き延びていれば、リチャードは忠臣として甥を支え、ヨーク朝が続いていたかもしれない。
今年3月22日、市内を進んだ葬列には数万人もの観衆が押し寄せ、リチャードが納められた棺に向かって白薔薇が捧げられた。多くの人々に見守られながら大聖堂に運ばれ、26日、ようやく永久の安らかな眠りにつく。その真新しい石棺には、生前にリチャードが使っていた銘が古ラテン語で刻まれている。「Loyaulte Me Lie(ロワイヨテ・ム・リ)」、その意味は「忠誠がわれを縛る」。己の忠心と周囲の裏切りに翻弄された生涯であった。

リチャード3世が眠る地

レスター

❶ レスター大聖堂 Leicester Cathedral

リチャードが再埋葬された大聖堂。「セント・マーティン教会」として、10世紀にノルマン人により建立。19世紀後半と1926年に改築が行われ、1927年に「レスター大聖堂」と改名された。内陣の床にリチャードを悼む石碑があったが(② ビジター・センターに展示)、これを撤去してリチャードの棺が納められ、その上に石棺が据えられている。入場無料。


❷ リチャード3世 ビジター・センター King Richard III Visitor Centre


グレイフライヤーズ修道院跡地の一部で、リチャードの遺骨が発見された市営駐車場の隣にあった廃校を改装した資料館。2014年7月のオープン時には、長蛇の列ができた。リチャードの生涯や遺骨の発掘過程をたどることができるほか、3Dスキャンした遺骨のレプリカ(写真上の中央)、頭がい骨から復元されたリチャードの顔(同上の右端)などを展示している。遺骨の発見場所もガラス越しに見学できる。カフェあり。
【住所】
4A St. Martins, Leicester LE1 5DB
Tel: 0300 300 0900
www.kriii.com
大人£7.95、子供£4.75

❸ リチャード3世像 Statue of King Richard III

1980年に「リチャード3世協会」が建造。以前はレスター城跡のキャッスル・パークに建っていたが、リチャードの再埋葬を機に、大聖堂前の庭園に移動となった。完成当時は右手に長剣を持っていたものの、2度の盗難に遭い、短めの剣に変えられた。週末のみ開催のウォーキング・ツアー(14時~、2時間、£5)の集合場所はここ。


❹ ギルドホール The Guildhall

1390年に建てられた商業組合の会議所。16世紀にはタウンホールとなり、レスター市長が使用した。2013年にグレートホールでレスター大学による記者会見が開かれ、発掘された遺骨がリチャードと発表された。その後に開催された特別展には、約20万人が訪れた。


❺ 旧タウンホール跡 The Blue Boar Inn

リチャードが最後に宿泊した、当時のタウンホール跡地。本来は「White Boar Inn」という名だったが、ボスワースの戦いの後、リチャードの記章「White Boar(白イノシシ)」からオックスフォード伯の記章を用いた「Blue Boar」に変更された。現在はホテル・チェーン「トラベロッジ」が建っている。


❻ ボウ・ブリッジ Bow Bridge

リチャードがボスワースへ向かうときに渡った、ソア川にかかる橋。当時は石造りだった(図右)。現在の橋は1863年に建造されたもので、白薔薇、赤と白薔薇が合体したテューダー薔薇、白イノシシが彫られている。隣のウェスト・ブリッジの下を流れる川は後世につくられた運河。


❼ セント・メアリー・デ・カストロ St Mary de Castro

戦死したリチャードの遺体が晒されたのはNewarke Street付近と言われており、レスター城の一部であったこの教会が、もっともその可能性が高いとされている。レスター城はレスター大学の一部として、グレートホールだけ現存している。


❽ ジェラート・ヴィレッジ Gelato Village

市内で一番人気のイタリアン・ジェラート店。リチャードの発見を記念し、スペシャル・フレーバー「Richard III」(白薔薇+ベリー数種)を販売中。カップ小(£2.85)~。

Travel Information

※2017年2月13日現在

↓画像をクリックすると拡大します↓

レスターの地図

電車

セント・パンクラス駅から約1時間15分。

コーチ

ヴィクトリア・コーチ・ステーションから約2時間40分。

無言の証人 アウシュヴィッツを征く《前編》[Auschwitz]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2015年10月29日 No.905

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無言の証人

アウシュヴィッツを征く 前編


人類が二度と繰り返してはならない『負の遺産』――
アウシュヴィッツ元収容所を形容するのに頻繁に使われる言葉だが、
この収容所跡の「存在意義」をきわめて的確に表現し得たものといえる。
ユダヤ人を中心に150万ともいわれる、おびただしい数の人命がここで失われた。
この悪名高いアウシュヴィッツ収容所が解放されてから70年。
前後編の2回に分けて、アウシュヴィッツについてご報告することにしたい。

●サバイバー●取材・執筆・写真/ 本誌編集部
※本特集は、週刊ジャーニー2004年12月2日号に掲載したものを再編集し、2回に分けてお届けしています。

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▲ビルケナウにて。多くの収容者にとって、この線路上を運ばれ、ここに到着したということは即、死を意味した。
Special Thanks To:
Polish National Tourist Office, Level 3, Westgate House, West Gate, London W5 1YY
Tel: 0300 303 1812
E-mail: london@poland.travel
Homepage: www.poland.travel/en-gb
Polish National Tourist Office in Krakow
Homepage: www.krakow-info.com
参考文献:『ユダヤ人』上田和夫著(講談社刊)/『ヒトラーとユダヤ人 悲劇の起源をめぐって』フィリップ・ビューラン著、佐川和茂・佐川愛子訳(三交社刊)/『ホロコーストを学びたい人のために』ヴォルフガング・ベンツ著、中村浩平・中村仁訳(柏書房刊)、このほか関連ホームページ各種

二千年前からさすらい続けるユダヤ人

かねてから弊紙で取り上げたいと考えていたアウシュヴィッツを取材班が訪れたのは、9月半ばのことだった。かなり内陸にあるポーランドの古都クラクフから車で一時間。我々が降り立った「国立オシフィエンチム博物館」こと、アウシュヴィッツ元収容所の上には青空が広がり、収容棟のまわりに植えられた木々の葉が、秋の陽光の中でキラキラと輝いていた。
あまりの「のどかさ」に、言葉を失った。
今から約70年前、この地を支配していたのは苦しみ、悲しみ、恐怖、そして死。命を奪われた大多数は、ユダヤ人というだけでここに連れてこられた人々だった。ヒトラー率いるナチスにより、憎悪の対象として選ばれたからである。
なぜ、ユダヤ人が?
数え切れないほど多くの文献やホームページでそれについて取り上げられているので、それらを参考にここで編集部なりにまとめてみることにする。
ユダヤ人が「嫌われる」ようになったことの起こりは、ユダヤ王国の首都エルサレムがローマ軍に包囲され、その1年後に陥落した日(紀元70年)にまでさかのぼる。これ以降、ユダヤ人は故郷パレスチナを追われ、中東のみならず、ヨーロッパ、さらには北米などへ、陸をつたい、海を越え、安住の地をめざしてさすらうことになる。ユダヤ人が自分たちの国を維持し、そこに住み続けていれば、その後の約2000年という長い期間にわたって繰り返された差別や迫害を受けずに済んだであろうと考えられる。ユダヤ人コミュニティ内にいる限りは、「異教徒」扱いされることなく、平和に過ごせたはずだからだ。
1948年5月14日、ユダヤ人の国、イスラエルの独立が宣言され、自国再建が一応は果たされた。しかし、それはその翌日から始まった第一次中東戦争、56年の第二次、67年の第三次、73年の第四次という各中東戦争を招いた。
イスラエルが強引に建国されたことにより、もともとそこに住んでいた多くのパレスチナ人が難民となり、この難民(アラブ諸国が支援)とイスラエルの間で争いが果てしなく続いている。解決の見通しが立たない、このパレスチナ問題の関連ニュースが世界のメディアで伝えられない日はなく、国際社会における「嫌われるユダヤ人」のイメージを改善することはかなり難しいといえそうだ。

ユダヤ人とは、どんな「人」?

上の地図は、1942年、第3帝国時代のドイツ(大ドイツ国)の領土を示すもの。
Martin Gilbert: The Holocaust: The Jewish Tragedy, London 1986より
*赤い点線は1942年末のドイツ軍前線、収容所は主な収容所のあった場所

上の地図は、現在の国境を示す。
ユダヤ人の数は、世界中あわせても1400万人程度といわれる。これらの人々は、イスラエルを例外として、世界各国に散らばって生活しているため、2000年という長い時間の間に混血も進み、ユダヤ人とひと目でわかる「身体的特徴」は挙げづらくなっている。長いもみあげや、独特の黒い帽子に黒い上着、あるいは「スカル・キャップ(キッパ)」と呼ばれる、頭の頂をかくす小さな丸い帽子といった「外観の特徴」で判断できる場合はあっても、これは人種的な身体的特徴とは異なり、極端な話、日本人でもこうした「外観の特徴」を真似することは可能だ。
では、ユダヤ人というのはいったいどんな人たちなのか。
ユダヤ教を信ずる人々である。
例えば、19世紀前半、革命後のフランスでようやく法的に市民としての平等な権利を認められることになった際、みずからを「ユダヤ教を信ずるフランス人」と定義したように、まずはユダヤ教信者であることが最も重要な条件なのだ。
旧約聖書の中にあるとおり、神ヤハヴェはユダヤ人とのみ「契約」を結び、絶対服従を条件に、その代償として特別に恵みを与えることを約束したとされている。ユダヤ人だけが神に選ばれたとする「選民」思想はここから生まれており、その誇りは、彼らに苦難を乗り越えさせる力の源となったはずだが、それと同時に差別や迫害の原因ともなってきた。ユダヤ教を信ずるがゆえに、地元住民との摩擦を招き、差別され迫害の対象となり、それに耐えるために、さらに強く深くユダヤ教を信じる―ニワトリが先か、タマゴが先か、という議論にも似ているが、ユダヤ教を信じる者はユダヤ人であるという点だけは、はっきりしている。
人が生きるにあたり、宗教とはなんと大きな役割を果たしていることか。
そして本来、心のよりどころとなり、人を幸福にするために信じられるべきはずの宗教が、紛争の原因になることのなんと多いことか。
ヨーロッパで長い間争われた、カトリック(旧教)とプロテスタント(新教)による宗教戦争のように、「汝の隣人を愛せよ」と説いているはずのキリスト教徒でさえ、血で血を洗う抗争を経験した。また、現在、米国が率先して行っている「テロとの戦い」は、イスラム教世界対キリスト教世界の対立とも分類され、前述のパレスチナ問題は、ユダヤ教徒とイスラム教徒の土地争いと言い換えられる。
日本も、宗教が原因の争いに無縁ではなく、6世紀ごろの大和朝廷の時代に、神道派と仏教派による血なまぐさい戦いが繰り広げられ、仏教派である蘇我氏が勝利をおさめて、ようやく国の統一に向けて大きな前進が認められた。
同じキリスト教徒、同じ地域に住む者同士でも、信じる内容が「異なる」と、相手を否定し屈服・服従させようとする動きが起こり、多くの場合、それは暴力をともなう。ナチスが試みたユダヤ人絶滅という行為は、人類史上、もっとも鮮明にそれを証明した例だったといえる。
自分とは異なる神を信じ、異なる価値観に基づいて暮らし、異なる生活習慣を守る相手を、なぜこうも人は敵視し憎むのか。宗教は政治的権力および経済的権力と背中合わせで、「異教徒」により、政治的・経済的な力が乱されたり弱められたりすることをおそれる支配者層によって、一般人は異教徒を憎み嫌うように洗脳されてきたと、つい考えたくなってしまう。

ユダヤ人が「愛されなかった」理由

「労働は自由をもたらす」―このモットーほど
皮肉に響く言葉はなかったに違いない。
アウシュヴィッツにて。
ユダヤ人が選ばれた民として、ユダヤ教の教えや戒律を厳粛に守る人々であることは、疑いようのないことである。ユダヤ人の中にも摩擦を避けるために、そして何より生きていくために、改宗の道を選んだ人々はいた。
しかし、改宗するより、差別や、時には死に至る迫害を選んだ人の方が圧倒的に多かったのだ。
こうした、改宗しないユダヤ人たちは中世のキリスト教世界で「利用」されるようになった。ユダヤ人の職業といえば「高利貸し」というイメージが強いが、彼らは好き好んでこの仕事に就いたわけではなかったという。
キリスト教徒は当初、宗教的に「卑しい」金融業に就くことを許されなかったため、金融業に従事することを条件にユダヤ人に居住を許可するケースが多々みられた。金利は教会によって決められており、ユダヤ人が自らの意思で、暴利をむさぼる悪徳高利貸しになったわけではなかったが、利子が定められたものであり、しかも利率が低くとも、「金貸し」という仕事が人から好かれるわけはなく、一般市民の憎しみをかうことも少なくなかった。
かつて、日本でも、江戸幕府により士農工商の下に、えた・ひ人という階級が置かれ、卑しむべき仕事にしか従事することを許されず、「下見て暮らせ」と、人々の不満をそらす道具に用いられたことがあった。日本では部落問題としていまだに根強く差別が残るが、ユダヤ人問題は、それを国際的規模にしたものといえそうだ。

「移住」と聞かされ、収容所に連れてこられたユダヤ人も多かった。
そういう場合、所有物の中でも、最も価値のあるものを持参するのが普通。
もちろん、それらはすぐに没収されたのだった。
卑しまれるべき職業ながら、この「高利貸し」業や不動産業で財をなすユダヤ人も生まれた。資本主義を打ち立てたのはユダヤ人とする説もあるほどで、商取引の世界における発展にユダヤ人は大きく寄与し、その財力から、皇帝や王に引き立てられる者もいた。また、各国に散らばるユダヤ人ネットワークを駆使して、国境を越えて経済的に活動するユダヤ人も出現。成功者として世界に名を馳せるようになったロスチャイルド家などは、その好例である。
しかし、世界をまたにかけて財界で活躍するユダヤ人が増えるに従い、非ユダヤの一般人の怒りを招くケースも増加した。中世では、ペストの元凶とされ、近代には「ユダヤ人は世界征服をねらっている」とする説が流されるようになる。ヒトラーを駆り立てたのも、ユダヤ人に対する脅迫観念であり、強烈な「反ユダヤ主義」だった。

アウシュヴィッツのガス室と、そこで使われたとされるチクロンB(Cyclon B)の空き缶、およびその結晶。

すべては極貧生活から始まった

アウシュヴィッツの「死の壁」。
収容者は壁に向かって立たされ、撃たれたという。
ヒトラー(Adolf Hitler)は1889年4月20日、オーストリアで生を受けた。父親は下級税関吏で堅実な性格の持ち主だったらしく、画家になりたいというヒトラーの夢に猛反対。ヒトラーはそれに反抗して勉強せず、中学校を中退した。
14歳の折に父親が逝去、母親の許可を得てウィーンの美術大学入学を目指したものの失敗してしまう。その4年後の1907年には、最愛の母も失い、いやおうなく独り立ちすることになるが、手に職もない18歳のヒトラーはたちまち経済的に困窮する。
翌年には、日雇労働者として日銭を稼ぎつつ、慈善団体による食事の無料配給や無料宿泊所の恩恵にあずかるホームレスと化してしまったのだった。その後、水彩画やポスター、カードなどを描いて売り歩く貧乏画家暮らしに甘んじ、12年にミュンヘンに移ってみたが、暮らし向きは一向によくならなかった。
下級ながらも中産階級出身者としての誇りを抱いていたヒトラーは極貧生活、特にウィーンでの辛い日々の中で、異常なまでのエネルギーをもって怒りに満ち、それをぶつける対象を探す。この極貧生活時代が、ヒトラーの思想を確立させたと彼本人が認めており、大ドイツ民族主義者、反ユダヤ主義者(ともに後述)としてのヒトラーはここで「生まれた」のだった。
ヒトラーが政権を握り、第三帝国(The Third Reich)の総統(Führer)として彼の思想を実現させるまでに、二十年余りを要し、その間、服役も経験するが、挫折や失敗はヒトラーを突き動かすエネルギーをますます強大なものにしていったのだった。

ヒトラーとともに永遠に封印された真実

ドイツ軍が「保管」していた頭髪と義足類。
1945年4月30日。連合軍が間近に迫ったベルリンで、その前日に結婚した、秘書エヴァ・ブラウン(Eva Braun)を道連れにヒトラーは自殺した。
東条英機のように、戦犯として裁判にかけられることなく、「勝利を、さもなくば死を」という自らのモットーを忠実に守り、後世の歴史研究家たちに多くの課題を残してヒトラーは永遠の黙秘権行使の道を選んだのだ。
それから70年。多くの研究家が気の遠くなるような作業を丹念に続けているが、ヒトラーが「ユダヤ人を絶滅させよ」と命令を下したとする明確な「証拠」は、実はみつかっていないという。第二次世界大戦での敗北を前に、ドイツ軍は必死で証拠を隠滅しようと試み、膨大な量の書類を焼いたものの、それでも、歴史家たちを70年間も多忙にさせるに足る史料が残された。いつ、どのような形でユダヤ人問題の「最終解決」あるいは「全面解決」が下されたのか、様々な説があり、中には、ヒトラーは直接関与していないとする極端な解釈もあると聞く。
ヒトラーからの証言が得られない以上、この問いに「正解」はないのかもしれない。しかし、ただひとつ、ほとんどの研究家の間で一致しているのは、ヒトラーは「ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)」を敢行したナチスの指導者であり、彼による命令、あるいは容認なしには、これだけの大規模な計画を遂行することは不可能であったとする点である。
実際、アウシュヴィッツを訪れた我々取材班が目にした「光景」は、それまでの人類の想像を絶する行為がここで繰り広げられたことを、圧倒的なインパクトでもって伝えており、ヒトラー、あるいはナチスの上層部がどのような過程をどの時期に経て「最終解決」に至ったかが解明されようとされまいと、その罪の大きさになんら違いは生じないと思わずにはいられなかった。

「解決」という名の絶滅作戦

ひどい湿気、ネズミの大量発生など、アウシュヴィッツとはまた違った意味で劣悪な環境にあったことが伝えられる、ビルケナウ強制収容所。
木造の粗末なバラックでは、冬の寒さもこたえたことだろう。
ナチスが建造した収容所には2通りあったとされている。ひとつは、単なる「強制収容所」で、1933年、ドイツのミュンヘン近郊にダッハウ強制収容所が初の試みとして建てられた。ドイツには、ほかにもこうした強制収容所が建造され、ヴァイマール郊外のブーヘンヴァルト(36年開設)、ベルリン近郊のザクセンハウゼン(36年開設)、ハンブルク郊外のノイエンガンメ(40年夏開設)、収容されたアンネ・フランクが死亡(収容所内で流行したチフスによる)したことでも知られる、ハノーファー近郊のベルゲン・ベルゼン(43年春開設)などがある。
また、オーストリアにはマウントハウゼン、フランスにはオラドゥール・スュル・グラヌ、チェコにはテレジェンシュタットの各強制収容所が建造され、いうまでもなく、どの収容所でも多くの人命が奪われたが、大量殺戮用のガス室がない所もあり、最初は政治犯などを文字通り「収容」する目的で建造された場所もあった。

ビルケナウの収容棟内部。捕虜たちはこの悪夢から早く目覚めたい、
と祈りながら眠りについたに違いない。
これに対し、ポーランドに造られた収容所は目的が違った。ワルシャワ近郊のトレブリンカ、マイダネク、そしてアウシュヴィッツおよびビルケナウ(第二アウシュヴィッツ)は、いずれも「絶滅収容所」として建造されたのだった。もちろん、どの収容所も「強制」や「絶滅」といった言葉が名称に正式につけられていたわけではないが、ナチス内部ではこの識別は明確に行われていたとされる。
そして、こうした「絶滅収容所」こそが、ヒトラー、あるいはナチス上層部が、1941年ごろにいきついたといわれる、ユダヤ人問題の「最終(全面)解決」の答えだったのである。
「最終解決」を導くことになったヒトラーの主張は、以下のようなものだった。フィリップ・ビューラン著(佐川和茂、佐川愛子訳・三交社刊)『ヒトラーとユダヤ人 悲劇の起源をめぐって』にあった記述を参考に書き記してみる。

◆ユダヤ人は、自らの国を建設することができないかわりに、ユダヤ人同士では結束し、世界制覇をねらっている。また、住み着いた国々で人々が労働で得たものを搾取する寄生的人種である。

◆ユダヤ人は、細菌、寄生虫、ヒル、クモであり、非常に有害で不快な存在であるため、絶滅させなければ安心できない。

◆ユダヤ人は資本主義(ユダヤ人が発達させた)とマルクス主義(共産主義。ユダヤ人のカール・マルクスが考え出した)を道具に、世界制覇を達成しようとしている。資本主義を用いて、ユダヤ人は経済を国際化し、彼らの支配化に置いた。一方のマルクス主義により、人々を互いに反目させ、内戦を引き起こし、国力を弱めさせた。

◆世界には「適者生存」という普遍の法則があり、強者の意思が尊重される。人類の中にも、歴史的偉大さによって決まる「階級組織」があり、血を純粋に保つ(ヒトラーはアーリア主義に心酔。優れたアーリア人のみをドイツ人として認めるとした。金髪碧眼が理想)ことのみが、その人種の「堕落」を防ぐ。

◆ドイツ民族を堕落させたのは、自由主義、民族主義、マルクス主義などの虚弱思想で、さらに性病や遺伝病の蔓延、劣等人種(ユダヤ人、黒人など)との「雑婚」もそれに拍車をかけた。性病患者、アルコール中毒患者、犯罪者、身体障害者、精神障害者らは断種・不妊化の対象となるべきで、純粋なドイツ民族繁栄のためには野蛮な処置の実行もいたしかたない。

◆1918年、第一次世界大戦でドイツが敗れたのはユダヤ人のせいである。万人の敵であるユダヤ人は、ドイツの国内外でこの戦争を仕掛けた。国外のユダヤ人がドイツへの憎悪をあおりたて、英仏を始めとする諸国を戦争へと駆り立てる一方、ドイツ国内においてはユダヤ人が経済を牛耳り、労働者を十一月革命(ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位。事実上、ドイツは戦争続行不能となり休戦に合意)へと扇動した。

◆休戦に際して締結されたヴェルサイユ条約で、軍備も大幅に制限され、ドイツは「奴隷状態」になった。これもユダヤ人が引き起こしたことが原因。

◆ロシアは、共産主義(マルクス主義)の名のもとに、ユダヤ人が実権を握り、フランスでは、特権階級とユダヤ人が協力してドイツの奴隷化をもくろんでおり、どちらもドイツの敵である。

◆世界制覇をもくろむ「国際主義的ユダヤ人」との世界戦争に勝利するため、世界の反ユダヤ主義者は団結するべきである。これは宗教戦争であり防衛戦で、ドイツは、ユダヤ人による「災禍」を取り除く仕事を担っているのである。

不条理な言いがかりとしか言いようがないが、ヒトラーは大真面目であり、ナチス上層部はいうまでもなく、ナチス党員、将校・兵士、そしてドイツ国民の多くもヒトラーに追従したのである。次号では、ユダヤ人問題の「最終解決」実践の場となったアウシュヴィッツ、ビルケナウ(第二アウシュヴィッツ)の両収容所、そしてナチス・ドイツの終焉までについてさらにお届けすることにしたい。

後編に続く…

ホロコースト関連 キーワード

ホロコースト holocaust

大虐殺のこと。特に、ナチスによるユダヤ人の大量殺戮を指す。

ポグロム pogrom(ロシア語)

ユダヤ人に対する集団的・計画的な迫害や虐殺。特に、19世紀後半から20世紀初頭にかけてロシアを中心に起きたものをいう。

ジェノサイド genocide

集団殺害。集団殺戮。ホロコーストも、広い意味ではこれに含まれる。1948年には、集団殺害の防止および処罰に関する条約である「ジェノサイド条約」が国連総会で採択された。これにより、国民・人種・民族・宗教などの集団を破壊する意図をもって、集団構成員に殺害・危害を加える行為が禁止された。

アンチ-セミティズム anti-Semitism(またはAnti-Jewish policy)

反ユダヤ主義。ナチスが展開したイデオロギーがその典型。

シナゴーグ synagogue

(集会を意味するギリシャ語より)ユダヤ教徒の礼拝所。会堂。また、集会所。

ゲットー ghetto

ヨーロッパの都市で、ユダヤ人が強制的に居住を指定された区域(ユダヤ人街)だが、20世紀にはほとんど消滅。なお、第二次世界大戦中、ナチス-ドイツが設けたユダヤ人強制収容所を指すこともある。

ナチス Nazis(ドイツ語)

「Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei(国家社会主義ドイツ労働者党)」の通称。ナチ「Nazi」の複数形。ナチ党。第一次世界大戦後、1919年に結成され、ヒトラーを党首としてドイツで活動したファシズム政党。大恐慌下に、大ドイツ樹立・ヴェルサイユ条約破棄・ユダヤ人排斥などを唱えて支持を拡大した。33年政権を掌握し、ヨーロッパ征服をめざして軍備拡張を行い、第二次世界大戦を起こしたが敗北。45年に崩壊した。

第三帝国 The Third Reich <ライヒ>(英語とドイツ語の複合語)

ナチス-ドイツの自称。ドイツ語では「Das Dritte Reich」という。神聖ローマ帝国を第一帝国、ビスマルクのドイツ帝国を第二帝国とし、それに続く第三の帝国、の意。

ゲシュタポ Gestapo(ドイツ語)

「Geheime Staatspolizei」の略。1933年に組織されたナチス-ドイツの秘密国家警察のこと。超法規的な強い権限を有し、反対派・ユダヤ人・占領地住民などに対して容赦なく弾圧を加えた。

エスエス SS

ナチス親衛隊「Schutzstaffel」(ドイツ語)の略称。1925年、ヒトラーを護衛する組織として誕生し、29年以降ヒムラーのもとで警察機能をもつに至った。占領地行政や強制収容所の管理を行った。

収容所 Concentration Camp

戦争時などに、捕虜や敵国人、反体制派の人々を収容するために造られた施設で、第二次世界大戦中のアウシュヴィッツは特に有名。同敷地内には、ガス室(gas chamber)や焼却炉(crematorium)があり、「死のキャンプ(the Death Camp)」とも呼ばれた。

アドルフ・ヒトラー Adolf Hitler(1889-1945)

ナチ党総裁、ナチス-ドイツ国総統(宰相も兼任)、国防軍事最高司令官。45年4月30日、ベルリンで自殺。

ルドルフ・ヘス Rudolf Hess(1894-1987)

ナチ党の副総統。1923年のミュンヘン一揆失敗後はスイスに逃亡するが、翌年帰国。ヒトラーと同じ獄で『我が闘争』の口述筆記者を務める。ヒポコンデリー(「心気症」。自分の身体や健康状態を異常に心配する症状のこと)に悩むヘスは、徐々に権力を失い、第二次世界大戦の勃発数日前に国防会議のメンバーになったものの、実権はほとんどなかった。ニュルンベルク裁判で終身刑、1987年8月17日、93歳で獄死(暗殺説あり)。

ヨーゼフ=パウル・ゲッベルス Joseph Paul Goebbels(1897-1945)

国民啓蒙・宣伝相。プロパガンダを駆使して、ドイツ国民の間にナチズムを浸透させた。1945年4月25日、ヒトラーとエヴァ・ブラウンの結婚の立会人となり、その後の二人の死を見届けたといわれている。5月1日、5人の娘と1人の息子に青酸カリを与えて殺したあと、マグダ夫人と共に自殺。

ラインハルト・ハイドリヒ Reinhard Heydrich(1904-42)

国家保安本部長官。SS大将。ユダヤ人の「最終解決(the Final Solution)」を具体化するよう命を受け、1941年、悪名高い『バンゼー会議』(ここで絶滅収容所についての構想が固まったとされる)を主催。42年5月27日、プラハで暗殺者にねらわれ、その時の傷がもとで6月4日に死亡。

アドルフ・アイヒマン Karl Adolf Eichmann(1906-62)

SS中佐、ユダヤ人担当部局所属。終戦後、アルゼンチンに逃亡したが60年に逮捕され、イスラエルで裁判にかけられ、62年6月1日、処刑された。

ヘルマン・ゲーリング Hermann Göring(1893-46)

国会議長。国家元帥。ナチ党政権下のドイツにおける第二の実力者として一時は権勢を誇ったが、スターリングラード攻防戦における無謀な空輸作戦の失敗によって失脚。以後、公の場には姿を見せず美術品収拾などの趣味に没頭した。ニュルンベルク裁判では一貫して無罪を主張し、ホロコーストなど他民族に対する弾圧には責任がなかったと繰り返したが、判決は死刑。軍人らしい銃殺刑が許されず絞首刑が宣告されたため、絶望したゲーリングは、執行の当日1946年10月15日、どこから入手したかは未だに謎とされる、青酸カリのカプセルを飲み込んで自殺。

ヨーゼフ・メンゲレ Dr Josef Mengele(1911-79)

アウシュヴィッツで囚人に実験をほどこし、ガス室に送られる人々の選択を行ったナチの医者。「死の天使」として知られている。ドイツ降伏直前にメンゲレは、一般の歩兵に変装してアウシュヴィッツから逃亡。彼を追い詰める国際的な努力にもかかわらず、逮捕されずに様々な別名を使って35年間生き延びた。1979年に海水浴中に心臓発作で溺死するまで、パラグアイとブラジルで暮らした。92年に遺骨のDNAテストで本人であることが確認された。

ハインリヒ・ヒムラー Heinrich Himmler(1900-45)

SS全国指導者兼国家警察長官。内相。予備軍最高司令官。SSをテロの実行部隊に育て上げ、ユダヤ人ら集団虐殺に『貢献』した。敗戦間近にはヒトラーと対立、1945年4月28日に逮捕命令が出されたが、ヒムラーは偽名を使って逃亡し、英国軍の捕虜収容所に収容された。1945年5月23日、収容所の取調べで偽名が暴かれ正体が知れたため、隠し持っていた青酸カリのカプセルを飲んで自殺した。

ルドルフ・ヘス Rudolf Höss(1900-47)

アウシュヴィッツ初代司令官。SS大尉。1947年4月16日、アウシュヴィッツで絞首刑になった。なお、ナチ党の副総統のヘスとは別人(カタカナにすると同じだがつづりが違う)。

無言の証人 アウシュヴィッツを征く《後編》 [Auschwitz]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2015年11月5日 No.906

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無言の証人

アウシュヴィッツを征く 後編


人類が二度と繰り返してはならない『負の遺産』として
後世の人々にホロコースト(大量虐殺)の歴史を
伝え続けるアウシュヴィッツ元収容所。
ポーランドの緑豊かな田園地帯で今も異彩を放つ
この収容所跡について、前編から引き続きお送りすることにしたい。

●サバイバー●取材・執筆・写真/ 本誌編集部
※本特集は、週刊ジャーニー2004年12月2日号に掲載したものを再編集し、2回に分けてお届けしています。

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▲アウシュヴィッツに保管されている、おびただしい数の靴。持ち主がどのような運命をたどったかは、改めて言うまでもないだろう。
Special Thanks To:
Polish National Tourist Office, Level 3, Westgate House, West Gate, London W5 1YY
Tel: 0300 303 1812
E-mail: london@poland.travel
Homepage: www.poland.travel/en-gb
Polish National Tourist Office in Krakow
Homepage: www.krakow-info.com
参考文献:『ユダヤ人』上田和夫著(講談社刊)/『ヒトラーとユダヤ人 悲劇の起源をめぐって』フィリップ・ビューラン著、佐川和茂・佐川愛子訳(三交社刊)/『ホロコーストを学びたい人のために』ヴォルフガング・ベンツ著、中村浩平・中村仁訳(柏書房刊)、このほか関連ホームページ各種

強制移住計画の挫折の果て

ホロコーストの代名詞であり、「死のキャンプ」「死の大量生産工場」として稼動することになるアウシュヴィッツの建設が始まったのは1940年。「前編」では、極貧生活の中でヒトラーがユダヤ人に対して抱くようになった異常なまでに激しい憎悪、そして偏見に満ちた主張などが、いかにしてこのアウシュヴィッツに代表される「収容所」へとつながっていったかについて触れた。不条理きわまりない主張の数々が、一国の指導者、しかも独裁的立場にある人物から発せられたことは、恐ろしい限りである。
ただ、ヒトラーは政権に就いた時(33年)から、ホロコーストを計画していたわけではないという見方がある。ユダヤ人をドイツのみならず、各国から追放し、どこかに監視つきの専用居住地を定め、そこにおしこめることを一時は真剣に考え、マダガスカル島(英国との関係悪化で挫折)や、ロシア(第二次世界大戦での対ロシア戦の長期化により挫折)の一部などが候補にあがっていたという。
ゲットー(ユダヤ人居住区)を定め、財産を没収し、教職をはじめとする公職につくのを禁止することにより、当初は、ユダヤ人勢力封じ込めの目的は達成されていた。
しかし、第二次世界大戦の戦況が思わしくなくなるにつれ、ヒトラーおよびナチス上層部の態度は過激さを増していく。おそらく41年ごろ、ユダヤ人問題の「最終解決=絶滅」という図式が成立し、国家を挙げてその実現に突き進んだとする解釈は説得力のあるものと思える。

収容棟のまわりには、高圧電流の流れた有刺鉄線が
張り巡らされていた。アウシュヴィッツにて。
こうして「絶滅収容所」での「最終解決」策が『効率的』に実行されるに至る。アウシュヴィッツはその実践地の中でも、特筆に値する存在だった。ちなみに、もとの地名はオシフィエンチムだったが、その前年、ポーランドがドイツ軍との戦闘に破れ、ドイツ第三帝国の一部に組み込まれたため、アウシュヴィッツのドイツ名が与えられていたのだ。
戦前、ポーランド軍の施設があったアウシュヴィッツに収容所建設地の白羽の矢がたったのは、交通(鉄道)の便がよく、それでいて適度に人口密集地から離れていたためとされる。
ゲットーは、はずれとはいえ市街地に接していることが多かったため、ゲットーと外の世界のつながりを完全に絶つことは難しく、情報交換、援助などが続けられがちで、「絶滅収容所」として使用するには適さなかった。また、ナチスは「絶滅収容所」で何が起こっているかを知られたくなかったのである。
当時、ヨーロッパを中心に1100万人のユダヤ人がいたと推定されているが、ホロコーストにより約600万人が犠牲となり、そのうちの150万人がアウシュヴィッツで灰と化したとされている。これらについてもナチスが意図的に証拠隠滅を図ったため、はっきりした数字を確認するすべはない。しかし、総数が500万、あるいは400万だったからといって、ホロコーストが起こったという事実の重みが減じられるものではない。この点を論争の焦点にすること事態、無意味というべきだろう。

働いても待つのは死のみ

「労働が自由をもたらす(Arbeit macht Frei)」―アウシュヴィッツへの入り口だけでなく、ほかの複数の収容所にも掲げられていたモットーだが、ナチスによる悪質な意地悪、皮肉、あるいは欺きとしかとりようがない。
ここアウシュヴィッツでは、150万人が働いても自由になれなかったばかりか、生きることさえ許されなかったのだ。
収容所の設立命令が下ったのが1940年4月。所長には、戦後、絞首刑に処されることになる、悪名高いルドルフ・ヘスが任命され、同6月14日には、700人余りのポーランド人が政治犯として収容された。
以来、平均収容者数は1万3000―1万6000を推移。多い時には2万8000人が一度に収容されたこともあったようだが、すぐに人数は「調整」された。通常よりガス室を頻繁に使えば済むことだったろう。

アウシュヴィッツの焼却炉。いったんナチスに
爆破されたが、復元されたもの。
さて、このアウシュヴィッツ収容所跡こと、「国立オシフィエンチム博物館」へは、クラクフを拠点に日帰りで訪れるのが一般的。第二アウシュヴィッツの別名を持つ、ビルケナウ収容所とあわせて、両方を見学するツアーを利用するのが便利だ。ただ、季節により、また使用するツアー会社により、1グループあたりの人数は大きく違う。大型バス1台分で1グループというような場合は、ガイドの説明を聞くのも一苦労。できれば、ミニバスツアーで、1グループ10人以下程度のものを探して参加したい(ツアー会社によっては、日本人ガイドを頼むことも可能)。
我々取材班が参加したツアーは、午前9時半にクラクフを出発した。アウシュヴィッツまでは一車線道路。クラクフ郊外の田園地帯を安全運転で走ること1時間余り、11時前に現地に到着した。
11時から20分間、ホロコーストに関するショートフィルムを見て下準備をし、それからようやく実際の収容所跡ツアーがスタートした。
銃殺時に使われ、殺される者は壁を向いて立たされたという「死の壁」、集団絞首台、懲罰のための独房、ガス室、そして焼却炉…ガイドの淡々とした説明が逆に恐ろしい光景を思い描かせる。他人に対して、どんなに残酷なことをしても許されるという状況に置かれたら―普通の人々の日常生活で、それは「ありえない」ことだが、70年前、ここではそれが当たり前の現実だったのだ。
どの展示も、ホロコーストの酷さを示し、二度と繰り返さないように「忘れないで」と懸命に訴えているように感じさせたが、最も印象深かったのは、第5棟の「犯罪証拠」と題された展示だった。

ビルケナウの収容者用トイレ。許された
使用時間は1分だけだったという。
ナチスは、驚くべき律儀さと勤勉さを発揮し、利用できそうなものはすべて集めて保管した。35あった保管倉庫のうち、ナチスに破壊されずに残ったのは6棟のみというが、そこから発見されたものだけでも、思わず絶句する量だった。衣服はいうに及ばず、メガネ、カバン、ブラシ類、洗面器類、流用できるのか疑問に思う義足から、毒ガスとして使われたとされるチクロンBの結晶が入っていた空き缶などまで、何でも保管してあった。その中には約2トンの頭髪も含まれていた。頭髪は1キロあたり半マルクで販売され、ドイツ本国で靴下や毛布用の職布として利用されたという。
この頭髪もショッキングだったが、筆者が最も胸をしめつけられたのは、靴の山だった。展示室の両脇に積み上げられた靴、靴、靴、靴…。夏に収容された者がはいていたと一目でわかるサンダル、冬のブーツ、女性の赤いパンプス、子供の小さな靴。衣服や頭髪以上に、その持ち主の運命を雄弁に物語っているように感じられて立ちすくんでしまったのだった。

上の地図は、1942年、第3帝国時代のドイツ(大ドイツ国)の領土を示すもの。
Martin Gilbert: The Holocaust: The Jewish Tragedy, London 1986より
*赤い点線は1942年末のドイツ軍前線、収容所は主な収容所のあった場所

「死の門」をくぐった線路

約2時間のアウシュヴィッツでの見学を終え、今度はビルケナウ(ブジェジンカ)へ。8キロしか離れておらず、車で10分弱の場所だ。
1945年1月27日、アウシュヴィッツとともに、ソ連軍により解放されたこのビルケナウは、証拠隠滅をあせるナチスにより大幅に破壊され、アウシュヴィッツほど「展示物」が残されていない。しかし、鉄条網に囲まれた敷地はアウシュヴィッツよりはるかに広大で、また、わずかに残る収容棟が粗末な木造バラックであるため、アウシュヴィッツより、さらに大規模に、ただ「絶滅」のために急いで造られた場所という印象を受けた。

2003年にフジテレビでリメイクされたドラマ『白い巨塔』で、
主役の財前五郎を演じた唐沢寿明が「死の門」をバックに
立つシーンは印象深かった。
©Fuji Television Network Inc.
このビルケナウで、最もよく知られている写真の構図といえば、線路伝いに、「死の門」と呼ばれたSS中央衛兵所を望むものだろう。テレビのリメイク版『白い巨塔』で、唐沢寿明扮する主役が、ふたまたに分かれた線路の間で立ちつくすシーンにも使われた。
列車でここまで運ばれてきた人々は、SSの医師たちにより選別され、すぐにガス室に送られるか、劣悪な条件のもと、死の恐怖と隣り合わせの中、過酷な重労働に就かされるかのどちらかだったのだ。しかも、重労働の先に待っているのも、やはり死のみ。いかに絶望せずに、行き続けるか。生き残った人々の運と精神力の強さに感嘆するほかない。
ここでの約40分の見学を終え、クラクフの街に戻った取材班は、その夕刻、ワルシャワに移動した。クラクフと首都ワルシャワはポーランドの誇る高速列車で、ノンストップで結ばれている。所要約2時間半の快適な旅だ。車窓には、ポーランドでは農業がまだまだ主要産業のひとつであることをうかがわせる、牧歌的な景観が広がる。

ビルケナウの「死の門」。収容者を詰めこんだ列車は
この門をくぐり、敷地内に入った。列車が到着するなり、
すぐに『選別』が行われたのだった。
美しいのだが、なぜか切なく哀しいものに映って困った。18世紀末、ロシア、プロイセン、オーストリアの3国によって、3度にわたり分割されたばかりか、20世紀に入ってからは、39年から6年間ドイツ軍に占領され、第二次世界大戦後、名目上は独立したものの、ソ連の強い影響から逃れられず、国として真にひとりだちできるようになったのはソ連崩壊後といえるポーランド。そしてそのポーランドの絶滅収容所で失われた何百万という人命。お世辞にも幸福とはいえない一連の歴史が、風景をも違ったものに見させていたのだろう。やがて、西の空は鮮やかな夕焼け雲に覆われた。日本でも英国でも見ることのできないような、紅い紅い夕焼けだった。

前編に戻る…


ナチス関連年表
1914年7月28日 第一次世界大戦勃発(オーストリアがセルビアに宣戦布告)
1918年11月9日 ドイツ革命(皇帝ヴィルヘルム2世退位、オランダへ亡命)
11月11日 ドイツが休戦協定に署名。事実上、第一次世界大戦終了。ヒトラーは対英戦での負傷で入院中、この知らせを受けた
1919年1月5日 ナチス結成
6月28日 ヴェルサイユ条約調印
1923年11月8日 ヒトラー、ミュンヘン一揆を起こすが失敗(ヒトラー自身を長とする「国民政府」樹立を目指し、ミュンヘンでクーデターを実行。バイエルン州総督らを武力でもって賛同させようとしたが、あっけなく失敗し翌日逮捕され、有罪となり禁固刑を科される)
1924年12月20日 ヒトラー、出獄(獄中、副総統ヘスに口述筆記させ、『我が闘争』〈英語名『My Struggle』〉を完成させる)
1932年7月31日 ナチス、第1政党になる
1933年1月30日 ヒトラー内閣成立(ナチ党員は、首相のヒトラーを含め、3名が閣内入りを果たしたに過ぎなかった。副首相パーペンら保守派はナチスに実権を与える気はなく、ヒトラーを「飼いならす」つもりだったが、まもなくその見立てが甘かったことを知る)
4月26日 ゲーリングを長官とする、ゲシュタポが発足
1934年8月19日 ヒトラー、首相と大統領を兼任
1935年3月16日 ヴェルサイユ条約を破棄し、ドイツは再軍備宣言を行う
9月15日 ニュルンベルク法公布(ドイツで、ユダヤ人迫害を合法的に行うことが可能になる)
10月21日 ドイツ、国際連盟脱退
1936年8月1日 ベルリン・オリンピック開催
1937年11月6日 日独伊防共協定成立
1938年3月13日 ドイツ、オーストリアを併合
11月9日 「水晶の夜」事件(ユダヤ人の店などが各地で襲われ、路上に散乱したガラスの破片が水晶のように光ったことから、こう呼ばれる)
1939年9月1日 第二次世界大戦勃発(ドイツ軍、ポーランドに侵攻開始。翌年4月にはノルウェーに侵攻、デンマークを無血占領)
1940年5月1日 ルドルフ・ヘス、アウシュヴィッツ収容所の所長に任命される
6月22日 フランス、ドイツに降伏(翌年4月、ギリシャがドイツに降伏)
1941年6月22日 ドイツ、ソ連と戦闘開始(モスクワ、スターリングラードを対象に大々的な軍事作戦が繰り広げられたが、43年には、スターリングラードのドイツ軍が降伏)
1943年9月8日 イタリア、無条件降伏
1944年6月6日 連合軍、ノルマンディ上陸作戦開始
7月20日 ヒトラー、暗殺計画失敗
8月25日 連合軍、パリを解放、11月にはソ連軍がドイツ国境内に入る
1945年4月22日 ソ連軍、ベルリン市街に突入
4月30日 ヒトラー、エヴァ・ブラウンとともにベルリンにて自殺
5月7日 ドイツ、無条件降伏

トラベルインフォメーション ワルシャワ

※情報は2015年11月2日現在のもの。


◆ポーランドが初めて統一されたのは10世紀後半のころ。当時の首都はクラクフで、ヨーロッパでも有数の富裕な都市として発達、16世紀にはルネサンス文化が栄えるなどしたが、東のロシア、西のプロイセン(後のドイツの一部)、南のオーストリアと、まわりを強国に囲まれ、常にそれらの脅威にさらされる宿命にあった。この3国により、1772年(第一次)、93年(第二次)、95年(第三次)と三度分割され、95年の分割で、事実上、国としてのポーランドはいったん消滅してしまう。
◆独立運動を続けた結果、1918年、ようやくポーランド共和国として復活。しかし、これも長続きせず、39年、ヒトラー率いるナチス‐ドイツに占領された。ナチスの敗北を受けて、45年6月には統一政府が誕生するも、今度は、ポーランドを解放してくれたはずのソ連の影響下に入り、「東欧」として共産圏の一部に組み込まれた。真の独立は、ソ連崩壊後といっていいだろう。2004年5月にはEU加盟を果たした。
◆このポーランドの首都ワルシャワの歴史は比較的浅い。1596年、ジグムント3世=左上の像=がクラクフよりワルシャワへの遷都を行い、1611年から正式に首都となった。第二次世界大戦時、ドイツ軍の猛攻にあい、街の8割は灰と瓦礫の山と化したが、戦後、絵画や写真などの記録を頼りに「壁のひび」まで忠実に再現すべく、気の遠くなるような復興作業が市民によって行われ、今の町並みが作られたという。
◆ワルシャワには、戦争慰霊碑がいたるところにあるが、不屈のポーランド国民の誇りが結集した街といえるだろう。
◆見どころは、旧市街(一部、市壁が残る市場広場が中心)、およびそこから南にのびるクラクフ郊外通りと、しゃれたカフェやレストランも多い、新世界通り沿い(長さはあわせて約1キロ)に集まっているので、効率よく観光できる。

【時差】 英国より1時間早い
【ビザ】 90日以内の観光なら不要(残存有効期間は91日以上必要)
【通貨】 ズウォティ(Zloty)。補助通貨はグロシュ(Grosz)で、1ズウォティ=100グロシュ。2015年11月2日現在の為替レートは1ズウォティ=約17ペンス
【喫煙事情】 通りのゴミ箱には、必ずといっていいほど灰皿がついているくらい、喫煙には寛容。ただ、ワルシャワ空港内は、完全禁煙(バーでもダメ)なのでご注意!

主要な観光スポット

*オープン時間、入場料、イベントなどについては、ワルシャワの王宮広場にあるツーリスト・インフォメーションセンター、あるいは各スポットのホームページなどでご確認ください。
Tourist Information:
Stoleczne Biuro Informacji i Promocji Turystycznej
Plac Zamkowy 1/13, 00-267 Warszawa, Poland
Tel: +48 22 635 18 81
www.warsawtour.pl

キュリー夫人博物館 Muzeum Marii Sklodowskiej Curie

© Adrian Grycuk
1903年、放射性元素の発見により、夫とともにノーベル物理学賞を受賞したマリー・キュリー夫人。夫亡き後も研究を続行し、ラジウムの分離に関する発見に対して、1911年にはノーベル化学賞も受賞するという偉業を成し遂げた。日本では教科書によく登場するため馴染み深いこの女性の生家が、博物館として公開されている。
Freta 5
Tel: 22 831 80 92
http://en.muzeum-msc.pl


バルバカン Barbakan

© Carlos Delgado
ワルシャワ旧市街(Stare Miasto)の中心といえる旧市街市場広場(Rynek Starego Miasta)は市壁に囲まれていた。その壁の内側に入るための玄関口といえるのがバルバカン。英語でいう「バービカン(Barbican)」(=楼門、物見やぐら)と同じで、砦、あるいは牢獄として使われていたもの。戦火の被害にあったが、見事に復元されている。
ul. Nowomiejska
Tel: 22 531 38 02
http://muzeumwarszawy.pl/muzeum/lokalizacje/barbakan


ワルシャワ歴史博物館 Muzeum Historyczne Miasta Stolecznego Warszawy

ワルシャワ復興に関する展示が充実。
Rynek Starego Miasta 28
Tel: 22 635 16 25
www.stare-miasto.com/muzeum_historyczne.html

旧王宮 Zamek Krolewski

© Alina Zienowicz Ala z
首都をクラクフからワルシャワに移したジグムント3世の像を頂く石柱が中央にそびえる、王宮広場に面して建つ。かつてはジグムント3世の居城だった。内部は美術品など展示をする部分と、復元された「王の部屋」をはじめとする各部屋を公開する部分に分かれている。日曜日には一部の見学ルートが無料になるため、長い列ができる。
plac Zamkowy 4
Tel: 22 355 51 70
www.zamek-krolewski.pl


聖十字架教会 Kosciol sw Krzyza

コペルニクス像の向かいに建っている教会。中に入ると、大きな柱がいくつか目に入るが、向かって左側手前にある柱の下には、20歳で政情不安定なポーランドを離れてから、一度も祖国の土を踏むことなく39年の生涯を終えた、ショパンの心臓が埋葬されている。第二次世界大戦時、ドイツ軍に爆破され大きな被害を被ったばかりでなく、心臓も持ち出されてしまったものの、戦後の1945年10月17日、ショパンの命日に元に戻された。
Krakowskie Przedmiescie 3
Tel: 22 826 89 10
www.swkrzyz.pl


コペルニクス像 Pomnik M Kopernica

地動説を唱えたことで知られる、ミコワイ・コペルニクス(Mikolaj Kopernik 1473~1543)はワルシャワから180キロ ほども離れたところにある、トルンという町の出身。ポーランドを代表する偉人のひとり。


ショパン博物館 Muzeum Fryderyka Chopina

科学だけでなく、芸術面でもポーランド人が優れていることを証明した、フレデリック・ショパン(Fryderyk Chopin 1810~49)。自らも秀でたピアノ奏者だったショパンは、数々の名曲を残した。この博物館には、ショパンが最後に使ったといわれているピアノから、直筆の譜面、手紙まで、ショパンに関する2500点以上の資料がおさめられている。また、3階はコンサートホールとしても利用されている。
Okólnik 1
Tel: 22 441 62 51
http://chopin.museum/pl


文化科学宮殿 Palac Kultury i Nauki

ワルシャワ中央駅のすぐ近くにあり、37階建て、高さ234メートルという高層ビルなのでよく目立つ。「宮殿」というよりは、「博物館」兼「一大イベント会場」ともいうべき建物で、展望台もある。中には科学技術博物館、プラネタリウム、進化博物館(恐竜の展示などもあり)のほか、ポーランドTV、コンサートホールや映画館、劇場も入っている。スターリンからの「贈り物」として、1952年から56年にかけて建造されたが、ポーランド市民からすると「おしつけられた」という意識が強いらしく、「贈り物」とは名ばかりで、ポーランド市民からの税金で作られたと信じている人が少なくないそうだ。「ソ連の建てた、ワルシャワの『墓石』」といった、ありがたくないニックネームもあるという。
plac Defilad 1
Tel: 22 656 76 00
www.pkin.pl

トラベルインフォメーション クラクフ

※情報は2015年11月2日現在のもの。


◆1596年、ジグムント3世がワルシャワに都を移すまで、ポーランドの首都として栄え、それ以降も輝きを失うことなく、現在は古都として愛されている都市、クラクフ。ナチスードイツ占領下でも、司令部がここに置かれたため戦火をのがれたといい、美しい町並みが保たれている。
◆ワルシャワ以上に見どころが多いといってよく、市壁に囲まれた旧市街(Stare Miasto)はコンパクトにまとまっており、そぞろ歩きを楽しみながら観光したい場所だ。バルバカンから中央市場広場へ抜け、この広場から城へと向かえば、主要な観光ポイントをおのずと訪れることになる。
◆なお、旧市街を出て、南に下ったところにあるカジミエーシュ地区(Kazimierz)は、戦前、ユダヤ人が多く住んでいたところだった。14世紀なかばにヨーロッパを襲ったペスト(黒死病)により、ユダヤ人はその災禍の原因であるとして迫害され、多くのユダヤ人が、中欧、さらには東欧へと逃れた。農業国ポーランドは、商業・工業面で立ち遅れており、支配者層はユダヤ人の流入をむしろ歓迎したため、特に多くのユダヤ人が移り住んだ。カシミール(カジミエーシュ)3世(1310~70)などは、ユダヤ人を厚遇したことで知られるが、ユダヤ人は手工業の知識、商業のノウハウをいかして期待にこたえ、ポーランドの発展に尽力したのだった。
◆ヒトラーが、ユダヤ人絶滅収容所をポーランドに作ったのは、同国が多くのユダヤ人を抱えていたことと密接に関係している。
◆映画『シンドラーのリスト』にもでてきた、クラクフのユダヤ人コミュニティは壊滅的な打撃を受けたが、もとの彼らの居住区、カジミエーシュ地区は、現在はしゃれたバーやレストランが集まるトレンディなエリアとして注目されている。

【ワルシャワからのアクセス】
*アウシュヴィッツ収容所だけが目的の場合はクラクフ空港に入るのがベストだが、ワルシャワでの観光も含めたい場合、空路ワルシャワに入り、ワルシャワ~クラクフ間は電車で移動するのが一般的。ワルシャワ~クラクフ間は、ノンストップで約2.5時間。


ポーランドでぜひお試しいただきたいのが、水ギョウザそっくりの「ピエロギ(Pierogi)。ひき肉、チーズ、野菜(キャベツの酢漬けが一般的)など、具はいろいろ。ただし、皮がかなり厚いため、すぐにおなかいっぱいになるのでご注意を。

主要な観光スポット

*オープン時間、入場料、イベントなどについては、ツーリスト・インフォメーションセンター、あるいは各スポットのホームページなどでご確認ください。

Tourist Information:
Punkt Informacji Miejskiej
ul. Szpitalna 25 Kraków, Poland
Tel: +48 12 432 00 60
www.krakow.pl


バルバカン Barbakan

旧市街を囲む市壁内に入るための玄関口である、楼門。騎士たちの多くは右利きで、盾は左手、剣は右手に持つのが普通だったので、ここに入る際、騎士たちは盾で覆ってない、体の右半分をフロリアンスカ門の衛兵(いつでも矢を放てるように構えていた)に見せて入場するよう、入り口の角度が設定してあったという。
Basztowa
Tel: 12 422 98 77
www.mhk.pl/oddzialy/barbakan


フロリアンスカ門 Brama Florianska




聖マリア教会 Bazylika Mariacka

クラクフに数ある教会の中でも、ひときわ目立つ荘厳な教会。1222年建造で、中央市場広場に面してそびえる。昔々、モンゴル軍がクラクフに攻め入ろうとした時、敵が来たことを知らせるために、ある兵士がこの教会の塔の上でラッパを吹き鳴らした。このラッパ手は、まもなくモンゴル兵の放った矢に貫かれて絶命するが、そのラッパ手の死を悼んで、今でも1時間ごとにラッパが吹き鳴らされる。
plac Mariacki 5
Tel: 12 422 05 21
www.mariacki.com


織物会館 Sukiennice


旧市街の中心である中央市場広場のほぼ中央にある、ルネッサンス様式の建物。14世紀に建造され、当初は衣服や布地の取引所として使われたため、この名がついた。中には土産物屋がぎっしりとならび、華やかな雰囲気が漂う(ただし、値段は少々高め)。2階は国立美術館(Galeria w Sukiennicach)。また、中央市場広場のまわりにはレストラン、カフェ、店などが軒をならべ、いつもにぎわっている。
Rynek Główny 1-3
Tel: 12 433 54 00
http://mnk.pl/oddzial/galeria-sztuki-polskiej

聖ペテロ・聖パウロ教会 Kosciol sw Piotra I Pawla

教会の外に聖人たちがずらりと並んでいるのは、中が小さすぎるため、というジョークがささやかれる教会だが、実際にはかなり大きく、かつ荘厳。
Grodzka
www.apostolowie.pl


ヴァヴェル城 Zamek Krolewski na Wawelu

歴代ポーランド王の居城として使われた場所。旧王宮部分にある、王宮博物館(Komnaty Krolewskie)、18世紀まで代々、ポーランド王の戴冠式が行われた大聖堂(Katedra Wawelska)、金色のドームが目印のジグムント・チャペル(Kaplica Zygmuntowska)、ポーランド最大の鐘がつるされているジグムント塔(Wieza Zygmuntowska)など、見どころが多い。なお、このジグムント塔の鐘は、宗教上、あるいは国政上、重要なことが起こった時にしか鳴らされないことになっている。
Wawel 5
Tel: 12 422 51 55
www.wawel.krakow.pl


竜の洞窟と竜の像 Smocza Jama

その昔、ヴィスワ川には竜が棲み着いており、近隣の村の若い娘を食べるとして、憎まれおそれられていた。ある時、靴職人の弟子が、タールと硫黄を毛にしみこませた羊を娘と偽って、この竜に食べさせたところ、のどが猛烈に渇いた竜はヴィスワ川の水をおびただしい量飲み、ついには破裂して死んでしまった、という伝説が残っているという。この靴職人の弟子は、お姫様と結婚し、めでたしめでたし、という結末だが、竜が棲んでいたという洞窟が残っており見学することができる。また、近くに竜の像もあり。
Wawel
www.sktj.pl/epimenides/jura/smocza_p.html


日本美術・技術センター(『マンガ館』) Manggha: Centrum Sztuki i Techniki Japonskiej

© Zygmunt Put Zetpe0202
日本美術のコレクターだった、フェリクス・マンガ・ヤシェンスキ氏のコレクションを展示。2000点を超える、安藤広重の作品を含む、4600点以上の浮世絵が中心というコレクションのほか、日本文化に関連したものがおさめられている。なお、『マンガ』は、同氏が好んで使ったペンネームで「北斎漫画」からきているそうだが、このセンターにコミックとしての「マンガ」があるわけではない。
Marii
Konopnickiej 26
Tel: 12 267 27 03
http://manggha.pl

贈り物、あるいは自分用に選びたい 魅惑に満ちた香水たち [Perfume]

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2015年12月3日 No.910

●サバイバー●取材・執筆/ 橋本美弥子、本誌編集部

 

 贈り物、あるいは自分用に選びたい 

魅惑に満ちた香水たち

 





英国人に愛される、タイプ別ロンドンの本屋、おすすめ16

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2016年1月7日 No.914

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英国人に愛されるロンドンの本屋おススメ16

タイプ別

英国人に愛されるロンドンの本屋 おススメ16

街の中に思ったほど本屋がないうえ、ぶらりと入ったところで「どうせ英語だし…」と、本が好きだったのに、英国に来て以来、書店から足が遠のいている人も案外多いのでは? 今回は、ロンドンに点在する大小の様々なジャンルの本屋をご紹介。気ままに手に取り、好きなページをめくってみるという、オンラインでは味わえない実店舗ならではの楽しさを再発見できるはず。さらに本だけではなく、カフェやギフト・ショップを併設するところも少なくないので、気軽に利用しやすい。そうしたことをきっかけに、年始早々から自分の世界観が変わるような『運命の1冊』に巡り合えるかも?

●サバイバー●取材・写真・執筆/佐々木 敦子・本誌編集部

歴史

創業100年以上の老舗書店は、本だけではなく、英国文化を知る絶好の場所。

Foyles
フォイルズ 【創業111年】

107 Charing Cross Road, WC2H 0DT
tubeTottenham Court Road
Tel: 020 7437 5660
www.foyles.co.uk (Map④)
月~土 9:30~19:00 、日 11:30~18:00


1905年のオープン以来、英国最大の品揃えを誇る本屋。吹き抜けになった地上7階(6th floor)、地下1階建ての店内にある、すべての書棚を並べると全長6.5キロにもなると言われるが、本のセレクションはそんな大型店にありがちな「広く浅く」からは程遠く、ツボを押さえた専門書も並ぶ。2014年の移転でカフェ、ギャラリー、文房具売り場なども充実。老舗というだけでなく、これからあるべき本屋の姿を追求している店だ。オリジナル・エコバッグやトラベル・マグのほか、「Foyalty Card」というポイント・カード=写真左上=も人気(£1につき4ポイント加算、1ポイントは1p相当)。

Hatchards
ハッチャーズ 【創業219年】

187 Piccadilly, W1J 9LE
tubePiccadilly Circus
Tel: 020 7439 9921
www.hatchards.co.uk (Map①)
月~土 9:30~19:00 、日 12:00~18:00
※トイレはスタッフ用を借りる形

地上階の螺旋階段前の壁に飾られているのは、創業者ジョン・ハッチャード氏の肖像画。バイロン、ウェリントン、チャーチルらが足繁く通っていた。
ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの向かいに位置する、王室御用達の由緒正しい本屋。現存する「ロンドン最古の書店」であり、1797年のオープン以来、文豪、政治家、アーティスト、王室メンバーをはじめとする多くの人々に愛されてきた。地上4階(3rd floor)、地下1階建ての店内は、1920~30年代風ともいえる昔ながらの雰囲気に包まれている。インテリア・デザインやガーデニング関連本の並ぶ上階は、広々とした贅沢な空間が広がり、大切な人への1冊もゆっくり選べそう。また、児童書売り場は優しい色合いの一室が当てられ、休憩用のソファや子供用のおもちゃなども置いてある。2014年には、ユーロスターが乗り入れるセント・パンクラス駅構内に、フォートナム&メイソンと並び初めての支店をオープンさせ、話題を集めた。

Maggs Bros Ltd
マッグズ・ブラザー・リミテッド 【創業163年】

46 Curzon Street, W1J 7UH
tubeGreen Park
Tel: 020 7493 7160
www.maggs.com (Map②)
要事前予約

世界最大級の希少アンティーク本を取り扱う、1853年創業の古書店。バークリー・スクエアに面したジョージ・カニング首相(1770~1827年)の自宅だった店舗(50 Berkeley Square, W1J 5BA)=写真=から昨年移転し、スペースを縮小して今年中に再オープンの予定(事前予約をすれば、再オープン前でも来店可能)。本のほかに、作家のバーナード・ショー(£425)やオスカー・ワイルド(£3950)など、著名人の実筆の手紙も展示販売されているので、博物館感覚で見学できそうだ。ただし店舗という雰囲気はないので、本を手に取る前に一声かけたほうがいいだろう。

ロンドンの古書店街

Cecil Court セシル・コート

tubeCharing Cross / Leicester Square
www.cecilcourt.co.uk(Map③)

占いブースが常設されている本屋もあり、駅周辺の喧騒とは一転して静寂が包み込む。
かつては古本屋街として親しまれていたチャリング・クロス・ロード。その南端に位置する小道がセシル・コートだ。道の両側がアンティーク本専門店ばかりという時代は過ぎ去ったものの、今でも軍事関係、オカルト、コミックなど特殊な本を扱う本屋が隣り合う。映画『ハリー・ポッター』シリーズに登場した、魔法道具店が並ぶダイアゴン横丁のモデルともなった場所。

ユニーク

一風変わった本屋は、話のネタとしても訪れてみる価値あり。

Waterstones
ウォーターストーンズ

203 - 206 Piccadilly, W1J 9HD
tubePiccadilly Circus
Tel: 020 7851 2400
www.waterstones.com/bookshops/piccadilly (Map⑤)
月~土 9:00〜22:00、 日 12:00〜18:30

英国各地に支店を持つ大型書店ウォーターストーンズ。数少なからぬ本屋が次々に店じまいする中、学生街では学術書、シティではビジネス書、観光地ではガイドブックやギフト商品等、立地に合わせて柔軟に品揃えを変えることで生き残ってきた。本店のピカデリー店は、有名デパート「シンプソン・ロンドン」跡を利用しており、地上6階(5th floor、中2階もあり)、地下1階建てという「本のデパート」。人気作家のサイン会が開かれることでも知られる。地下1階と中2階=写真=にカフェ、6階には眺めのいいバー&レストランがあり、ここではアフタヌーンティー(£14.95)も楽しめる。

Southbank Centre Book Market
サウスバンク・センター・ブック・マーケット

Southbank Centre, Belvedere Road, SE1 8XX
tubeWaterloo
Tel: 020 7960 4200
www.southbankcentre.co.uk/visitor-info/shop-eat-drink/shops/southbank-centre-book-market (Map ⑥)
毎日(雨天休業)
英国各地に支店を持つ大型書店ウォーターストーンズ。数少なからぬ本屋が次々に店じまいする中、学生街では学術書、シティではビジネス書、観光地ではガイドブックやギフト商品等、立地に合わせて柔軟に品揃えを変えることで生き残ってきた。本店のピカデリー店は、有名デパート「シンプソン・ロンドン」跡を利用しており、地上6階(5th floor、中2階もあり)、地下1階建てという「本のデパート」。人気作家のサイン会が開かれることでも知られる。地下1階と中2階=写真=にカフェ、6階には眺めのいいバー&レストランがあり、ここではアフタヌーンティー(£14.95)も楽しめる。

Daunt Books
ドーント・ブックス

83 Marylebone High Street, W1U 4QW
tubeMarylebone / Baker Street
Tel: 020 7224 2295
www.dauntbooks.co.uk (Map ⑦)
月~土 9:00〜19:30、 日 11:00〜18:00


大型エコバッグ=左端=は緑、赤、グレー(£8)、
小型は白色(£3)。
購入希望時に、レジで声をかけてみよう。
「ロンドンで最も美しい書店」として、ガイドブックなどにも掲載されており、観光客が見学に訪れるドーント・ブックス。1910年の創業当初は、アンティーク本を扱う古書店だった(1990年にジェームズ・ドーント氏により再オープン)。ステンドグラスや天井からの自然光が入る店内と、エドワード朝様式のギャラリーが設置されたユニークな中2階の構造がポイント。また、ベストセラーや新刊にこだわらない独自のセレクションは、昔から英国人に愛されている。オリジナル・エコバッグ=写真左=の人気も高く、街を歩いていてこのバッグを持った人を見かけたことがある方も多いはず。本の分類がジャンルを問わずに国ごとでまとめられていたり、背表紙でなく本の表紙が見えるように並べられていたりと、様々に凝らされた工夫が人気の秘密といえそう。

Bookmarks
ブックマークス

1 Bloomsbury Street, WC1B 3QE
tubeTottenham Court Road
Tel: 020 7637 1848
https://bookmarksbookshop.co.uk (Map ⑧)
月 12:00〜19:00、 火~土 10:00〜19:00

労働運動、女性解放運動、人権…。ジェレミー・コービン氏が労働党党首になったことで、にわかに活気付いた英国の社会主義やその歴史について知りたい場合は、この本屋をおいて他にないだろう。といっても、店内にはジャズが流れ、意外にも堅苦しい雰囲気はない。政治スローガンを印刷したバッジやマグカップ、ポストカード、エコバッグのほか、児童書コーナーには環境問題について考える絵本なども置かれている。

Word on the Water
ワード・オン・ザ・ウォーター

Goods Way, King's Cross, N1C 4AA
tubeKing’s Cross
Tel: 07976 886 982
www.facebook.com/wordonthewater (Map ⑨)
毎日 12:00〜19:00 (要確認)
ロンドン北部を走る運河上に浮かぶ、小さなボートで経営されている古本屋。まっすぐ立つこともすれ違うこともできないような小さな店内には、奇妙なオブジェや写真も飾られ、まるで子供の頃読んだ物語の舞台がそのまま再現されたかのよう。基本的にはキングス・クロス周辺の運河に停泊しているが、夏季などは2週間ごとに場所を移動することも多く、また雨天の場合や移動日の前後なども休業する可能性が高いので、当日にフェイスブック等で確認する必要あり。付近のカナル・パスの散歩も楽しめる。

映画『ノッティングヒルの恋人』の舞台

The Notting Hill Bookshop
ノッティングヒル・ブックショップ

13 Blenheim Crescent, W11 2EE
tubeNotting Hill Gate / Ladbroke Grove
Tel: 020 7229 5260
www.thenottinghillbookshop.co.uk (Map ⑩)
月~土 9:00〜19:00、 日 10:00〜18:00

1999年制作の映画『ノッティングヒルの恋人』=写真上=の舞台ともなった本屋。映画はヒュー・グラント扮する本屋の店主と、ジュリア・ロバーツ扮する人気ハリウッド女優の恋を描いたロマンティック・コメディ。15年以上前の作品だが、取材時も同店の前で記念撮影をする女性たちの姿があり、今も「あの映画の本屋」として著名であることを伺わせる。以前は旅行書専門の「Travel Bookshop」という名だったが、オーナーが変わり今に至る。オリジナル・エコバッグ(3種類、£2.99~£12.99)あり。

専門

好きな人にはたまらない、特定のジャンルに特化した専門書店。

Forbidden Planet
フォービドゥン・プラネット 【映画・ゲーム・コミック】

179 Shaftesbury Avenue, WC2H 8JR
tubeTottenham Court Road
Tel: 020 7420 3666
https://forbiddenplanet.com(Map⑫)
月・火 10:00〜19:00、 水・金・土 10:00〜19:30、 木 10:00〜20:00、日 12:00〜18:00

店の入口では、スパイダーマンの大きな像が客を出迎えてくれる。
外観からではフィギュア(模型)の専門店か、コスプレ用の衣装やキャラクター・グッズの店に見え、ここに本が置いてあるとは思えない。ところが、広い地下にはSFやファンタジー小説、日本の漫画の英語版のほか、アニメやコンピューター・ゲーム、テレビ番組や映画の関連本など、マニアックなものがびっしり並び、しかも驚くほど混んでいる。B級ホラーやカルト映画のDVDも販売。

Stanfords
スタンフォーズ 【地図・旅行】

12 - 14 Long Acre, WC2E 9LP
tubeCovent Garden
Tel: 020 7836 1321
www.stanfords.co.uk(Map⑬)
月~金 8:30〜19:00、 土 9:00〜19:00、 日 11:30〜17:30


ファッション系の店舗が連なるロング・エイカー通りに店を構えるのが、エドワード・スタンフォード氏によって1853年に創業された、世界最大級の地図と旅行書専門店。植民地主義を推し進め、海外進出を図るヴィクトリア朝時代の英国で、多くの地図が必要とされたのがそもそもの始まりだとか。今では世界各国の地図はもちろん、ガイドブックや旅を主題にした小説、さらにはスーツケースやプラグなどの旅行に必要なトラベル・アクセサリー、山歩きのためのケーンなども手がける。地上2階(1st floor)、地下1階建て。地上階の奥には、小さいながらくつろげそうなカフェあり。床に描かれた世界地図は、創業150年を祝って2003年に制作されたもの。

The Children's Bookshop
チルドレンズ・ブックショップ 【児童書】

29 Fortis Green Road, N10 3HP
tubeEast Finchley
Tel: 020 8444 5500
www.childrensbookshoplondon.com(Map⑪)
月~土 9:15〜17:45、 日 11:00〜16:00

やや不便な場所にあるものの、品数の多さと、フレンドリーな目利きスタッフがいるおかげで、1974年のオープン以来多くの賞を受賞してきた児童書専門店。各国の絵本から、高学年向け児童書までが揃う。地元の小学校と提携し、原作者による朗読のイベントを手配するといったことも行っている。また、毎週木曜の午前11時からは、店内で子供のために絵本の読み聞かせの時間を設けている。

The Atlantis Bookshop
アトランティス・ブックショップ 【魔術】

49A Museum Street, WC1A 1LY
tubeTottenham Court Road / Holborn
Tel: 020 7405 2120
www.facebook.com/The-Atlantis-Bookshop-100138180037911(Map⑭)
月~土 10:30〜18:00

同店から徒歩10分ほどの場所には、占星術関連の本や雑貨などを扱う「The Astrology Shop」(78 Neal St, WC2H 9PA、毎日営業 11:00~19:00)もある。
オープンが1922年という、魔術関連本を扱う由緒ある(?)本屋。大英博物館の近くにあり、店内はまるで映画『ハリー・ポッター』シリーズのセットのような雰囲気が漂い、いつからここにあるのだろうと思われるような、売られながらもインテリアの一部と化した書籍も。店員の女性もなんだか魔女のよう!? 取り扱う本は、魔術関連のほか、エンジェル、フェアリーからヨガ、瞑想、精神世界まで。パワーストーン、神話に登場する神々の像なども種類は少ないものの置いてある。

Goldsboro Books
ゴールズボロ・ブックス 【初版本】

23 - 25 Cecil Court, WC2N 4EZ
tubeCharing Cross / Leicester Square
Tel: 020 7497 9230
www.goldsborobooks.com (Map③)
月~土 10:00〜18:00

本の好きな男性2人が1999年、セシル・コートに開店。著者のサイン入り初版本を新旧を問わずに扱い、その数は現在約2万5000冊! 読書を愛する人だけではなく、価値が上がっていく本を探すコレクターたちによっても支えられている。

Books For Cooks
ブックス・フォー・クックス 【料理】

4 Blenheim Crescent, W11 1NN
tubeNotting Hill Gate / Ladbroke Grove
Tel: 020 7221 1992
www.booksforcooks.com(Map⑯)
火~土 10:00〜18:00

「ノッティングヒル・ブックショップ」の通りを隔てた斜め前にある、料理本専門店。1983年のオープン以来、プロから料理好きのアマチュア、食べることが大好きな人などが通う、宝箱のような本屋だ。時代を超えたベストセラーから最新刊まで、文字通り「世界中の料理」を紹介する本が集結している。奥のカフェでは本のレシピを試作したものを出したり、ワークショップも開催されたりする。

Claire de Rouen Books
クレア・ド・ルーアン・ブックス 【アート】

1st Floor, 125 Charing Cross Road, WC2H 0EW
tube Tottenham Court Road
Tel: 020 7287 1813
http://shop.clairederouenbooks.com(Map⑮)
火~土 12:00〜18:30

トテナム・コート・ロード駅への乗り入れによる、駅周辺の拡張工事をかろうじて免れたソーホー・エリアにあり、賭け屋の上階に位置する、写真とファッション専門書店。エキセントリックな魅力でソーホーの主のような存在だった書店オーナーが2012年に死去したものの、有志たちによって引き継がれた。ギャラリーも併設。

もっと本屋を楽しみたい場合は…

町が丸ごと古本屋街ヘイ・オン・ワイへ行こう!


ロンドンから車で約3時間半、ウェールズのポーイス(Powys)にあるヘイ・オン・ワイ(Hay-on-Wye)の町は、古書店街として知られている。1960年代から徐々に形成され、現在は30軒以上の古書店が立ち並ぶ。ヘイ・オン・ワイは交通も不便で、人口は約1,500人の小さな町だ。古書店街といえば、通常学生の多い都市部にできるのが一般的だが、なぜこのようなところに出現したのだろうか。
1960年代初め、若者が都市へ流出し衰退を続けるこの町を救おうと立ち上がった人物がいる。リチャード・ブース(Richard Booth)氏というオックスフォード大卒の男性で、「本の王様」と自ら名乗るほどの本好きだ。彼は叔父から引き継いだ遺産を使い、まず1961年に、廃業していた映画館を、翌1962年に旧消防署を買い取り、古書店を開業した。そして1971年には古城ヘイ・キャッスルを1万ポンドで購入し、城内に書棚を設けてから、次第にブース氏の古本集めが大規模になっていく。その数は10万冊、50万冊という単位だったという。
古書店の整備と並行して、ウェールズ観光局と共同でヘイを古本の町として宣伝。その後も1977年にヘイを『国家』として独立させてみたり、EEC脱退を宣言したり、1983年には総選挙に出馬するなど、ブース氏のマスコミ戦略は功を奏し、町は有名になっていく。だが、それと反比例するように、遺産を使い果たしたブース氏自身はとうとう破産。在庫管理に手を焼いた彼は、安い古本をもっと簡単にさばかなければと、古城の庭園と城壁の外側にズラリと本棚を並べ、「南京錠をつけた代金箱にお金を入れれば好きな古本を持っていってよい」という苦肉の策を編み出す。だが、その不思議で美しい光景は本好きのみならず、新たな観光名所として人々を惹きつけるに十分だった。ヘイ・オン・ワイでは古書店街の発展とともに、骨董品店やレストラン、B&Bなどが開業し、今では1年を通じて観光客が絶えない。1988年からは毎年初夏に「ヘイ・フェスティバル」という文学祭も開催され、世界中から作家、出版関係者、批評家、本の愛好家が訪れる。
古本で単身町おこしに挑んだリチャード・ブース氏は、その後ドイツへ移住すると宣言したものの、今もこの地で「本の王様」として暮らしているという。
Hay Festival 2016
2016年5月26日(木)~6月5日(日)
www.hay-on-wye.co.uk
www.richardkingofhay.com
www.hayfestival.com/wales

Travel Information

※2017年2月13日現在

↓画像をクリックすると拡大します↓

ロンドン中心部 本屋マップ

いざというときに役に立つ【ファーストエイド】基本の「キ」 [First Aid]

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いざというときに役に立つ【ファーストエイド】基本の「キ」 [First Aid]
負傷や急病が出たときに行う応急救護手当て、 ファーストエイド(First Aid)。 日常の小さなケガの手当てもあれば、命にかかわる状況で、 救急のプロの到着を待つ間に患者の状態の悪化を食い止めることもある。 何の知識も持たない人にとっては、難しいように感じられるかもしれないが、 実際に必要な知識と技術は、一般人にも無理なく習得できるレベル。 そこで、いざというときに知っていると役立つ、 ファーストエイドの基本をご紹介する。
参考資料:『First aid reference guide』St John Ambulance、www.sja.org.uk

●サバイバー●取材・執筆/名越美千代、本誌編集部

筆者はロンドン地下鉄の駅構内で倒れたことがある。
引越しで疲れが溜まっていたのだが、最寄り駅の階段を駆け上がったところで突然、手足の力が抜けて倒れこみ、そのまま動けなくなってしまった。あのときは、通りがかりの人たちがすぐさま駆け寄ってくれて、私は後続の通行人に踏みつぶされずに済んだ。誰かが私を楽な姿勢に動かしてくれた。
20代くらいの若い女性が(なかなかパンクな服装の人だったのだが)私の手を握り、「病歴はある? なにか薬を飲んでる? どこか苦しい? 家族の電話番号は?」とテキパキと質問してから、「大丈夫よ、心配しないでね」と、救急車が来るまでずっと、私の動かなくなった手足をさすりながら話しかけてくれ、本当に心強かった。自分の目の前で誰かが倒れたら、私も同じようにしたいと思う。今のところまだ、そんなことには遭遇していないが、準備だけはしておきたい。
2005年7月にロンドン市内で同時爆破テロが発生した際にも、同じようなことを考えた。筆者はそのとき、ロンドン在住の英国人の友人とスペインを旅行中だったのだが、ニュースを聞いた友人はすぐさま、「ロンドンにいたら何か手伝えたのに残念だ」とつぶやいた。この一言は、事件の衝撃と共に印象に残っている。友人は当時、普通の40代の女性だったのだが、ファーストエイドの心得はあり、事件現場の一つが職場の近くだったこともあって、なにか小さなことでも役に立てたのではと思ったようだった。
英国はイスラム過激派によるテロが問題になる以前に、1970年代からIRAによる爆破テロに悩まされてきているので、緊急事態に対する国民の意識が高いのかもしれない。実際に、一般市民向けのファーストエイド講座も、英国の方が日本より充実しているようだ。
あれから10年以上経ち、世の中はますます危険な方向へ進んでいる気がする。昨年11月のパリでの同時多発テロの衝撃に追い打ちをかけるように、新年早々にはイスタンブールやジャカルタでテロが起こった。今や、世界のどこにも安全な場所はないと感じる人も多いだろう。いつどこで、予測もしなかった事態に遭遇するか、誰にもわからない。そんなとき、自分にはいったいなにができるだろうか?
テロや大事故がなくとも、日常生活において、いつでもファーストエイドが必要な状況になりうる。
「応急手当てさえできていれば…」と悔やまれることの多い症例には、ノド詰まり、心拍停止、大量出血、心臓発作、気道閉塞の5つが挙げられるという。応急手当ての知識があれば誰かの命を救ったり、社会復帰を可能にしたりできるチャンスが広がる。救えるのはあなたの大切な家族や友達かもしれない。
ただ、ファーストエイドでは、まずは自らの安全確保が第一で、自分を危険にさらしてはならない。それを踏まえた上で、ひとりでも多くの人が少しの時間を割いてファーストエイドを学び、いざというときには一歩前に出る勇気を持つことができればと、願うばかりだ。

これは役に立つ!ファーストエイドの豆知識

応急救護のお助けアプリ
「St John Ambulance First Aid」

セント・ジョン・アンビュランス=写真=のほか、英国赤十字社のものなど、種類もいろいろあるので、気に入ったものを探してみては?
負傷者や急病人には思いもかけないところで遭遇するものだ。たとえファーストエイドの心得があったとしても、慌てて、頭の中が真っ白になることもあるかもしれない。そんなときのために、救急・救命・応急手当てに関する基礎知識をまとめたアプリを、普段持ち歩くスマホやタブレットに入れておけば心強い。
第一段階の救急対応の手順、気道確保や回復体位への動かし方、CPR(心肺蘇生法)、AED(自動体外式除細動器)の使い方などをイラスト入りで詳しく説明してくれる(機種によっては音声も出る)。応急手当ても、緊急性の高いものから日常で起こりがちな出血、やけどといったものまで、多岐にわたる症状がカバーされている。アプリの指示に従えば、一刻を争う緊急時にも落ち着いて対応できるだろう。ファーストエイド講習後の復習用としても使える。

緊急通報電話、999と112

英国の緊急通報電話の番号は、「999」または「112」。
「999」は1937年から使用されている英国民に馴染み深い番号で、「112」は欧州内共通の緊急通報番号として1995年から導入された新しい番号。どちらも同じようにつながる。
ただし、警察や消防への通報も同じ番号になっているので、つながったら「救急車を」と頼むことが必要だ。
自分の名前、今いる場所、連絡の取れる電話番号、いつ、何が起こったか、緊急の度合い、倒れている人の詳細(人数、性別、およその年齢、症状など)、現場の状況(特に、ガス漏れ、悪天候など、危険を伴うと思われる状況)などを落ち着いて伝えること。
電話は、先方が切るまでは繋げておく。救急車の到着まで指示が受けられるし、その後の状況の変化を先方へ報告することもできる。

機械の指示に従うだけ。
誰でも使いこなせるAED

AED(Automated External Defibrillatorの略で、日本語では、自動体外式除細動器とされる)とは、心臓が痙攣して血流を促すポンプ機能を失った状態(心室細動)になったときに、電気ショックを与えて正常なリズムに戻す医療機器だ。倒れている人に意識がなく、呼吸停止状態、または呼吸に異常がある場合に使用する。空港やショッピングセンターなど公共の場でもAEDがあることを示すサインを見かけることは多い。
スイッチを入れれば音声による指示が始まるので、その声に従えば、誰でもAEDが使いこなせる仕組みになっている(英国では指示は英語)。心臓の状態はAEDが解析し、電気ショックが必要かどうかを判断してくれるので、誤使用の心配もない。
AEDから細かい指示が出るとはいえ、覚えておくとよい注意点としては…
■AEDの解析中は、機械が正確に状態を判断できるよう、胸骨圧迫(心臓マッサージ)は止め、対象者には触れない。
■電気ショックを与える際には、対象者から離れるように機械から指示が出るが、自分でも声に出して繰り返し、周囲にも促す。
■電気ショックを与えた後にはまたすぐに、CPRを再開する(AEDのパッドはつけたまま)。
■電気ショックは不要と判断されても、回復したという意味ではない。CPRの継続は必要。
■患者の体が濡れていたら、パッドを貼り付ける前に水分をふき取る。
■1歳未満の赤ちゃんには行わない。8歳未満の子供には子供用のパッドを使用(なければ大人用で代用可)。

最初の数分間が決め手!基本の救急対応
プライマリー・サーベイ

倒れている人を見つけてから応急手当てを施すまでの救急対応(英語ではPrimary Surveyという)は、「Danger(危険)」→「Response(反応)」→「Airway(気道)」→「Breathing(呼吸)」→「Circulation(循環)」の5つの手順に従う。それぞれの頭文字をとった、「DRABC(ディー・アール・エイ・ビー・シー)」がキーワード。「DRABC」は、どんなに小さな事故であっても、状況の深刻度にかかわらず常に遵守されなければならない。

Danger: 危険の確認

倒れている人がいたら、近づく前にまず、周囲に危険がないことを確認する(倒れた原因がまだ、そこにあるかもしれない)。誰かを助けようとして自分もケガをすることは絶対に避けなければならない。交通量の多い道路を渡るときぐらいの注意深さが必要だ。
危険を及ぼす恐れがあるものは先に排除する(感電の恐れ→電源を切る/ガス中毒や酸欠→窓を開けるなど)。負傷者が発生した原因がまだ残っていたり、原因が不明であったりと、自分自身の安全が確保できないと思われたら、専門家が到着するまで近づいてはならない。
倒れている人には頭側から近づかないこと。声をかけるときも必ず、顔の正面から。
負傷者の動きは最小限にとどめる。やむを得ない場合を除いては、救急隊員が来るまではなるべく移動させない。首の損傷がある場合、顔の向きを変えさせることで悪化させてしまう可能性があることも覚えておきたい。

Response: 反応を見る

安全を確かめて倒れている人に近づくことができたら、まずは意識の有無を確認する。名前を呼んだり、「目を開けて」、「聞こえますか」などと語りかけたりする。または、肩や鎖骨の下を軽く叩いて反応を見る(赤ちゃんの場合は足の裏をはたく。また、手を叩く音で反応を見る)。絶対に体をゆすぶらないように(特に赤ちゃんの場合は厳禁)。
反応の段階は、AVPU(Alert:注意喚起、Voice:声に反応、Pain:痛みに反応、Unresponsive:反応がない)の4つに分けられる。反応がないときは要注意。大きな声で助けを呼ぼう。他に誰かがいれば、その人に助けを呼んでもらう。

Airway: 気道の確保

意識を失っている場合、舌が気道を塞ぐことがある。気道が塞がっていると肺に空気が入らず、呼吸ができない。気道を確保すれば、誤って何かを飲む事故も防げる。

■大人と子どもの場合
①倒れている人(仰向け)の傍に膝をついて、片手を額に置き、口が少し開く程度に頭を後方へ傾ける。
②もう片方の手の人差し指と中指を倒れている人の顎の下に置き、気道が確保されるように顎先を引き上げる。顎の下のやわらかい部分を指で圧迫しないように気をつけよう。
※赤ちゃんの場合は、やさしく、そっと行う。強く押しすぎないように。

Breathing: 呼吸の確認

気道を確保したら、倒れている人が正常に呼吸しているかを確認する。
①対象者の口と鼻のすぐ上に自分の頬を近づける。
②呼吸音を聞く、胸の動きを見る、息を感じるなどで、呼吸を確認する。確認は10秒以内で。10秒間に3回の呼吸ならOK、2回以下なら要注意。心臓が停止すると、2〜3分の間、苦しげな呼吸(短くて断続的な、喘ぐような呼吸)がみられることがよくある。これも頭に入れておこう。
③―1 呼吸をしていない、または、呼吸に異常が感じられるなどの場合は、CPR(心肺蘇生法)を行う。
999か112に電話をして、救急車を呼ぶ(他に誰かいれば、その人に頼む)。可能であれば、AED(自動体外式除細動器)を手配する。
③―2 呼吸が正常なら、ケガに応急手当てを施し、回復体位(Recovery Position)に動かす。途中で呼吸が荒くなったら、応急手当ては中断して、先に回復体位へ動かしてから、応急手当てを再開する。

Circulation: 血液循環の確認

ここでは「出血の有無」を指す。大量の出血は、ショック症状を引き起こす可能性があり、生命にもかかわる。正常な呼吸が確認できたらすぐに、出血しているところがないか、全身を確認し、出血があれば止血を行う。感染症予防のため、傷口には直接触れない、自分の体に開いた傷がある場合は布か絆創膏で覆っておくなど、衛生面に気をつけること。
※止血の方法や下で紹介するCPRの方法など、詳しくはセント・ジョン・アンビュランスのウェブサイト(www.sja.org.uk)の「First aid skill finder」を使えば、動画が検索できる。わかりやすいのでおすすめ。

CPR(心肺蘇生法)とは?

呼吸が不自然で、心臓が止まっているとみられる人へはCPR(心肺蘇生法)を行う。CPRは、「胸骨圧迫30回」と「人工呼吸2回」を交互に、呼吸が戻るまで、または、救急車が到着するまで繰り返す。大切なテクニックなので、わかりにくい場合は、手順を説明する動画(www.sja.org.uk)を参考にしてほしい。

●胸骨圧迫による心臓マッサージ

※以下は大人対象
①対象者を仰向けにし、傍らに両膝をつく。
②対象者の胸の真ん中(胸骨下部)に片方の手の付け根が当たるように置き、その上にもう片方の手を指を絡めて、しっかりと重ねる。
③肘をまっすぐに伸ばした状態で、体重を使って垂直に5〜6センチ、胸骨を押し下げてから、元に戻る。この動きを、1分間に100〜120回くらいの速さで、30回、繰り返す(映画『サタデー・ナイト・フィーバー』で有名なビージーズのヒット曲『ステイン・アライヴ Stayin’ Alive』 が毎分103ビートであるため、テンポの参考に使われることも多い)。戻るときに手の付け根が対象者の胸から離れないよう注意。胸骨圧迫を30回、繰り返したら人工呼吸へ。

●人工呼吸

※以下は大人対象
①片手の指2本で対象者の顎を引き上げ、気道を確保。
②口の中に邪魔になるものがあれば、排除する。ただし、指でむやみにまさぐったりはしないこと。
③片手の指で対象者の顎を支えたまま、もう片方の手の親指と2指で対象者の鼻をそっとつまんで、息が漏れないようにする。
④息を吸って、対象者の口に1秒間をかけて、ゆっくりと、対象者の胸が少し膨らんで上に上がる程度に、息を吹き込む。このとき、息が外に漏れないよう、対象者の口を自分の口でしっかりと覆う。
⑤胸の位置が戻るよう、力を緩める。2回の吹き込みのあと、胸骨圧迫へ戻る。胸骨圧迫が10秒以上中断されることのないように気をつける。

回復体位への動かし方

対象者を仰向けにして、気道を確保し、呼吸ができていることを確認した後、対象者の足はまっすぐに伸ばす。自分側にある対象者の腕を肘を90度に曲げた状態の『バンザイ』の形にする。自分より奥にある対象者の足をとり、膝を立てた状態にし、その膝と、同じ側の肩を持ち、テコの原理で手前に転がす。そのとき、上になっているほうの手の甲を対象者の頬の下にいれ、枕代わりになるようにする。息がしやすい角度に頭を少し動かし、無理のない、安定した形になっているかを確認する。

半日講習体験レポート
あなたもファーストエイダーに!

いざという場面で少しでも落ち着いて対応できるようになるには、実際にファーストエイドの講習を受けて実習を経験しておくことがおすすめ。
英国ではファーストエイド講習を行う団体のうち、英国赤十字社(British Red Cross)とセント・ジョン・アンビュランス(St John Ambulance、以下SJA)がよく知られている。
SJAは、1887年に英国で設立された、ファーストエイドの普及を目的とするボランティア団体で、世界各国にも支部を持つ。英国内だけで240ヵ所以上で講習を実施しており、毎年40万人以上がSJAの講習で学んでいるという。
SJAの講習は種類も豊富なのだが、その中から今回は、大人から子供、赤ちゃんまでを対象とした応急救護手当てをたった3時間で学べるという一般人向けの基本コース、「Essential first aid all ages」を受講した。

「助けになる人」か「ヤジ馬」か

まずは、事故に遭遇したときの注意点を講習参加者で考えるため、短い映像を見る。場面はゴルフ場で、ある男性が倒れている人を発見。状況と状態を把握し、電話で救急車を呼ぶのだが、そこへゴルフ客が「邪魔だから、早くどいて」と文句をつけてくる…という寸劇だ。
映像の男性は終始、冷静沈着で、自己中心的なゴルフ客のこともうまくあしらっていたが、自分なら慌ててしまってパニックに陥るかもしれないし、そんなときに非協力的な人がいたらキレてしまいそうだ。逆に、もし、乗っている電車が急病人のために長い間止まったら、自分だって「病人はとりあえず移動させて、発車してくれないかな、急いでいるのに!」と心の中でつぶやくかもしれない。講師によれば、救急救命に携わる側からみると、人々は大きく分けて「助けになる人」と「ヤジ馬」の2種類なんだそうだ。前者になれるよう、これから3時間、がんばらなくては。

わかりやすく、楽しいトークで参加者に根気強く指導してくださったトロイ・ベル先生。3時間があっという間に過ぎていった。

頭では理解していても実際は違う…

ファーストエイドの要である救急対応の第一段階、「プライマル・サーベイ」と回復体位(詳細は右ページを参照)を、実習を交えて学ぶ。当然のことながら、読んで理解するのと実際にやってみるのとではかなり勝手が違う。安全確認を行うにしても、助けを呼ぶにしても、緊迫した状況で落ち着いて行えるか、素人には心もとない。動けなくなっている他人の体に触ったり、動かしたり、というのにも、抵抗がある。実際に目の前で急に人が倒れたら、本当に自信を持って助けにいけるだろうか、という不安が消えない。
一方で、講師からは、助ける方もとまどいがあれば、助けられる方にもいろんな事情があることも考慮するように教えられた。見知らぬ人に助けられたり、触られたりすることに抵抗がある人や不安を感じる人もいる。人種のるつぼのロンドンでは、宗教の違いによる事情もあるかもしれない。講習では、「ファーストエイドの知識と居合わせた人の行動する勇気」の重要性が強調される一方で、「できないことやできることの限界も知り、その上で代わりに何ができるかを模索する」ことの大切さも説かれる。例えば、倒れている人に実際に触れることができなくても、質問したり、言葉で誘導したりすることで、救護が可能だ。

想像以上に体力を使う心臓マッサージ

続いて、上半身だけのマネキンを使って、CPRの実習。胸骨圧迫と人工呼吸を学ぶ。脳は3〜4分間の血流の停止で重大な損傷を受けるとされ、救急車が到着するまでの間にCPRが行われたかどうかで、倒れている人のその後が左右されると言われている。1分間遅れるごとに10パーセントも生存率が落ちるという数字もあるらしい。CPRは、呼吸も心臓も止まっていると見られる人の脳への酸素供給を維持するための、大切な救命処置なのだ(CPRの詳細は上ページを参照)。
胸骨圧迫による心臓マッサージでは、とにかくコンスタントに力強く、押し続けなければならないので、体重をうまく使っても、かなりの体力を使う。私など最初の30回でバテバテだ。これはひとりに任せず、居合わせた人たちで交代で行うべきだと身を持って知った。また、こんなに力を入れて押し続けたら骨が折れてしまうのではないかとも心配にもなるが、講師曰く、「酸素を脳に送り続けることが最優先」ということだった。赤ちゃんが対象の場合はもちろん、優しく、指先だけで押す。練習用の赤ちゃんマネキンの胸部も柔らかく作られていて、リアルな練習ができるようになっているのには感心した。 

心臓マッサージは、対象者によって力の加え方がまったく異なる。大人の場合=写真左、想像以上に体力を使った。
そして、おそらく、多くの人が抵抗を感じるであろう人工呼吸。実習ではマネキン相手であり、練習前にマネキンの口元を消毒ワイプで拭きとれるのだが、実際の現場ではそうもいかない。感染症を予防するための人工呼吸用マスクもあるのだが、いざというときにそんなものを持ち合わせているとも思えない。しかし、最近は人工呼吸への抵抗からCPRを避ける人がいることを懸念して、「抵抗がある場合は無理はせず、胸骨圧迫を行うだけでもよい」という指導もされているそうで、少し気が楽になった。
その他、講習では、ノドを詰まらせた人の助け方、狭心症と心筋梗塞の違いとそれぞれの対応、出血の手当てと出血場所による休ませ方の違い、包帯や三角布の使い方などなど、様々な状況を想定した体験ができる。「胸や太もものような平らな部分の止血にはクレジットカードをあてがってから包帯を巻くと良い」といった豆知識、持っていると役に立つファーストエイド・キットの話が聞けたのも、講習ならでは。講師は熱意にあふれていて、最後には、終了時間を過ぎているにもかかわらず、講習内容にはなかったAEDの使い方まで見せてくれた。ファーストエイドに関する本やアプリでは得られない体験ができ、自信もつくので、是非受講してみてはいかがだろうか。
今回受講したコース、セント・ジョン・アンビュランスの「Essential first aid all ages」は、オンラインから予約可能。メリルボンやロンドン・ブリッジなどで定期的に実施されている。30ポンド(VAT込み)。詳しくはwww.sja.org.ukでご確認を。

週刊ジャーニー No.918(2016年2月4日)掲載

【世界初のプログラマー】バイロンの娘 エイダ・ラヴレス [Augusta Ada King, Countess of Lovelace]

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バイロンの娘エイダ・ラヴレス

結婚記念に描かれた20歳のエイダ

米国防総省が使用するコンピューターのプログラミング言語「エイダ」にその名を残すエイダ・ラヴレス(Augusta Ada King, Countess of Lovelace)は、19世紀に活躍したロマン派の詩人バイロンの娘だ。
科学が著しい発展を遂げた時代に、愛情を満足に受けることが叶わず、父親ゆずりの芸術性と母親ゆずりの数学の才能に引き裂かれたエイダ。
今回は、「世界初のプログラマー」と呼ばれるようになったエイダの苦悶の生涯をたどる。

●サバイバー●取材・執筆/ 本誌編集部
【参考文献】ベンジャミン・ウリー 著、野島秀勝・門田守 訳『科学の花嫁 ロマンス・理性・バイロンの娘』法政大学出版局、別冊歴史読本『英王国恋物語』新人物往来社 ほか

父との20年越しの初対面

1835年12月、サリー県にある長閑な村オッカム。村の高台に建つイタリア様式の邸宅の大広間は、奇妙な静けさに包まれていた。時折、暖炉の薪がパチパチと爆ぜる音が、やけに大きく耳に響く。
暖炉の前には、凪いだ水面を思わせるような静かな表情でたたずむ、一人の若い女性の姿がある。本当に何も感じていないのか、それとも荒れ狂う激情を心の奥底に押し隠しているのか…。隣に寄り添う夫と、彼女の『監視』役を任されている医者は、緊張した面持ちでその様子をうかがっていた。女性の視線の先にあるのは、布で覆われた一枚の絵。暖炉の上に飾られたその絵は、彼女の母親から贈られた20歳の誕生日祝いとクリスマス・プレゼントを兼ねた品で、先ほど邸宅に届けられたばかりだった。
彼女にとって、この絵との対面は待ちに待った瞬間だった。レスターシャーにある幼少期を過ごした屋敷の暖炉の上に飾られていたが、分厚い布で覆い隠されており、一度も実際に見たことはない。20年の歳月を経て、いま初めてベールが剥がされようとしていたのである。彼女は己の目に「彼」が映し出されたとき、一体どのような感情に襲われるのか、自分でも想像できなかった――。
この女性の名前は、のちのラヴレス伯爵夫人オーガスタ・エイダ・キング(通称エイダ・ラヴレス、英語読みではラヴレイスとなる)。そして秘されてきた絵は、生後5週間で別れたエイダの父親、類まれなる詩才と数多の女性たちとの恋で名を馳せた詩人バイロンの肖像画であった。放蕩者だった父親の血を一滴も残さずに抜き取り、理性的で合理的な人間となるよう、母親により厳格に教育・管理されてきたエイダ。その苦闘の生涯をたどる前に、まずは彼女の両親が出会った日までさかのぼってみよう。

頭がい骨で乾杯する男

エイダが初めて目にした25歳の父バイロンの肖像画。
アン・イザベラ・ミルバンク(通称アナベラ・ミルバンク)は1792年5月17日、イングランド北部ダラム郊外にて、準男爵の一人娘として誕生した。両親は娘の教育に金銭を惜しまず、ケンブリッジ大学の教授を家庭教師として雇い、同大の学生と同様のカリキュラムを組むように指示したという。そのため、アナベラは刺繍や音楽、ダンスといった貴族の淑女が身につけるべき嗜みではなく、哲学、科学、数学などを学習。こうした教育は彼女に広い知識をもたらす一方、強い自尊心も育てることになり、頭も心も無類に固い女性へと成長していった。
一方、ジョージ・ゴードン・バイロンは1788年1月22日、ロンドンで陸軍大尉の父と後妻のあいだに生まれた。バイロンの父は「気狂いジャック」という異名をとるほど酒癖が悪く、浪費家としても有名だった。家庭内ではけんかが絶えず、多額の借金を残したまま、バイロンが3歳のときに放浪先のフランスで死去。以後、精神疾患を患う母とともに、スコットランドで慎ましく暗い幼少期を過ごした。
事態が一転するのは、バイロンが10歳を迎えたときのこと。男爵の大伯父が亡くなり、バイロンのもとへ爵位が転がり込んできたのである。バイロンは所領のイングランド中部ノッティンガムシャーの邸宅「ニューステッド・アビー」に移り、ロンドンの寄宿学校、そしてケンブリッジ大学へと進学した。しかし残念なことに、数々の抑圧から解放された彼は、一気に「父親の血」を目覚めさせてしまう。学業を顧みずに世界中を放浪し、学友たちとニューステッド・アビー近くの墓地から発掘した頭がい骨でワインをあおって馬鹿騒ぎ。男女問わず多くの浮名を流し、賭博にも手を染めた。ところが、1812年に出版した詩編『チャイルド・ハロルドの巡礼』が発売から3日経たずに完売すると、世間の評価は一変。整った容貌と相まって、バイロンは一躍社交界の花形となる。
アナベラとバイロンが初めて顔をあわせたのは、この1812年に開かれた、ある社交パーティーでの席のことである。

左から、バイロンの妻アナベラ、バイロン、義姉オーガスタの肖像画。

崩壊の足音

貴族階級の未婚の男女にとって、社交パーティーは結婚相手を探す絶好のチャンスだが、アナベラとバイロンも1812年の社交シーズンの「注目株」だったようだ。とくにアナベラは、子爵である伯父が所有する多大な土地財産の推定相続人となっていたうえに、父はメルバーン子爵(のちにヴィクトリア女王に寵愛された首相メルバーン子爵の父)の妻の兄という、強力な縁故も持っていた。男性にとって、いかに「魅力的な物件」であったかが推察できるだろう。
アナベラのユーモアを欠いた尊大な態度は、バイロンの好みではなかった。しかし世にもてはやされる男性の目に留まる知性が、自分にはあると自負していたアナベラは、バイロンと積極的に言葉を交わし、急速に惹かれていった。他方、バイロンは彼女を聡明だと思うものの、それ以上の感情は抱かなかったようである。むしろアナベラのことを「哲学者 四角四面」と呼び、「僕らは決して交わることのない2本の平行線」と手紙で述べている。それゆえに、バイロンがアナベラとの結婚を決意したことには、驚きを隠せない。もしかしたら自身の借金返済と、当時戯れに関係を持った「気違いカーロ」ことキャロライン夫人の執拗な愛から逃れるため、力を借りたメルバーン子爵夫人(アナベラの叔母)との交換条件が「アナベラとの結婚」だったのかもしれない。
アナベラは自分を安売りしたくなかったのか、バイロンの求婚を一度は拒絶する。だが翌年から文通をはじめ、1814年秋に2度目のプロポーズを受諾。翌年1月2日、ダラム近郊にあるミルバンク家の邸宅「シーハムホール」で挙式した。このときアナベラは22歳、バイロンは26歳だった。

「危険な関係」と復讐の女神

幸福の絶頂で、確信していた未来が消え失せ、その人生がどす黒い影を帯びていくとは、一体誰が想像しえただろうか。
ロンドンに戻ると、バイロンは怒りっぽく辛辣で気まぐれな夫へと突如変身した。酒に溺れ、アヘンを服用し、さまざまな女性と夜を過ごす。なかでもアナベラがどうしても許容できなかったのは、バイロンの4歳年上の異母姉オーガスタとの関係だった。

幼少時のエイダ。
オーガスタは、バイロンにとって理想の女性だったに違いない。朗らかで茶目っ気があり、平凡だけどよく笑う。アナベラとは対極に位置する人物だったと言えよう。アナベラはオーガスタを本当の姉のように慕ったが、徐々にバイロンとのあいだに自分が入り込むことができない「親しさ」があることに気づく。そして耳にしたのが、2人の近親相姦疑惑に加え、1814年に誕生したオーガスタの末娘が「バイロンとの子」という噂であった。正直なところ、この噂の最初の出所はバイロンにかつて捨てられたキャロライン夫人であり、信憑性が高いとは言いがたい。だが、もし「危険な関係」が事実ならば、バイロンが自分に残酷な理由が納得できる…。アナベラは、これを真実と信じた。いや、そうすることによって、おそらく自分の受ける仕打ちを理論的に意味づけようとしたかったのだろう。
1816年1月、アナベラは5週間ほど前に生まれた娘のエイダとともに、両親がいるレスターシャーの屋敷へ居を移す。これが彼女とバイロンの永遠の別れとなった。同年4月、近親相姦や同性愛(当時は死刑に値する犯罪だった)といったスキャンダルにより社会的信用を失ったバイロンは、アナベラからの別居同意書(生涯離婚はしなかった)にサインした後、英国をあとにした。
このときから、アナベラの苛烈な復讐劇の幕があがった。バイロンに対する自分の記憶や他の人々の証言を記録し、バイロンからの手紙も収集しては、彼の堕落ぶりを広め続けた。とくにオーガスタ宛の手紙はすべて検分して克明に写し取り、返信もほとんどさせなかったという(これらの資料は「ラヴレス文書」として現在も保管されている)。バイロンは36歳でギリシャにて熱病にかかり、瀉血が原因であっけなく世を去った。

バイロンとアナベラが結婚した邸宅
シーハムホール・ホテル&スパ

ダラム近郊の町、シーハムの海岸線にたたずむ「シーハムホール」は、バイロンの妻アナベラの実家、ミルバンク家が所有する邸宅のひとつであり、1815年1月2日、バイロンとアナベラが結婚式を挙げている。現在はジョージア朝の伝統とモダンな快適さを併せ持つ5つ星ホテルとなっているが、挙式した部屋は「バイロン・ルーム」と名付けられ=写真下、会議などで使用する多目的ルームとなっている。

Seaham Hall Hotel & Spa
Lord Byrons Walk, Seaham, County Durham, SR7 7AG
Tel: 0191 516 1400 www.seaham-hall.co.uk

孤独な虜囚生活

チャールズ・バベッジと、「階差機関」の一部の設計図。現在、サイエンス・ミュージアムで開催中のミニ・エキシビション「Ada Lovelace」にて、実物を展示中(2016年3月末まで、入場無料)。
さて、母娘二人三脚での生活が始まるかと思いきや、お気に入りの温泉や海辺の保養地めぐりに忙しい母に代わり、エイダは祖母の手で育てられた。愛情深い祖母に懐きながらも、エイダは物心ついたときから、自分が監視されているのを感じていた。そして何より不思議に思ったのが、暖炉の上に覆いをかけて飾られている絵だ。エイダは母と一緒に庭を散歩していたとき、一度だけ尋ねてみたことがある。
「どうして私にはパパがいないの?」
そのときの母の顔は今でも時折夢に見るほどに恐ろしく、エイダが二度とこの話題に触れることはなかった。それは以前、「どうして、私をファーストネームの『オーガスタ』ではなく、セカンドネームの『エイダ』って呼ぶの?」と質問したときと同じ表情で、自分の名や暖炉の上の絵は、おそらく父に由来するものなのだろうと理解したのである。しかし、7歳のときに祖母が亡くなると、その絵も倉庫に片付けられてしまう。ミルバンク家において、忌まわしいバイロンの名は「禁句」であった。
家庭教師による教育がはじまると、アナベラは初めてエイダに関心を示した。ところが、耳にする娘の様子は「興味のある授業以外ではわがままで、注意力も散漫。ただ想像力は人一倍優れている」というものであった。アナベラはその報告を聞き、大きな不安がこみ上げてくる。「もしやバイロンの気質が表に出はじめているのだろうか? 絶対にあの男のような人間にしてはいけない…」。想像力の発達を抑制し、自制心のある理知的な性格に育つよう徹底的に管理し、数学や科学を学ばせることを決める。
13歳になったエイダは、孤独の中で日々を過ごしていた。教育に携わる4人の家庭教師は、母が信頼する独身の友人たちで、「魔女集団」のようだった。数人で常にエイダに張りつき、監視していたという。余計なことを吹き込まれないように、使用人や同じ土地の住人とも親しく会話を交わすことは禁止されていた。相変わらず母は屋敷に戻らず、時折思い出したように届く手紙だけが、心のよりどころだったであろうことは想像に難くない。
皮肉なことに、そうした虜囚生活は、かえってエイダの空想力をたくましくしていった。窓から空を飛び回る鳥を眺めては、自由に飛行する自分を思い浮かべたのだろう。ある日、突拍子もないことを思いつく。「私が『伝書バト』のようになれば、馬車よりも遥かに早くお母様の手紙を取りに行けるわ!」。彼女は早速、巨大な紙製の翼の設計にとりかかる。屋敷内に実験室を用意し、ロープ、滑車、クレーンといった用具一式もそろえた。鳥の翼を研究するために解剖学、空を知るために天文学も学びはじめたのだった。
ところが、勉学への興味は唐突にやんだ。謎の病魔に襲われたのである。最初は「はしか」だと思われたものが、やがて彼女の目と手足まで広がっていき、目はほぼ光を失って手足は麻痺。一日の大半を横たわって過ごす生活となってしまった。医者からは精神的な病と診断され、これ以後、エイダは生涯を通して身体的不調や精神的発作に悩まされることになる。

科学への目覚め


1843年、キングス・カレッジ・ロンドン内にあったジョージ3世ミュージアムにて、「解析機関」が公開されたときの様子。
治療のためにロンドンを転々としていたエイダだが、17歳になるころには身体の症状も落ち着きを見せてくる。
1833年、ロンドンの社交界では数学者のチャールズ・バベッジの自宅兼仕事場で行われる「夕べの集い」が、大きな話題となっていた。これは、当時42歳を迎えようとしていたバベッジの仕事の成果を発表する場で、社交界デビューを控えるエイダは初めての公の場として、この集いに出席した。今回の目玉は、「階差機関(Difference Engine)」と呼ばれる世界初の自動計算機の試作品だった。数本の頑丈な真鍮の柱と、上下2枚の金属板のあいだには、たくさんの歯車がある。歯車の周縁には数字が刻まれており、レバーをまわすと、歯車と数字が動く仕組みだ。招待客はこの「考える機械」と呼ばれた驚異的な発明品に度肝を抜かれたが、エイダの身体を走り抜けたのは、衝撃ではなく啓示であった。
「これこそ、私の進むべき道だわ!」
想像したことのない新しい世界に、かつて飛行を夢見た少女の胸は高鳴った。父の不在も、孤独な幽閉生活も、謎の病気も、すべてここにたどり着くための定めだったのかもしれない…。エイダは数学や科学の研究に再び打ち込みはじめた。
時代はエイダに味方する。産業革命により科学技術が急進的な発展を遂げており、研究対象には事欠かなかった。当時「科学の女王」と讃えられていた数学者のメアリー・サマヴィルと知り合ったエイダは、彼女の協力で入手した蒸気機関に関する論文を書き写したり、蒸気機関車や映写機を見学したりと、知識を蓄えていく。やがて尊敬するバベッジとも連絡を取り合うようになった。1835年7月には、サマヴィルの息子の友人で、11歳年上の第8代オッカム男爵ウィリアム・キングと結婚。エイダは19歳だった。

父が遺した愛情

この結婚はロマンチックな愛情によるものではなく、利害が一致した結果であった。エイダは母の監督下から解放されたかったし、ウィリアムにとっても、彼女がいずれ相続する豊富な資産を別にしても、非常に魅力的な――まさしくバイロンの血を受け継ぐ女性だった。社交的で、ときには馴れ馴れしく、ときには底抜けに明るい性格、滝のように流れ落ちる豊かな黒髪と潤んだ大きな目は男性を引きつけた。
また、キング家の邸宅の書棚には、バイロンの著作集が収蔵されていた。エイダは生まれて初めて、誰にも監視されずに父の作品を手にすることができるようになる。ある朝、彼の著作を読んでいたエイダはひとつの詩を目にし、ページをめくる手を止めた。

かわいい我が子よ!
お前の顔は母親似だろうか?
エイダ! 我が家 我が心の一人娘は?
最後に見たお前の青い目は、
微笑んでいた
別れ別れになったあのときには
今のような別れではなく、
まだ一縷の望みがあったのだ
(『チャイルド・ハロルドの巡礼』第3詩篇より)

エイダの頬を一筋の涙が零れ落ちていった。彼女のもとに母から贈り物の絵が届き、ついに父の顔を見ることが許されたのは、この5ヵ月後である。
この絵との対面の瞬間について、エイダの様子が記述された書物は残されていない。つまり、監視役として送られていた医者にしても、アナベラに報告するほどの醜態をエイダは晒さなかったのだろう。エイダの中に呪われるべき血の片鱗がないことが確認されたのだ。でも、本当にそうだったのだろうか? その答えが判明するのは、もう少し先のことである。

プログラマーの誕生


1838年、夫がラヴレス伯爵位を受爵し、伯爵夫人になったころのエイダ。
神経麻痺を患って以降、エイダは自分の身体に対して、一時たりとも安心感を抱いたことはなかった。3人の子どもを無事に出産したものの、2人目を生んだ後にコレラを発症。これが引き金になったようで、一定のサイクルで数ヵ月にわたって寝たきり状態を繰り返すようになった。
さらに、母が厄介事を運んでくる。近親相姦の末に生まれたとされるバイロンとオーガスタの娘が、未婚で子どもを抱えたまま、フランスで肺結核にかかったという報であった。母親のオーガスタと上手くいっていなかったこの娘は、なんとアナベラに助けを求めたのである。アナベラは自分の優位性を確認しようとフランスへ渡ったが、ある意味、この娘の方が「うわて」であった。衰窮した哀れな姿を見たアナベラは、彼女を英国へ連れ帰った。憎い女の娘を完全な支配下に置いた満足感と、少しの同情心が混ざり合った結果だったと推測できる。アナベラはエイダにも「哀れな義姉」と親しくするように伝えてきた。結婚後、父について詳細に調べていたエイダは、突然の内実暴露にも驚かなかったが、精神状態は悪化し、うつ病が深刻化していった。熱に浮かされたように科学の世界に没頭し、夢中になりすぎて昏倒することもあった。
1842年にバベッジがイタリアで行った、階差機関を改良した解析機関(Analytical Engine)の公演内容について、フランス語の論評が発表された。英国の科学雑誌『テイラー科学論集』は、英訳記事を掲載しようと翻訳者を探したところ、名が挙がったのがエイダである。責任重大な仕事の依頼に、彼女は師弟のような関係となっていたバベッジに相談。すると彼は、こう答えた。
「解析機関の構造や機能について、自分なりの詳細な注釈をつけたらどうだい?」
エイダにとって、これは大きな挑戦となった。当時、この驚異的な機械について本当に理解できている研究者はいなかった。それを説明するには、数学の概念のほか、機械工学や計算機の相互的関係にまで立ち入らなくてはならない。バベッジに協力を仰ぎ、病で研究を中断させながらも翌年、エイダは記事を完成させた。注釈は翻訳した本文の2倍の分量になり、「研究論文(メモワール)」と呼ばれることになる。65ページにおよぶ論文は好評を博し、また世界初の解析機関のプログラム・コードが解説されていたことから、のちにエイダは「世界初のプログラマー」と呼ばれるようになる。

プログラミング言語 エイダとは?

1980年12月10日、米国防総省はエイダの功績に敬意を表し、新しいコンピューター・プログラミング言語を「エイダ(Ada)」と名づけた。MIL規格番号(MIL-STD-1815)は、彼女の生年にちなんでおり、発表日はエイダの誕生日であった。「Ada」は多彩な言語機能と高度な言語体系を持ち、航空機のボーイング777や、F-22戦闘機=写真=の制御ソフトウェアは「Ada」によって書かれているという。飛行に憧れた少女の夢は、150年を経て叶ったと言えるのかもしれない。

母との決別


バイロンとエイダの眠る、聖メアリー・マグダレン教会。最期まで「バイロン卿夫人」を名乗り続けたものの、娘の葬儀には出席しなかったとされるアナベラは、ロンドンのケンザルグリーン墓地に眠る。
1850年、34歳になったエイダは、バイロン家代々の邸宅であったノッティンガムシャーのニューステッド・アビーを夫と訪れる。ここはバイロンがワインを満たした頭がい骨を片手に馬鹿騒ぎした場所であり、死の数年前に借金返済のために手放していた。館はバイロンの寄宿学校時代の級友に買い取られ、バイロンの肖像画や胸像はもちろん、寝室でさえ当時のままに保持されていた。エイダはこの館に足を踏み入れたときの感動を、母にこう書き送った。
「ここを訪れたのは、私の人生において最良のことでした。この場所について抱いていた途方もない、荒涼とした思いは消え失せました。今は古くからの由緒あるこの場所を、私の父、祖先たちすべてを心から愛しています」
エイダから母への挑戦状と言ってもいいだろう。人生の大半を母に操られて生きてきたが、一生続くかと思った催眠状態から揺り起こされたのだ。アナベラはショックを受け、エイダを責め立てる手紙を次々と送りつけるが、エイダは揺るがなかった。義姉の騒動から母とは疎遠になっていたが、母娘が決定的に道を違えた瞬間であった。
翌1851年、解析機関をベースにした自動機械のゲームを考案すると同時に、ゲームの勝率を定式化しようと試みていたバベッジに、エイダは協力を申し出る。そして自分の中の「もうひとつの面」に対する恐怖が消え、心が求める情熱に身を任せることを決めたエイダは、親しい友人たちを集め、数学を用いて勝率を計算しながら競馬場に繰り出す。案の定、競馬の魅力にはまった彼女は多額の負債を抱え、やがてグループ内の一人と情事にも溺れるようになる。ついにバイロンの血が姿を現したのであった。損失は3200ポンド(現在の50万ポンド、約8000万円)にのぼり、エイダは代々受け継いできた宝石を売却、愛人も離れていった。
さらなる黒い影がエイダを襲う。子宮がんである。1840年代後半から突然の発作や激痛で倒れることが増えていたが、うつ病を患っていたこともあり、アヘンチンキ治療しか施されておらず、発覚したときには末期だった。1852年11月27日、ロンドンの自宅にて瀉血治療により死去。享年36、奇しくも父と同じ年齢での死だった。エイダは死の床で、「自分の亡骸は父の傍らに葬ってほしい」と頼んだという。夫はこの言葉を守り、ニューステッド・アビー近くにある聖メアリー・マグダレン教会のバイロン家代々の地下納骨堂に葬られた。
世界が大きく変貌した時代に、父と母の才能と愛憎に翻弄されたエイダは、まさに旧時代と新時代を体現した女性だったと言えよう。幸福とは言い難い人生を送ったエイダだが、後世になって、その業績は高く評価されるようになった。そのきっかけとなったのが、現代のコンピューターの基礎をつくったと言われる数学者のアラン・チューリングである。第二次世界大戦時に、ドイツの暗号機「エニグマ」を解読し、1936年に自動計算機の模型「チューリング・マシーン」を考案した彼は、エイダの論文を読み、解析機関のプログラム・コードを100年前に生み出していた彼女に感心したという。スキャンダルまみれのバイロンの娘としてではなく、現代におけるコンピューターの発展に貢献した人物として、エイダはいまや世界中でその功績が認められている。


週刊ジャーニー No.922(2016年3月3日)掲載

今回は、

近代国家への一太刀 【実録】生麦事件{前編} [Namamugi Incident]

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近代国家への一太刀 【実録】生麦事件{前編}
幕末に薩摩藩士が英国民間人を殺傷したという「生麦事件」―。
当時の日本で立て続けに起きていた外国人殺傷事件の中でも、この事件が歴史の教科書で扱われるほど重要なのはなぜか?薩英戦争を引き起こし、倒幕、明治維新へと日本が近代国家への道を歩むに至るきっかけとなった「生麦事件」を前編と後編の2回にわたって検証する。
※リチャードソンの遺体(1862年撮影)

●サバイバー●取材・執筆/黒澤 里吏・本誌編集部
※本特集は、2009年3月5日号に掲載したものを再編集し、2号に分けてお届けしています。



【参考文献】『生麦事件』(吉村昭著・新潮社刊)
【参考ウェブサイト】www.tokyo-kurenaidan.commiraikoro.3.pro.tok2.comほか
【取材協力】生麦事件参考館
*同館館長の浅海武夫氏には多大なご協力をいただきました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。


1862年9月14日(旧暦の8月21日)、日本が近代国家へと生まれ変わる鍵となる、「小さな大事件」が起こった――。

運命の遭遇

どこまでも青空が広がる、快晴の日曜だった。横浜の貿易商ウィリアム・マーシャルは、2ヵ月ほど前より香港から訪ねてきていた義妹マーガレット・ボラデイルに日本の美しい景色と文化を楽しんでもらおうと考え、遠乗りに誘ったところ、乗馬好きのボラデイル夫人は二つ返事で了承。そこでせっかくだからと、マーシャルの遊び友達のウッドソープ・チャールズ・クラークにも声をかけると、彼も即座に賛成した。さらに、クラークの友人のチャールズ・レノックス・リチャードソンも誘い、4人で馬に乗って東海道散策に出かけることになった。
居留地の横浜村からボートで神奈川宿まで行き、そこから川崎大師を目指すという、外国人遊歩区域が定められていた当時ではお決まりの、風光明媚な人気コースだった。

生麦村への入り口の様子(1862年頃撮影)。
東海道の街道筋には茶屋や商店が並び、右手には海(現在の東京湾)が広がる。美しい景観を堪能しながらゆっくりと馬を進ませていた4人は、午後2時ごろ、生麦村に差し掛かった。道の両側に松並木が続き、藁葺き屋根の民家が並ぶのどかな村である。それにしても昼間だというのにやけに静かだ。気づけば、ついさっきまで道端で遊んでいた子どもたちも姿を消している。人々はなぜかすっかり家の中に閉じこもってしまっているようだった。
しかし、そんな変化もさほど気に留めず、4人はそのまま北東方面へと向かう。するとまもなくして、前方に陣笠をかぶった人々の行列が近づいてくるのが見えた。「大名だ」とマーシャルが鋭くつぶやいた。
日本の文化や慣習にさほど明るくない彼らでも、大名のことや攘夷派による外国人殺傷事件のことは話に聞いていた。しかしそれらの被害者は政治・外交関係者であり、民間人の彼らが突然、襲われるようなことはまずないだろうと踏んでいたのだろう。4人は武器を一切所持しておらず、ましてや、大名に対して下馬して敬意を表すなどといった知識は全く持ち合わせていなかったようだ。
それでも4人の中で一番年上のマーシャルは、噂に聞く大名行列(*1)を目の当たりにして緊張をおぼえ、他3人に道の端に馬を寄せて進むように指示した。 その時、リチャードソンが道の内側、ボラデイル夫人が外側で2列に並び、その約10メートル後ろにマーシャルとクラークが続いた。
4人が遭遇した大名行列というのは、薩摩藩主島津茂久の父、久光の一行。5ヵ月前に鹿児島城下を離れ、上洛して朝廷に幕政改革および公武合体を訴えた久光は、天皇より急進攘夷派を鎮撫するよう命じられてこれを遂行した後、勅使の大原重徳を警護して京から江戸に向かった。そして文久の改革(*2)を成し遂げた後、勅使に先立ち江戸を離れ、再び京へ戻るところだったのである。
4人はまず、先導組とすれ違う。駕篭の後に鉄砲隊が続き、みな一様に険しい目を自分たちに向けている。4人は彼らと目を合わせないように前を見据え、無言で馬の手綱を握りしめた。そしてどうにか難なくやり過ごし、安堵したのも束の間、それよりはるかに大規模な本隊の行列が迫ってくるのが見えた。今度ばかりはさすがに圧倒された4人だったが、それでもまだ危機感を感じるまでには至っておらず、そのまま馬の動きに身を任せて前進。しかし行列は幅7メートルほどの道いっぱいに広がっており、このまま行けば接触することは明らか。悲劇はすぐそばまで近づいてきていたのだった。

*1 大名行列―本来は、島津久光は藩主ではないので、「大名行列」とは呼べないのだが、ここでは便宜上、藩士たちの大行列を指し、「大名行列」と呼ぶことにする。
*2 文久の改革―1862年に江戸幕府で行われた人事・職制・諸制度の改革のことで、薩摩藩主の父・島津久光はその主導者のひとり。鎖国体制から開国への移行にともなう尊王攘夷運動の激化などの政治混乱をおさめ、幕政の改革、公武一和を真意とした。

① 生麦事件発生現場

当時の東海道筋で、生麦村のちょうど中間点にあたる、村田屋勘左衛門の営む質屋兼豆腐屋の前で事件は起こった。現在は、個人宅の前に説明板=写真=が設置されている。


② リチャードソンが贓物を落としたところ


③ 生麦事件石碑

リチャードソン落命の地。1883年(明治16年)12月28日、少年時代にこの事件を目撃し、事件の重大さを認識していた鶴見神社の宮司・黒川荘三が、異国の地で非業の死を遂げたリチャードソンの死を悼み、そして事件の風化を防ぎ、後世に伝えるため私費を投じて建てたもの。1911年(明治44年)8月21日の50年祭は黒川氏が独力で行ったが、1922年(大正11年)の60年祭は地域の人々と共同で盛大に行った。

④ 生麦事件参考館


⑤ 宗興寺

ヘボン博士の診療所だった場所。
ヘボン博士の正式名はジェームス・カーティス・ヘップバーン(James Curtis Hepburn、当時の日本人には、ヘップバーンがヘボンと聞こえたとか)=写真右。米国のプリンストン大学で学んだ後、ペンシルバニア大学で医学博士号を取得。ニューヨークで開業していたが、日本の開国を知り、1859年に宣教医として神奈川に上陸。以後、33年間にわたり日本に滞在した。日本語の研究も行い、ヘボン式ローマ字を生み出した。日本初の和英辞典の編纂を手がけたほか、聖書和訳にも従事。明治学院初代総理でもある(写真提供:明治学院)。


⑥ 甚行寺

当時、フランス領事館があった場所。

⑦ 浄瀧寺

かつて英国領事館があった場所。事件発生時には横浜の居留地に移転していたため、マーシャルらは米国領事館へ逃げ込んだと推測されている。

⑧ 本覚寺

マーシャル、クラークが助けを求めて逃げ込んだ場所。当時、米国領事館があった。

不幸な判断ミス

小姓組の男たちが、すれ違いざまに憤った表情で手を激しく降り、口々に「脇に寄れ!」と叫んでいた。しかし先を行くリチャードソンとボラデイル夫人は日本語がほとんど理解できない。内心動揺し、判断に迷っていたリチャードソンの手綱さばきが乱れ、その拍子に彼の馬がボラデイル夫人の馬に接触し、馬の足が溝に落ちた。すると馬は平静さを失い、意図せずして行列に入り込んでしまったのである。
そこに供頭の奈良原喜左衛門が血相を変えて駆け込んできて「引き返せ!」と怒号を浴びせた。
後ろに続いていたクラークは、さすがに危険を感じて「引き返そう」と大声で呼びかけ、それを聞いたリチャードソンとボラデイル夫人は慌てて馬首を返そうとするが、行列が道いっぱいに広がっているためうまくいかない。2頭の馬はますます深く踏み込んでしまい、行列の進行を完全に妨げてしまった。
奈良原は怒りに満ちた声で「無礼者!」と叫んで抜刀し、リチャードソンの左脇腹を深く斬り上げ、そのまま刀を返して左肩から斬り下げた。これを皮切りに4人の小姓組の侍がマーシャルたちを一斉に襲撃。激しい怒号と悲鳴があたりに響き渡り、鮮血が飛び散った。太刀を浴びた男3人は、それでも暴れる馬の首を必死に返してその場から逃れ、もと来た道を一目散に駆け戻る。
先にすれ違った先導組の行列がこの様子を遠巻きに眺めていたが、衣服を血で染めたクラークの馬が突進してくると、そのあまりにも激しい勢いに気圧され、道端に退いて道を開けた。ところがその後、右手で脇腹を押さえながら、うずくまるようにして馬に身を預けていたリチャードソンが通り抜けようという時、鉄砲組の久木村治休が道の中央にずいと踏み出して刀を抜き、すれ違いざまにリチャードソンに斬りつけた。久木村の太刀は、傷口を押さえていたリチャードソンの右手を落とし、さらにすでに斬られていた脇腹を再びえぐった。
続けざまにマーシャルの馬が近づいてくると、久木村は再び構えを見せたが、これに気づいたマーシャルが馬の鼻先を振り払って走り抜けたため、太腿をかすめる程度に留まった。一方、ボラデイル夫人は、女性とあって薩摩藩士もさすがに躊躇したのだろう、帽子を刀で飛ばされ、髪を切られただけだった。しかし恐怖で狂わんばかりの彼女は一心不乱に馬を駆り、真っ先に居留地にあるジャーディン・マセソン商会へ辿りつく。ボラデイル夫人から只事ならぬ事件の概要を聞きつけた商館の商人たちは、すぐさま英国公使館のニール代理公使のもとへと走った。

生麦事件の登場人物たち その1
事件を引き起こした当事者

Charles Lennox Richardson
チャールズ・レノックス・リチャードソン

1853年、20歳で英国から上海へ渡り貿易商を営む。62年、英国に帰郷する前に日本に立ち寄り、上海時代の友人クラークと再会、1ヵ月ほど観光を楽しむ。帰国予定日に船の機関故障により出港が2日遅れて時間を持て余していたところ、クラークらに誘われ遠乗りに参加、そのまま帰らぬ人となった。ちなみに上海時代は、中国人に対して粗暴な振る舞いを見せ、法に抵触するような商売を行うなど、商人としての評判は決してよいものではなかった。

Margaret Watson Borradaile
マーガレット・ボラデイル

香港で貿易を営んでいた英国人商人トーマス・ボラデイルの妻で、マーシャルの義妹にあたる。1862年、横浜に住む姉(マーシャルの妻)を訪ねて来日。乗馬好きで、時折、馬を借りては馬場を乗り回していた。事件後まもなくして帰国するが、事件の衝撃があまりにも大きく、以後、精神疾患に悩まされ、8年後の70年に逝去。

William Marshall
ウィリアム・マーシャル

上海、香港を経た後、横浜で絹輸入業を営んでいた英国人貿易商人。高い業績をあげ、周囲からの人望も厚く、居留地における委員会の委員長も務めていた。事件後も横浜に留まって商売を続け、1872年には新橋-横浜間の鉄道開通記念祝賀会において、外国人代表として明治天皇の前で祝辞を述べる大役を果たす。翌1873年、横浜にて46歳で逝去。

Woodthorpe Charles Clark
ウッドソープ・チャールズ・クラーク

日本における米国の総合商社第1号となった貿易商社「ハード商会」で、生糸の検査員として働いていた英国人。1860年に上海支局に派遣された際に、同郷のリチャードソンと出会う。マーシャルとはビリヤード仲間。事件後は肩に後遺症を負い、生涯左腕が上がらなくなったものの、後に居留地の消防士として活躍。1867年に33歳で逝去。

血にまみれた、波乱の前触れ

奈良原と久木村の2人から同じ箇所を深々と斬られたリチャードソンは、傷口から内臓が露出し、意識朦朧の状態となっていた。それでも彼は馬に身を預け、3町ほど進んでいく。そして「桐屋」という茶屋の前を通り過ぎた時、傷口からはみ出した臓腑が路上に落ちた。脇腹からはとめどなく血が流れ、顔にはすでに死相が浮かんでいた。意識はどんどん遠のいてゆき、やがて手綱を握っていた手も力を失って馬の動きが止まったと同時に、ついに落馬した。
リチャードソンの傷がひどいのを気にかけ、ボラデイル夫人とクラークに先に行くよう指示し、その場に留まっていたマーシャルも、落馬したリチャードソンを見て、もはやこれまでと判断。自身もかなり深手を負っており、リチャードソンの体を馬に戻す力など残されておらず、しかも、先ほどの侍たちが追ってくる可能性を考えると、恐怖で身が震え、やむなくリチャードソンに別れを告げた。
マーシャルは左腕、クラークは左肩に深い傷を負いながらもなんとか馬を走らせ、米領事館のある本覚寺に駆け込む。そこでヘボン博士の手当てを受け、どうにか一命を取り留めた。
現場にひとり取り残されたリチャードソンは、しかし、まだ息絶えたわけではなかった。マーシャルが去った後、わずかに残る力を振り絞り、近くにあった松の木まで体を這わせ、幹にもたれかかった。すぐ近くにあった水茶屋の女主人ふじが、この様子を恐る恐る見ており、リチャードソンは彼女に日本語で水を乞うたという。
そこに供目付海江田武次を含む数名の藩士たちが追いつき、瀕死のリチャードソンを発見、彼の体を畑に引き入れた。久光の行列が通る道に、血まみれの体を横たえておくわけにはいかないのだ。海江田は、苦悶の表情を浮かべるリチャードソンの顔を見つめ、もはや助かる見込みはないと判断。脇差を抜き、「今、楽にしてやる」と言い放ち、止めを刺したのだった。そして、路面についた血を洗い流した後、もと来た道を引き返していった。まもなくして村は再び静寂に包まれた。

生麦事件の登場人物たち その2
対応にあたった英国側

Edward St. John Neale
ジョン・ニール代理公使

英国の陸軍中佐として活躍するが、1837年に退役して外交官となる。清国の英国公使館書記官を経て、62年に日本の公使館書記官として来日。同年、休暇で帰国中のオールコックに代わって公使を務める。在任中、第二次東禅寺事件(松本藩藩士による暗殺未遂事件)で命を狙われる危機に遭い、さらに生麦事件、薩英戦争の勃発と多忙を極めるが、本国と連携を保ち、冷静に対処する。64年にオールコック公使帰任をもって帰国。

F. Howard Vyse
横浜領事ヴァイス大尉

生麦事件発生後、ニール代理公使の通達にも応じず警備兵を率いて現場へ赴き、居留地の外国人たちと集会を開くなど、独断で行動して公使と対立。この過激な行動が原因となり、後に函館領事に左遷される。1865年に同地でアイヌ墳墓盗掘事件(アイヌの人骨を盗掘して英本国へ輸送した事件)を計画、指示したとして処分され、罷免。

William Willis
ウィリアム・ウィリス医師

英国公使館付医師として1861年に来日。生麦事件の負傷者の治療や検死にあたった後、薩英戦争で英国艦船に同乗。戊辰戦争時には相国寺に薩軍臨時病院を設置し、負傷者の手当てに従事。1869年、31歳の若さで東京医学校(のちの東京大学医学部)の院長に就任するも翌年に退任、西郷隆盛や大久保利通らの斡旋により、鹿児島医学校(のちの鹿児島大学医学部)に赴任。81年に帰国するまで日本の医療システムの構築に多大な功績を残す。通訳として活躍したアーネスト・サトウ(詳細は次号参照のこと)とは生涯を通じて親友同士。

高まる報復の声

事件の知らせを受けて真っ先に現場へ向かったのは、医師のウィリアム・ウィリスだった。再び行列に遭遇し、同じ目に遭うかもしれぬ危険を冒してまでリチャードソンを救出しようとした彼の果敢さは特筆に価する。
そのころ、横浜は大変な騒ぎとなっていた。激怒する外国人商人たちは薩摩藩の行列に報復するため、公使館付の警備兵を出動させるようニール代理公使に詰め寄ったが、冷静なニールはそれを無謀な行為として拒否。納得のいかない商人たちが横浜領事ヴァイス大尉に掛け合うと、ヴァイスはこれを即座に受け入れて独断で警備兵を率い、現場へと向かったのである。
ウィリス医師とヴァイスらはやがて、リチャードソンの遺体を発見。事件発生から約3時間後のことだった。見るも無残に斬りつけられたその遺体は米領事館に運ばれ、3人の医師たちの手ですべての傷が縫い合わせられた後、場所を変えて検死が行われた。
事件に衝撃を受けた居留地の外国人たちは、久光一行に対して報復の念を募らせ、反撃を決議するための集会を開く。会議は白熱し、オランダやフランスも軍事行動を起こすことに賛成の意向を示したものの、英国の代理公使ニールだけはヴァイス領事と対立する形で反対し、最後まで慎重な姿勢を崩さなかった。
会議は深夜にまで及びながらも決議に至らず、翌日に持ち越されたが、最終的にニールの意向どおり、事件の処理を外交交渉に委ねる形で落ち着いた。
一方、久光の一行は、英国と一戦交える可能性も念頭に入れ、神奈川宿で休息する予定を変更し、保土ヶ谷宿に直行。また事件を幕府に報告するため、江戸薩摩邸に遣いを走らせて詳細を伝えた。これを受けた留守役の西筑右衛門は翌日、幕府に書状を届けるが、実際に手を下した侍の名は出さず、岡野新助という架空の藩士の仕業であるとした。彼のこの機転により、藩内でも将来有望とされていた奈良原、海江田、久木村の3人は切腹を免れたのだった。

英国側の要求

マーシャルとクラークが助けを求めて逃げ込んだ本覚寺。当時はここに米国領事館が置かれていた。
それまでにも二度にわたって英国公使館が襲撃される事件(東禅寺襲撃事件)が発生し、賠償金問題も解決していなかったところに生麦事件が起こったことで、英国側の反日感情は悪化の一途をたどり、一触即発の状態だった。本国からの訓令を受けた代理公使ニールは、幕府に対して公式謝罪と賠償金10万ポンドを、また薩摩藩に対して犯人の公開処刑と、リチャードソンの遺族への賠償金2万5000ポンドを要求し、これを拒否した場合は武力行使に出るとした。
10万ポンドといえば、現在の通貨に換算して18億円以上という法外な金額。英国側は日本から値引き交渉を受けた場合を想定し、駆け引きしていたとも言われているが、このような強気の態度で幕府と藩に迫った英国側には、実は非常に苦しい内情があった。というのも、当時、英国は清国との植民地戦争やロシアとのクリミア戦争で手一杯の状態。極東には戦艦を47隻しか配備しておらず、そのうち大砲を十分に搭載しているのはたったの二隻だったのである。
そのうえ、戦争となれば莫大な兵力と戦費が必要になる。威圧的な態度は言ってみれば虚勢に過ぎず、本国はともあれ、駐日公使および派遣軍に戦闘を開始する気などさらさらなかったのだ。英国の要求に対し幕府や藩側が策を講じ、半年間ものらりくらりと回答期日を延期するという対応が渋々受け入れられていたのも、こういった事情が背景にあったからだと推測できる。
正直なところ、戦いたくはなかった英国―。
しかし、そのような英国の内情など知るはずもない薩摩藩の内部では、ある方向へとすべてが異常な勢いで動き始めていた。
それが日本の行く末にどれほどの影響を与える重大な出来事へとつながっていくか。当時は誰ひとりとして想像することのできなかった、その歴史的な展開の幕開けは、もうそこまで迫って来ていた。

後編に続く…

生麦事件の登場人物たち その3
加害者扱いされた薩摩藩側

しまづ ひさみつ
島津久光

島津氏27代当主、斉興(なりおき)の五男。長男である斉彬(なりあきら)との家督争いに敗れるも、1858年に斉彬が急死し、その遺言によって自身の長男、茂久(もちひさ=後に忠義)が29代当主の座に就くと国父となり、事実上、藩の実権を握る。過激な攘夷論者を取り締まり、公武合体運動を推進。西郷隆盛とソリが合わず、長きにわたり確執を抱えていた。

くきむら はるやす
久木村治休

重傷を負って逃げるリチャードソンに二の太刀を浴びせた薩摩藩士。当時19歳で、人を斬るのは初めてだったこともあり、リチャードソンを斬った際に鐙に刀が当たって曲がってしまって鞘に収まらなくなったため、手拭で巻いて持ち帰ったという。後に東京憲兵隊勤務陸軍中佐となり、1937年に95歳で逝去。

かいえだ たけじ
海江田武次

薩摩藩士、有村仁左衛門兼善の長男。生麦事件では、もはや助かる見込みのないリチャードソンに「武士の情け」をもって止めを刺す。当時30歳。戊辰戦争では東海道先鋒総督参謀として活躍。後に子爵となり、奈良県知事、京都府知事を歴任。長女の鉄子は東郷平八郎の妻。左の写真は、67歳の時のもの(1899年撮影)。

ならはら きざえもん
奈良原喜左衛門

リチャードソンに最初に切りかかった薩摩藩士。野太刀自顕流の達人と称され、弓術にも長けていた。事件後、京に戻り、1864年の禁門の変で出水隊の隊長として活躍するが、まもなく病に冒され、翌年、京都伏見二本松の藩邸にて35歳で没す。弟の幸五郎は8代目の沖縄県知事を15年間務め、男爵位を得た。

週刊ジャーニー No.926(2016年3月31日)掲載

近代国家への一太刀 【実録】生麦事件{後編} [Namamugi Incident]

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実録生麦事件 後編
幕末に薩摩藩士が英国民間人を殺傷したという「生麦事件」―。
近代日本史を学ぶ際、必ずといっていいほど取り上げられる出来事のひとつだが、なぜそこまで重要であると位置づけられているのか。 薩英戦争、さらには倒幕、明治維新へと日本が近代国家への道を歩むに至るきっかけとなった「生麦事件」を前編に引き続き検証する。
※『生麦之発殺』早川松山〈はやかわ・しょうざん〉画/1893年。

●サバイバー●取材・執筆/黒澤 里吏・本誌編集部
※本特集は、2009年3月5日号に掲載したものを再編集し、2号に分けてお届けしています。



【参考文献】『生麦事件』(吉村昭著・新潮社刊)
【参考ウェブサイト】www.tokyo-kurenaidan.commiraikoro.3.pro.tok2.comほか
【取材協力】生麦事件参考館
*同館館長の浅海武夫氏には多大なご協力をいただきました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。


生麦事件概要
【日時】1862年9月14日(旧暦の8月21日)午後2時頃
【場所】現・神奈川県の生麦村(当時)
【英国側『被害者』】 横浜の貿易商ウィリアム・マーシャル、義妹マーガレット・ボラデイル、マーシャルの遊び友達のウッドソープ・チャールズ・クラーク、クラークの友人のチャールズ・レノックス・リチャードソン(死亡)
【薩摩藩側『加害者』】 薩摩藩最後の藩主、島津茂久(もちひさ=後に忠義)の父、久光(ひさみつ)の行列につき従っていた次の3家臣たち。
リチャードソンに最初に切りかかった奈良原喜左衛門(ならはら・きざえもん)、リチャードソンに二の太刀をあびせた久木村治休(くきむら・はるやす)、武士の情けで「楽にしてやるため」、瀕死のリチャードソンに止めをさした海江田武次(かいえだ・たけじ)。

生麦事件はなぜ起きた?

背景その1

日本の文化・慣例に対する英国人たちの認識の低さ


薩英戦争の模様を伝えるイラスト(1863年11月7日付け『Illustrated London News』より)
江戸時代以降、大名行列(*1)は大名の権威と格式の象徴とされるようになる。参勤交代など幕府の公用により行われるものについては、大名の規模によって参列人数が定められており、藩が負担する費用もかなりのものだった。それだけに行列の前を横切ったり、列を乱したりするような行為は無礼とされ、そのような者は現場で斬り捨てること(無礼討ち)が公的に許されていた。生麦事件発生の少し前に同じく行列に遭遇した米国人のユージン・ヴァン・リードは、日本の文化や慣習に精通しており、下馬して脱帽した上で膝をつき、行列に敬意を示したため何の問題も起こらなかった。しかし事件の被害者となった英国人たちは認識が甘く、最悪の結果を招くに至る。ヴァン・リードは彼らについて「自ら招いた悲劇」と非難しており、また英国外務省も内々に英国側の非を認めていたとも言われている。

*1…正確にいうと、島津久光は藩主ではないため、「大名行列」とは呼べないのだが、ここでは便宜上、藩士たちの大行列を指し、「大名行列」と呼ぶことにする。

背景その2

外国人に対する強い反感と攘夷殺傷を英雄行為とする風潮

ペリーの来航以来、欧米各国との条約締結が進んで下田、函館、浦賀、横浜などが次々に開港され、周辺地区では各国の外交官や貿易商人の姿が日増しに多くなっていた。その一方で諸藩では「外国人たちは尊大な態度で日本人に接して神聖な国土を汚し、身勝手な商業を行い日本の経済に打撃を与えている」と見られており、各地で攘夷論がうずまいていた。攘夷殺傷は一般に英雄行為として称えられており、外国人たちの傍若無人な振る舞いを見聞きしては攘夷気分を高ぶらせていた藩士も多かったのである。事実、米総領事館の通訳者ヒュースケン暗殺事件や、2度にわたって英国公使館を襲った東禅寺襲撃事件など、急進攘夷派の藩士による外国人襲撃事件が相次いでいた。生麦事件でリチャードソンに二の太刀を浴びせた久木村治休は、後年の回顧録で「私ども薩藩の若侍は、夷人となると斬ってみたかったものだ。しかし、やたらに斬るわけにはいかない。実際、負傷外人が駆けてきた時は『ご馳走がきたな』と思った」と語っている。

背景その3

各国公使館に通行自粛要請を正式に行わなかった幕府の落ち度

日頃から乗馬を好み、遊歩地内の行楽地や名所を自由に訪れていた外国人と、それを快く思っていない藩士たちの接触によって起こりうる事態を懸念していた薩摩藩は、各国大使にあてて注意を促すよう、幕府に要請していた。これを受けて幕府は、米、英、仏、蘭の各国公使にあて、薩摩藩をはじめ諸藩主の行列と出会った場合は日本の慣習に従って礼を尽くすよう、書状を送っていた。そして文久の改革後、9月15日(旧・8月22日)に勅使(天皇の使い)の大原重徳が江戸を離れることが決まった折には各国公使に「勅使一行の行列が東海道を通行するゆえ、付近に出かけないように」との通達を出す。しかし、幕府は、大原に先立って前日に江戸を出立する久光のことには触れていなかった。そもそも事件現場は外国人たちにとっての遊歩地域内であり、外国人の通行の安全を保障することは幕府の義務。この規制要請を正式に発行しなかったことは明らかに幕府側の不手際だったといえる。
幕末年表 (日付は旧暦)
1853年6月3日 ペリー提督、浦賀に来航(黒船来航)
1854年3月3日 日米和親条約締結
1858年6月19日 日米修好通商条約締結
1860年3月3日 桜田門外の変
1861年12月5日 米総領事館の通訳者、ヒュースケン暗殺
1862年8月21日 生麦事件
1863年1月31日 英国公使館焼き討ち事件
5月10日 長州藩、下関で外国商戦を砲撃
7月2日 薩英戦争
1864年8月5日 四国連合艦隊、下関砲撃事件
1865年3月22日 薩摩藩士、英国留学のため長崎を出発
1866年1月21日 薩長同盟成立
1867年10月14日 大政奉還
12月9日 王政復古の大号令
1868年1月3日 戊辰戦争
4月11日 江戸城無血開城
7月7日 江戸を東京と改称
9月8日 明治と改元、一世一元の制を定める

事件後の薩摩藩の反応

英国からの要求と、上洛中だった将軍家茂より突然発せられた攘夷決行の知らせに頭を抱えた江戸の閣老たちは、戦闘が始まれば勝つ見込みはほぼないと判断し、この危機を打開するには賠償金支払いに応じる以外にないという結論に達する。そして未解決となっていた第二次東禅寺事件の賠償金1万ポンドも含めた11万ポンドを、何の交渉もなく英国に支払うことを決定してしまう。
対する薩摩藩は、英国側の要求の中にある、リチャードソンを殺害し、同伴者に傷を負わせた者の「魁首を直に捕へ、之を吟味して女王海軍士官の面前に於いて斬首すべき事」という部分を「魁首=久光」と誤解。藩の象徴的存在である久光の処刑という要求は藩に対する最大の侮蔑であると激怒し、殺気立つ。
また、行列を乱した者は斬り捨てるのが公法ゆえ非は英国人にあり、彼らを殺傷したことは当然の措置で賠償金を支払う義務などないとして、英国の要求を断固として拒否する意向だった。薩摩は、世界一と謳われた英国の海軍力に臆することなく防備力の強化を図り、死力を尽くして応戦する構えだったのだ。
文書は徹夜で翻訳されたと言われ、翻訳グループの中には福沢諭吉も含まれていたが、処刑の対象を事件の責任者ではなく、藩の代表と誤解してしまったことが、戦火を交える大きなきっかけとなったとも言えるだろう。
ちなみに当時、英国政府通訳官のアーネスト・サトウのような優秀な通訳者が存在していたとはいえ、意思疎通を図るのに手間取ることも少なくなかった。たとえば、強い薩摩訛りを理解するのは難しいため、間にオランダ語通訳を挟むといった対策が取られるなど、さまざまな苦労があったのだ。

①生麦事件発生現場

②リチャードソンが贓物を落としたところ

③生麦事件石碑

リチャードソン落命の地。

④生麦事件参考館

⑤宗興寺

ヘボン博士の診療所だった場所。マーシャル、クラークはヘボン博士の治療のおかげで一命をとりとめた。

⑥甚行寺

当時、フランス領事館があった場所

⑦浄瀧寺

かつて英国領事館があった場所。ただし、事件発生時には横浜の居留地に移転していたため、マーシャルらは米国領事館へ逃げ込んだと推測されている。

⑧本覚寺

マーシャル、クラークが助けを求めて逃げ込んだ場所。当時、米国領事館がここに置かれていた。

英国の思惑に反して交渉は決裂ついに薩英戦争が勃発

1863年8月6日(旧・6月22日)、一向に要求に応じない薩摩藩に業を煮やしたニール代理公使は、直接交渉のため7隻の戦艦とともに鹿児島に向かった。数日後に現地に到着すると、藩主にあてて再び賠償請求書を呈示し、24時間以内に回答するよう迫る。しかしこの時点でも英国側に戦闘の意志はなく、戦艦で威圧すれば薩摩藩も恐れをなして要求に応じるだろうと高を括っていた。
これに対し藩側は、戦いの火蓋はすでに切られているものと鼻息荒く、さまざまな策を講じて英国軍を襲撃しようと試みる。まずは、ニールとその他の要人を陸上におびき出して捕縛しようと考え、彼らに城内の客殿で会議を行いたいと告げるが、警戒した英国側はこれを拒否。そこで藩の奈良原喜左衛門は、自らスイカ売りの商人を装って各艦上に上がり、隙を狙って要人たちを襲うという奇策を提案する。そして、奈良原と同様、生麦事件に関わった海江田武次をはじめ、賛同した77名の藩士たちとただちに計画を実行に移す。加えてニール宛ての回答書を携えた高官の使者を派遣し、その従士の1人が刺客となる策も同時に実行され、藩士たちはどうにか英国艦上に上がることに成功するが、完全武装の兵士たちに囲まれて身動きできない状態に陥ってしまう。そんな矢先に司令塔より引き返せとの合図があり、計画は失敗に終わった。
翌日、急激に天候が悪化して暴風雨が吹き荒れる中、英国側は鹿児島湾に停泊中の薩摩の汽船3隻を拿捕するという示威行動に出る。これでさすがに薩摩も交渉に応じるだろうと目論んでいた英国側だったが、これを見た藩側は憤慨し、ついに砲撃を開始。突然の攻撃に慌てた英国側は、まず拿捕した3隻を焼き払って応戦するが、そもそも開戦するつもりがなかったため、戦闘準備はほとんどされていなかった。
旗艦ユーリアラス号では、幕府からの賠償金の金貨が入った大量の箱が爆弾庫の前に積み上げられていたため、初弾発砲まで2時間を要すという失態を演じることになる。また同戦艦は桜島の袴腰砲台の真下に錨泊していたため集中砲火を浴び、艦長をはじめ多数の死傷者を出した。しばらくして態勢を立て直した英国艦隊は反撃を開始し、薩摩の砲台を次々と破壊、さらにロケット弾で市街地まで攻撃し、鹿児島の2割の土地が焼き払われた。
英国はこの戦いで初めてアームストロング砲を使用し、薩摩藩を驚嘆させたものの、尾栓部分が爆発するなど艦上でも事故が多発して死傷者を出すはめになる。
そしてついに英国艦隊は横浜に引き上げることを決定。結局、英国側は死者10数名、負傷者60余名、そして薩摩藩側は死者約5名、負傷者10数名となり、薩摩が英国艦隊を撃退する形で幕引きとなった。

下関戦争

フランス海軍陸戦隊によって占拠された長府の前田砲台。
1863年6月(旧5月)、過激な攘夷政策を推し進めていた長州藩が、幕府による攘夷実行の通達を受けて馬関海峡(現在の関門海峡)を封鎖し、米国の商船ペンブローグ号をはじめ、フランスやオランダの軍艦に砲撃を加えた。これに対し、米仏軍艦が報復する形で長州軍艦に砲撃を開始、壊滅的な打撃を与えるも、長州側は海峡封鎖を続行する。しかしこの封鎖により多大な経済的損失を被っていた英国が翌年8月(旧7月)に米、仏、蘭の三国に呼びかけ、四国連合艦隊を結成。17隻の軍艦を率いて下関に来襲し、9月17日~19日(旧・8月5日~7日)にかけて長州の砲台を猛攻撃のうえ破壊した。この一連の戦いによって、欧米列強との軍事力の差を目の当たりにした長州藩は、攘夷が不可能であることを身をもって知り、薩英戦争で同様の体験をして討幕派に転じた薩摩藩に歩み寄ることになる。

明治維新にかかわった重要人物たち

小松帯刀
こまつ たてわき

島津久光に手腕を認められて側近となり、1862年、弱冠28歳で家老に昇進。藩政改革に積極的に取り組み、諸藩と交易することで藩の財政を豊かにし、軍事力を拡大するなど、藩の活性化、近代化に大きく貢献する。薩英戦争では久光と藩主・茂久(維新後は忠義)の側近として戦いの総指揮にあたり、戦後は英国と薩摩藩の友好に尽力。卓越した政治力で朝廷、幕府、諸藩との連絡、交渉役を務め、同年生まれの坂本龍馬とも意気投合して薩長同盟実現のために奔走する。67年には将軍徳川慶喜に大政奉還を進言。明治新政府においては参与や外交事務掛などの要職を歴任するが、69年、病のため退任。70年に36歳の若さで惜しまれながらも病死する。「幻の宰相」とも称され、明治維新の陰の功労者と言われる。

アーネスト・サトウ
Ernest Satow

英国の外交官。スウェーデン人の父と英国人の母の間に生まれる。1862年、弱冠19歳で、かねてから興味を抱いていた日本に通訳見習いとして赴任。到着6日後に生麦事件が起こる。その後の薩英戦争から下関戦争、戊辰戦争にいたるまで、激動の幕末~近代日本の変革をつぶさに体験。68年からは書記官となり、83年まで滞在して一度日本を離れるが、95年に英国公使として再来日し、1900年まで滞在する。日本滞在歴は計25年に及び、「一外交官の見た明治維新」をはじめ多数の著作を残しているほか、日本学者として日本アジア協会の設立にも尽力し、神道の研究も行っている。ちなみに東京の英国大使館前の桜並木は、1898年にサトウが植樹して寄贈したもの。またサトウという姓はスラヴ系の希少姓で、日本の姓とは全く関係なかったが、この名前のお陰で日本社会に溶け込みやすかったと本人が語っている。

大久保利通
おおくぼ としみち

鹿児島城下の下加冶屋町で薩摩藩の下士として生まれる。西郷隆盛とは幼なじみ。藩内若手改革派、精忠組の中心人物となり、島津久光のもとで公武合体運動を推進。幕府の長州征伐が失敗に終わった後、西郷らと倒幕運動を進め、岩倉具視らとともに王政復古のクーデターを敢行。明治維新後の1869年には参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県など中央集権体制確立を行い、71年には大蔵卿に就任。特命全権副使として岩倉遣外使節団に随行する。帰国後は内務省を設置し、初代内務卿となって地租改正や徴兵令などを実施する。西南戦争では政府軍を指揮し、鹿児島士族の反乱を鎮圧。78年5月14日、石川県士族の島田一郎ら不平士族により紀尾井坂で暗殺される。享年47。

薩摩の柔軟な態度が功を奏し一転して英国と和解へ

負け戦に近い苦戦を強いられた英国艦隊は、鹿児島の市街地を焼き払った件で本国から非難を浴びるが、態勢を整えて再び薩摩藩を砲撃する意向だった。一方、薩摩藩は艦隊の再来襲に備えて軍事力の強化を図ろうとするが、同時に今回の戦闘で自分たちの兵器と英国戦艦の兵器に歴然とした差があることを、身をもって痛感していた。特にアームストロング砲の射程距離の長さと破壊力は驚異的で、次回、好天の中、英国戦艦が万全の態勢で襲撃してきた場合、勝てる見込みはまずないという意見で一致した。そこで、協議を重ねた結果、英国と和議を結ぶ方向で交渉を進める意志を固める。しかしこれから先、英国と対等な関係を築いていくためには、藩から和議を請うのではなく、自然とその方向に持っていく必要がある。
検討の末、幕府が和議を薦めるように仕向けるのが最良であるとの結論に達する。まず藩から幕府に、英国戦艦が藩の汽船を拿捕した不当性を訴える。おそらく英国側はすでに幕府に対し薩摩藩への苦情を訴えているはずなので、自然と話し合いの場がもたれることになるだろうという算段だ。そして実際、事は藩の思惑どおりに進んでいったのである。
和議の場では、応接役の重野厚之丞が抜群の交渉力を発揮した。賠償金の支払いに応じる代わりに、軍艦購入の斡旋を求めるという大胆かつ明快な交渉で英国側を驚かせ、また藩主が攘夷に反対しており、各国との和親を望んでいる旨を伝えて、英国との距離を一気に縮めたのである。英国側もまた、幕府の弱体化に気づいており、有力な藩と手を組むことはその後利権をもたらすであろうことを予測していたことがうかがえる。
ちなみに薩摩藩は賠償金を幕府から250年という期限付で借用して支払ったが、この借金は幕府に返されることはなかったという。

サツマの由来

英国のスーパーの果物売り場で、時折目にすることがある「satsuma」。実はこれは、薩英戦争後の賠償交渉がスムーズに運んだことに対し、薩摩藩が英国側に感謝のしるしとしてミカンを進呈したことに由来している。代理公使ニールが本国のラッセル外務大臣に送った書状に「カゴいっぱいのミカンが戦艦ユーリアラス号に持ち込まれた」と記載されているのだそう。その後、米国、スペインなどにも苗木が薩摩から輸出され、各国で栽培されるようになった。

事件の余波戊辰戦争から明治維新へ

薩英戦争で西欧文明の強大なパワーに圧倒された薩摩藩は、西欧の技術や知識を積極的に学んでいこうという姿勢に転じ、1865年、15名の留学生と4名の使節団を英国に派遣する。海外渡航が許可されておらず、密航だったが、無事に英国に到着してロンドン大学で海軍測量術や機械術、医学、化学などを学ぶ。そして、同じく海軍研究を目的に英国入りしていた長州藩留学生と情報交換するなどお互い助け合ったと伝えられる。
一方、日本国内においても、長州征伐での薩摩藩の寛大な処置をきっかけに、薩長両藩は友好の姿勢を示し始める。そして1866年、土佐藩の中岡慎太郎や坂本龍馬の仲介のもと、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀と、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)が薩長同盟を締結。倒幕へ向けて一気に加速することになる。また薩摩藩は、幕府の弱体化と自由貿易の必要性を在日公使ハリー・パークスに訴え、藩への支援を要請。英国側はこれに同意し、両者の関係はますます密接となる。
その後の王政復古の大号令発令に対し、幕府陣営(旧幕府軍)は薩摩藩に猛反発。旧幕府軍と薩長の軍勢(新政府軍)との間に戊辰戦争が始まる。旧幕府軍に対し、新政府軍は3分の1程度の兵力だったにもかかわらず、英国から入手した兵器で戦闘に臨み、旧幕府軍に圧勝。将軍慶喜は兵を捨てて大阪城を脱出してしまうが、パークス公使からの圧力などにより徳川家への総攻撃は中止され、ここに江戸城の無血開城が実現した。
これによって家康公から約260余年続いてきた徳川の天下、江戸幕府は滅亡。そして1868年10月23日(旧・9月8日)、年号が明治と改元され、明治天皇が即位。以後、明治新政府による新しい国家体制が築かれていくのである。
生麦事件が起こってから約6年。
薩英戦争で西欧パワーに圧倒され、その差を思い知ったことにより、逆に、その進んだ技術や制度を西欧から取り入れようと180度の転換を図るに至った薩摩。そして、利を求めて、薩摩に手を貸すようになる英国。思惑は大きく違えど、この両者なくして明治維新は成っていなかった、いや、成っていたとしても、もっと時間がかかったことだろう。リチャードソンの命を奪った一太刀が、歴史に果たした役割の大きさを考えると、深い感慨を覚えずにはいられない。

前編に戻る…

幕末の政治思想を表す3つのキーワード

幕藩体制

江戸幕府を頂点とし、その支配下にありながらも、各大名がそれぞれ独立した領地をもつ統治機関(藩)を形成している封建的支配体制。幕府、諸藩が領主として、小農民から米を主とする現物年貢を直接徴収する石高制で成り立っている。豊臣秀吉による楽市楽座制、太閤検地、刀狩といった兵農分離の諸政策から次第に形成されたもので、江戸幕府以降、将軍は広大な直轄領を支配すると同時に大名統制権を掌握していった。さらに鎖国体制、参勤交代制、武家諸法度などにより、大名の権力拡大や経済発展を阻止する支配体制を確立したのである。明治維新後の中央集権政策のもと、版籍奉還、廃藩置県によって終結。

尊皇攘夷

「王(天皇)を尊び、夷(外国人)を攘(はら)う」の意。ペリーの黒船来航後、西欧の脅威に危機を感じていた諸国の大名や武士たちが盛んに提唱し、さまざまな活動を起こした。1858年には、大老井伊直弼が無勅許で日米修好通商条約をはじめとする安政5ヵ国条約(列強との不平等条約)を締結したため、これに反発した尊皇攘夷派の動きが激化。幕府は彼らを弾圧するが(安政の大獄)、この報復行為として攘夷派の水戸脱藩藩士らが井伊直弼を暗殺する(桜田門外の変)。このように過激な尊皇攘夷派を恐れ、弱体化していた幕府に幕政改革を迫ったのが島津久光で、公武合体運動の推進を約束させる代わりに、藩内の過激な尊王派の粛清を行ったりもした(寺田屋事件)。

公武合体

従来の幕府独裁政治を改め、朝廷の伝統的権威と幕府を一体化させることで幕藩体制の再構築を図ろうとした政策論。ペリーの黒船来航以来、社会不安が高まる中で揺れる政局を安定させようとするもので、実現すれば尊王派が幕府に反抗する理由も薄れ、幕府の統治力強化にもつながる。島津久光が亡き兄、島津斉彬の遺志を継ぐ形で推し進めた。具体策として幕府は孝明天皇の妹、和宮を14代将軍徳川家茂へ嫁がせたが、1866年に家茂が死去、その翌年に孝明天皇が崩御したことで事実上無効となる(ちなみに2008年、NHK大河ドラマで話題を呼んだ篤姫は島津家の生まれで第13代将軍家定の正室。和宮の姑にあたる)。後に幕政改革を推進する公議政体論が唱えられ、15代将軍慶喜によって大政奉還が行われるが、王政復古の大号令により討幕運動へと傾いていく。

生麦事件参考館

神奈川県横浜市の鶴見区生麦にある、個人宅を改造してつくられた資料館。酒類商、株式会社神田屋に勤めていた浅海武夫さんが1976年より仕事の傍ら、生麦事件に関する資料や文献を集め始め、1994年に自費で設立した。館内では浅海さんが情熱をかけて集めた1000点におよぶ所蔵資料のうち、約150点が閲覧できる。事件の様子が綴られた当時の文書や、オランダの博物館から10ヵ月かかって取り寄せた事件に関する写真など、貴重な資料を多数展示。「神田屋酒の記念館」を併設。

生麦事件参考館
【住所】神奈川県横浜市鶴見区生麦1-11-20
Tel: 045-503-3710
Fax: 045-503-4580

※事前にご予約の上、ご来館下さい。また、電話がつながらない場合はfaxでご連絡下さい。

館長/浅海武夫(あさうみ・たけお)さん

横浜外人墓地にある生麦事件犠牲者の墓の前で。左から32代目島津修久氏、英国大使館ダニエル・ソルダ氏、浅海武夫氏、海江田武次の曾孫にあたる海江田忠義氏。島津氏のすぐ左にあるのがクラークの墓で、マーシャルの墓(写真枠外左の方)とともに新造されたもの。2人の墓の手前にリチャードソンの墓碑がある。
生麦で生まれ育った浅海さんが事件に関する資料を集め始めたきっかけは、1976年に鹿児島から訪れた一人の男性だったという。浅海さんは生麦事件の石碑の場所を尋ねられたのだが、後日、その男性から手紙が届き、「生麦事件は日本の近代国家成立に至る重要な事件なのに、なぜ資料館がないのですか」と尋ねられたという。この言葉に開眼した浅海さんは、仕事の合間に神田の古書店などを訪ね歩き、関連資料の収集を開始。以後20年以上にわたり、国内外の資料や文献を集め続け、ついに資料館の開設に踏み切る。その功績が評価され、2000年には中曽根文部大臣より感謝状が贈られたほか、翌2001年には坂口厚生労働大臣より表彰状を授かっている。以後も、神奈川私設ミュージアムネットワークの会の初代会長を務めたり、横浜市高齢者福祉大学講師に就任したりと精力的に活動。86歳の現在も、来館者の案内を務め、生麦事件に対する情熱は衰えることをしらない。

週刊ジャーニー No.927(2016年4月7日)掲載

40年を振り返る ロンドン・パンク再考 [Punk London]

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2016年5月5日 No.931

●サバイバー●取材・執筆/名取 由恵、本誌編集部

 

40年を振り返る

ロンドン・パンク再考

英国の音楽シーンに嵐を呼び起こしたロンドン・パンクの誕生から、今年で40年を迎えた。今号では、1970年代の英国社会と密接なかかわりのなかで台頭した「ロンドン・パンク」の世界を覗いてみたい。
 





英国民の誇り{祝90歳}女王陛下に乾杯 [Queen's 90th Birthday]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2016年6月2日 No.935

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英国民の誇り{祝90歳}女王陛下に乾杯

英国民の誇り

祝90歳 女王陛下に乾杯

今年90歳を迎えたエリザベス女王。昔と変わらず日々の公務をこなし、時間が許せば今でも乗馬を楽しむというスーパー・ウーマンぶりを発揮するが、夫のエディンバラ公(94)と仲睦まじく、ジョージ王子やシャーロット王女などひ孫たちにも恵まれる家庭人でもある。今回は、6月11日の公式誕生日を前に、王室関係者が語ったエリザベス女王に関するエピソードの数々をお伝えしよう。女王の思わぬ素顔が見えてきそうだ。

●サバイバー●取材・執筆/佐々木 敦子、本誌編集部

お札や切手に印刷され、「英国のピンナップ・ガール」として長きに渡り英国と連邦国の首長として君臨するエリザベス女王は、1926年4月21日、ヨーク公アルバート王子とエリザベス妃の長女として、メイフェアにある母方の祖父宅で誕生。父親のアルバート王子は、コリン・ファース主演の映画 『英国王のスピーチ』のモデルともなった、シャイで吃音に悩む王様(当時は公爵)といえばわかりやすいだろうか。兄のエドワード8世が結婚歴のある米国人女性、シンプソン夫人と結婚。英国国教会の長でもある国王にとって、離婚歴のある女性との結婚は許されない。それでもエドワード8世は、愛を選び国王の座を捨てたため、1936年に王位は弟であるこのアルバート王子(後のジョージ6世)に突然もたらされた。エリザベスは当時10歳。父親が国王になることは、男の兄弟を持たないエリザベスが将来王位を継承することを意味した。家族からは「リリベット」という愛称で呼ばれ、幼少時から馬や犬など動物好きな未来の女王は、生真面目な面もありながら、野外で奔放に遊ぶ少女だった。

25歳で女王となった1952年当時の英国は、第二次世界大戦が終わっていたとはいえ、配給制度は続いており、多くの国民が耐久生活を余儀なくされていた時期。「私は皆さまの前で宣言します。私の命のすべてを、長かろうと短かろうと、皆さまと帝国の家族への奉仕に捧げます」と、即位に先駆け既に声明を出していた、若くて美しい女王が誕生したことで、新しい時代の到来を実感した人々も多かったのではないだろうか。それから65年。チャールズ皇太子をはじめとした子供達の離婚、ウィンザー城の火災、ダイアナ妃の事故死など、さまざまな出来事を乗り越えながら、今も英国君主として活動しているのは驚くべき、そして喜ばしいこと。たとえアンチ王室派であろうとも、心身ともに元気な90歳・現役の女王には拍手を贈らずにはいられないだろう。高齢化社会の星としても、エディンバラ公と共にこれからもますますお元気で過ごされることを祈りたい。

素顔に迫る 15のストーリー

エリザベス女王とはどんな人物なのだろう。
王室関係者が語ったエピソードから、女王像が浮かび上がる!

1「彼らのような夫婦になりたい」

Photo: Library and Archives Canada
戴冠式(1953年)の際に撮影されたエリザベス女王とエディンバラ公。
いつも仲睦まじい女王とエディンバラ公だが、初めて女王がエディンバラ公に出会ったのは、女王がまだ13歳のとき。18歳の公は長身+金髪碧眼で評判のハンサム。そんな彼がある日、テニス・コートのネットをひらりと飛び越えて、女王の元にやってきたのだとか。まさに「The王子」そのものの姿にハートを奪われ、将来結婚するなら絶対この人、と決めたのだそう。そのスマートな姿とは裏腹に、大層口の悪いエディンバラ公にハラハラしながらも、公を見るときの女王の瞳は今でもキラキラしているらしい。彼の掟破りの暴言が、実は規則づくめの女王の息抜きになっているのだ、とはエディンバラ公ご本人の弁だ。そんなラブリーな仲良し祖父母を見て育ったウィリアム王子は、自分も彼らのようにキャサリン妃と末長く幸せな夫婦でいたいと発言している。両親の悲しい別れを経験している王子だけに、単なる美辞麗句ではなさそうだ。

2愛犬コーギーへのイタズラは禁物!

女王の犬好きは有名だが、特に小さな牧羊犬ウェルシュ・コーギーと女王の関係は深い。父のジョージ6世から18歳の誕生日に初めて3頭のコーギーを貰ったのがそもそもの始まりだった。その中の1頭スーザンは女王の新婚旅行にも同行したほどの愛されよう。女王はコーギーのブリーダーでもあり、今までに飼った30 頭あまりのコーギーは、すべて最初の犬スーザンの子孫だという。現在女王の元にいるホリーとウィローは14代目とのこと。彼らは皆大事に育てられ、銀や白磁の食器で専用シェフの作った食事をとるが、あるとき、酒に酔った召使いの1人が、コーギーの水の入れ物にウィスキーを注ぐイタズラをしたからさあ大変。怒った女王陛下は、すぐこの召使いを左遷したそうだ。故ダイアナ妃は、女王の足元にまとわりつき、女王の行くところへはどこへでもついて行くコーギーたちを、「歩く絨毯」と評している。

3「悩ましきX'masプレゼント」

© tsaiproject
初めてキャサリン妃が王室の一員としてクリスマスを共に過ごすことになったとき、困ったのは女王へのプレゼント。好みのわからない義理の家族へのクリスマス・プレゼントには誰しもが頭を悩ませるが、義祖母が何でも持っている英国女王であれば、そのプレッシャーもひと際大きいだろう。そんなキャサリン妃が女王に贈ったのは彼女の祖母のレシピだという、ウリ科の野菜マローを使った手作りの「チャツネ」。インド本国ではカレーのお供として利用されるジャム状の調味料だが、英国ではコールドミートやチーズと共に食される。英国で最初に販売したのは王室御用達フォートナム&メイソンだそうなので、れっきとした「ポッシュな」調味料だ。クリスマス・イブに女王に手渡された手作りチャツネは、翌日の朝食のテーブルにちゃんとのっていたといい、それを見つけたキャサリン妃は、女王の心遣いを嬉しく思ったそう。

4 「祖母というより女王は上司」

© DoD News, photo by EJ Hersom
ハリー王子は女王を祖母と思ったことがほとんどなく、「尊敬すべき厳しい上司のようだ」と、あるインタビューで語っている。現在31歳のハリー王子だが、もっと若い頃ははっちゃけ過ぎてゴシップ記事に登場する回数も多く、優等生のウィリアム王子と比較されることもしばしば。女王に王室メンバーとしてのあり方をたしなめられていたのかもしれない。当の女王は幼い頃から生真面目なところがあり、妹のマーガレット王女が奔放な性格なのに比べ、派手さを嫌がる質実剛健さを持ち合わせ、子供ながらに落ち着いた面を見せていた。その昔、まだほんの幼い頃にも、チャーチル首相に「まだ2歳なのに、ずいぶん威厳がある」と評されたことがあるほど。それにしても、「ほんのたまにしか、おばあちゃんという気がしない」と可愛い孫から大真面目に言われたら、女王はちょっとショックかも?

5われを忘れるほどの競馬好き

コーギーだけではなく、馬のブリーダーとしても知られる女王。自分の育てた馬がダービーでどのような成績を残すのかは非常に気になるところだ。そもそも、ダービーに出場できるだけでも優秀といわれる厳しい世界で、自分の馬を入賞させるのは至難の技らしい。王室所蔵の映像には、若い女王が貴賓席の1番前に駆け寄り「私の馬!私の馬!私の馬!」と興奮する様子が映し出されているが、それは決してオーバーな表現ではないのである。2005年には調教師の馬「モチヴェイター号」が1位でゴールし、喜びのあまり「やったー」と飛び上がった女王。そのショックでつけていた真珠のネックレスが切れ、周囲に飛び散る大惨事に! それでもなお喜び続ける女王の横で、エディンバラ公はしゃがんで散乱した真珠を拾い集めたそう。また、競馬といえば、お金を賭ける? と思ってしまうが、女王にとっては馬の繁殖や飼育自体が賭けのようなもの。1人1ポンドで賭け、「最高当選額16ポンド」といった遊びは貴賓席内でするそうだが、そういうとき女王は自分の馬には賭けないという話も。

6「不必要な電気は消すように」

© Photo by DAVID ILIFF. License: CC-BY-SA 3.0
英国では、電気やガス代の合計が 年収の1割以上になってしまう家庭を「Fuel Poverty(光熱費貧乏)世帯」と呼ぶが、2011年の光熱費20%値上げの際には、王室の年間光熱費が260万ポンドを超える計算になり、女王とその一家は危うく光熱費貧乏になるところだった。驚いた女王はバッキンガム宮殿内に、「不必要な照明は消すように」という告知を張り出し、女王自身も廊下の電気を消して回ったらしい。公邸であるバッキンガム宮殿の部屋の総数は775室、宮殿勤務者数は約450名。その他にも夏に滞在するバルモラル城や冬に使うサンドリンガム・ハウスなど、私邸も含めていくと大変な電気代になることは確か。

7密かなアーセナル・ファン!?

王室嫌いで知られる労働党党首のジェレミー・コービン氏と、エリザベス女王の思わぬ共通点、それはご贔屓のサッカー・チームがアーセナルだということ。コービン氏は、2006年にエミレーツ・スタジアム(アーセナルのホーム・スタジアム)がオープンした際、女王が腰痛のために除幕式を欠席しなければならなかったことのほか、女王が「密かなアーセナル・サポーター」であると証言している。また、現在チェルシー所属のミッドフィルダー、セスク・ファブレガス選手は、アーセナル時代にバッキンガム宮殿の園遊会に招待された際、女王から「ファンです♥」と告げられたらしい。ハリー王子によると、もともとはクイーン・マザー(エリザベス女王の母君)がアーセナルのファンで、それが女王に飛び火したのだそうだ。

8バッグの中には何が?

王室御用達のLauner。
写真はTraviata leather tote 1550ポンド。
www.selfridges.com
エリザベス女王といえば、常に腕にかかるハンドバッグが有名。200個近いハンドバッグを所持しているといわれるが、そのほとんどが1941年創業の英国ブランドLauner(ロウナー)製。中でもクラシック・トラヴィアータという定番を好み、握手がしやすいよう持ち手はオリジナルよりやや長めに、バッグの中はシルク地にカスタム・オーダーしているそう。家の鍵もオイスター・カードも必要ない女王だが、ハンドバッグの中には何を入れているのだろうか。誰かが覗き込んだ訳でもないだろうが、女王が取り出したものを目撃情報として総合すると、きちんと折った5ポンド札(教会への寄付用)、口紅(クラランス製)、手鏡、ポータブル・フック(テーブルの下にバッグを掛けるため)、老眼鏡、万年筆、ミントのど飴などだそう。携帯電話は「孫にかけたりする」程度なので、バッグの中に入っている可能性は少ない。それがスマートフォンかどうかもわかっていないが、白い手袋ではスクロールもしにくいだろう。

9あだ名は「ガンガン」

幼いジョージ王子は女王を「Gan-Gan」と呼んでいるそうだが、この奇抜な呼び名は広く報道されたので、ご存知の方も多いはず。曽祖母にあたる「Great-grandmother」がうまく言えず「ガンガン」になってしまうのだろうとはいうものの、実はジョージ王子に限らず英国王室では、ひいおばあちゃまは代々皆「ガンガン」と呼ばれるという意外な新事実が浮上。ウィリアム王子とハリー王子もクイーン・マザーのことをガンガンと呼んでいたらしいし、チャールズ皇太子もメアリー王妃をそう呼んでいたようだ。英王室の女性たちがいかに長寿であるかがわかるエピソードだが、「Great-grandfather」であるエディンバラ公が何と呼ばれているのか知りたくもある。現在のガンガンである女王陛下は、ジョージ王子やシャーロット王女が泊まりにくる日は、部屋にちょっとしたプレゼントを用意しておくのが常だそうで、ひ孫たちを喜ばせようとする女王の姿が見えてくる。

10女王はスピード狂!?

女王は現在もランド・ローヴァーやジャガーを自ら運転する。1998年にサウジアラビアのアブドラ皇太子を助手席に乗せ、スコットランドのバルモラル城敷地内を自ら案内した際は、ものすごい音を立てて爆走し、皇太子を縮み上がらせたというエピソードがある。第二次世界大戦中は英国女子国防軍の一員となって、他の女子たちと同等の訓練を受けた女王。当時は軍用車両の整備や弾薬の管理に従事し、軍用トラックの運転もこなしたという。こうした経験から、車の運転はいわばプロ級。法律で女性の運転を禁止しているサウジアラビアの皇太子への、ちょっとしたイタズラ心もあったのかもしれない。昨年には、ウィンザー敷地内の公園で芝生に乗り上げてまで歩行者を追い越して行ったジャガーの運転手を見たら、何と教会へ急ぐ女王だったという武勇伝もある。ちなみに女王は免許証や車(公用車)のナンバー・プレートは持っておらず、パスポートも必要ないのだそう。

11歴史ドラマの間違い探しはやめられない!

第一次世界大戦前後の英国を舞台に、カントリー・ハウスでの貴族と使用人たちの生活を描き、大ヒットしたドラマ『ダウントン・アビー』。シリーズは昨年終了したが、女王はこのドラマの大ファン。とりわけ楽しいのが、ドラマの中で使用されている小道具の時代や使い方が間違っているのを見つける、あら探しだという。例えば、大佐が胸につけているメダルの並び順が間違っているとか、時代の違うものをぶら下げているなど。女王はダウントン・アビーのロケ地となったハンプシャーのハイクレア城に何度もゲストとして訪れたことがあるので、なおさら楽しめた模様。なお、チャールズ皇太子の妻であるカミラ夫人もこのドラマのファンだそうで、嫁姑の話題作りにもかなり役立ったはずだ。

12物まねが得意?

女王は若い頃から、有名人や政治家の話し方などを真似しては、家族を笑わせていたという。地方のアクセントを真似るのも得意で、スコットランドのアバディーン地方や、サンドリンガム・ハウスのあるイングランド東部ノーフォークなど、強いアクセントを持つ方言の真似も「素晴らしく上手」と、女王の従姉妹のマーガレット・ローズさんが語る。ちなみに、アバディーン方言はドリック方言とも呼ばれ、この方言で詩が書かれたり聖書が翻訳されたりと、単なるアクセントには止まらない、スコットランドの文化の一端を担う。また、女王がどんな有名人や政治家のマネをするのかは、それを言うと角が立つということで、特定の人物たちの名前は残念ながら公表されていない。例外は、女王の気丈な性格がわかる(13)を参照!

13サッチャー首相とファッション対立?

© Bogaerts, Rob / Anefo
1980年代、鉄の女の異名をとったサッチャー首相は、エリザベス女王とはあらゆる面で異なる価値観を持ち、2人は終始相容れることがなかった。とはいうものの、英国首相は毎週1回宮廷へ出向き、女王と会談するのが昔からの習わし。サッチャー首相は、女王が常に自分より早く現れ、部屋で彼女を待っていたと語り、そのプレッシャーを苦々しく思っていたようだ。女王は女王で、ユーモアを介さずレクチャー好きの首相に辟易し、サッチャー首相の話し方を「50年代のシェイクスピア役者みたい」と評し、家族の前で真似して見せていたとか。ただし、英国の女王と首相という立場上、並んで式典に出席することも多かった。あるとき、「どうです、女性同士お揃いの服を着て出席しては?」という外部の心ないアドバイスを受けた女王が、どれだけ怒ったか想像に難くない。

14秘密のサイン

式典やパーティーへの出席など、大勢のゲストと会う公務が多い女王。そんな中でいちいちお付きのスタッフを呼びつけて耳打ちせずとも、スマートに自分の希望を伝えるため、女王は野球のキャッチャーのようにいくつか秘密のサインを持っている。もちろん、グーやチョキを出すのではなく、普通の人なら見落としそうなさりげない動作だ。ハンドバッグを持ち替えたら「(この人の話、長くて退屈だから)先に進みたい、次に移りたい」、テーブルの上にハンドバッグを置いたら「5分以内に退席したい(ので迎えに来て)」、指輪を回したら「(こちらに来て)話を盛り上げて欲しい」という意味なのだそう。先月は、某国の代表団一行が「無礼」だったとの会話がテレビカメラの映像に映し出され、全世界に流されてしまった女王陛下。これからますます秘密のサインが複雑になるかも…。

15ワードローブの29%はブルー

© HER MAJESTY QUEEN ELIZABETH II 2016
妹・マーガレット王女の結婚の際に、女王が身につけたドレス。
このドレスを含め、膨大なコレクションを誇る女王のワードローブの中から約150点を
紹介する「Fashioning a Reign: 90 Years of Style from The Queen's Wardrobe」が、
3宮殿(ホリールード・ハウス宮殿、バッキンガム宮殿、ウィンザー城)で現在開催中。
はっきりした色彩のスーツとそれにマッチした帽子、ハンドバッグが、昔から女王の定番ファッション。身長160センチと小柄な女王は、公務のときは5センチのヒールの靴を着用するそう。また、野外での式典の際にはスカートが風でめくれないように裾に重りを縫いつけたり、透明傘のふち部分の色をスーツに合わせたりと、細かいテクニックも駆使しているのだとか。年齢が上がるにつれ、スーツの色が大胆になっていくのは自分の姿を引き立たせるため。『ヴォーグ』誌の調査によると、女王のワードローブの29%はブルー系で、似合うだけではなく、お好みの色のよう。次がグリーンの11%、ピンクとパープルが10%と続き、最下位はベージュ。女王は上品にきちんとして見えるコツを聞かれ、「両足首をいつも同じ方向に揃えていればいいのよ」と答えている。簡単なようだが、長年の訓練が必要かも…。

女王陛下のハードな1日

90歳を迎えた今も現役で公務にあたる
女王の日々はどんな感じ?
各メディアで紹介された情報を集め、1日を追った。

7:307:30 起床

まずお茶。トワイニングのアールグレー(イングリッシュ・ブレックファストという説もあり)を、砂糖なし、ミルク入りで1杯とマリー・ビスケット(リッチ・ティー・ビスケットに似たお菓子)。入浴など、身支度開始。

8:308:30 朝食

エディンバラ公と宮殿の庭を眺めながら。お好みはパディントン・ベアと同じくマーマレード・トースト。コーンフレークはタッパウェアに入ったものがテーブルに置かれる。新聞に目を通す。

9:009:00 公務開始

朝を告げるバグパイプの調べでスタート。1日平均300通の手紙が女王の元に届くので、その処理。そして赤い箱に入った政府の重要な書類への署名、外国からの要人や新任の公職者への謁見など。

13:0013:00 昼食

通常は1人でとるが、お付きの女性を招くことも。2ヵ月に1度はエディンバラ公と共に数人のゲストを招く。ランチ後にコーギーの散歩に出ることもあるが、大抵は学校や病院の除幕式など、イベントに出席。

17:0017:00 ハイ・ティー

サンドイッチやスコーン、そして女王の好物ダンディー・ケーキ=写真=など。パン屑はコーギーたちのものに。

レーズン、オレンジ・ピールなどを用いたスコットランド・ダンディー発祥のフルーツ・ケーキ。一般的なフルーツ・ケーキに使われる砂糖漬けのチェリーが嫌いだったスコットランド女王メアリーのために、作られたのが始まりとされる。
© R Gloucester

18:3018:30 再び公務

ハイ・ティーの後、夕食まで再び公務。その日の国会のレポートを読み把握。毎週水曜日には首相が状況説明のために訪れる(「The Audience」と呼ばれる)。

19:3019:30リラックス

ゲストもなくパーティーへの出席もない場合は、着替えてリラックス・タイム。エディンバラ公とテレビを観たり、クロスワードパズルに興じたりする。食前酒の後、テレビを観ながら夕食。今でも再放送されている古典コメディ『Dad’s Army』やタレント発掘番組『X Factor』、そしてクリケットの試合などを観るのがお気に入り。この後、寝るまで再び書類に目を通すこともあり。23:00 就寝。

祝賀ムードを味わいたい!

12日のストリート・パーティーのために用意されているピクニック・ハンパー(マークス&スペンサー)。ピムスやPGティップスなど、英国らしい飲み物も付いてくる。エリザベス女王が生まれたのは4月21日だが、この日とは別に、公式の誕生日がある。18世紀、君主の公式誕生日は毎年6月の第2土曜日と定められ、以来この日にパレードを行い大々的にお祝いするのが伝統となった。ちなみに、6月が選ばれたのは「晴天になる確率が高いから」といわれている。今年の公式誕生日は6月11日。
各地で大小のイベントが開催されるが、ここでは代表的な3つを取り上げた。

6月10日(金)11:00~
セント・ポール大聖堂での礼拝

公式誕生日の前日、王室関係者が集まり感謝の礼拝を行う。この日のために新たに作曲されたという聖歌が、大聖堂付属の合唱団によって披露される。作曲はジュディス・ウィアー、歌詞は、女王の誕生した年に詩人ロバート・ブリッジズによって作られた詩篇を元にしているそう。一般の人々は聖堂内への入場はできないが、この模様はBBC1で放送される。なお、この日は95歳となるエディンバラ公の誕生日でもあり、ダブルでおめでたい1日。

6月11日(土)10:00~
トゥルーピング・ザ・カラー

王室一家のほか、英国の政財官各界の賓客を迎えて行われる式典、「トゥルーピング・ザ・カラー(Trooping the Colour)」(軍旗敬礼分裂式)。英王室軍による華麗な軍楽パレードが有名で、バッキンガム宮殿から式典の会場であるホースガーズ・パレードまで、式典の終了後には再びバッキンガム宮殿までを大行進する。宮殿に戻った王室一家は、英空軍による祝賀飛行を観覧するため、午後1時頃に宮殿のバルコニーに姿を表す。沿道に設えられたパレード見学席のチケットはすでに売り切れだが、宮殿前の大通りザ・マルからパレードを眺めることも可能なほか、BBCでも放送予定。

6月12日(日)10:00~16:30頃
ザ・マル・ストリート・パーティー
(ザ・パトロンズ・ランチ)

バッキンガム宮殿前の大通りザ・マルに1万人分の招待客用テーブルと椅子が用意され、巨大なストリート・パーティーが開催される。そのうち2000人分は、抽選で参加資格を得て、150ポンドのチャリティー・チケット(ピクニック・ハンパー付き)を購入した一般市民たちだ。このパーティーにはエリザベス女王も参加し、特設の席で皆とランチを楽しむ予定。サーカスやバンド演奏なども昼12時から繰り広げられるという。参加したいけどチケットがない! という人は、セント・ジェームズ・パークとグリーン・パークにビッグ・スクリーンが設置されるのに加え、パーティーの模様がBBCで放送されるので、これを見ながら各自ピクニックを楽しもう。ビッグ・スクリーンの見える場所は結構混み合うと予想されるので、早めの場所取りをお勧めする。なお、このストリート・パーティーは雨天決行。念のため傘や雨具は用意して。さらに、家の近所でコミュニティによるストリート・パーティーが開かれる可能性もあるので、各区や市役所のサイトなどでも確認を。

{生誕150年}湖水地方の保護に生涯をかけたビアトリクス・ポター [Beatrix Potter]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2016年7月7日 No.940

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生誕150年 湖水地方の保護に生涯をかけたビアトリクス・ポター

生誕150年 湖水地方の保護に生涯をかけた

ビアトリクス・ポター

ビアトリクス・ポターが散策を楽しんでいた、100年前の景観を保ち続けている湖水地方。彼女の描いた『ピーター・ ラビット』の物語の舞台として有名であるだけでなく、「英国一」とも称される自然の美しさは、ポターの貢献なく しては語れない。ビアトリクス・ポター生誕150年を迎える今年、自然保護に情熱を注いだ彼女の人生を振り返りなが ら、湖水地方の魅力とナショナル・トラストの活動について、あらためて考えてみたい。

●サバイバー●取材・執筆・写真/田中 晴子・本誌編集部

自然保護のために戦った闘士

ビアトリクス・ポターは『ピーター・ラビット』の物語を、豊かな自然をたたえる湖水地方を舞台に描いている。イングランド北西部にあるこの地は、渓谷沿いに大小の湖が点在する風光明媚な地域で、英国内でも有数のリゾート地・保養地としても知られ、その景勝は多くの詩人や芸術家たちを魅了してきた。この地で生まれ育った詩人ウィリアム・ワーズワースや晩年に移り住んだ美術評論家のジョン・ラスキンも、湖水地方の壮大な景観に着想を得ている。だがここでは、封建的なヴィクトリア朝時代に生まれ育ったポターが、いかにして自らの道を切り開き、湖水地方の環境保護運動に力を注ぐに至ったかを紹介していこう。
現在、湖水地方の4分の1がナショナル・トラストの管理下にあるが、ポターは死後に4000エーカーの土地と、15の農場という多大な遺産をナショナル・トラストに遺している。優しげな水彩画で描かれた、青い服を着たウサギ「ピーター」の生みの親は、自然保護のために戦う闘士であり、また非常に優れた農場経営者でもあったのだ。

孤独だった子供時代

10歳頃のビアトリクス・ポターと、母のヘレン。
ポターは1866年7月28日、裕福な中流階級の娘としてロンドンのサウス・ケンジントンに生まれた。父方と母方の財産は、染布工場や造船業などによりイングランド北部で築かれたもので、彼らは産業革命が生んだ新たな市民階級の成功者たちの一部だった。オスカー・ワイルドの戯曲をはじめ、当時活躍した作家の作品には、こうした家庭の子女が上流階級の男性と結婚しようと策を練るといったストーリーが多く見られるが、貴族に匹敵する財力を築き上げた新興階級の家が次に望むのは、由緒正しい家柄、つまり「貴族の称号」だ。ポターの母であるヘレンもそうした考えを持つ一人で、成長したポターとの意見の相違は大きく、母娘の確執にポターは生涯悩まされることになる。
後年、ポターは米国の友人に宛てた手紙に「ありがたいことに、私の教育はおろそかにされました――(もし学校に行っていたら)教育によって独創性が幾分薄れることになったでしょう」と書いているが、当時の良家の子女がそうであったように、幼少時のポターも学校へ行かず、家で家庭教師について読書、作文、絵画や音楽を学んだ。外に友人を作ることもなく、1872年に6歳下の弟バーティ(バートラム・ポター)が生まれるまで、ほかの子供と接する機会もなかったようだ。ポターはその内面を豊かな想像力で満たすことで、寂しさや孤独感をまぎらわせていたのだろう。スコットランド人の乳母が繰り返し語る古い民話を好み、魔女や妖精の存在を信じ、父親の友人から貰った絵本『不思議の国のアリス』の挿絵に夢中になった。

自然観察とベストセラー作家の誕生

愛犬を抱くポター(15歳頃、写真右)と、
初めて湖水地方を訪れた一家が夏を過ごした
ウィンダミア湖畔に建つ「レイ・カッスル」(c CellsDeDells)。
ポターと湖水地方の出会いは早い。
彼女が16歳を迎えた1882年、父のルパートが夏の別荘として、湖水地方のウィンダミア湖西岸に建つ邸宅「レイ・カッスル」を借りたことから始まる。ロンドンでの堅苦しい生活を嫌っていたポターにとって、自然の中で羽を伸ばせるこの休暇は、何より楽しいひとときだったに違いない。目の前に広がる豊かな緑や色鮮やかな草花、のんびりと草を食む家畜、飛び回る昆虫などを観察し、やがてそれらを描くようになっていった。とくにキノコに多大な関心を抱いた彼女は、キューガーデンなどでキノコ研究に没頭。後にその研究結果を学会で発表しようとするものの、「女性」であることが高い障壁となり、受け入れられることなく終わっている。
また、この地で熱心な湖水地方保護活動家のハードウィック・ローンズリー牧師と、一家が知り合ったことも、ポターの人生に大きな影響をもたらした。当時31歳だったローンズリーは、ナショナル・トラストの前身となる「湖水地方保護協会」を立ち上げたところで、以後、彼はポターの終生の友人となる。
ポターは、休暇中に捕まえた昆虫や小動物をロンドンに持ち帰り、弟と一緒に育てながら絵を描き続けた。部屋には常にトカゲ、カエル、イモリ、ヘビ、コウモリ、そしてウサギやハリネズミ、ヤマネなどがいたが、後にピーター・ラビットやベンジャミン・バニー(ピーターのいとこ)といった、絵本の登場人物のモデルとなるウサギたちは、ロンドンのペットショップで購入されたという。彼らを見ながら描いたディナーのプレイス・カード(パーティーのテーブルに置く、参列者の名前が書かれたカード)を目にした叔父の提案により、ポターはいくつかの出版社に挿絵を持ち込み、そのうちの1社からクリスマス・カードとして採用されている。
さらに数年後、元家庭教師の息子に綴った、ウサギを主人公にした絵手紙が、子供たちに大好評だったという知らせを受けたポターは、今度は絵本というスタイルでの出版を考え始める。ローンズリーに助言を求めた彼女は、まず自費出版で世間の手応えを確かめた後、フレデリック・ウォーン社と1902年6月に出版契約を交わした。『ピーター・ラビットのおはなし』の初版8000部は、10月の刊行を待たずに予約だけで完売となり、年内に2度増刷。翌1903年末までには5万冊を売り上げるベストセラーとなった。

「ピーター・ラビット」ってどんな話?

1893年9月4日にポターが元家庭教師の息子(ノエル・ムーア)に宛てて書いた絵手紙が原型であるため、この日がピーター・ラビットの誕生日とされている。
シリーズ第1作『ピーター・ラビットのおはなし』=写真=は1902年に刊行。1作目ではピーターと彼の家族が紹介されている。お母さん、3人の姉妹と暮らすピーターだが、お父さんは近所の農場のマクレガーさんに捕まって「パイにされた」ので登場しない。いくつかのお伽噺がそうであるように、ポターの絵本には、ときに残酷でブラックな描写が含まれていることがあり、単に「青い服を着たウサギのかわいい絵本」だと思っている大人たちを驚かせる。逆に、子どもの心を掴むのはおそらくそのような部分ではないだろうか。1930年までに計23冊を発行。しかし、昨年に未発表作が発見され、今年9月に発売予定となっている。
ちなみに、ピーター・ラビットが登場するのは、1作目のほかに『ベンジャミン・バニーのおはなし』『ティギーおばさんのおはなし』『フロプシーのこどもたち』『「ジンジャーとピクルズや」のおはなし』『キツネどんのおはなし』の計6冊だ。

反抗と喪失―安らぎを求めて湖水地方へ

1894年に撮影された、(向かって左から)父ルパート、
ポター(28歳)、弟のバーティ(22歳)。
母のヘレンは、娘が自立したベストセラー作家になっても、彼女を10代の箱入り娘のように監視した。家には十分財産があるのに、絵具まみれになったり印刷所へ足を運んだりと、労働者まがいの振る舞いをするのは恥ずべきこと。それだけでも我慢ならないのに、フレデリック・ウォーン社の三男で、ポターの担当編集者であるノーマン・ウォーンと結婚すると言い出した娘に、ヘレンは激怒する。娘が「商人」と結婚するなど、考えただけでも耐えられない…! ヘレンは当然のごとく大反対したが、ポターの決意は固かった。ポターはこの時すでに39歳。「ミス・ポター」と呼ばれ続けるのも、従者なしでは未だに一人で外出することが許されないのも馬鹿げた話で、彼女こそ我慢の限界だったのだ。
両親に反対されようとも、私はこの愛を貫く――そう言い張るポターに、父のルパートは妥協案として、「婚約のことはごく限られた者だけにしか伝えず、ノーマンの兄弟にも知らせない」ことを約束させた。
ところが、プロポーズから1ヵ月後の1905年8月、ノーマンはリンパ性白血病のため、37歳でこの世を去ってしまう。ポターは悲しみに暮れたが、秘密の婚約であったことから、誰にもその胸の内を明かすことはできなかった。
秋に入る頃、悲しみから立ち直るため、ポターは思い切って湖水地方のニア・ソーリー村にあるヒル・トップ農場を入手する。以前にスケッチ旅行で訪れた時からニア・ソーリーを気に入っており、いつか物件を購入したいと願っていたのだ。ヒル・トップ農場は、17世紀の農家、農場付属の建物、果樹園のある34エーカーの農地からなっており、本の印税と叔母の遺産で購入した。ただし、ポターはニア・ソーリーに引っ越したわけではなく、あくまで湖水地方に滞在する際の「居場所」を確保したに過ぎない。それでも彼女はなるべくロンドンを離れるように務め、喪失感を埋めるかのように農場での仕事に打ち込んだ。

ロンドンのハイゲート・セメタリーにあるウォーン家の墓。
ノーマンもここに埋葬されている。写真左はノーマンと甥のフレッド。
「ピーター・ラビット」シリーズの絵本が順調に売り上げを伸ばし、印税収入も着実に増えてくると、ポターは長年の知人であるローンズリーが設立したナショナル・トラストを支援し始める。ナショナル・トラストは、土地を購入して開発や破壊から、自然環境や歴史的遺産を守る活動を行っている団体で、ポターはこれに賛同し、湖水地方の土地や建物を次々に購入していった。
また、こうした不動産の購入だけでなく、この地方原産のハードウィック種の羊の保護も率先して行った。ハードウィック種の羊毛は頑丈な上、防水性にも秀でていたことから衣類や敷物に珍重されていたが、数年前から家屋の床張りにリノリウムが使われだし、この羊毛値が暴落。これにより牧羊をやめて、廃業する農家が次々に現れたのだった。この地方で農地経営が行われなくなったら、土地は荒廃し、景色も一変してしまう…。ポターはローンズリーの勧めもあり、本格的な農場経営に加え、羊の飼育にも乗り出していく。水上飛行機の飛行場ができるという噂が立ったときは、抗議文を雑誌へ投稿したり、建設反対の署名運動も行ったりしている。

映画「ミス・ポター」

ポター(レネー・ゼルウィガー演)が絵本作家になるまでを描いた、2006年製作の作品。本作は、婚約者ノーマン・ウォーン(ユアン・マクレガー演)との死別という悲しみを乗り越え、印税で購入したヒル・トップ農場で創作に専念し始めるところで終わる。
原作者のポターにスポットを当て、改めてその人物像が知られるようになったのは、この映画の功績のひとつと言える。また、ユーモアを交えさらりと描いているものの、封建的なヴィクトリア朝時代に、未婚の女性が本を出版することの難しさが伝わってくる。
湖水地方の各名所で撮影されたが、ニア・ソーリー村のヒル・トップ農場は、ロケを行うにはあまりにもポターの私物が多く(死後そのまま保管されている)、現在も農場として運営されていることから、撮影は不可能と判断。代わりに、コニストンにあるユー・ツリー農場が使われた。

第2の出会いと人生の始まり

ニア・ソーリー村にある、ヒル・トップ農場の方向を指すサイン。
後ろに見えるのは、夫婦で暮らしたカッスル・コテージ。
自然保護活動のために購入した土地や建物が増えると、その管理には弁護士が必要となり、ポターはウィリアム・ヒーリスという現地の弁護士に、売買契約や諸手続きを依頼することにした。ヒーリスは40歳を少し過ぎたスラリと背の高い美男子で、大変なスポーツマンだったという。彼はポターの自然保護運動にも共感し、彼女に不動産情報を与えるほか、様々な取引を代行した。ヒーリスは自分の故郷を愛し守ろうとする、ロンドンからやってきたこの強い女性を深く尊敬し、多くの時間を一緒に過ごして土地の改良計画を共に考えた。2人はゆっくりと愛情を育み、ついに1912年6月、ヒーリスはポターに結婚を申し込む。
ポターの両親はまたしても格の違いを理由に結婚に反対するが、思わぬところから助けが入った。スコットランドで暮らしていた独身のはずの弟のバーティが、実は自分は11年前に内密に結婚しており子供もいることを、初めて両親に打ち明けたのだ。ショックを受けた両親は、もはやポターの結婚に反対する気力もなく、翌年10月に2人はロンドンで結婚式を挙げた。ポターは47歳、ヒーリスは42歳。ようやく「ミス・ポター」という呼称を返上し「ヒーリス夫人」となったことを、彼女は心から喜んだ。「今はもう、後ろを振り返らないのが最善でしょう」。ポターは、友人への手紙にこう書いている。
2人はニア・ソーリー村のカッスル・コテージを購入し、ポターが農場経営と絵本執筆、ヒーリスが弁護士事務所での仕事と、幸せで落ち着いた暮らしを送った。しかし一方で、彼らは年老いた親族の生活も支えていた。ヒーリスは伯母の面倒を見ており、ポターにはロンドンに両親がいた。1914年に父親がガンで死去すると、ポターはかつて一家で夏の休暇を過ごしたことのあるウィンダミアの邸宅「リンデス・ハウ」を母のために購入し、彼女をロンドンから呼び寄せる。ヘレンは女中4人、庭師2人、運転手1人を連れて越してきたが、「田舎暮らしは退屈」と常にこぼしていたという。

スキャンダルを乗り越えて

ポターと、5歳下の夫ウィリアム・ヒーリス。
フレデリック・ウォーン社との仕事は、婚約者のノーマンが死去して以来、兄のハロルド・ウォーンが担当編集者となっていた。だが、ハロルドとは作品内容について対立することが少なくなく、そのうち印税支払い書が届かないことも増え、ついに彼女は催促状を送ることにする。
「見つけられる最後の明細書は、1911年のものです」
この手紙を書いたのは1914年。3年も黙していたのは、ノーマンの肉親であり、彼との大切な思い出がある会社だからだろう。ところが彼女の懸念は的中。ハロルドが自分の借金の穴を埋めるため、出版社の資金を流用しようと、合計2万ポンドにのぼる偽造為替手形を使っていたことが判明したのだ。ハロルド逮捕の報を受けたポターは、すぐさま版権の保護を弁護士に依頼。そしてハロルドが二度とウォーン社に関与しないという条件で、新たに2冊の絵本を出版することを約束した。これはノーマンのもう一人の兄フルーイングが、ウォーン社を再建する手助けのためだった。ポターの絵本は、ウォーン社にとっての頼みの綱となっていたのである。
そんな中、今度は弟バーティの急死の知らせが届く。46歳の若さで、死因は脳溢血だった。幼い頃から共に絵や動物を愛し、封建的な両親と戦ってきた弟を亡くしたポターは、大きなショックを受けた。しかし、農場経営や母の世話、ウォーン社への対応など、彼女にはやらなければならないことが山程ある。ポターは立ち止まることなく、前を見て進むのだった。

ナショナル・トラストって何?

産業革命で、都市や農村のあり方が大きく変わりつつあった1894年。美しい田園風景や歴史的な価値がある建物を、国民の『共通遺産』として残そうと、3人の有志たちによって設立されたのが「ナショナル・トラスト」である。
中心となったのは、弁護士のロバート・ハンター。議会に働きかける形の環境保護運動に限界があることに気づき、地域の乱開発を防ぐためには、それが破壊される前に「土地を購入するべし」という結論に達したのが出発点だった。土地の購入資金はトラスト・メンバーの会費や個人の寄付が財源となっており、基本的に政府からの援助は受けず、独立機関として活動。現在では英国最大の民間土地所有者となっている。
また、創立者の一人である牧師・社会事業家のハードウィック・ローンズリー=写真=は、ポター家の友人であり、彼女に多大な影響を与えた。
残りの創設者はオクタビア・ヒルといい、過酷な生活環境に置かれている労働者たちを助けるための、住宅改良運動に尽力した女性として知られる。彼女の提案で「ナショナル」(=国民のための)、慈善的な組織であることを強調するために「トラスト」(=信託)という言葉が選ばれ、名称が決められたという。

遺灰はもっとも愛した丘に

ウィンダミアにある小高い丘「オレスト・ヘッド」からの眺め。
ウィンダミア湖も一望できる。
しかしながら、創作意欲は次第に衰えていった。「視力が衰えた」とポターは話しているが、農場経営に対する興味が大きくなったことも確かだったようだ。1924年には、湖水地方で最も景観の美しい農場のひとつ、トラウトベック・パーク農場を購入。ここは2000エーカーを超える大農場で、ニア・ソーリー村の3つの農場も加えると、ポターはまぎれもない湖水地方屈指の大地主となった。
高級車モリス・カウリーの新車を買い、毎日これらの農場を見て回るため、風を切って走るポターの姿はおなじみだったという。ただし、服装に無頓着な彼女は、いつもブカブカのレインコートに長靴、ヨレヨレの中折れ帽を被って、ホームレスから同類扱いを受けたこともあったらしい。
1943年、クリスマスの3日前の12月22日、77歳のポターはカッスル・コテージにて気管支炎で亡くなるが、その寸前まで精力的に湖水地方の自然保護活動を続けた。死期を悟った時には綿密な遺書を作成し、農場の今後や、自分の作品の寄付先も指示。遺灰はニア・ソーリー村の彼女がもっとも愛した丘に撒くように、と信頼の置ける羊飼いのトムに伝えられた。「村のどこに散骨したかは、夫のヒーリスにも言ってはいけない」と固く口止めされたというトムは、その秘密を守ったまま1986年、90歳で死去している。

あまり身なりを気にしなかったポターは、
浮浪者に間違えられたことも。
ポターの遺言により、ナショナル・トラストは、湖水地方の4000エーカーを超える土地と、15の農場や古家を譲り受けることになった。さらに、ヒル・トップ農場にある家の部屋は彼女が残したままの状態で保存し、誰にも貸してはならないこと、農場で飼育する羊は純粋のハードウィック種を維持すること、そして領地内での狩猟は固く禁じることなども添えられていた。
数多くの才能を持ったパワフルな女性、ビアトリクス・ポター。彼女は、絵本のインスピレーションの源であり、つらい時に自分を支えてくれた湖水地方の美しい自然や動物たちを守るために、あらゆる努力を惜しまなかった。現在、私たちが見ることができる湖と山々で織りなされるドラマチックな風景は、その半生をかけて全力で守ろうとしたポターがいたからこそ、今なお存在しているのである。

湖水地方(Lake District)
ビアトリクス・ポター の足跡をたどる

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湖水地方(Lake District)ビアトリクス・ポター の足跡をたどるMAP

頑張れ日本!リオ五輪 見どころ総まとめ [Rio 2016 Olympics]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2016年8月4日 No.944

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がんばれ日本!リオ五輪 見どころ総まとめ

頑張れ日本!

リオ五輪 見どころ総まとめ

英国中が沸いたロンドン五輪からはや4年。各国が総力を挙げて競うスポーツの祭典が、8月5日からブラジルのリオデジャネイロで開幕する。南米大陸での初開催となるこの夏季五輪での注目の日本人選手や競技など、見どころをまとめた。

●サバイバー●取材・執筆/本誌編集部

その昔、古代ギリシャで全能の神ゼウスを崇めるために戦争や争いを中止して始まった平和の祭典が今、試練の時を迎えている。
8月5日から21日にかけて開催される第31回リオデジャネイロ夏季五輪。開催国ブラジル国内外には問題が山積みだ。現職大統領の汚職疑惑に対する国民の不満や、景気の後退を背景とする犯罪の増加。国の経済状況を目の当たりにし、五輪開催を快く思わない人も当然見られ、リオでは7月に入ってからもなお五輪ボイコットを求めるデモが発生。聖火リレーが一時中断されたこともある。
政府は治安維持のために、ロンドン大会の約2倍となる数の警察官や兵士を警備にあたらせる構えだが、これにより国庫をさらに苦しめることになるというのは皮肉な話といえる。
治安の悪化に加え、昨年、急増が確認されたジカ熱への懸念などもあいまって、五輪出場を辞退した選手もいる。
問題はそれだけではない。国外に目を向けてみると、ドーピング問題で出場停止処分となるロシア選手が続出し、またイスラム教スンニ派過激組織「IS」に共鳴したブラジル人10人が、国内でテロを企てたとして逮捕されるなど、明るいニュースを探すほうが難しい。それほどにリオ五輪を取り巻く環境は思わしくない。
五輪は「平和の祭典」として成功を収めるのだろうかと不安は否めないが、本大会は、南米大陸での初開催という記念すべき大会でもある。その中心人物となる選手らは、こうした状況下に置かれながらも自らの最高のパフォーマンスで競うべくリオへと乗り込んだ。その数、206ヵ国・地域から1万人超。5日からおよそ2週間、私たちは一つひとつの試合に熱いドラマを見ることになるだろう。商業主義に走りすぎ、「商業五輪」と揶揄されて久しいこのスポーツ・イベントではあるが、選手らのスポーツマンシップがこの平和の祭典の意義を深めることを祈らずにはいられない。その思いと、日本勢活躍の期待を胸に、いざ、リオへ!
チーム JAPAN

チーム JAPAN

4年に1度のこの瞬間のために、切磋琢磨を続けてきたアスリートたち。主将を務めるレスリングの吉田沙保里、旗手の右代啓祐(陸上・十種競技)をはじめ、日本からは国外開催で史上2番目となる337選手が出場する。メダル獲得が期待される、注目の競技を紹介する。
※各競技の日程は、すべてブラジル時間。

競泳

北島の後継者、続々誕生。競泳から目が離せない!

五輪4大会出場、金メダル2つを含む計7個を獲得した競泳界のリーダー北島康介(33)が引退し、大黒柱を失った男子日本競泳界。だが『北島魂』を継ぐ選手は着実に育っている。
リオに向かったのは、男子18人、女子18人の総勢36人。躍進のカギを握るのは、男子400、200メートル個人メドレー、200メートル自由形、800メートルリレーの計4種目に出場予定の萩野(はぎの)公介(21)。中でも400メートル個人メドレーでは、世界選手権の同種目で2連覇を果たしている瀬戸大也(200メートルバタフライにも出場、22)とともに、金メダル争いが予想される(レースは6日)。見逃せない種目のひとつになりそうだ。一方、ロンドン五輪で銀2つ、銅1つを獲得した入江陵介(100、200メートル背泳ぎ、26)は3大会連続出場を果たしている。「自身の集大成」と位置づけた本大会で、狙うはもちろん「金」。また「ポスト北島」との呼び声が高い、200メートル平泳ぎの小関也朱篤(こせき・やすひろ、24)がどのようなレースを見せてくれるかも楽しみ。
女子は、ロンドン大会の200メートルバタフライで銅メダルを獲得し、昨年の世界選手権の同種目で優勝を飾った星奈津美(200メートルバタフライ、25)もメダル候補。そのほか同世界選手権女子200メートル平泳ぎで優勝を果たした渡部香生子(200メートル平泳ぎほか、19)、五輪には2大会ぶりの出場となる金藤理絵(200メートル平泳ぎ、27)、五輪初出場の高校生スイマー池江璃花子(100メートルバタフライほか、16)からも目が離せない。
▲競技日程:6~13日
BBC Sport 競泳ウェブサイト

柔道

お家芸復活をかけた戦い

ロンドン大会では、男子が史上初めて金メダルを逃し、金メダルは女子57キロ級の松本薫(28)の1つにとどまった日本柔道界。ロンドンの雪辱を果たすことができるのか!?
お家芸復活をかけて男子を指導するのは、シドニー五輪金メダリストの井上康生監督。最も金メダルに近いと期待を寄せるのが73キロ級の大野将平(24)だ。昨年の世界選手権で優勝、2月のグランプリ・デュッセルドルフ大会でも勝利を収め、大野自身も、「(リオでは)最低でも金」と宣言している。グレースノート社は、日本男子全員をメダル候補に挙げており、60キロ級の高藤直寿(23)、81キロ級の永瀬貴規(22)、90キロ級のベイカー茉秋(ましゅう、21)には「金」予想を出している。男子計7人のうちロンドン経験者は66キロ級の海老沼匡(26)のみとフレッシュな顔ぶれ。
一方の女子は、松本が2大会連続の金を目標にすえるほか、48キロ級の近藤亜美(21)、3大会連続出場となる52キロ級の中村美里(27)ら計7人。開会式翌日から試合が始まることから、ぜひともメダルを量産して、日本選手団を鼓舞してほしい。
▲競技日程:6~12日
BBC Sport 柔道ウェブサイト

レスリング

吉田、伊調の4連覇なるか!若手の活躍にも注目

メダル量産の筆頭に挙げられるレスリング。4連覇を目指す53キロ級の吉田沙保里(33)、58キロ級の伊調馨(32)をはじめ、女子6人、男子4人が世界に挑む。48キロ級で世界選手権3連覇中の登坂絵莉(22)のほか、五輪初出場となる63キロ級の川井梨紗子(21)、69キロ級の土性(どしょう)沙羅(21)など、いずれもメダル候補。男子は12階級のうち4階級に出場。9階級に出場したロンドン大会から大幅に出場枠を落とし、不安の声も上がるが、踏ん張ってほしいところ。
▲競技日程:14~21日(女子は17~18日)
BBC Sport レスリング ウェブサイト

体操

限りなく金に近い男子個人総合。王者・内村が魅せる!

男女各5人が出場。男子は、3大会連続五輪出場のエース内村航平(27)をはじめ、五輪初出場となる白井健三(19)など、内村が「信頼がおける」と太鼓判を押すメンバーがそろい、男子団体総合で3大会ぶりとなる金メダルを獲得できるかに注目が集まる。ちなみにロンドン大会では、男子団体が銀、内村が個人総合で金、ゆか種目で銀を獲得。昨年グラスゴーで行われた世界選手権で、内村が個人総合(6連覇)、鉄棒で金、白井がゆかで金、男子団体で優勝に輝いている。「体操ニッポン」の力強く美しい演技が今から待ち遠しい。
▲競技日程:6~11日、14~16日
BBC Sport 体操ウェブサイト

バドミントン

「タカマツ」組の金に期待

違法カジノ問題が世間を騒がせたバドミントン界からは、シングルスで男子1人と女子2人、ダブルスの男子1組、女子1組、混合1組の計9人。女子ダブルス世界ランキング1位の高橋礼華(あやか、26) 松友美佐紀(24) 組(タカマツ組)はグレースノート社のメダル予想でも金が期待される。1次リーグAグループのタカマツ組は、オランダ、タイ、インドのペアと対戦。各グループの上位2組が準々決勝に駒を進める。また3月の全英オープンの女子シングルスで日本人として39年ぶりに優勝した奥原希望(21)にもご注目を!
▲競技日程:11~20日
BBC Sport バドミントン ウェブサイト

卓球

卓球王国・中国に迫る!

ロンドン大会で銀メダルを獲得した女子団体=写真。今年の春に引退した平野早矢香(31)=同中央=に代わり、15歳の伊藤美誠が入り、福原愛(27)石川佳純(23) とともに団体「金」を狙う(福原、石川はシングルスにも出場)。一方、男子は水谷隼(27)、丹羽孝希(21)がシングルスおよび団体に、吉村真晴(23)が団体に出場する。3月の世界団体選手権では、男女ともに圧倒的な強さを誇る中国に負けを喫し、準優勝となった。
▲競技日程:6~17日
BBC Sport 卓球ウェブサイト

フェンシング

太田、悲願の金なるか!

2008年北京大会の男子フルーレ個人で銀メダルを獲得し、日本フェンシング界を変えた男、太田雄貴(30)。ロンドン大会で男子団体の準優勝に貢献したほか、昨夏の世界選手権ではフルーレ日本勢初の金メダルに輝いただけに、同種目での金メダル候補として有力(試合は7日)。太田は五輪後に引退を示唆しており、本大会が集大成となる。ほか男子2、女子3選手が出場。
▲競技日程:6~14日
BBC Sport フェンシング ウェブサイト

テニス

世界ランク6位の錦織圭が日の丸を背負う!

日本のスポーツ史において、初めて五輪でメダルを獲得した競技が、実はテニス。1920年アントワープ大会で、熊谷一弥(男子シングルス)、熊谷一弥、柏尾誠一郎組(男子ダブルス)が銀メダルをもたらした。それから1世紀ほどの時を経て、日本テニス界のエース、錦織圭(26)が男子シングルスで金メダルを狙う。ただ、世界ランク6位の錦織は、6月のウィンブルドン選手権で痛めた左脇腹の状態が心配される。男子シングルスには、錦織含む3選手が出場する。
女子シングルスには、世界ランク49位の土居美咲(25)、同70位の日比野菜緒(21)が、女子ダブルスには土居、穂積絵莉(22)組が出場予定。
▲競技日程:6~14日
BBC Sport テニス ウェブサイト

女子バレー

ロンドンの「銅」よりも高く

ロンドン大会での銅メダルよりも上のレベルを目指して、主将の木村沙織(29)をはじめ、荒木絵里香(32)など、ロンドン大会メンバー4人を含む12人が選出された。現在世界ランキング5位の日本は、1次リーグで、五輪3連覇を狙うブラジル、同4位のロシア、同8位の韓国、同9位のアルゼンチン、同21位のカメルーンと対戦する。上位4チームが準々決勝に進む。
▲競技日程:6~ 21日(日本女子は、6日韓国戦、8日カメルーン戦、10日ブラジル戦、12日ロシア戦、14日アルゼンチン戦/女子決勝トーナメントは16日~20日)
BBC Sport バレーウェブサイト

陸上・マラソン

男子400メートルリレー 北京大会以来のメダルへ

男子短距離の桐生祥秀(よしひで、20) ケンブリッジ飛鳥(23)、女子短距離の福島千里(28)など51選手(男子37人、女子14人)が出場。注目の種目は、2008年北京大会で銅メダルを獲得した男子400メートルリレー。100メートルで日本人初の9秒台を狙う桐生、山県亮太(24)、ケンブリッジの3選手と、200メートルの飯塚翔太(25)がバトンをつなぐ。男子1600メートルリレーでは、ドーピング問題に揺れるロシアチームの欠場を受け、日本が繰り上げ出場となった(9大会連続)。この幸運をぜひ活かしてほしいもの。日本女子で初めて五輪4大会連続出場を飾る女子マラソンの福士加代子(34)もお見逃しなく!
▲競技日程:12~21日
BBC Sport 陸上競技ウェブサイト

テコンドー

世界女王、濱田の挑戦!

日本からは唯一、女子57キロ級でロンドン大会5位入賞の濱田真由(22)が出場する。グレースノート社から銅メダル獲得の予想が出されているが、昨年の世界選手権で日本人初の優勝を飾っており、金メダルは決して遠くない。
▲競技日程:17~20日(57キロ級は18日)
BBC Sport テコンドー ウェブサイト

サッカー

女子の雪辱を果たせ!若きイレブンが世界に挑む

ロンドン大会で銀メダルを獲得した代表女子は4大会連続出場を逃し、男子のみがリオの地を踏む。出場資格は23歳以下と規定されており、主将を務める浦和のMF遠藤航(23)、プレミアリーグのアーセナルに移籍したFW浅野拓磨(21)、鹿島のDF植田直通(21)らが選出されている(オーバーエイジ枠として3選手が出場)。優勝候補に挙げられるアルゼンチン、開催国でサッカー大国のブラジルなど計16ヵ国が出場。日本は、スウェーデン、コロンビア、ナイジェリアとグループ・ステージを戦い、上位2チームが決勝トーナメントに進む。
▲競技日程:3~20日(日本男子は、4日ナイジェリア戦、7日コロンビア戦、10日スウェーデン戦/決勝トーナメントは13〜20日)
BBC Sport サッカー ウェブサイト

ゴルフ

トップ選手、相次ぐ辞退…

本大会から正式種目!ゴルフの普及を目的に、112年ぶりに正式種目に復活するも、治安やジカ熱への懸念などを理由に、豪ジェイソン・デイ、英ロリー・マキロイら男子トップ4が出場を辞退。日本勢も松山英樹(24)と谷原秀人(37)が辞退しており、男子は池田勇太(30)、片山晋呉(43)、女子は野村敏京(はるきょう、23)、大山志保(39) が出場する。
▲競技日程:男子11~14日、女子17〜20日
BBC Sport ゴルフ ウェブサイト

7人制ラグビー

15人制とは一味違う!

本大会から正式種目!2015年W杯で一躍人気を集めたラグビー。本大会から、7人制(通称:セブンズ)が初めて正式種目となる。日本は男女ともに出場権を獲得。前半7分、ハーフタイム1分、後半7分の計15分で行われ、15人制とは一味違った、展開の速いラグビーを楽しめる。選手に求められる技術も15人制とは異なり、ラグビー人気の中心的存在の五郎丸歩は出場しない。男女各12ヵ国が3グループに分かれて予選リーグを行い、その後、決勝トーナメントへ。
▲競技日程:女子6~8日、男子9~11日
BBC Sport 7人制ラグビーウェブサイト

パラリンピック

9月7日~18日に行われるパラリンピック。176ヵ国・地域から約4350選手が集い、計22競技で熱戦を繰り広げる。

目標は金メダル10で、東京パラリンピックにつなぐ

北京、ロンドン大会に続き、
車いすテニス男子シングルスで
3連覇を狙う国枝慎吾。
ロンドン大会で金メダル5、銀メダル5、銅メダル6を獲得した日本選手団。2020年東京パラリンピックを盛り上げるためにも、リオで好成績を残すことが期待され、リオ大会では、金メダル10個を含むメダル40個を目標に掲げる。
メダルの最有力候補は、車いすテニス男子シングルスで北京、ロンドンに続き、3連覇を目指す国枝慎吾(32)。7月のウィンブルドン選手権では右ひじの故障で欠場を余儀なくされたが、常に逆境を跳ね返してきた王者の戦いに声援を送りたい。
障害者スポーツ界のレジェンド、競泳女子の成田真由美(45)の復活の一戦も見どころのひとつ。成田は、アトランタ大会(1996年)から北京大会までの4大会に連続出場し、15個の「金」を含む計20個のメダルを獲得している。一度は引退したものの、「水泳の魅力を伝えて若手を発掘したい」と、昨年、7年ぶりの復帰を果たした。
さらに競泳界のエースで、盲目のスイマー木村敬一(25)にとっては3度目の五輪。ロンドン大会の100メートル平泳ぎで銀、100メートルバタフライで銅を獲得し、今回は「金」を狙う。
総勢100人を超す日本選手団の主将を務めるのは、車いすバスケットボール男子の主将、藤本怜央(れお、32)=同左。旗手は、今年、車いすテニス女子の全豪、全仏、全英のダブルスで優勝し絶好調の上地結衣(22)が務める。
知っておくと楽しめるリオ五輪エトセトラ

抑えておきたい リオ五輪基礎知識

開催期間 : 8月5日(金)~21日(日)
英国との時差 : マイナス4時間(例:リオ 午後2時=英国 午後6時)
公式マスコット : 五輪のマスコットは、猫、猿、鳥を合わせたイメージの「ビニシウス」で、パラリンピックのマスコットは、植物をイメージした「トム」。
一般からの投票で命名され、ブラジル出身の音楽家で名曲『イパネマの娘』を作詞したビニシウス・モラエス氏と、作曲したアントニオ・カルロス・ジョビン氏(愛称トム)に由来している。キャラクターをデザインしたのは、なんと日系ブラジル人デザイナーのルシアナ・エグチさん。ちなみに、聖火リレーの際に使われたトーチも日系ブラジル人のロミー・ハヤシさんによってデザインされた。

BBCが勢力を挙げて放送!ロンドン各所には巨大スクリーンも登場。

遠く離れたリオまで足を運ぶことは難しいかもしれないが、英国テレビ史上、最も成功を収めたというロンドン大会同様、BBCが総力を挙げて現地から中継する。TV(BBC1、2、4/英国時間で毎日午後1時~翌朝4時ごろ)、BBCレッド・ボタン、ラジオ、オンライン(BBC Sport)にて放送予定。

開会式中継 8月5日(金) リオデジャネイロのマラカナン競技場からBBC1で中継される。英国時間6日午前0時の開会式開始に先駆けて、同5日午後11時40分から放送。
閉会式中継 8月21日(日) 開会式と同様に、BBC1で中継される。2020年五輪開催国である日本を紹介するパフォーマンスにも注目したい。 巨大スクリーンで観戦しよう 期間中、ロンドン各所には巨大スクリーンが設けられ、観戦が可能。英国人アスリートの試合が流されることが多いと思われるが、オリンピックの雰囲気は十分に味わえそう。クイーン・エリザベス・オリンピック・パーク(E20 2ST)のほか、ロンドン・ブリッジ・シティ(SE1 2DB)=写真、マーチャント・スクエア(W2 1BF)など。 人気種目をハイライトにて! 朝番組「BBC Breakfast」では、前日(早朝)の競技の模様をハイライトにて放送。人気種目がチェックできる。

英メディアが注目するアスリート

モハメド・ファラー
陸上競技・英国(33)
ロンドン大会の5000、1万メートルで金メダルに輝いた中長距離の王者。7月にロンドンで行われたダイヤモンド・リーグの5000メートルで優勝し、好調ぶりをアピールした。頭のてっぺんに両手を置いてMの字を描く『Mobot』ポーズは有名。愛称「モー(Mo)」。

トム・デイリー
飛込・英国(22)
ロンドン大会で、ため息の出るような美しい飛込で観客を魅了したデイリー。銅メダルを獲得した「4年前よりも確実に成長している」と、胸を張る。

ジェシカ・エニス=ヒル
陸上競技・英国(30)
ロンドン大会の陸上女子七種競技で金メダルを獲得。その後、結婚、出産を経て、再び五輪の舞台で雄姿を見せる。

ブラッドリー・ウィギンズ
自転車・英国(36)
英国で人気の自転車競技。過去4大会において人々の期待に応え続けているウィギンズは、今回で5回目の五輪となるが「19歳のころと何も気持ちは変わっていない」と新鮮な気持ちで挑む。

ネイマール
サッカー・ブラジル(24)
スペイン1部リーグのバルセロナに所属するストライカー。オーバーエイジ枠で代表に加わり、地元ブラジルで華麗な技を披露する。

ウサイン・ボルト
陸上競技・ジャマイカ(29)
男子100、200メートルで北京、ロンドン大会を制した世界最速の男。2017年世界陸上(ロンドン開催)での引退を表明していることから、さらなる注目を集めている。出場予定は100メートル(決勝は英国時間15日早朝2時25分)、200メートル(決勝は同19日早朝2時30分)、400メートルリレー(決勝は同20日早朝2時35分)。

さながら地下のデザイン博物館!ロンドン地下鉄を彩るアート

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2016年9月1日 No.948

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さながら地下のデザイン博物館!ロンドン地下鉄を彩るアート

▲写真:セントラル線ガンツ・ヒル駅構内

さながら地下のデザイン博物館!

ロンドン地下鉄を彩るアート

遅延は当たり前、最終目的駅も急に変わる(!)、ストライキや改修工事でしばしば運休するなど悪名高いエピソードに事欠かないロンドンの地下鉄。
しかし、ひとたびその目を、駅を彩るアートとデザインに向けてみると全く違った風景が見えてくる。それぞれの駅が異なる個性を持ち、新しい発見に満ちている。いつしか全駅制覇してみたいとも思わせる、デザインの魅力。今週号では、駅に降り立つのが楽しみになるロンドン地下鉄アート案内をお届けしたい。

●サバイバー●取材・執筆・写真/ホートン秋穂・本誌編集部

パブリック・アートの目覚め

「どんな場所であれ、命あるところに芸術は存在する」
1917年にフランク・ピック(Frank Pick)が漏らした言葉だ。ピックは芸術家ではなく、33年に発足した現在のロンドン交通局の前身となる組織、ロンドン旅客輸送委員会(LPTB)の常務だった人物。パブリック・アートとデザインの重要性を深く理解し、駅の設計や字体の統一、路線図の改良を断行するなど積極的にデザイン・プロジェクトを進めた人物として知られる。今日、私たちが目にするロンドン地下鉄駅の高い芸術性は彼の力によるものが大きい。

シカゴからの新しい風

ピカデリー線、ホロウェー・ロード駅内のタイル。
1863年に世界で初めての地下鉄、メトロポリタン鉄道(後のメトロポリタン・ライン)がパディントン駅~ファリンドン駅区間で開業。その後、次々と路線が開通し、20世紀初めまでには9つの異なる鉄道会社が乱立した。すなわち、①メトロポリタン鉄道(1863年開業)②メトロポリタン・ディストリクト鉄道(68年)③シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道(90年)④ウォータールー・アンド・シティ鉄道(98年)、⑤セントラル・ロンドン鉄道(1900年)⑥グレート・ノーザン・アンド・シティ鉄道(04年)⑦ベーカーストリート・アンド・ウォータールー鉄道(06年)⑧ グレート・ノーザン・ピカデリー・アンド・ブロンプトン鉄道(06年)⑨チャリング・クロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道(07年)が、別々に運営されていたのだ。
馬車や路面電車との競争も激しかったため、各社ともに運賃の値引きなどで優位に立ち、利用客の獲得を狙った。
しかし、決して安くない運営コストをまかないつつ、収益性の高い郊外への延伸を目指すにあたり、資金繰りは非効率的で困難を伴った。
そこに登場したのが、米国人投資家チャールズ・ヤーキス(Charles Yerkes)である。シカゴでの路面鉄道ビジネスで富を得た後、ロンドンの地下鉄事業に関心を示し、1900~02年にかけて次々と路線を買収。02年にはそれらを傘下に収めたロンドン地下鉄電気鉄道会社を創立する。この合併は地下鉄の電力化推進と駅舎デザインの統一に大きく貢献した。
03年には建築家レスリー・グリーン(Leslie Green)が採用され、現在のピカデリー線、ベーカールー線、ノーザン線にあたる路線で、4年のあいだに50駅の駅舎をデザインした。駅舎はオックス・ブラッド・カラーと呼ばれる赤いテラコッタタイルで覆われた鉄筋構造で、上階に半円状の窓を持ち、駅舎上階に商業施設を追設することを考慮し、平面の屋根で統一。内部には各駅で異なる美しい模様のタイルを施し、ひとめでグリーン設計の駅だと分かる造りになっている。
しかし、グリーンはあまりの短期間で数多くの駅のデザインと設計監督をこなさなければならない仕事のプレッシャーと激務からか結核を患い、33歳という若さでこの世を去ることになる。まだまだやりたいことが山のようにあっただろう。その早い死を多くの人が悼んだ。

「地下の鉄道」のブランド作り

ヤーキスが新風を吹き込んだかと思われたロンドン地下鉄電気鉄道会社だったが、開業当初から経営危機に見舞われた。莫大な借入金の利子の支払いが経営を圧迫し、乗客数も依然と伸び悩んでいたのである。
経営の見直しから1907年にジェネラル・マネージャーに就任したアルバート・スタンレー(Albert Stanley)が傘下に入っていない路線も含め、すべてのロンドンの地下鉄路線を「アンダーグラウンド(The Underground)」のブランド名でまとめるとともに、予約システムや統一運賃の導入を決定。収益の改善を図ったという。
08年には赤い丸と青い横帯を組み合わせた図案が考案される。その青い横帯内に駅名や『UNDERGROUND』と白抜きで書かれた統一ロゴマークの「ラウンデル(The Roundel)」の登場である。現在も私たちが目にするこのロゴマークは、経営不振からの脱却を目指した産物だったのだ。
スタンレーの右腕としてデザインに大きく貢献したのが、13年にコマーシャル・マネージャーとなった、先述のフランク・ピックだ。
良いものは使いやすく機能的なものであるべきだというデザイン信念を持ち、「駅名の表示などを覚えやすく認識しやすくすること、そして環境に良く馴染むもの」という依頼のもとに、エドワード・ジョンストン(Edward Johnston)に書体作成を任せた。ジョンストンによる書体『ジョンストン・サンズ』はいくたびかの改良が重ねられたものの、今日でも見ることができる。
また、統一書体の制定だけでなく、それまでは大きさもばらばらで駅構内の至る所に貼り出された広告ポスターのサイズ規格や枚数を統一したほか、乗客が駅名を見やすいようにしたのもピックのアイディアだったという。
20年代以降には郊外への路線の拡張とともに駅舎のデザイン計画にもピックは深く関わる。建築家チャールズ・ホールデン(Charles Holden)を採用し、モダニズム建築による駅舎が30年代、主にピカデリー線の北東エリアで数多く生まれた。広いコンコースで切符売り場の混雑を緩和し、乗客が電車にすぐに乗れるよう、エスカレーターも導入された。
33年には、地下鉄をはじめバスや路面電車をすべて統括する公共機関として創設されたロンドン旅客輸送委員会(LPTB)で、スタンレーは会長に、ピックは常務に就任。地下鉄路線図の改良など様々なプロジェクトにより、統一性を保ちながら、地下鉄デザインは順調な発展を遂げていく。

「統一」から「個性」へ

戦後には人口膨張に伴う交通量の増加を受けて、ヴィクトリア線(68年)、ジュビリー線(79年)が新しく開通し、ピカデリー線も、ヒースロー空港までの延伸が実現(77年)。
70年代末以降は、エドゥアルド・パオロッツィによるトテナム・コート・ロード駅のモザイク壁アートや、デヴィッド・ジェントルマンのチャリング・クロス駅にみられる木版アートなど統一性よりも各駅が「唯一無二」の存在になるようなアート・プロジェクトが新しい潮流となった。スタンレーやピックたちが意識した「統一」の中に、斬新なアクセントが加えられたのだった。
開業してから150年あまり。
ロンドンの地下鉄は今も進化を続けているが、これまでに築かれた「財産」をふり返る試みも行われている。2016年7月には地下鉄のアートを巡るガイドマップが発行され、市内中心部の駅では無料で受け取ることができる。フランク・ピックが礎を築いた「誰もが毎日楽しめるアート」の精神は脈々と受け継がれ、様々なスタイルや色でロンドンの地下鉄駅を彩り、乗客の目を楽しませてくれる。いつも利用する地下鉄の駅にも、今度、ゆっくりと目を向けてみてはいかがだろうか。
独断ピックアップ じっくり鑑賞したい!おすすめ地下鉄駅 15選

おすすめ地下鉄駅 15選

じっくり鑑賞したいおすすめの地下鉄駅を15つ独占ピックアップ!

ベーカー・ストリート駅

Baker Street

ハマースミス・シティ線、サークル線、ベーカールー線、ジュビリー線、メトロポリタン線

ゾーン1

1863年の開通当時の面影をそのまま残したハマースミス・シティ線、サークル線ホームは必見。蒸気機関車が通ったというだけある高い天井と幅広い線路、重厚な煉瓦の壁に圧倒される。
一方、ベーカー・ストリートといえばこの人、名探偵シャーロック・ホームズ。ベーカールー線のホームや通路ではホームズを象ったデザインのタイル壁画に出会うことができる。また、中央切符売り場にある「Ticket Office」、「Luncheon」や「WH Smith & Sons」と書かれた昔の標識やメトロポリタン鉄道時代の紋章など、隠された秘宝のように駅のあちこちにちりばめられた、古いものを発見するのもこの駅の楽しみ方といえる。

トテナム・コート・ロード駅

Tottenham Court Road

セントラル線、ノーザン 線

ゾーン1

1900年開業だが幾多もの改築、改良工事を経たため、当時の面影はほとんど残されていない。79年にロンドン交通局の依頼で、7年かけて制作、86年に完成したエドゥアルド・パオロッツィによるカラフルなモザイク壁画がこの駅の見どころだ。都会の日常を描いたおよそ1000平方メートルに及ぶ巨大なモザイクアートは、大英博物館のコレクションや映画『ブレード・ランナー』、ジョージ・オーウェルの小説『1984』、ファーストフードなど様々なものに着想を得ているといわれる。またノーザン線ホームにある壁画は、同線の黒色を基調により薄い色調のデザインであるのに対し、セントラル線は同線の赤色を基調にし、鮮やかで明るいものになっている。

ホロウェー・ロード駅

Holloway Road

ピカデリー線

ゾーン2

1906年に建てられた駅でレスリー・グリーンによる設計。グリーンのデザインの特徴といえる赤いテラコッタタイルの外壁を備えた駅舎やホームのタイル模様、草木をかたどった深緑のタイルで飾られたチケット売り場窓口がエレガントで美しい。歴史的建造物として「グレードII」に指定されている。周辺にはサッカーチーム、アーセナルのホームグラウンドがあり、荒くれた労働者階級が集う粗野なイメージのエリアだけに、その中で静かにたたずむ駅の優美な雰囲気とのコントラストが面白い。

チャリング・クロス駅

Charing Cross

ベーカールー線、ノーザン線

ゾーン1

まずはノーザン線ホーム一面に展開される、デヴィッド・ジェントルマンによる木版の原画を転写した壁画アートをじっくりと鑑賞したい。13世紀イングランド国王エドワード1世の妻、エリナー・オブ・カスティルの記念碑が置かれた場所、当時のチャリング村(現在のチャリング・クロス)の様子を100メートルにわたる壁画で表している。
一方、ベーカールー線ホームではシェイクスピア、ヘンリー8世の肖像画やレオナルド・ダヴィンチ、ボッティチェリの絵画の一部など、至近距離にあるナショナル・ギャラリーやナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵の優れた作品がホームの壁を華やかに飾っている。

ピカデリー・サーカス駅

Piccadilly Circus

ピカデリー線、ベーカールー線

ゾーン1

1906年開業当時はレスリー・グリーンの建築だったといわれる駅舎は、29年には改築のために閉鎖され、80年代に取り壊されるに至った。現在目にする、ぐるりと回る大円形状のコンコースはチャールズ・ホールデンの設計によるもの(1928年)。ガンツ・ヒル駅同様、地上には駅舎がない数少ない駅の一つだ。ベーカールー線の茶色、ピカデリー線の濃青色を組み合わせたタイルワークに注目して両方のホームを歩いてほしい。またピカデリー・サーカス広場のシンボル、エロスの像のタイルがどこにあるか探してみるのも楽しい(プラットホームとは限らない点、ご留意を)。

レイトンストーン駅

Leytonstone

セントラル線

ゾーン3

映画監督アルフレッド・ヒッチコックが生まれ育った場所としても知られる、東ロンドンのレイトンストーン。生誕100周年を記念して制作されたヒッチコック作品の有名なシーンをモチーフとしたモザイクアートが、駅舎入口から改札へと向かう通路沿いにずらりと並ぶ(写真は『サイコ』の1場面より)。いくつ分かるか試してみては?

オックスフォード・サーカス駅

Oxford Circus

ピカデリー線、セントラル線、ヴィクトリア線

ゾーン1

1900年にセントラル・ロンドン鉄道(現在のセントラル線)の駅として、1906年にはベーカー・ストリート・アンド・ウォータールー鉄道の駅が同じ場所に別々に開業。前者はハリー・ベル・メジャーズ、後者はレスリー・グリーンによる設計とデザインが異なる2つの駅舎の外壁が今でも一部残る。 現在は駅のコンコースにあり、もともとはヴィクトリア線のホームにあったのがドイツ人グラフィック・デザイナー、ハンス・ウンガーのタイルアート=写真左。円を意味する「circle」とオックスフォード・サーカスの「circus」をかけあわせ、同駅に乗り入れる3つの路線の色をクロスで表現している。84年からヴィクトリア線には、複雑に路線が入り乱れ、都会のジャングルに迷いこむ人間をパロディ化した「蛇梯子」のタイル=同右=がこれに代わり設置されている。

ボンド・ストリート駅

Bond Street

セントラル線、ジュビリー線

ゾーン1

1909年創業の高級デパート、セルフリッジズの最寄り駅であり、そのほかの大手デパートや、高級小売店が軒を並べるロンドン随一のショッピング街にあることからか、ジュビリー線のホームのタイルはプレゼントボックスをモチーフとしている。駅の外壁はチャールズ・ホールデンの設計によるものだったが、80年代に取り壊されており、現在はその一部が駅の東側に遺構として痕跡をとどめている。

ホルボーン駅

Holborn

セントラル線、ピカデリー線

ゾーン1

大英博物館の最寄り駅である当駅のホームは、エジプト考古学の発見品やヒエログリフ、古代石版画など大英博物館の所蔵コレクションがモノクロの写真で飾られている。注目してほしいのはギリシャ建築物風の柱の写真。3Dのように浮き出て見える工夫がなされている。

ガンツ・ヒル駅

Gants Hill

セントラル線

ゾーン4

チャールズ・ホールデンによる設計。ホールデンが同時期に設計監督を務めていたロシアのモスクワ地下鉄を参考にした、シンプルながら力強いモダニズム建築のコンコースが特徴的。1930年代に工事が始まったものの、第二次世界大戦中は工事は休止、防空壕として利用されたという。円形交差点の下にあり、地上にまったく駅舎がない点もユニーク。

キングズ・クロス・セント・パンクラス駅

King’s Cross St. Pancras

ピカデリー線、ハマースミス・シティ線、サークル線、メトロポリタン線、ヴィクトリア線、ノーザン線

ゾーン1

ヴィクトリア線のタイルに注目。王様の冠を十字(クロス)にしたモチーフは、キングズ・クロスの駅名の語呂遊びをデザイン化したもの。なお、乗り入れる路線が多い割にはデザイン的に見るものが少ないのが意外。むしろ地上の鉄道駅の方が建築デザインとして一見の価値がある。

ヴィクトリア駅

Victoria

ヴィクトリア線、ディストリクト線、サークル線

ゾーン1

ヴィクトリア線のホームを彩るタイルのモチーフ、こちらは駅名そのまま、ヴィクトリア女王の横顔のシルエットがデザインされている。英国人画家エドワード・ボーデンの作品。

ウェストミンスター駅 / カナリー・ワーフ駅

Westminster / Canary Wharf

近未来的な美しさを備える駅

ウェストミンスター駅の改札からジュビリー線のホームへと続く空間は、巨大なコンクリートの円柱と梁が十字に組まれ、奥深い地底まで複雑に走るステンレス製の長いエレベーターは映画のセットで登場する宇宙船の内部のような趣だ。建築家マイケル・ホプキンスによる設計で1999年に完成し、2001年には王立英国建築協会(RIBA)賞を受賞。

同じく、現代的な建築が印象的なカナリー・ワーフ駅(ジュビリー線)は、広いコンコースに4台並列して走る長いエスカレーターを経て、巨大な半楕円状の窓を仰ぎ見ながら出口へと向かうデザインになっている。そして、窓の外には金融街の高層ビルの姿が映し出される。天井が低く閉塞感を感じる地下鉄駅も多い中、この2駅は広々としており、荘厳かつ近未来的な美を感じさせる。

チェシャム駅

Chesham

ロンドン地下鉄とは思えない! 牧歌的ムードいっぱいの駅

メトロポリタン駅の終着駅チェシャムは地下鉄で行けるロンドン市内中心から最も遠い駅である(チャリング・クロス駅から北西に40キロメートル離れている)。1889年開業当初の小さな駅舎=写真左=や信号扱所=同右下、貯水槽=同右上=は歴史的建造物「グレードII」に指定されている。1つしかない地上ホームには緑があふれ、カントリーサイドの長閑な雰囲気が満ちる。ホームにある煉瓦造りの貯水槽は蒸気機関車の水の補給に用いられたもの。また、信号扱所は今年、修復工事が完了した。

ニュー・ジョンストン書体を造りだした日本人、河野英一氏

ロンドン地下鉄の表示やパンフレット、マップに使われている専用書体「ニュー・ジョンストン」=写真左下=の生みの親が日本人だということをご存知だろうか。目に飛び込んでくるような、くっきりとした書体。この文字は1979年、それまで使われていたジョンストン・フォントを英国在住のグラフィック・デザイナー、河野英一(こうの・えいいち)氏が全面的にリニューアルしたものだ。1916年にエドワード・ジョンストンが生みだした書体は後の書体に多大な影響を及ぼす画期的なものだった。しかし書体は主に駅名表示=同左上=を目的としたため、文字幅が広く、また、ボールド書体(太字)には小文字がないなど、パンフレットや時刻表には不向きだった。1年半かけて制作された河野氏の「ニュー・ジョンストン」書体だが、デザインにおいて同氏が気を使ったのは、意外にも自分のオリジナリティを抑えることだったという。「必要なのは足りない部分を補うこと。人が気づかないように変わっているのが一番いいんです」と、河野氏。イタリック体などを含めて8パターン、1000文字近くが手書きで仕上げられた。「ニュー・ジョンストン」は30年以上、駅名表示から小さなパンフレットに至るまで、愛着をもって使われ続けている。
なお、コベント・ガーデンにある「ロンドン交通博物館」に、「designology」と名づけられた、新しい展示スペースが完成した。この中に、河野氏と「ニュー・ジョンストン」を紹介するコーナーがあるので、機会をつくってぜひ訪れてみていただきたい。

London Transport Museum
Covent Garden Piazza, London WC2E 7BB
Tel: 020 7379 6344
www.ltmuseum.co.uk

鉄道技師が生んだ画期的な地下鉄路線図

©TfL from the London Transport Museum

地下鉄での移動には欠かせない、おなじみの地下鉄路線図。乗換駅が一目でわかる、この明快な路線図は1931年、地下鉄の従業員だったハリー・ベックにより考案された。それ以前の、地理上の距離を正確に反映した路線図は、利用者にとっては非常に使いづらいものだった。地図とは実際の地理的距離に基づいて作られるべきものだ、という常識を打ち破ったのが、このベックの路線図だ。ベックは地下鉄利用者にとって重要なのは駅と駅の距離などではなく、目的の駅までどう乗り継いで到達するかだと考えた。彼は地理的距離を無視し、駅を等間隔に配置。乗換駅を強調して表示するとともに、路線には水平、垂直、斜め45度の線のみを使った地図を作製した。電気回路図にも似たこの地図、ベックが日常的に電気回路を扱う技師だったことからも納得がいく。その後、改良を重ねられた現在の路線図にもベックの地図は受け継がれており、オリジナル・デザインのコピーは、彼の地元の駅であるフィンチリー・セントラル駅の南行きホームに展示されている。

地下鉄全270駅に存在する「迷路(Labyrinth)」を探せ!

近頃、地下鉄駅でこの不思議な迷路のようなものを見かけたことはないだろうか? 一つ一つすべて異なるデザインの「迷路」が、地下鉄全270駅のどこかに展示されている。 2013年、地下鉄開業150周年を記念して、ロンドン交通局はターナー賞の受賞歴もある気鋭のアーティスト、マーク・ワリンガーにアート制作を依頼。各迷路には番号が振られ、その順番は、2009年にギネス・ブック地下鉄最短踏破記録が樹立されたときのルートに基づいているという。ロンドン地下鉄を一つの総体としてとらえ、そこにある長い歴史とデザインを詩的に結び付けた作品となるよう願って制作された。ちなみに「1/270」は、チェシャム駅にある=写真。 次回、地下鉄駅に降り立つ時はこの迷路を探してみては?

ロンドン大火から350年{Part1} 燃えつきた都 ―灼熱の4日間― [The Great Fire of London]

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2016年9月29日 No.952

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ロンドン大火から350年 {Part1} 燃えつきた都 ― 灼熱の4日間 ―

ロンドン大火から350年 {Part1}

燃えつきた都 ― 灼熱の4日間 ―

1666年9月。
猛威をふるうペストに疲弊し切っていたシティ・オブ・ロンドンは、灼熱の炎に包まれた。凄まじい勢いで燃え広がる炎を目の当たりにした市民は、「この世の終わりか」と恐れおののいたに違いない。
シティの風景を一変させた火災の発生から350年。今号では、世界の火災史に大災害として記録されることになった、炎の4日間「ロンドン大火(The Great Fire of London)」についてお送りする。
【関連記事】ロンドン大火から350年 {Part2} よみがえった都 ― 天才クリストファー・レンの挑戦 ―

●サバイバー● 取材・執筆・写真/根本 玲子・本誌編集部

ありふれたボヤが原因

17世紀頃の消火活動は、「fire hook(とび口)」を
使って出火元の周囲の家屋を倒壊させ、
延焼を防ぐのが一般的な方法だった。
(イラスト提供:LMA)
9月2日、日曜日。時刻は日付が変わったばかりの深夜1~2時頃のことだった。
ロンドン塔の西、ロンドン・ブリッジのすぐ北に位置する下町プディング・レーンに店を構えるパン屋の主人トマス・ファリナーは、下男の取り乱した声に眠りを覚まされる。一体何事かと問いただせば、かまどのある一階から火の手が上がっているという。木造家屋の火のまわりは早い。すでに階段を使っては外に出られなくなっていることを悟ったファリナーは、家族を伴い窓から通りへと飛び降りた。第一発見者の下男も無事に脱出したが、高所恐怖症だったという下女は窓からどうしても飛び降りることができず、そのまま煙と炎に包まれてしまう。
一方、火事の知らせを聞いたロンドン市長のトマス・ブラッドワースは、「またか…」とばかりに、ろくに取り合わず寝床に戻った。だが、その頃、火勢は東風にあおられ、いよいよシティ・オブ・ロンドンをのみ込もうとしていた――。これが4日間で町を灰にした、かのロンドン大火のファースト・シーンだ。そしてファリナー家の哀れな下女は、この悪名高き大火の最初の犠牲者となってしまったのである。
この大火災以前のシティの火災については、詳しい記録は残っていない。しかし、ローマ時代に建設された市壁(City Wall)に囲まれた空間に、木造住宅がひしめき合っていた中世のロンドンにおいて、火災は日常茶飯事であったのだろう。カンタベリー大司教の書記だったウィリアム・フィッツスティーヴンは、12世紀後半のロンドンの市民生活をこう語っている。「ロンドンの災いは、愚か者の深酒とひんぱんに起きる火事」。どことなく「火事と喧嘩は江戸の花」という言葉を思い起こすフレーズだ。
小さなパン屋で起こった「ありふれた火事」が、なぜ歴史的な被害を招くことになったのか。当時の貴重な目撃証言などを交えながら、大火前夜から鎮火までの様子を探ってみたい。

市壁に囲まれたロンドン

まずは火災現場となった「シティ・オブ・ロンドン」の成り立ちに注目しよう。この地は現在のグレーター・ロンドン市の中心部からみると東寄りに位置しており、今日のロンドンの起源となった場所でもある。現在は金融街として知られ、単に「シティ(The City)」と呼ばれることが多い。
この地にローマ人が初めて侵入したのは、紀元前43年頃。船でテムズ河をのぼってきた彼らは、その後約1世紀をかけて河の北側と南側を結ぶのに便利な地点を選び、船着き場や橋を建設。先住民ケルト人の言葉で「沼地の砦」を意味する「ロンディニウム」を作り上げる。そして外敵の侵入を防ぐため、同地を中心として河の北岸にほぼ半円形に市壁を建造。さらに、その外側に濠(ほり)をめぐらせ、街道が壁を通過する箇所には7つの門を設けた。「オールドゲート(Aldgate)」「ラドゲート(Ludgate)」など、末尾に「ゲート(gate=門)」がつく地名が、それにあたる。この壁に囲まれた約2・5平方キロメートルほどの地域が「シティ・オブ・ロンドン」だ。
その後ローマ人が去り、ヨーロッパからやってきた民族がブリテン島に定住するなどし、イングランドの基礎が築かれる。やがてシティは「商人が暮らす、商売のための町」として目覚ましい発展を遂げていった。宮殿こそなかったものの強力な自治権を持ち、政治の中心である隣のウエストミンスター市に住む国王ですら、おいそれと手出しができない独立した商業都市として機能するに至る。また、ランドマーク的存在のセント・ポール大聖堂を中心に、市街には百近い教区教会が林立していた。この時代において、「教会の多さ=キリスト教徒の多さ」であり、果てはそのまま人口の多さにも繋がった。一説では当時のシティの人口は46万人とされており、イングランドの人口の約1割がシティに集中していたことになる。

「不潔都市」シティ

現在のプディング・レーン(写真上)。
当時は木造家屋がひしめきあう狭い通りだった。
では、人々の暮らしは一体どうだったのか。
火災発生当時のシティの人口密度が非常に高かったことは、すでに述べた。教会や富裕層の家のみがレンガ造りで、ほかはすべて燃えやすい木造住宅。限られた場所で建て増しを繰り返した結果、通りが非常に狭くなっている箇所も多かったという。頻発する火事の予防のために建築規制を行う試みもあったが、あまり効果はみられなかった。さらに、当時の煮炊きや暖房の燃料は石炭や薪。大火災の起こる条件は十分に揃っていたといえよう。
こういった状況が長年にわたって続く一方、住民の数が飽和状態に達しつつあったシティでは、当然ながら「不潔化」も進んでいた。現在のようなゴミ回収システムなどはなく、人々が投げ捨てるゴミ、商店や工場から出る廃棄物のせいで、かつて清らかな水流だったフリート川は悪臭漂うドブ川になっていた。下水施設も発達しておらず、人々は排泄物を『おまる』のような容器に溜めては通りに直接投げ捨てるという、不衛生きわまりない状態。当時のヨーロッパでハイヒールが普及したのは、ゴミと糞尿であふれた通りを歩く際、服の裾を汚さないためだったという話もあるぐらいだ。また、住宅は密集し、日照条件も悪く空気の通りもよくなかった。ネズミなどの害獣にとっては、まことに暮らしやすい環境であったといっていいだろう。このような劣悪な住環境の中、大火前年のシティは、史上最悪のペスト禍に見舞われる。

ロンドン大火を記憶にとどめる記念塔
モニュメント

現在はオフィス街となっているシティに位置する、地下鉄モニュメント駅。その駅名は、大火とその後の復興を後世に伝えるために造られた「ロンドン大火記念塔(The Monument)」=写真右=にちなんでつけられている。今は近代的なビルが立ち並ぶエリアとなっており、当時の様子を想像することは難しい。塔の高さは約61メートルで、火元となったファリナーのパン屋からこの塔までの距離と同じになるようにデザインされている。
建築家のクリストファー・レンとロバート・フックの設計により、大火から11年後の1677年に完成。311段からなる螺旋階段をのぼると下の写真のような絶景が広がる(右に見えるのはセント・ポール大聖堂)。また、「登頂証明書」も発行してもらえる。大人£4.50。

The Monument
Monument St, London EC3R 8AH
Tel 020 7626 2717
www.themonument.info

「今週の死亡者のお知らせ」

当時の国王チャールズ2世。
ロンドン大火は英語で「The Great Fire」、その前年のペスト大流行は「The Great Plague」と呼ばれる。中世ロンドンの市民は、2つの「ザ・グレイト」を連続して経験することになった訳だ。
ペストとは、ペスト菌に感染したネズミなどにたかるノミを媒介に発症する伝染病で、伝染力、致死率ともに高く、発病者は皮膚内に出血が生じ、その死体が青黒く見えることから「黒死病(Black Death)」として恐れられていた。14世紀にヨーロッパと中東を襲ったペストの大流行は、発生地域の人口のうち、実に3分の1の命を奪ったという。ロンドンでの最初の流行は1348年9月~50年初春までで、当時の人口5万人のうち35~40%が死亡したとされている。
そして17世紀のロンドンでは、3度にわたる大流行がみられる。最初が1603年、次が1625年。同世紀最悪の流行となった1665年には、死者は6万3500人を超えた。路地で死体につまずくことも珍しくなく、1人でもペスト患者が発見された家屋は、40日間にわたり隔離されるため、同家屋内の住人全員に感染して共倒れという痛ましいケースも少なからずあったという。
また、各教会では教区内の死亡者の死因が判定され、それらを集計したものが「死亡告知表」として毎週発行されるようになっていた。人々はこれを買い求め、「今週の死亡者数」をもとに疎開について検討したり、何の商品が売れるかを考えたりするなど、商売の予想を立てるのに利用していたという。恐いもの見たさの心境もあったのかもしれないが、どの教区でどの程度ペストが流行しているか危険ゾーンを把握するのにも一役かったとされ、この「お知らせ」は市民の自衛手段のひとつとして用いられていたのである。

ピープスの見た大火、1日目

焼失地域を示す概略図。
被害が西へと拡大していったことがわかる。
© Museum of London
さて、いよいよ場面は冒頭のファリナーのパン屋に移る。
その年の夏は、10ヵ月近い干ばつ続きで空気も建物も非常に乾燥していた上、出火当夜は強い東風が吹き荒れていた。炎はたちまち隣家へと燃え移り、テムズ河岸に沿って並ぶ倉庫街に飛び火する。ここには火薬にタール、油や石炭類などありとあらゆる可燃物が大量に貯蔵されていたからたまらない。火は文字通り爆発的な勢いを得てシティへの『侵攻』を開始する。
ここで当時の様子を日記に綴っていた海軍省の役人、サミュエル・ピープス(下コラム参照)による貴重な目撃証言を紹介しよう。ピープスの暮らす官舎は、ロンドン塔から北西に向かってすぐのシージング・レーンとクラッチト・フライヤーズ通りが交差するあたり、火元のプディング・レーンからは風上に位置していた。火災現場が自宅から近かったこともあり、ピープスは火災当時のシティを歩き回り、その現状を事細かに日記に記している。これをもとに、火災1日目のピープスの行動を追ってみよう。
まず、出火直後の午前3時頃。日曜日に客人を招くため、早くから仕事をしていた女中が火事に気付き、主人のピープスを起こす。西の方で火事が起こっているのを窓から認めた彼だが、「大したことはあるまい」と思い、再び寝てしまう。

1670年頃に描かれたロンドン大火の様子。
燃え落ちるセント・ポール大聖堂。
翌朝起きて再び窓から眺めた際、火事は下火になったように思えたとしている。これは東風で彼の家とは反対方向に火災が広まっていたため、そう見えたようだ。女中から一晩で300軒の家が焼けたと知らされたピープスは、あわててロンドン塔へ赴き、高い場所から火事の様子を確認。次にテムズ河へ向かうと、火は四方八方に荒れ狂い、人々が家財道具を持ち出して河に投げ込んだり、橋のたもとに浮かぶ小舟に運んだりしているのが見えた。誰一人として消火に努める者はいなかったという。この後、ピープスは国王チャールズ2世のいるホワイトホール宮殿を訪れて現状を伝え、延焼を防ぐために家屋の取り壊しを決定するよう進言。これは消火手段が発達していなかった時代、火事の拡大を防ぐための一般的な方策だった(上記の挿絵)。国王はこれに同意し、彼に名代としてロンドン市長のもとへと向かうよう命じる。
通りは住人たちが運び出した家財道具や荷馬車であふれ、病人をベッドにのせたまま担ぐ人々も見られた。混乱を極める通りをなんとか進みながら、ロンドン市長のブラッドワースに国王命令を伝えるものの、予想外の事態にパニック状態になっていた彼は「誰も私の言うことなんか聞こうとしませんよ」と悲鳴を上げ、リーダーシップを発揮するどころか諦めの境地に入っていた。夜になっても、火勢はますます強くなるばかり。炎が教会や家をのみ込み、ガラガラと崩れていく音が響いていたという。

ピープスとイーヴリン
大火の記録を残した証人たち

大火の様子を知る資料としては様々な公文書が残されているが、一般市民の行動、通りの様子はどのようなものだったのか。2人の日記作家が自らの体験を綴ったのものが、現在も残されている。
1人は本文にも登場した、サミュエル・ピープス(1633~1703年)=右絵。仕立て屋の息子から奨学金を得てケンブリッジ大学に進学、王政復古(1660年)後には海軍省の文官となり、最後は海軍大臣にまで登りつめた。彼の日記は暗号を用いて記され、日々の出来事に加え、賄賂や人の悪口、浮気の詳細など他人に読まれては困るようなことまで綴られており、少々スキャンダラスな内容で知られる。
しかし、実際には暗号はちょっとしたヒントさえあれば解読でき、さらに遺言では母校ケンブリッジ大学に寄贈する蔵書の中に日記も入れていたというから、実は「誰かに読んでもらいたい」というのが本音だったのだろう。ピープスの家は風上にあったとはいえ火災現場に近く、市内視察を行うかたわら、荷物を知人宅に避難させたり、庭に穴を掘ってお気に入りのワインやチーズを埋めたりするなど、なかなか忙しかったようだ。
もう1人の日記作家、ジョン・イーヴリン(1620~1706年)=左下絵=は、火薬の製造で財を成した一家に生まれ、オックスフォード大学で学んだ。清教徒革命の時代は戦乱を避けヨーロッパ各地を遊学し、帰国してからはチャールズ2世のお気に入りの知識人の1人として引き立てられた。彼の日記にはピープスのような大胆な記述はないものの、火事の様子を乾燥した空気の状態と結びつけて考察するなど科学者的、全体的視点が感じられる。
実生活でも知己の間柄で、頻繁に文通する仲だったという2人。どちらの日記も、後世の人々にとって当時の社会事情などを知る貴重な資料となっている。

広がる不安、そしてパニックへ

昔のセント・ポール大聖堂。
中央の尖塔は、1561年の落雷で崩れ落ちた。
ロンドン大火の発生時、この尖塔は再建中だった。
ピープスの日記にもあるように、通りは家から運び出された荷物や逃げ惑う人々、そして野次馬たちで混乱を極めていた。住居に火の手が迫った人々は消火に精を出すよりも、持ち出せるだけの荷物を通りや広場、テムズ河に運び出して財産を守ろうとしたのだ。貸し荷馬車屋、渡し船が繁盛したというのもうなずける。テムズ河は一面、荷物を積み込んだ舟などでぎっしりと覆われた。家財道具を積んだ舟の3つに1つには、かならずヴァージナル(ピアノの前身となる楽器、チェンバロの一種)が積まれており、舟から転げ落ちたとおぼしき上等な品物が水面を漂っていたというから、船を手配することのできたのは富裕層に限られていたのであろう。多くの市民は運び出した荷物の番をしながらの野宿をやむなくされた。猛火に追われ、身ひとつで逃げ出した人々も多かったはずだ。命からがら避難場所にたどり着いた数十万の人々は、目の前で自分たちの町、生活のすべてが丸ごと焼け尽くされていくのをどのような思いで眺めたのだろうか。
市内では引き続き消火活動も続けられていたものの、わずかな水による消火活動では荒れ狂う火の勢いに到底追いつかず、延焼を防ぐため火が進む方向にある家屋を火薬で爆破し、広い防火帯をつくるという手段も取られた。しかし、火薬による爆発音は人々にさらなる不安と不要な憶測を引き起こし、「外国軍が侵略してきたのでは」という噂まで広まり、人々はいよいよパニックに陥る。炎は触れるものすべてをのみ込みながら西へ西へと拡大していった。そして3日目の9月4日、とうとうシティのランドマーク、セント・ポール大聖堂に到達する。

倒壊するセント・ポール大聖堂

建築家クリストファー・レン。
火災前のセント・ポール大聖堂は、現在の姿と異なり高い尖塔を有していた(ただし、1561年にこの尖塔は落雷で崩れ落ち、火災当時は尖塔のない姿となっていた)。今日見られるドーム型の建物は、大火後の都市再建事業の一環として、オックスフォード大の天文学の教授で王室建築副総監の職も兼ねていた建築家、クリストファー・レンの指揮のもとに建てられたものだ。
セント・ポール大聖堂は604年にこの地に建てられたが、相次ぐ落雷や火災の被害を受け、この時点までに数回の再建・拡張を経ていた。修復に必要な予算が不足していたことなどもあって、かなり老朽化が進んでいたという。1633年にようやく修復工事が開始されたものの、1642年に清教徒革命が勃発すると工事は中断。クロムウェルによる共和制時代には、教会に対する敬意そのものが希薄になり、本来の役割をほぼ失ってしまう。巨大な建物は集会場や市場、難民救済所として使われ、盗人や乞食の稼ぎ場所にもなっていた。また騎兵隊の宿泊所としても使用され、彼らが内部を一部焼くなどしたせいで、支えを失った天井が傾きはじめていた。そこに追い打ちをかけるかの如く猛火が襲い、セント・ポール大聖堂はとうとう炎上、倒壊という悲惨な最期を迎えることになったのだった。
多少落ちぶれた姿になっていたとはいえ、10世紀の長きにわたり人々の信仰を象徴してきた不動のランドマークが崩れ落ちるとは、誰が想像し得たであろうか。大火発生前から大聖堂の修復計画に意欲的に携わっていたレンも、思いもよらぬ惨事を目の当たりに「そんなバカな…」と、愕然とつぶやいたに違いない。
轟音を立てて崩れ落ちた瓦礫は通りを覆い、熱せられた石は手榴弾のように飛び、屋根を葺いていた鉛が溶け出して周りの通りに流れ落ちた。あたりは馬も人も通れない有様だった。大聖堂なら安全と逃げ込んだ市民も、骨の一片すら残らないほどに焼き尽くされてしまったとみられている。

本当に出火元は
プディング・レーンだった?

今年2月、歴史家のドリアン・ガーホールド氏が、実際に出火元となったパン屋はプディング・レーンのどの位置に建っていたのかを検証した。モニュメントを中心にして半径61メートルの円を描き、様々な当時の地図と照らし合わせ、正確な出火場所を探索。その結果、パン屋が建っていたのは、現在のモニュメント・ストリートの路上であることが判明した。1671~77年にかけて塔が建造されるにあたり、周辺の区画整理が行われたという。当初はなかったモニュメント・ストリートがつくられ、プディング・レーンも西へ移設されたことにより、記録との誤差が生じたと発表した。

国王先導の消火活動

コック・レーンの角にある少年像。
「大食」はキリスト教における7つの大罪
(the Seven Deadly Sins)のひとつ。
一説では、Pudding Laneで出火、
Pye Cornerで鎮火され、
プディングもパイも「食」であることから
「大食」と結びつけられたという。
火勢は一向に収まらず、市民や消防士による消火活動は遅々として進まない。シティの地主たちからの反対に押されて気弱になり、民家の取り壊し命令を実行することができないでいたロンドン市長のブラッドワースも、ここにきてようやく行動を起こさざるを得なくなる。彼が即決即断型の人物であったならば、この4日間におけるシティの運命は大きく変わっていたかもしれない。彼の優柔不断さとリーダーシップの欠如が、焼失地域拡大の一因であったことは否めないだろう。
後手にまわった市長に代わり、国王チャールズ2世の先導でシティの消火活動が進められていった。まず1日目の時点で、ピープスらの進言をもとに火の進む方向にある民家を取り壊し、延焼を防ぐ対策が講じられる。3日目には国王自ら視察に赴き、なんと水桶を手にして消火活動に参加。消防士たちは王弟ヨーク公の指揮のもと、消火活動にあたったという。あまりに美談のような気がしないでもないが、王政復古からまだ日が浅く、人々の支持が高かった王家が英雄的かつ献身的活躍を見せたというところだろうか。
3日目の夜、ようやく強い風が収まりはじめる。4日目には防火帯が功を奏し、火の手はまだまだあがっていたものの勢いは弱まり、大火災はようやく終焉へと向かう。完全に鎮火したのは9月6日だった。最後に火が消し止められた場所はコック・レーン。現在のセント・ポール駅とチャンスリー・レーン駅の中間に位置し、火元となったプディング・レーンと同じく、コック・レーンの角には少年の姿をした記念碑が建てられ、次のような言葉が添えられている。

「This Boy is in Memmory Put up for the late FIRE of LONDON Occasion'd by the Sin of Gluttony.」
(この少年の像は、人々の大食によって引き起こされた先のロンドン大火を記念し建てられた)

一面の焼け野原と化したシティ。被害はあまりにも甚大であった。しかし、いつまでも呆然とうずくまっている訳にはいかない。人々は灰と化したわが町に戻り、再建への一歩を踏み出す。そして政府もこの大災害を機に、シティを新たな空間に生まれ変わらせる都市計画づくりに着手する。
そんな中、鎮火から1週間も経たない9月10日、チャールズ2世に誰よりも早く再建プランを提出した男がいた。燃えつきた町を復興するという壮大なプロジェクトの成功は、彼の尽力なくして語れない。その男の名は、クリストファー・レン。焼失したセント・ポール大聖堂を現在の姿に再建した人物として、先述した建築家である。
 次号の「ロンドン大火から350年 パート2」では、天才的な建築の才能を発揮して、ロンドン復興に生涯をささげたクリストファー・レンについてお送りする。

※本特集は、2010年9月2日号に掲載したものを再編集してお届けしています。
Special thanks to:Museum of London

ロンドン大火から350年 {Part2} よみがえった都 ― 天才クリストファー・レンの挑戦 ― [Christopher Wren]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2016年10月6日 No.953

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ロンドン大火から350年 {Part2} よみがえった都 ― 天才クリストファー・レンの挑戦 ―

ロンドン大火から350年 {Part2}

よみがえった都 ― 天才クリストファー・レンの挑戦 ―

ロンドン大火で燃えつきた町の復興という壮大な都市計画に携わり、シティのランドマーク「セント・ポール大聖堂」を現在の姿に再建した建築家、クリストファー・レン。建築一筋の人生かと思いきや、天文学者、数学者としても活躍したのち、建築家として天才的な才能を発揮した華麗なキャリアの持ち主だ。今号では英国が誇る偉大な建築家の人生をたどるとともに、ロンドン復興までの道のりを紹介しよう。
【関連記事】ロンドン大火から350年 {Part1} 燃えつきた都 ― 灼熱の4日間 ―

●サバイバー● 取材・執筆・写真/根本 玲子・本誌編集部

英国を代表する大聖堂

ネルソン提督やウェリントン公爵など、英国の偉人が眠っていることでも知られるセント・ポール大聖堂。様々な国家的式典が行われる場所でもあり、チャールズ皇太子と故ダイアナ元妃の結婚式、3年前にはサッチャー元首相の葬儀も営まれている。代々の国王と王妃が埋葬され、戴冠式などの王室行事が開かれるウェストミンスター寺院と並び称される、英国国教会の代表的な司教座聖堂だ。
この優雅で壮大なドームが印象的な大聖堂を完成させたのが、17世紀の建築家クリストファー・レンである。
1666年9月2日未明、プディング・レーンの小さなパン屋から上がった火の手は、東風にあおられて一気にシティを燃やしつくし、4日間で町を灰に変えた。焼け野原と化したシティを再建しようと、政府と市民が一丸となって新たな都市計画づくりに取り組む中、真っ先に再建プランを国王へ提出したのが、レンである。彼がいなければ、現在のロンドンの風景はまったく異なるものになっていたかもしれない。クリストファー・レンとは、一体どのような男だったのか。まずは彼の誕生時までさかのぼってみたい。

9歳でラテン語を書く少年

レンは1632年、イングランド南部ウィルトシャーの聖職者の家庭に生まれた。オックスフォード大出身の聖職者である父クリストファー・レン(同名)には、前年に長男が誕生し、父親と同じくクリストファーと名付けられたが生後まもなく死去。翌年に誕生したレンは、待望の息子であった。父親はウィンザー主席司祭で高学歴のエリート、母親のメアリーはウィルトシャーの大地主の一人娘で父の遺産を相続しており、経済的に恵まれた境遇にあった。しかし、母親は2歳年下の妹エリザベスを出産した後しばらくしてこの世を去り、レンは姉スーザンを母親代わりにして育つ。レンは小柄で病弱だったが絵の才能に恵まれ、とくに聖職者だった父方の従兄弟と仲が良く、兄弟のような関係だった。国王チャールズ1世の息子、つまり皇太子(のちのチャールズ2世)も遊び仲間だったという。
体が丈夫でなかったこともあり、レンは父親と個人教授による教育を受けたのち、9歳でロンドンのウエストミンスター・スクールに進学する。この頃すでに科学の世界に魅せられ、ラテン語で父親に手紙を書くといった神童ぶりを見せていた。
レンの一族は王党派で、王室の恩恵を厚く受けていたことから、1642年に清教徒革命が勃発すると、叔父は議会派によって捕らえられ、ロンドン塔に投獄されてしまう。このためレンの父親は疎開を決心し、家族を引き連れてブリストルへと移る。レンが11歳になった頃、姉のスーザンが音楽理論家で数学者のウィリアム・ホールダーと結婚したことをきっかけに、一家は彼女の嫁ぎ先オックスフォードシャーへと居を移した。レンの義理の兄となったホールダーはレンの数学教授的な役割を果たし、彼の学術的、知的成長に強い影響を及ぼしたとされる。彼に天文学への扉を開いたのもホールダーだった。

非凡な科学者としての活躍

学校卒業後のレンはすぐに大学へは進学せず、数年を科学の広い知識を身につけることに費やした(進学を断念したのは体調が思わしくなかったからという説もある)。解剖学者チャールズ・スカバーグのもとへ赴き助手を務め、解剖学についても学んだ。なかなか優秀な助手ぶりだったのだろう、スカバーグの助手を終えた後は数学者ウィリアム・オートレッドのもとで、彼の研究結果をラテン語に翻訳するという仕事を任されている。こうして、レンがオックスフォード大学ウォダム・カレッジに進学したときには、卒業から3年の月日が経っていた。
オックスフォード大を卒業すると、レンは研究員に選出され、様々な研究に専念しはじめた。この時代のレンは人間の脳のスケッチをしたかと思えば、一頭の犬から別の犬への輸血を行う装置を発明してその実演を行ったり、月観測に没頭して地磁気の研究に勤しんだりといった具合。天文学をはじめとし、数学、解剖学といったジャンルにこだわらず、アイディアとインスピレーションの赴くまま突っ走った青年時代だった。
彼の評判は瞬く間に知れ渡り、1657年、レンは25歳の若さでロンドン大学グレシャム・カレッジに天文学教授として招かれる。また、オックスフォード大時代から物理学や科学について討論を行っていた科学者仲間とも交流を続け、彼らがロンドンでレンの講義に参席することもあった。この討論グループは、のちに現在も続く王立協会(ロイヤル・ソサエティ)に発展していく(下コラム参照)。
こうしてますます学者としての名声を高めたレンは1661年、再び母校オックスフォード大に戻る。今度も30歳に満たぬ歳で、天文学教授の職を射止めたのである。

気鋭の学者たちが集った
「ロイヤル・ソサエティ」

現存するもっとも古い科学学会で、バッキンガム宮殿へと続くザ・マルの近くに拠点を置く「ロイヤル・ソサエティ」=写真=は、正式名称を「The Royal Society of London for the Improvement of Natural Knowledge(自然についての知識を深めるためのロンドン王立協会)」という。これはレンをはじめ、物理学者のロバート・フックや数学者のジョン・ウォリスなど、自然哲学および実験哲学に興味を持つオックスフォード大の学者たちがお互いの家や大学を行き来し、それぞれの専門知識やアイディアを交換しては議論をたたかわせ、切磋琢磨していた集まりが原形となっている。
約12名の科学者たちで構成され、「インビジブル・カレッジ(見えない大学)」と呼ばれていたこの討論会は 1660年に週1回の公式ミーティングを開始。1662年にはチャールズ2世の特許状によって王立組織に、現在では会員1400名を擁する一大組織に発展した。そうそうたる顔ぶれの創立メンバーの中でも、レンの業績と人脈が、組織の成立に大きく貢献したのは間違いないだろう。創立メンバーの一員であっただけでなく、1680~82年までは3代目会長も務めた。
ちなみに、ロンドン大学のグレシャム・カレッジ時代、望遠鏡の仕組みを学び改良を行っていたレンは、土星の輪についての理論を固めつつあったが、オランダの天文学者クリスティアーン・ホイエンスに実証論文で先を越されるという悔しい思いをした。また、1982年に米アリゾナ州のローウェル天文台で、天文学者エドワード・ボーエルが発見した小惑星「レン(3062 Wren)」、そして水星にある直径221kmのクレーター「レン(Wren)」は、彼の功績をたたえて命名されている。

「建築家」レンの誕生

科学、数学、天文学の分野で学者としての地位を得たレンの興味が建築へと向かい始めたのは、いつごろだったのだろうか。
レンの生きた時代には、現在我々がイメージするような「建築家」という確固とした専門職はまだ存在していなかった。当時、建築は数学の応用としてとらえられ、高等教育を受けた人間が建築に手を出すというのはそれほど「畑違い」なことではなかったのである。レンも数学や幾何学を応用し、広場の設計や都市計画のあり方について独自の研究をすすめていた。しかし、机上の理論を実践に移すチャンスがなければ、実際の建築家としての能力を試すことはできない。そして、このチャンスは意外に早くやってきた。
1661年、当時ポルトガルからイングランドに割譲されたばかりの北アフリカの港、タンジールの防衛強化工事について依頼を受けたのだ。しかしレンは、オックスフォード大の天文学教授の職を得たばかり。健康上の懸念もあり、この依頼を断っている。
だが2年後、レンが建築へと傾倒していく重要な転換期が訪れる。1663年、当時バロック建築の最先端を行っていたローマに渡ったレンは、彫刻家で建築家でもあるイタリア・バロック様式の巨匠ジャン・ロレンツォ・ベルニーニと会い、古代ローマ時代に建てられたマルケッルス劇場の調査を行う機会を得たのだ。
そして同年、イーリー司教だった叔父より、ケンブリッジ大学ペンブルック・カレッジのチャペル設計の依頼を受ける。これが、レンの建築家としての第1号の仕事となった。
続いて彼は、オックスフォードにあるシェルドニアン劇場の設計にも着手。この建物は前述のマルケッルス劇場の影響を大きく受けたデザインとなった。また1665年には、パリに長期滞在してバロック建築について研究を深めながら、フランドルやオランダにも足を運ぶ。実は、これには単なる学問以上の目的があった。当時レンのもとには、一大プロジェクトが舞い込んでいたからである。

大災害とともに訪れたチャンス

1666年に起きたロンドン大火の様子。
中央で勢いよく燃えているのがセント・ポール大聖堂。
© Museum of London
1660年に王政が復古すると、国王チャールズ2世は老朽化の進んでいたロンドンの「シティ」のランドマーク、セント・ポール大聖堂を蘇らせるため、本格的な修復計画に乗り出した。7世紀初めに建てられたセント・ポール大聖堂は、幾度もの落雷や火災の被害を受け、再建・拡張が数回行われていたものの、予算不足で老朽化がすすむばかりであったのだ。1662年には建物の状態を調査するため勅定委員会が設立され、レンは修復計画の準備を行うよう要請を受ける。彼はこのために、パリで建築の研究に取り組んでいたのである。
そして、ロンドンにとって運命の日が訪れる。
レンの設計プランは1666年8月末に認可されたが、作業に取りかかる間もなく、9月2日未明にロンドン大火が発生。4日間に渡る猛火でシティの3分の2が焼け野原と化し、大聖堂は修復どころか取り壊しを余儀なくされるほどの壊滅的ダメージを受けてしまう。鎮火後まもなくチャールズ2世とロンドン市長により、識者、権力者6人からなる再建委員会が結成される。レンはもちろんその一員となった。
大火という災害によって、レンの仕事は単なる「建物の修復」から「都市再建」という巨大なプロジェクトに膨れ上がる。予期せぬ形ではあったが、これまでは思い描くだけだった都市計画を実現させる絶好のチャンスが到来したのである。火災発生後10日と経たないうちに、レンはチャールズ2世に壮大な再建プランを提出する。これはイタリアの都市をモデルに、主要となるモニュメントやピアザと呼ばれる広場から、街路が放射状に伸びる、バロック様式の「光」の構造を取り入れたものだった。
しかし生憎なことに、この巨大プロジェクトは国王と枢密院によって承認されたものの、生活を優先して再建を急ぎたいシティ住民の反対を招いた。地主と所有権をめぐって紛争が起こるなどしたため、結局採用されずに終わってしまう。もし、レンの構想が実現されていたとしたら、今日のロンドンはパリやローマのような華やかで「大陸的」な顔をもっていたかもしれない。

夢の大型ドームを実現

レンが提出したセント・ポール大聖堂の設計案。左から第一案と第二案、最終的に採用が決定された第三案。
夢のシティ復興プランは諦めざるを得なかったが、レンは災害の再発を防ぐ都市づくりのため、法整備に着手する。まず、火事調停裁判所を設けて家主と借家人の利害調停を行うようにし、建築規制などを盛り込んだ「再建法」をスピード成立させた。
これには、シティに持ち込まれる石炭に課税し公共施設の再建に充てる/新築される建物はすべてレンガもしくは石造りにし建築認可を義務付ける/防火のため主要な通りの幅に規制を設ける/建物の階数を規制する、といった内容が盛り込まれていた。テムズ河沿いに集中していた煙害や悪臭をもたらす工場群を、市壁の外に移転させることにしたのも彼だった。これらは現代にも通用する立派な再建策であり、ここでもレンは学問のジャンルを超えた「天才」ぶりを発揮している。
レンの采配によりシティは急速な復興を遂げ、今日に続く大都市ロンドンの中核が形作られていった。火事が日常茶飯事だったという町は「防災都市」として生まれ変わり、その後大火災が発生することはなく、人々に恐れられた疫病のペストすら町から姿を消していった。
しかしその一方で、彼が大火前から携わっていたセント・ポール大聖堂自体の再建は思ったように運ばず、ろくな準備もはじめられないまま5年近い歳月が経過していた。これは、国王をはじめ聖堂参事会や聖職者たちからの要望や期待が大きく、設計案が決定するまでに二転三転したことによる。レンは聖堂内に広がりのある空間を作るためには大きなドームは必須と考えていたが、長い尖塔やラテン十字型といった伝統にとらわれる聖堂参事会や聖職者からは悉く反対に合う。時間と労力が必要以上にかかり、レンの苛立ちは頂点に達していた。
結局、第一案、第二案を却下されたレンは、3度目の設計案として、すべての意見を取り入れた誰もが納得するデザイン図を提出して着工許可を得た。そして建設が進むにつれ、囲いを立てて現場を見られないようにし、そのままの設計図を提出していたら賛同が得られなかったであろう理想の大型ドームを勝手に完成させてしまうという「荒技」に出たのである。
現在でも世界有数の規模を誇る、高さ111・3メートルのドームは、レンの思い描いていた「光の都市」の中核となる建物であった。巨大プロジェクトを目の前に何度も挫折を味わった中で、「これだけは何としても作り上げたい!」という思いがどれだけ強かったかがわかるだろう。セント・ポール大聖堂には、ほかのレンの建築物には見られない建築家としての意地と誇りが秘められているのである。

レンとの意外な交流!?
ニュートン「世紀の理論」の誕生裏話

万有引力の法則を発見した天才科学者アイザック・ニュートン=右絵(1643~1727)。他人をおおっぴらに賞賛することはほとんどなかったという彼だが、万有引力の法則と運動方程式について述べた著作『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』の中で、レンを「もっとも優れた数学者の1人」と記している。
ちなみに、ニュートンがこの大著を仕上げたきっかけは、意外なことにレンも関係している。
1684年1月のある日、当時学者や作家たちの社交場のような機能を果たしていたコーヒー・ハウスのひとつに、建築家として働き盛りのクリストファー・レン、そして彼の助手を務めたこともある物理学者のロバート・フック、ハレー彗星で知られるエドモンド・ハレーらが集い、惑星の軌道に保つ力の向きと強さについて討論していた。
このとき、最初に「これは太陽に引っ張られる力で、強さは太陽からの距離の2乗に反比例(逆2乗の法則)すると思う。しかしその証明ができなかった」と発言したのがレン。
これに対してフックは「逆2乗の法則からすべての天体の運動の法則が証明される」と自信満々の発言をしたものの、実際にはその証明を提示しなかった。
フックが本当に証明できるのか疑問に思ったハレーは、その後ケンブリッジ大に赴き、ニュートンに同様の質問をぶつけてみたところ、はるか昔に万有引力の法則(=逆2乗の法則)に気付いていた彼は「惑星の軌道の形は楕円だ」と即答した。事の重要性に驚いたフックは、ニュートンにまとまった書物を記すよう説得。ニュートンはハレーの様々な質問に対し、計算や証明を続けながら、大著『プリンキピア』の構想を練っていったという。
しかし同著が発表されると、ニュートンをライバル視していたフックは「この内容は自分が以前ニュートンに文通で知らせたものだ」と怒り出し、大論争に発展。俗世離れしているように思える学問の世界も、実社会に劣らず人間臭さに満ち満ちているという見本のような話である。
レンはこのエピソードの中では脇役といった感じだが、建築家として第一線を行く彼が天文学への興味を失わないばかりか、世紀の科学者ニュートンに劣らない次元の研究に携わっていたことがうかがえて興味深い。

愛する者を次々に失う

息子クリストファーの言葉が刻まれた、
レンの墓碑(写真奥)。
大聖堂の地下納骨堂にある。
ロンドン再建委員会での仕事を機に、1669年、王室建築総監に任命された37歳のレンは、建築家としての名声を得たおかげもあったのだろうか、長年オックスフォードシャーで交友を深めていたコッグヒル卿の娘フェイスと結婚する。
子供時代からの知り合いで、レンの4歳年下だったというフェイスがどのような人物であったのかについては、残念ながらほとんど記録が残されていないが、夫婦仲は円満だったようで、プレゼントの腕時計とともに妻宛に送ったレンの熱烈なラブレターが残されている。
だが、2人の結婚生活はたった6年で終焉を向かえる。2人の間には長男ギルバートが誕生するが、病弱のため1歳半にならないうちに夭折。次に誕生した息子は父親の名を引き継ぎクリストファーと名付けられたものの、出産後にフェイスが天然痘にかかり他界してしまうのである。子を亡くし妻を亡くすという、父親の若き日をなぞるような悲運の連続に、レンはさぞかし落胆したことだろう。
それでも、愛妻の死から約1年半後という比較的早い時期に、レンはフィッツウィリアム卿の娘ジェーンと再婚する。妻を亡くした孤独感には、さすがの天才も耐えがたかったと見える。加えて、1人息子のクリストファーに母親を与えてやりたいという気持ちも強かったのかもしれない。
しかしながら、この結婚生活はさらに短命に終わった。2年後、ジェーンも2人の子どもを産んだ後、結核でこの世を去るのである。彼はその後、独身を貫いている。

天才的建築家として活躍

レンが最後までこだわった大聖堂内の大型ドーム。
ドーム内にモザイクを施す案は叶わず、
代わりに天井画が描かれた。
私生活では不幸続きであったレンだが、この時期から晩年までの建築家としての活躍には目覚ましいものがある。まるで悲しみを追い払うために、必死に仕事に打ち込んでいたかのようにも思える。
セント・ポール大聖堂の建設が進められる間にも、大火で焼け落ちた50を超える教区教会の再建に取りかかり、ロンドン大火とその後の復興を記念した塔「モニュメント」のほか、「ハンプトン・コート宮殿」、「ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ図書館」、そして若き日の天文学者としての素養と建築家としての才能の結晶ともいえる「グリニッジ天文台」など、数えきれないほどの建物の設計を手がけた(下コラムで一部紹介)。英国を代表する建築家として、ついにその地位を不動のものとしたのだ。イタリアやフランスでの研究をもとに、劇的な建築空間を演出する「バロック建築」を英国に最初に取り入れたのも彼である。
もともと数学や天文学、幾何学を専門とする科学者であったレンは、数字や平面を立体的に捉え思考することに人一倍長けていた。また彼のバロック的空間構成には、数学的思考をベースにした彼自身の美的解釈が反映され、これまでにない独創性や大胆な試みが用いられた。彼の建築における天才的センスは、科学者としての素質に裏打ちされたものだったのである。

ロンドン詣でが趣味の晩年

1710年、レンの最高傑作となるセント・ポール大聖堂が完成する。着工許可から約35年、彼は76歳になっていた。父親の名を引き継いだ長男クリストファーも建築家となるべく教育を受け、成長してからは父とともに大聖堂の建設に関わっており、完成時には彼が最後の石材を頂に置いたという。数々の難題を乗り越え、理想の聖堂を作り上げたレンの感慨、誇らしさはひとしおだったであろう。
1718年、血気盛んな建築家ウィリアム・ベンソンに、高齢を理由に王室建築総監の座を明け渡すよう迫られ引退することになるが、引退後もハンプトン・コート地区にある自宅から定期的に大聖堂を訪れては、その美しい姿を眺めるのを晩年の楽しみのひとつにしていたという。
1723年2月、91歳になっていたレンはいつも通りロンドン詣でに出かけた帰りにひどい風邪を引き、数日間床についたまま自宅で息を引き取る。使用人が彼を起こそうとしたところ、すでに冷たくなったいたのを発見したとされている。3月5日、レンの棺はのちに多くの偉人たちが葬られることになるセント・ポール大聖堂の地下納骨堂に納められることになった。彼の最高傑作は、また彼の墓標ともなったのである。
若き日には科学の発展に貢献し、その後の生涯を建築を通してロンドン復興に捧げたクリストファー・レン。彼の墓碑には、息子クリストファーによる「我がためではなく、人々の幸福の為に生きた。レンの記念碑を探している者は周りを見よ」という言葉がラテン語で刻まれている。父親に育てられ、その仕事ぶりを間近で眺めてきた息子の心からの賞賛の言葉であったろう。

あそこもここも!
レンの遺した作品を一部紹介

ハンプトン・コート宮殿の東面
Hampton Court Palace(ロンドン郊外)

1689~94年にかけて、ウィリアム3世とメアリー2世の時代に建て替えられた東面。噴水のある中庭「ファウンテン・コート」もレンによるデザイン。

オックスフォード大学クライスト・チャーチのトム・タワー
Tom Tower(オックスフォード)

1982年完成。中央の塔(トム・タワー)にある大鐘は、当時の門限だった21時5分に101回鳴る。101という数は、カレッジ創設時の学生数といわれている。© gianfrancodebei

グリニッジ天文台
Royal Greenwich Observatory(ロンドン)

1675年にチャールズ2世によって設立された王立天文台。世界時間の基準となる「グリニッジ標準時」が走る。© Royal Greenwich Observatory

ケンブリッジ大学 トリニティ・カレッジの図書館
The Wren Library(ケンブリッジ)

1684年完成。英国に5館存在する納本図書館(流通された全出版物の義務的な納本を受ける権利を有する図書館)のひとつ。 © Andrew Dunn

セント・ジェームズ教会
St James's Church, Piccadilly(ロンドン)

1684年完成。レンが愛した教会。1940年に第二次世界大戦で激しい爆撃を受け、その後修復された。

ロンドン大火記念塔
The Monument(ロンドン)

レンとロバート・フックが設計した、ロンドン大火の記念塔。1677年に完成、展望台がある。高さは約61メール。

旧王立海軍学校
Old Royal Naval College(ロンドン)

1694年に負傷した船乗りたちを収容する「グリニッジ・ホスピタル」として建造されたが、1869年に海軍学校に変わった。現在はグリニッジ大学の一部になっている。 © Bill Bertram

※本特集は、2010年9月30日号に掲載したものを再編集してお届けしています。

クリスマスの陰の主役!ピクルス大研究 [Pickles]

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英国に関する特集記事 『サバイバー/Survivor』

2016年12月1日 No.961

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クリスマスの陰の主役!ピクルス大研究

クリスマスの陰の主役!

ピクルス大研究

伝統的な保存食というだけでなく、作る工程も楽しむクラフト・ブームに乗って、いま熱い視線を浴びている「ピクルス」。普段は料理の名脇役として彩りを添えるが、クリスマスになると、七面鳥や鶏のローストの添え物として輝きを増す。今号では、このピクルスを主役に据えてご紹介することにしよう。

●サバイバー●取材・執筆・写真/ネイサン 弘子・本誌編集部

古くは紀元前の昔から世界各地で食べられてきたピクルス。日本の漬物、韓国のキムチ、ドイツのザワークラウト(キャベツの塩漬け)、インドのアチャール(マスタード・オイルと酢の漬物)……。調べはじめたらきりがないが、ここ英国で食べられるようになったのは16世紀以降。英国人がヨーロッパやインドなどからピクルスを自国に持ち帰り、酢、砂糖などで独自に作るようになったことが始まりとされている。

その後、19世紀後半にピクルスを専門に製造するブランドが立て続けに創業し、市販品が瞬く間に広まっていった。しかし、なぜ19世紀後半に誕生したブランドが多いのか? その答えは2つの画期的な発明にある。1つめはスコットランドの化学者、ジェームズ・ヤングが、1850年に発明した「パラフィン蝋」。これを染み込ませた機密性の高い「パラフィン紙」で瓶を密封することで、従来よりも食べ物の長期保存が可能になった。2つめは1858年、米国の職人、ジョン・L・メイソンが発明した金属製のネジ蓋付きの「Mason jar(メイソン・ジャー)」だ。パラフィン紙で蓋をするよりも扱い易く、密閉度が高くこぼれないこの容器の開発によって、保存食の販売や流通が格段に容易になったのだ。

さて、現代のピクルス事情を探るため、スーパー・マーケットへと足を運んでみた。「ピクルス=ハンバーガーに挟まったペラペラのキュウリの酢漬け」、程度の認識しか持ち合わせていなかったが、改めて注目してみると、スーパーの大きな陳列棚一面に並ぶ種類の豊富さに目を見張った。定番のガーキンから、ゆで卵やクルミにいたるまで! 酢漬けに限らず、オリジナルのソースに漬けられたものもあるなど、多種多様の商品が専門ブランド各社から、またスーパーの自社ブランドとして発売されている。これらを活用すれば、クリスマス・ディナーをより美味しく、食卓をさらににぎやかに演出することができそうな予感。これを機に、ピクルスの世界を覗いてみよう!

英国のピクルスを食べてみよう!

英国のピクルスを食べてみよう!

編集部が選んだいくつかの代表的なピクルスと、ユニークな商品を中心に、それぞれのピクルスの特徴や味わい方、活用法などをご紹介しよう。

Pickle Bites

「ピクルス」ってどういう意味?

「Pickle」の語源はオランダ語の「Pekel(食塩水、漬け汁)」で、「ピクルス、漬け物」という意味の他に、「窮地、苦境に立つ、困っている」という意味も併せ持つ。元はオランダ語で「漬け汁の中に座っている」という苦境を表す言い回しが由来とされている。

Branston Original Pickle

ブランストン・オリジナル・ピクル

Branston Original Pickle
360g/1.30ポンド程度
※主要スーパーにて購入可。
520g、720gなど大容量もあり。
「英国のサンドイッチの歴史に革命を起こした!」とまで言われるピクルスが、1922年創業の「Branston(ブランストン)」の代表的商品「Branston Original Pickle」だ。角切りにしたニンジン、カブ、玉ネギ、カリフラワーを、砂糖、モルト・ビネガー、デーツ、トマト、リンゴなどで作った濃厚なソースに漬け込む。酢だけでなく、デーツやリンゴの深い甘みも感じられるソースに絡まるコロコロの野菜は、マチュア・チェダー・チーズとの相性が抜群! 手軽に作れるこのピクルスとチーズのサンドイッチが紹介されると、爆発的な人気となり、瞬く間に英国の国民食として広まった。
そんな英国人の食卓に欠かせないブランストン。実は2013年に日本を代表する酢のスペシャリスト「ミツカン」が、ブランドと生産工場を引き継いだ。ブランストン・ファンの読者なら、瓶のラベルに印刷された「mizkan」のロゴマークにすでにお気づきのことだろう。母体が代わったあとももちろん、秘伝のレシピで作られた味は変わることなく、英国で愛され続けている。
Pickle Bites

ブランストン・オリジナル・ピクルとチェダー・チーズのサンドイッチ

同社のウェブサイトで紹介されているレシピ通り、ソフトなWhite Farmhouse Breadに、マチュア・チェダー・チーズ、Branston Original Pickleを挟んだサンドイッチを作って試食。濃厚でホロホロとした熟成チーズとピクルスの酸味、程よい歯応えが、フワフワのホワイト・ブレッドに包まれ、絶妙なコンビネーションを見せる!

Beetroot

ビートルート

Baxters Baby Beetroot
340g /1ポンド程度
※主要スーパーにて購入可。
567g、710gの大きいサイズのほか、
通常のモルト・ビネガー、
甘めのモルト・ビネガーに漬かったもの、
スライスしたタイプなどの選択肢がある。
英国人に「ピクルスと言えば?」と聞くと、必ず名前が挙がるブランドのひとつ、1868年創業の「Baxters(バクスターズ)」の「Baxters Baby Beetroot」は小ぶりでかわいい丸ごとビートルートのピクルス。オススメの食べ方として同社のウェブサイトでは、サラダに加えるだけでなく、ジャガイモ、ニンジン、玉ネギと一緒にオーブンでローストしたり、そのままチーズフォンデュの具にしたりするなどして、温かく食べるレシピも紹介している。これからの季節に是非試してみてはいかがだろうか。また、ごく薄くスライスしてグリーンサラダの下に敷けば、シンプルなサラダがぐんとグレードアップ!

Walnuts

クルミ

Opies Pickled Walnuts
390g /2.50ポンド程度
※テスコ、ウェイトローズ他にて購入可。
モルト・ビネガーにポートワインを
加えたタイプもある。
今回紹介するピクルスの中で一番の変わり種といえるのがクルミ。クルミは硬い殻に包まれた印象があるが、「Opies(オーピーズ)」の「Pickled Walnuts」のパッケージに写っているのは、まだ青いクルミの実。この実が熟して木から落ち、殻の外の果実部分が取れると、普段私たちが目にするクルミの姿になる。木から落ちる前のまだ青いクルミを丸ごとモルト・ビネガーに漬けると、後に硬くなる殻の部分までも柔らかいピクルスが出来上がる。果物のプルーン程度の大きさで、柔らかい実に浸みきった酢の酸味が非常に強い。同社では、スライスしてチーズと合わせたり、チキンのほか、クセの強い鹿をはじめとするジビエ料理と合わせたりする食べ方を推奨している。好き嫌いが分かれそうだが、日本への変わり種のお土産にもなりそうだ。

Gherkin/Cucumber

キュウリ

Mrs Elswood
Sweet Cucumber
Sandwich Slices

540g /1.50ポンド程度
※主要スーパーにて購入可。
縦スライスのほか、
輪切りにした商品も販売されている。
英国人の冷蔵庫に必ず入っていると言われるほど定番のキュウリのピクルス。使用されるのはピクルス用の小キュウリ「ガーキン」。「Mrs Elswood(ミセス・エルスウッド)」はキュウリのピクルスの定番ブランド。完璧に家事をこなす昔ながらの典型的なユダヤ人の母親、ミセス・エルスウッドをモデルとした素朴なパッケージが、『手作り感』を感じさせ、つい手に取りたくなる。味わいはまろやかで甘め。そのままおつまみに、タルタルソースの材料に、ハムや前日のローストチキンなどのコールドミートとのサンドイッチにと大活躍! もちろんバーガーに合わせるのも一般的。

Opies Cocktail Gherkins
227g /1ポンド弱
※主要スーパーにて購入可。
1880年創業の「Opies(オーピーズ)」の「Cocktail Gherkins」は、さらに小さな未成熟のガーキンのおつまみピクルス。5センチ程度の小さなガーキンは身がしまって歯応え抜群。ピリッと酸味が強いので、小さめサイズがピッタリ。

Piccalilli

ピカリリ

The Bay Tree Proper Piccalilli
300g /3.30ポンド程度
※ウェイトローズにて購入可。
あまり聞きなれないピカリリは、アジアとの交易によって英国にもたらされた香辛料を使い、18世紀に英国で生まれたもの。「ピカリリ」の名前の由来は、ピクルスをもじって付けられたと考えられており、「インディアン・ピクルス」とも呼ばれる。英国人には『インドらしい食品』と感じられているようだが、インド系英国人に聞いてみると『非常に英国らしい食品』に感じるとのことだった。日本人の感覚でいうところの「カリフォルニア・ロール」のようなものだろうか。
酢、マスタード、ターメリック、ショウガなどの香辛料で作った漬け汁に、カリフラワー、玉ネギ、キュウリなどの野菜を漬け込んだ色濃い黄色のピカリリは、ベイクト・ポテトなどジャガイモと一緒に食べるのが好まれている。また、コールドミートのサンドイッチやホットドッグにも合う。
1994年創業とピクルス関連のブランドとしては比較的新しい「The Bay Tree(ザ・ベイ・ツリー)」の「Proper Piccalilli」は、伝統的な製法で作られていながら、現代的で洗練されたパッケージ・デザインに目がとまる1品だ。ジューシーでパリパリのソーセージを挟んだホットドッグに乗せて食べたい。

Red
Cabbage

紫キャベツ

Haywards Medium and Tangy Red Cabbage
400g/1.90ポンド程度
※主要スーパーにて購入可。
英国人にとって馴染みのある紫キャベツ。ゆでて肉料理の付け合わせに、生でサラダにするほか、ピクルスも代表的な食べ方だ。鮮やかな色の秘密は、紫キャベツに含まれるアントシアニン。この色素が酢の酸によって変化し、濃いピンク色のピクルスに変身する。今回紹介したピクルスの中でも最も簡単に手作りできるもののひとつ。青紫色にゆで上がったキャベツの色が一瞬で濃いピンク色に変わる調理の過程は、まるで科学の実験のようで楽しい。
「Haywards(ヘイワーズ)」の「Medium and Tangy Red Cabbage」は、少し厚めにカットされたキャベツの歯応えと、まろやかな酸味でそのままでもボリボリと食べられてしまう。ちなみに英国のピクルス市場で大きなシェアを持つ1868年創業のヘイワーズ社も、前述のブランストン社に同じく「ミツカン」が取得。2015年に新しいパッケージとレシピで、さらに食べやすくなって再出発した。
Pickle Bites

簡単! 紫キャベツのピクルスの作り方

【材料(3~4人分)】
紫キャベツ…1/8コ(千切り)/米酢、蒸留酢、白ワイン・ビネガーなど…100cc/水…50cc/砂糖…大さじ2(お好みで調節)/塩…ひとつまみ/ベイリーフ…1枚/粒黒コショウ…5粒
【作り方】
①小鍋に紫キャベツ以外の材料を入れて中火にかける。沸騰したら火から下ろして冷ます。②別鍋に湯を沸かし、紫キャベツを約1分サッとゆで、ザルにあげてよく水気を切る。③キレイに洗った瓶に①と②を入れ(青紫色が一気にピンク色に変わる!)、冷蔵庫で1時間以上冷やせば完成。

ピンクのゆで卵

ピクルスを食べた残りの漬け汁に、固ゆでにした卵を2時間漬ければ、こんなにかわいい色に変身!浅漬けなら漬け汁の味がほんのりと移る程度で食べやすい。ホーム・パーティーの1品にいかが?

Egg

Pandora Pickled Eggs
510g/2ポンド程度
※テスコ他で購入可。
スーパーの陳列棚で見たときのインパクトが大きいのがこの商品。日本人にはあまり馴染みのない、ゆで卵のピクルスは、たんぱく質を多く含み、ヨーロッパの寒い冬を乗り切るために伝統的に食べられてきた保存食だ。
「Pandora(パンドーラ)」の「Pickled Eggs」は、小ぶりのゆで卵が透明なスピリット・ビネガー(蒸留酢)に浮かぶ。黄身の色は変色していないだろうか?と思いながら半分に割ってみると、ごく普通の黄身の色。固ゆでの身はキュッとしまって小さめ。味は「酸っぱいゆで卵!」としか言いようがない!単独で食べるのは一口で断念。ごく稀にパブで供されるほか、フィッシュ&チップス・ショップに置かれていることもあり、フライの付け合わせとしても食べられている。

Onion

タマネギ

【左】Garner's Original Pickled Onions
454g/2.80ポンド程度
※主要スーパーにて購入可。
甘さを加えた食べやすいタイプもある。
【右】Haywards Sweet and Mild Silverskin Onions
400g/1.90ポンド程度
※主要スーパーで購入可。
甘めの味からスパイシーなものまで、種類が豊富。
一見ラッキョウの漬物のような小玉ネギのピクルス。「Ploughman’s Lunch(農夫の昼食)」と呼ばれる、英国の農夫に食されてきた簡素な昼食で、パン、チーズと供に食べるのが伝統的な食べ方だ。
「Garner's(ガーナーズ)」の「Garner's Original Pickled Onions」は、伝統的な製法で作られた強い酸味が特徴。一方、「Haywards(ヘイワーズ)」の「Sweet and Mild Silverskin Onions」は、小玉ネギよりもさらに小さく真っ白な品種の「Silverskin(シルバースキン)」を甘酢に漬けたピクルス。ラッキョウにも似た味わいで食べやすく、日本のカレーの付け合わせにもピッタリ。
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